かくしてパーフェクトサッカーは引き継がれる。   作:ホイップる

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天才はかがみ込む

 

 こうして、統合記念式典は無事に幕を閉じた。

 

 私立中学と公立中学の統合は、前例の少ない試みである。千乃と月伊霧を中心に準備は滞りなく進み、新生南雲原中学校は予定どおりその歩みを始めた。

 

 中高一貫校だった南雲原中学は、統合を機に高等部を南育英高校として分離。両校の生徒を受け入れた中等部は、今どき珍しいマンモス校へと姿を変えた。

 

 部活動も例外ではない。

 

 南雲原中サッカー部には北陽学園の選手が合流し、十一人ぎりぎりだった部員数は一気に倍以上へ膨れ上がった。顔触れだけを並べれば、全国の強豪校にも見劣りしない。

 

 だからといって、昨日まで敵だった二つのチームが、今日から一つになれるはずもなかった。

 

 放課後のグラウンドでは、旧南雲原と旧北陽の選手たちが、それぞれ別の一角でボールを回していた。

 

 誰かが場所を分けたわけではない。声を掛け合えば届く距離にいながら、互いの練習へ進んで加わる者もいなかった。人工芝の中央には、白線とは別の境界が引かれている。

 

「わわっ、ミスった! ごめん!!」

「何やってんだよ……いいよ、俺が取ってくる」

 

 忍原の足元を抜けたボールが、桜咲の脇を転がっていく。舌打ち交じりに追いかけようとしたところで、見慣れた金髪が視界を横切った。

 

「なにしてやがる。旧北陽学園はそっちで練習してただろ」

「部室に水取りに来ただけだよ、バーカ」

 

 空宮はボトルを軽く振り、何事もなかったように通り過ぎようとする。

 桜咲の横へ並んだところで、その足が止まった。拾いかけたボールを前に、桜咲もゆっくりと腰を起こす。

 

「「……」」

 

 視線が正面からぶつかった。

 

 ジリッと火花が散ったような錯覚に、周囲の話し声まで遠のく。

 

 空宮の脳裏に蘇ったのは、自らのシュートが南雲原のゴールを揺らした瞬間だった。確かな手応えと、先制点を奪った快感。

 

 そこへ、最後のワンプレーが割り込んでくる。

 

 勝敗を決める場面で、空宮は決めきれなかった。あの一瞬を思い出すだけで、喉の奥に苦いものが込み上げる。

 

 対して、桜咲にも同じ試合が蘇っていた。

 

 幾重もの対策に動きを封じられ、それでも最後には全てを振り切った。進化した必殺シュートがゴールへ突き刺さり、遅れて爆発した歓声は、今も耳の奥に残っている。

 

 試合の勝敗はついた。

 

 だが、ストライカーとしてどちらが上かまで、決着した覚えはない。空宮はボトルを下ろし、桜咲も転がっていたボールを足元へ引き寄せる。身体は自然と相手の正面を向いていた。

 

「なんだよ、空宮。言いたいことがあるなら言えよ」

「いんや、個人技選手権が楽しみだと思ってね。誰がこのチームのエースストライカーになるのか、最初にはっきりさせておかないと」

 

 空宮がわずかに顎を上げる。

 

「なんだと?!」

 

 桜咲の声がグラウンドに響き渡った。

 

 近くでパスを回していた選手たちが、一斉に足を止める。何人かは二人の様子を窺ったものの、間に入ろうとはしなかった。

 

 桜咲と空宮だけの問題ではない。

 

 倍以上に増えた部員のうち、ピッチに立てるのは十一人。統合前まで当然のように試合へ出ていた選手も、次戦で同じ場所に立てる保証はなかった。

 

 誰もがそれを分かっている。だからこそ、二人の衝突を笑って眺めるだけではいられなかった。

 

「エースってのは、大事なところで点を決めるやつのことだ。あの試合を決めたのは俺だろ」

「ふん。雲明の指示どおりに動いて勝ったくらいで、ずいぶん偉そうだね」

 

 桜咲の眉間に皺が寄る。空宮は構わず続けた。

 

「個人技選手権で先にゴールを奪うのは俺だ。お前が追いつく頃には、エース争いなんてとっくに終わってる」

「言ってろ。今度はその減らず口ごと叩き潰してやる」

 

 乾いた風が、二人の間を抜けていく。

 空宮がそこまで意固地になるのは、元来の負けん気だけが理由ではなかった。

 

 慣れ親しんだ部室も、校舎も、今はもうない。

 

 毎日走っていた土のグラウンドへ足を運ぶこともなくなり、代わりに整いすぎた人工芝の上でボールを追っている。踏み込むたびに返ってくる柔らかな感触は、未だに借り物のようだった。

 

 敗北の翌週には制服が変わった。

 

 新しい校門をくぐれば、そこに掲げられているのは、自分たちを大会から退けた学校の名前である。

 

 南雲原の生徒に声を掛けられると、旧北陽の選手たちは一瞬だけ返事に迷った。練習の準備でも道具の場所が分からず、誰かが動き出してから、その後へ続く。

 

 統合の話は、試合前から聞いていた。頭では理解していたはずだった。それでも、地区予選敗退を挟んで目にする南雲原の校章は、以前とは違って見えた。

 

 何をするにも、自分たちが北陽学園ではなくなった事実が付きまとう。空宮の強気な言葉にも、行き先の分からない焦りが滲んでいた。

 

「さっきからエース、エースって……南雲原のストライカーは私もなんですけど!」

 

 鋭い声とともに、忍原が二人の間へ割って入った。

 

 桜咲の正面を横切り、そのまま空宮の前で立ち止まる。腰に手を当てた忍原を見て、二人は揃って目を丸くした。

 

「忍原、お前も混ざるのかよ」

「混ざるも何も、勝手に二人だけで決めないでくれる? 私だってレギュラーを譲るつもりはないから」

 

 空宮は忍原を上から下まで眺め、面白そうに片方の眉を上げた。

 

「一人増えたくらいで変わらないよ。エースは俺一人なんだから。あの連携技を使うっていうなら、二人同時にかかってきてもいいぜ」

「舐めんなっ! 個人技選手権なんだから使わないわよ! 桜咲、あんたもライバルなんだからね!」

「上等じゃねぇか。まとめて相手してやるよ」

 

 三人の声が重なり、周囲から小さな笑いが漏れた。

 

 もっとも、ただの痴話喧嘩として眺めている者ばかりでもない。

 

 桜咲、忍原、空宮は、統合前のチームでそれぞれ前線を担っていた。その三人でさえ、これからの出場機会は約束されていない。

 

 少し離れた場所から様子を見ていた騎士部が、困ったように眉を下げた。

 

「なんだか空宮君、どことなく芽育君に似てきましたね」

「違いない。生意気なところだけなら、前からいい勝負だったけどね」

 

 友部は足元のボールを止めながら、言い争う三人から半歩離れた。

 

「それはそうと、友部先輩は混ざらなくていいんですか?」

「もちろん、俺だって後輩に負ける気はないよ。でも、あそこに入るのは嫌かなぁ」

 

 言い終わるより早く、桜咲と忍原の声がまた大きくなる。友部が苦笑すると、騎士部も納得したように頷いた。

 

 

 統合直後の混乱に乗じて、下鶴と笹波は紅白戦の中で全てを争わせることにした。

 

 個々の技術や判断力、勝負どころでの働きを測る『個人技選手権』。

 下鶴と笹波がそれぞれ一方のチームを率い、新生南雲原中の戦術を懸けて競う『監督対決』。

 

 選手の序列も、今後の戦い方も、同じピッチの上で決まる。

 

 統合前の肩書や出場歴は、あくまで過去のものだ。紅白戦で力を示した者だけが、次の試合へ進む権利を得る。

 

 ある意味単純で、容赦のない選考だった。

 

「そういえば、あの問題児はどうした」

「ああ、月伊霧はね。しばらく別メニュー」

 

 空宮は当然のように答えた。

 

「問題児で伝わるんだ?!」

「そんなの一人しかいないからね」

「空宮君も大概ですけどね……月伊霧君は、個人技選手権の当日までほとんど別行動になると思います」

「え、なんで?」

 

 こんな勝負を聞けば誰より早く口を挟み、勝手に選手の品定めを始めそうな男が、今日に限ってグラウンドにいない。

 

 その理由を旧南雲原の選手たちが知ったのは、練習後の部室だった。

 

 

「「「月伊霧芽育がスランプぅ?!」」」

 

 

 三人分の声が、狭い部室の壁に反響する。

 

 正面から視線を浴びても、品乃は腕を組んだまま眉一つ動かさなかった。

 

「ああ。正直、個人技選手権に間に合うかどうかも分からない」

「統合前の練習試合でも、全然周りが見えていませんでしたしね……」

 

 騎士部が膝の上で指を組む。

 

 友部も、いつもの柔らかな笑みを消して頷いた。

 

 一年以上、月伊霧と同じチームで戦ってきた二人である。いつもなら真っ先に拾う動きを見落とし、指示を出すまでに何度も言葉を詰まらせる。その異変を、見間違えるはずがなかった。

 

 旧南雲原の選手たちからも、次第に驚きが消えていく。

 

「まあ、あいつがいないからって、どうってことないけどね! スタメンの大半は俺たちで決まりだし」

 

 空宮が重くなりかけた場を振り払うように言った。

 

 桜咲の眉が跳ね上がる。

 

「もうFF地区予選のこと忘れたのか? 勝ったのは俺たちなんだぞ?」

「それは雲明の作戦があったからでしょ? 同じ戦術なら、俺たちの方がもっと上手く動ける。個人技選手権で証明してみせるよ」

 

 二人は椅子を蹴るように立ち上がり、額が触れそうな距離まで詰め寄った。

 

 木曽路と友部が慌てて間へ入る。それでも二人は互いの肩越しに言葉を投げ続け、最後には周囲まで加わって、ようやく引き離された。

 

 騎士部は、その騒ぎから少し離れた場所に立っていた。

 

 視線は二人ではなく、部室の隅に置かれた空席へ向いている。

 

 北陽学園にいた頃、月伊霧は決まって角の席を使っていた。もしこの部室へ来れば、おそらく同じ場所を選ぶだろう。

 

 壁に背を預け、椅子を傾けながら、誰かの会話へ勝手に口を挟む。そんな姿は簡単に想像できた。

 

「芽育君……大丈夫でしょうか」

 

 小さな呟きは、桜咲と空宮の声に紛れた。

 

 椅子が床を擦り、誰かがロッカーの扉を閉める。新しいチームが動き始めたことを告げるように、部室から音が絶えることはない。

 

 その騒がしさを眺めながら、騎士部だけは別の場所を思っていた。

 

 月伊霧がいつもの調子で現れ、ここを自分の席だと言い張る。そうなれば、今の不安など笑い話で終わるはずだ。

 

 だが、そこまで考えるたびに、統合前の練習試合で見た月伊霧の姿が脳裏をよぎった。

 

 視線だけが忙しく揺れ、言葉が追いつかない。

 

 あの時と同じ顔で戻ってきたら、自分は何と声を掛ければいいのだろう。

 

 答えは浮かばなかった。

 

——————

 

 南雲原中で話題の男、月伊霧芽育は、下鶴改と喫茶店タンクにいた。重い足取りで店へ入ると、扉に付いた鈴が乾いた音を鳴らす。

 

 午後の熱気を遮断するように、店内には冷房が効いていた。天井のエアコンが低く唸り、窓際の観葉植物をわずかに揺らしている。

 

 月伊霧は冷気に触れた途端、短く息を漏らした。

 

 汗を吸ったジャージが肌へ張り付き、急速に体温を奪っていく。普段なら心地よいはずの冷房が、今は妙に身体へ刺さった。ここへ来るまで、調整メニューと称して随分と長い距離を走らされている。休む間もなく、今度は喫茶店まで連行された。

 

 相手が下鶴である以上、何か意図はあるのだろう。だが、それが分かっていても、今の月伊霧には単なる理不尽にしか思えなかった。

 

「散々走らせた挙句、放課後の喫茶店にまで同行しろって……俺、野郎とデートに行く趣味なんてないんですけど」

 

「安心しろ。俺も御免だ」

 

 下鶴は短く返し、窓際の席へ腰を下ろした。椅子を引き、荷物を隣へ置く。余計な説明は一切ない。

 

 それが余計に腹立たしい。

 

 下鶴はメニューにほとんど目を通さないまま、アイスコーヒーを三つ注文した。

 

 一つ多い。

 

 月伊霧は引っかかりを覚えたものの、尋ねる気力もなく、向かいの席へ腰を下ろした。

 

 注文を取った店員は癖の強い返事を残し、慣れた足取りでカウンターへ戻っていく。奥ではグラスが触れ合い、氷の崩れる音が涼しげに響いた。飲み物が届くより先に、下鶴が口を開く。

 

「それで、最近の調子はどうだ」

「調子も何も、俺自身はいつもと変わらないですよ」

「そうには見えんがな」

 

 月伊霧の眉がわずかに動いた。

 下鶴から直接指摘されたのは、これが初めてだった。

 

「周りが“落ちた天才”だなんだと囃し立ててるだけです。いつも通りプレーして、いつも通り戦略を考える。僕の中では何も変わってません」

「それは、先週の海王学園戦を見ても同じことが言えるか?」

 

 鋭い視線が月伊霧を捉える。責めているわけではないが、目を逸らすことだけは許さない。

 

 月伊霧は唇を結んだ。

 海王学園戦。

 

 それは月伊霧にとって、あまり思い出したくない試合であった。

 

「……あれは偶々、噛み合わなかっただけです。そんな日もありますよ」

「そんな日もある、か」

 

 下鶴はテーブルへ片肘を置いた。

 

「お前が“偶々”で片づける程度の選手なら、入部試験の時点で落としていただろうな」

「……手厳しいこと」

「これくらいで落ちてもいなければ、スランプでもない。たった一度の挫折だ。乗り越えられないお前でもない」

 

 下鶴の口調は変わらない。

 

 慰めているようにも、励ましているようにも聞こえなかった。下鶴はただ、自らが判断した事実を告げている。

 

 月伊霧の口元に、薄い笑みが浮かんだ。

 

「また、その期待を裏切ることになったとしてもですか?」

 

 月伊霧に初めて、声に自嘲が混じる。

 

 下鶴の目がわずかに細める。

 

「気にしているようだから言っておくが、南雲原戦でのお前の判断は何一つ間違っていない。俺にも思いつかない最善手を打ち続けていた。あの最後のワンプレーは――」

 

 言い終える前に、月伊霧が立ち上がった。

 

 その勢いで椅子は倒れ、店内へ鋭い音を走らせる。

 

 次の瞬間には、月伊霧の手が下鶴の胸ぐらを掴んでいた。

 

「なら、なんで俺たちは負けたんですか?!」

 

 堰を切った声が、店内へ響く。

 

「完璧なチームワークで! 戦略で! これ以上にないコンディションで! 俺たちのパーフェクトサッカーが、正面から破られたんです! ゲームメーカーの俺が役に立たなかった以外に、どんな理由があるんですか?!」

 

 カウンターの奥で、店員の手が止まった。エアコンの唸りが遠く響き渡る。

 

 月伊霧自身、ここまで声を荒げるつもりはなかったのだろう。

 

 下鶴の襟を掴んだ指が、かすかに震えていた。

 

 怒りだけではない。悔しさも、恐怖も、認めたくない何かも、すべてが行き場を失って、その手に集まっている。

 

 下鶴は月伊霧を見上げたまま、身じろぎ一つしなかった。

 

「珍しく感情的だな」

 

 静かな声が、月伊霧の熱を正面から受け止める。

 

「誰かが劣っていたから負けたんじゃない。相手が、それを上回った。それだけだ」

「……っ、乱暴を言って、すみません」

 

 掴んでいた手が離れる。

 

「今日は頭を冷やして帰ります。失礼します」

 

 月伊霧は椅子を戻すこともなく、店の出口へ向かった。

 

 扉が開き、鈴が荒く鳴る。

 

 下鶴は、ガラス越しに遠ざかっていく背中をしばらく見ていた。

 

 決して追いかけることはせず、運ばれてきたアイスコーヒーへ口をつける。冷えた苦味が舌に残った。

 

 その後、再び喫茶店に鈴の音が鳴る。

 

「下鶴さん、追わなくていいんですか?」

 

 背後から声がした。

 

 月伊霧と入れ違いに、笹波雲明が店内へ入ってくる。彼は空いた席へ目を向けた後、注文されていた三つ目のアイスコーヒーの前へ座った。

 

 下鶴に驚いた様子はない。

 

「来たか、笹波雲明」

「三人分頼んでいたということは、最初から僕を呼ぶつもりだったんですね」

「話は後で聞かせると言っただろう」

「その前に月伊霧君を怒らせるところまでは、聞いていませんでしたけど……」

 

 笹波はグラスの水滴を指でなぞり、月伊霧の消えた扉を見る。

 

「成り行きだ」

「本当に、放っておいていいんですか?」

「構わない。遅かれ早かれ、あいつはこの壁にぶつかっていた。それに、月伊霧の性格では、曖昧に慰めても意味がない」

「随分、彼に期待しているんですね」

「……そう見えるか」

「期待していない選手に、そこまで厳しくは言わないでしょう」

 

 笹波は穏やかに微笑んだ。

 

「下鶴さんが、月伊霧君にそこまで肩入れする理由を聞いても?」

 

 下鶴はすぐには答えなかった。

 

 先ほどまで月伊霧が座っていた席へ目を向ける。ほとんど口をつけられていないアイスコーヒーの表面で、溶けかけた氷が小さく揺れていた。

 

「……否定はしない。北陽はこの一年、月伊霧芽育を中心に急激な成長を遂げた」

 

 それでも結果だけを見れば、FF地区予選二回戦敗退。

 

 その成績は、下鶴が御影専農中のエースストライカーとして出場した大会と同じだった。

 

 対戦相手は、円堂守率いる雷門中。

 

 当時の雷門は、伝説のイナズマイレブンを再現するように、廃部寸前から立ち上がったばかりのチームである。

 

 緻密なデータに基づいて戦っていた御影専農中にとって、そのサッカーはあまりにも予測から外れていた。

 

 データにない。

 

 想定していない。

 

 ならば、勝てない。

 

 中学生だった下鶴は、それだけで結論を出しかけた。

 

 キャプテンの杉森に引き戻されなければ、試合を諦めたまま、自分のサッカーまで手放していたかもしれない。

 

 南雲原戦の後半、下鶴はかつての自分とよく似た景色を見ていた。

 

 データも戦術も拮抗し、用意していた策が次々に潰されていく。

 

 それでも北陽の選手たちは、誰一人として足を止めなかった。

 

 月伊霧の指示を待つだけではない。

 

 自分たちで次の一手を探し、互いの動きを読み、最後までゴールへ向かい続けた。

 

「まさか、あのレベルを少年サッカーで見られるとはな」

 

 笹波の指が、グラスの縁で止まる。

 

「最後の北陽学園の攻撃。あのプレーですか?」

「ああ」

 

 それに気づいたのは、おそらく二人だけだった。

 

 ピッチの外から全体を見渡し、互いの戦術が噛み合う瞬間を追っていたからこそ分かった。

 

 最後の一瞬、北陽の選手たちは、指示も合図もないまま同じものを見ていた。

 

 誰か一人に動かされたのではない。

 

 十一人がそれぞれ判断しながら、寸分の狂いもなく、一つの攻撃を作り上げていた。

 

「あの一瞬、北陽全員が無意識にやってみせた。俺が選手だった頃には届かなかった場所へ、確かに触れていた」

「あのプレーには、僕も驚かされました」

 

 笹波は目を伏せる。

 

「あの一瞬だけを切り取るなら、かつてのイナズマジャパンにも届き得た」

 

 二人の間に、しばらく言葉はなかった。

 

 わざわざ細部を語り直す必要はない。あの場面を同じ位置から見ていた二人には、それだけで十分だった。

 

「北陽学園は、良くも悪くも月伊霧芽育がいることで完成されすぎていた」

 

 下鶴は氷の溶けたコーヒーへ視線を落とした。

 

「だからこそ、最後に見せたあの不完全さに意味がある。月伊霧一人の頭で組み上げたものではない。全員が自分の意思で動き、それでも一つになった」

 

 パーフェクトサッカーには、まだ先がある。

 

 下鶴は南雲原戦で、初めて自身の想像を超えた新たな可能性を見た。

 

「だが、今のままではもう一度あの領域へ入ることはできない。まずは南雲原と北陽が、本当の意味で一つになる必要がある」

 

 笹波は静かに息を吐いた。

 

 統合後、すぐに発表された個人技選手権と監督対決。

 

 選手同士を競わせ、時には対立を煽るような方法が、単なるレギュラー選考ではないことには気づいていた。

 

「なるほど……個人技選手権も監督対決も、そのためでしたか」

「笹波雲明であれば、気づいていただろう」

「おおよそは。東風異国館に勝つだけなら、ここまで大がかりなことをする必要はありませんから」

 

 笹波は三つ目のグラスへ手を伸ばした。

 

「さらに先へ進むための布石、というわけですね」

「ああ。長話になったな」

 

 下鶴もアイスコーヒーを持ち上げる。

 

「すでに理解しているようだが、本題に入ろうか」

 

 下鶴はアイスコーヒーに手を伸ばす。グラスの中で氷が小さく鳴った。

 

 店の外では、月伊霧芽育が一人、どこへ向かうでもなく歩いている。力のない足どりは夕焼けと共に儚く消えていく。

 

 ここに残った二人だけが知っている。この挫折が新脳の飛躍に繋がることを――

 

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