ユニゾンクエストⅡ(仮)~筋肉とサイコパスと犬と神々~ 作:ケルベロス(通称・ベロちゃん)
神殿を出てからずっと、お兄の胸元を見ていた。
正確には、その服の下。
もっと正確に言うなら……ラーの鏡。
あのブス―――じゃなかった。
ムーンブルクの王女を、犬から人間に戻すための真実を映すとかいう鏡。
あれを壊したい。
めちゃくちゃ壊したい。
いや、わかってるよ?
物に罪はないとか。
ていうか犬にされたのは普通にかわいそうだし。
ウチだってそこまで鬼じゃないはず。
でもさ。
夢の中では、お兄は死んでた。
そのあと、あの女とあの筋肉が並んでた。
みんな笑ってた。
おめでとうとか言ってた。
ウチだけがお兄のいない場所に置いてかれてた。
夢。
ただの夢。
そう思いたい。
けど、お兄は変わった。
昔のお兄とは違う。
強くなってる。
知らない呪文を使う。
知らないことを知ってる。
そして時々、何もかも知ってるみたいな顔をする。
だったら。
ウチが見たのも、ただの夢じゃないかもしれない。
未来……ひょっとしたら、前の世界。
なんでもいい。
一回起きたことなら、二回目は起こさせない。
「サーシャ」
「ひゃいっ!?」
不意に名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
前を歩いていたお兄が、いつの間にか足を止めてこっちを見ている。
口元にはいつもの柔らかい笑み。 でも、その目だけは妙にこっちを観察していた。
……まずい。
さっきからずっと、お兄の胸元ばっか見てた。
正確には、その服の下。 もっと正確に言えば、そこにしまわれているはずのラーの鏡。
壊したい。
いや、今すぐじゃなくてもいい。 隙があれば。 自然に。 事故っぽく。
そんなことを考えていたせいで、視線が露骨になっていたらしい。
「さっきから僕の胸ばかり見ていますけど」
お兄が自分の胸元をちらりと見下ろしてから、またウチを見る。
「見てないし」
反射的に顔を逸らした。
道端の草を見る。 めっちゃ見る。
今までの人生でこんなに草を真剣に見たことないくらい見る。
「そうですか」
穏やかな返事。
……よし、誤魔化せた。
「見てない」
念押ししておく。
「ええ。わかりました」
お兄は素直に頷いた。
そのまま前を向く。
助かった。
ウチが内心で胸を撫で下ろした、その直後。
「鏡なら渡しませんよ」
足が止まった。
数秒、意味を理解できなかった。
ゆっくり顔を上げる。
お兄は振り返っていない。
ただ、肩だけがわずかに揺れていた。
……笑ってやがる。
「見てんじゃん!!」
思わず叫んだ。
お兄がようやく振り返る。
その顔は、完全に楽しんでいた。
「見てませんよ」
「見てるから言ってんじゃん!」
「勘です」
「そんなピンポイントな勘ある!?」
「可愛い妹の考えていることくらい、兄ならわかります」
「絶対嘘!!」
くっそ。
完全にバレてる。
しかもたぶん、今気づいたんじゃない。
最初から。
ウチがラーの鏡を狙ってることくらい、とっくに読まれてた。
お兄は何事もなかったみたいに歩き出す。
その背中を睨みながら、ウチは小さく舌打ちした。
……正面からは無理。
だったら、別の方法を考えるしかない。
お兄は、とうとう堪えきれなくなったみたいに肩を揺らして笑った。
その顔がまた腹立つ。
絶対、最初からわかってた。 ウチがラーの鏡を狙ってることも。 さっきから胸元ばっか見てたことも。 たぶん、頭の中でどう壊そうか考えてることまで。
くっそ。
完全にバレてんじゃん。
「何すると思ってんの?」
少しむっとして問い返すと、お兄は歩調を緩めた。 街道沿いを抜ける風が、外套の裾をふわりと揺らす。
「そうですねえ」
顎に指を添えて、わざとらしく考え込む。
その仕草がもう怪しい。 絶対まともに答える気ない。
「磨いてくれるとか?」
一瞬、意味を理解できなかった。
「するわけないじゃん」
間髪入れずに返す。
「ですよね」
即答だった。
考えるフリすら必要なかったじゃん。
「じゃあ最初から言うなし!」
お兄はまた楽しそうに笑うだけ。
ムカつく。
こっちはわりと本気なのに。 未来とか。 お兄が死ぬとか。 色々めちゃくちゃ考えてるのに。
なんでこの人、こんな余裕なの。
そんなウチらのやり取りに、少し前を歩いていたモリモリが振り返った。
大きな体が止まるだけで、街道が狭く見える。
「腹でも減ったか」
「なんで!?」
思わず声が裏返った。
今の会話のどこに腹減った要素あった!?
モリモリは不思議そうに首を傾げる。
こいつもこいつで、話聞いてなさすぎだろ。
「サシ美はいつも腹が減っている」
「偏見!!」
「さっき菓子を食っていた」
モリモリが真顔で指摘してくる。
その言い方だと、ウチが旅の間ずっと何か食ってるみたいじゃん。
「それはおやつ!」
「同じだろ」
「全然ちげーし!」
「腹に入れば同じだ」
「じゃあ薬草もご飯と同じってこと!?」
「薬草は苦い」
「そういう話じゃない!!」
思わずモリモリの背中をばしっと叩く。
びくともしない。むしろこっちの手が痛い。最悪。
文句を言おうとして――ふと気づいた。
「あ」
少し前。
お兄が一人ですたすた歩いていく。
さっきまでウチの横にいたのに、いつの間にか距離が開いていた。
その背中はいつも通り。
何にも気にしてませんよ、みたいな歩き方。
……逃げた。
いや、違う。
ウチは目を細める。
お兄の手が、何気ない仕草で一度だけ胸元へ触れた。
そこにはラーの鏡がある。
「……」
逃げたんじゃない。鏡を守った。
モリモリとウチが言い合ってる隙に、ちゃっかり距離を取ったんだ。
やっぱり警戒してる。
それも、かなり。
さっきまでの軽口も、全部ウチの出方を見るためだったのかもしれない。
そう思うと、余計に腹が立ってくる。
正面から取り上げるのは、たぶん無理。
ウチより力があるとかじゃない。
お兄は、ウチが何かする前に気づく。
なら、気づかれない方法を考えるしかない。
ウチは前を歩くお兄の背中を睨みながら、心の中で静かに作戦を練り始めた。
正面からは無理。
ウチは考えた。
めっちゃ考えた。
魔物との戦いより考えた。
王族の勉強より考えた。
ドレスに合わせる靴を選ぶ時くらい考えた。
そして思いついた。
寝込み。
これしかない。
その夜。
ムーンペタに戻る途中の野営。
モリモリは寝るのが早い。
地面に毛布敷いて横になったと思ったらもう寝てた。
マジ早。野生動物?
問題はお兄。
こいつが全然寝ない。
焚き火の前で本読んでる。
「お兄」
焚き火の向こうへ声をかける。
夜はもうかなり深い。 昼間はあれだけ暑かったのに、日が落ちると空気はひんやりしていて、火のそばを離れると少し肌寒い。
ぱち、と薪が弾けた。
お兄はその明かりの中で本を開いている。
何の本か知らない。 たぶん難しいやつ。
ページに落ちる橙色の光を眺めながら、お兄はこっちを見もしない。
「なんですか」
いつも通りの声。
……くそ。全然眠そうじゃない。
ウチは毛布にくるまりながら、さりげなくお兄の胸元へ視線をやる。
そこ。その服の下にあるんでしょ、ラーの鏡。
今日一日、何回狙っても隙がなかった。
だったら寝込みを狙うしかない。
人間、寝れば無防備になる。
たぶん、お兄も一応人間だし。
「寝ないの?」
できるだけ何でもない風を装って聞く。
お兄はページを一枚めくった。
さらり、と紙の擦れる音。
「そのうち」
「そのうちっていつ?」
「眠くなったらですかね」
正論。ムカつく。
ウチは毛布の端を鼻の辺りまで引っ張り上げる。
「眠くない?」
「まあまあ」
まあまあって何。
眠いなら寝ろよ。
ていうか寝てくださいお願いします。
ウチが鏡盗めないじゃん。
もちろんそんなことは言えない。
少し離れたところでは、モリモリが転がっていた。
さっき横になったばっかなのに、ぴくりとも動かない。
こいつはこいつで寝るの早すぎ。
暗闇から規則正しい寝息まで聞こえてくる。
なんで一番警戒心ありそうな見た目のやつが真っ先に寝るんだよ。
見習え、お兄。
「ウチ超眠い」
わざと大きくあくびをしてみせる。
ついでに目もこする。
どうだ。
妹が眠そうにしてる。
普通の兄なら、 『じゃあ僕もそろそろ寝ましょうか』 とかなるだろ。
「どうぞおやすみください」
……ならなかった。
「……」
こいつ。
ウチは毛布から目だけ出して、お兄を睨む。
本人は涼しい顔で本を読んでる。
もしかして、いや絶対そうだ。
「……寝ないの?」
念押しする。
すると、お兄はようやく本から目を上げた。
焚き火越しに目が合う。
一瞬だけ、お兄の口元がほんの少し上がった。
「寝ませんねえ」
にこりと微笑む。
くそっ。
絶対わざとだ。
こいつ、ウチが寝るの待ってる。
ていうか、ウチが寝たフリして鏡を盗もうとしてるところまで読んでない?
いや、さすがにそこまでは。
……ある。
お兄なら普通にある。
「ふーん」
興味ないですけど、みたいな声を出して背中を向ける。
そして毛布に潜った。
よし、こうなったら根比べ。
お兄が寝るまで、絶対にウチも寝ない。
目を閉じる。
焚き火の弾ける音。
夜風が草を揺らす音。
遠くで何かの虫が鳴いている。
五分。
……まだかな。
そっと片目だけ開ける。
お兄は本を読んでいる。
さっきと同じ姿勢。
閉じる。
十分。
また薄目を開ける。
まだ読んでる。
二十分。
……まだ本読んでる。何ページあんのそれ。
三十分。
ちらりと見る。いる。
姿勢すら変わってない。
怖。
もしかして本読んでるふうに見せかけて寝てる?
いや、今ページめくった。
起きてる。しぶとすぎ。
でも負けない。
ここで寝たら今日の作戦は失敗だ。
ウチは毛布の中で拳を握った。
絶対起きてるんだから。
絶対。
一時間。
……。
……知らん。そのあとの記憶がない。
たぶん寝た。
お兄じゃなくて、ウチが。
※
朝目が覚めた瞬間、視界に飛び込んできたのは青い空だった。
一秒。二秒。三秒。
頭が動き始める。
夜。 焚き火。 お兄。 ラーの鏡。 寝たフリ。 根比べ。
そして――記憶がない。
「最悪!!」
毛布を跳ね飛ばして飛び起きた。
鳥が一斉に飛び立つくらいの声が出た。
慌てて辺りを見回す。
焚き火はもうほとんど消えていて、白い煙だけが細く上がっている。 朝の空気は冷たく、草には露が光っていた。
そんな爽やかな朝のど真ん中、お兄はもう起きていた。
しかも木の根元に腰掛けて、湯気の立つカップを片手に優雅にお茶を飲んでいる。
昨夜あれだけ遅くまで本を読んでいたはずなのに、眠そうな顔ひとつしていない。
むしろ爽やか。
腹立つ。
「おはようございます」
こっちを見るなり、にこやかに挨拶された。
「おはようじゃない!!」
「朝ですよ」
「知ってる!!」
そういう意味じゃない。
なんで普通に起きてんの。 ていうか、いつ寝たの。 ウチより後に寝て、ウチより先に起きたってこと?
何その性能。
王族にそんな機能いる?
お兄はこっちの絶望なんか知ったことじゃないみたいに、お茶を一口飲んだ。
絶対わかってる。
昨日ウチが寝落ちしたのも。 鏡を盗もうとしてたのも。 全部わかってて、この爽やかな顔してる。
「くっそ……」
小さく呟く。
その横では、モリモリが熾火の上に串を並べていた。
肉を焼いてる。
朝から。
じゅう、と脂が落ちて香ばしい匂いが広がる。
何の肉?
ていうか、いつ獲ったの?
夜中?
まさかウチが寝てる間に狩り行った?
色々聞きたい。
でも今はどうでもいい。
第一作戦。
寝込みを襲って鏡を盗む。
失敗。
完全敗北。なら次。
第二作戦。
転ばせる。
ウチは朝飯を食べながら考えた。
ラーの鏡は、お兄の胸元にある。
だったら、お兄が転ぶ。
そのまま胸から硬い地面に落ちる。
ラーの鏡に衝撃、割れる。
完璧。
しかも事故。
誰も悪くない。
ウチも悪くない完全犯罪。
……いや。
お兄が怪我するかもしれない。
ちょっとだけ迷った。
でも、ベホイミあるし。
たぶん大丈夫。
うん、大丈夫。
たぶん。
野営地を出て、また街道を歩き始める。
朝の道はまだ涼しく、左右には低い草と岩場が続いていた。 昨日より空も明るい。
モリモリがいつものように先頭。
少し後ろをお兄。
そのさらに後ろにウチ。
絶好の位置。
ウチは歩きながら、お兄の足元をじっと見た。
石、木の根、小さな段差。
使えそうなものはないか。
―――あった。
ちょうどいい石。
足のつま先を引っかけたら、たぶん綺麗に前へ転ぶ。
よし。
「お兄」
できるだけ普通に呼ぶ。
「はい」
振り向かずに返事が返ってきた。
「そっち危ないよ」
「そうですか?」
「石あるから」
それとなく、問題の石を指差す。
お兄が足元を見る。
そして、ひょいと普通に避けた。
「ありがとうございます」
そのまま何事もなかったように歩いていく。
「……」
違う。
そうじゃない。
避けろって意味じゃない。
踏めよ!!
いや、違う。
踏んでください。
でもそんなこと口に出したら終わる。
ウチは歯を食いしばった。
まだ。
まだチャンスはある。
少し先。
今度は木の根が道の真ん中に出てる。
いい感じ。
これはいける。
お兄の右足が近づく。
あと一歩だよ。
よし、そのまま。
そのまま―――
またいだ。
「……」
次。
大きめの石。
避けた。
次。
ぬかるみ。
わざわざ端に寄って避けた。
次。
浅い穴。
止まって跨いだ。
次。
何にもないところ。
……普通に歩いた。
なんで!?
ウチはいつの間にか、お兄の足元ばかり見ていた。
歩き方、歩幅、つま先、障害物。
完全に不審者。
でもそれどころじゃない。
お兄ってこんな運動神経よかったっけ!?
昔はもうちょっと普通ってかちょっと鈍臭くなかった?
というか。
なんで全部避けるの?
後ろと足元に目ぇ付いてんの!?
次の石を見つける。
今度こそ。
ウチがほんの少し歩調を速める。
ちょうどお兄のかかとが石にかかりそうになった、その時。
「サーシャ」
突然呼ばれた。
「なに」
反射的に顔を上げる。
お兄は前を向いたまま、歩調も変えていない。
それなのに、声だけが、妙に楽しそうだった。
「僕を転ばせたいなら」
一拍。
「もう少し自然にやってください」
心臓が止まるかと思った。
「……」
バレてる。
また?
いや……いつから?
最初の石?
木の根?
ぬかるみ?
もしかして全部?
「なんの話?」
すっとぼける。
できるだけ普通の声で。
何も知りません。
何もしてません。
私はただ歩いてます。
そういう顔。
お兄がちらりと振り返る。
目が合う。
またにっこりと微笑む。
「いえ」
それだけ言ってまた前を向いて歩き出す。
その笑顔がめちゃくちゃ腹立つ。
「……こいつ」
小さく呟く。
マジで。
何なんだよ。
ウチが何かするたび全部先回りしやがって。
でも、ここまで露骨に警戒してるってことは、逆に言えば。
ラーの鏡が、それだけ大事ってこと。
そして。
お兄自身も、ウチが本気で壊しに来ると思ってる。
なら次はもっと自然に、もっと意外な方法で。
絶対に、一回くらいお兄の裏をかいてやる。
第三作戦。
魔物。
街道の先に点々と残る戦闘の跡を眺めながら、ウチは考えた。
この辺りは魔物がたくさん出る。
だったら戦闘中の事故に見せかければいい。
お兄に攻撃が飛ぶ。
お兄が避けきれない。
胸元に衝撃。
ラーの鏡が割れる。
そのあと怪我はベホイミで治す。
自然。
完璧。
今までで一番それっぽい。
……。
……いや、待て。
ウチは歩きながら、前を行くお兄の背中を見た。
魔物の攻撃をわざと当てる。
つまり、お兄が怪我する。
「……ダメじゃん」
小さく呟いて、自分の額を押さえた。
鏡を壊したい理由は、お兄を死なせないため。
なのに、そのためにお兄を怪我させてどうする。
むしろ逆じゃん。
ベホイミがあるとかないとか、そういう問題じゃない。
一瞬でもそんな案を採用しかけたウチ、死刑。
第三作戦が却下となると。
第四作戦。
盗む。
結局これが一番シンプルだった。
なんで最初から真正面にこれで行かなかったのか。
問題は、お兄がずっと鏡を持ち歩いていること。
なら、本人が油断している時を狙えばいい。
昼。
街道から少し外れた木陰で休憩を取ることになった。
真上まで昇った太陽は容赦なく照りつけていたけど、大きな木の下だけは風が通って気持ちいい。
荷物を下ろし、ウチは木の幹に背中を預ける。
その時。
「水を汲んできます」
お兄が水筒を手に立ち上がった。
少し離れた場所に、小さな沢がある。
ウチの耳が反応した。
……今、お兄が離れる。
しかも、荷物はここ。
脱いだ上着も置いてある。
これはチャンスじゃん。
ウチはお兄の背中を目で追った。
木々の向こうへ消える。
まだ、もう少し。
足音も遠ざかる。
―――よし。
視線を横へ動かす。
モリモリは少し離れた木の前に立っていた。
何をしているのかと思ったら、頭突きしてる。
ごん。
木が揺れる。
ごん。
葉っぱが落ちる。
「……何してんの?」
危うく聞きかけたけどやめた。
今それに関わったら負けな気がする。
理由を知りたい気持ちも、今だけは封印。
むしろ好都合。
あいつはあいつで忙しい。
今なら誰も見てない。
ウチはそっと立ち上がると、お兄の荷物のそばへしゃがみ込んだ。
まずはどうぐぶくろ。
口を開けて、中を探る。
薬草。……違う。
どくけし草。……違う。
聖水。これも違う。
折り畳まれた紙。知らん。
干し肉。なんで。
小銭。いらん。
指先で底まで探る。
ない。
「……ないじゃん」
思わず眉を寄せる。
なら、上着。畳んで置いてあるそれを広げる。
内ポケット、外ポケット、裾。
どこにもない。
となると、やっぱり本人が持ってる。
ウチは思わず、沢のある方向を見た。
お兄は見えない。
つまり、鏡は、服の下。
あの胸元。
ずっと身につけてる。
警戒しすぎじゃない?
どんだけウチ信用されてないの。
……まあ。
実際盗もうとしてるけど、それとこれとは別。
妹としてなんて言うかプライド? みたいなのが刺激される。
「何か探し物ですか?」
不意に耳元のすぐ後ろから声がした。
「っ!?」
心臓が本気で止まりかけた。
肩が跳ねる。
反射的に上着を抱えたまま振り返る。
そこに、お兄。
水筒を片手に立っていた。
いつ戻ってきたの。
足音あった?
全然聞こえなかったんだけど。
しかも、ニコニコしてる。
一番怖いやつ。
「……」
まずい。
どうする。
考えろ。
何か。
何か言い訳。
お兄の荷物を漁ってても不自然じゃないもの。
一秒。
二秒。
「リップ」
出てきた答えがそれだった。
自分でも何言ってんのって思った。
お兄の視線が、ウチの手元のどうぐぶくろから上着へ、それから顔へ戻ってくる。
「サーシャの荷物に入っていますよね」
当然の指摘。
「……予備」
苦しい。
めちゃくちゃ苦しい。
でも引くな。
ここで引いたら全部バレる。
いやもうバレてる気もする。
「僕が持っていると思ったんですか?」
お兄が少し首を傾げる。
声は穏やか。
でも絶対楽しんでる。
ウチは必死で次の言い訳を探した。
なんで兄の荷物にリップがあると思ったのか。
何か、それっぽい理由。
ふと、お兄の顔が目に入る。
妙に肌がきれい。
よし、これだ。
「……お兄、最近肌ツヤいいから」
「……」
初めて。
お兄の笑顔がほんの一瞬だけ止まった。
勝った。……いや。
これ勝ちか?
「リップで肌ツヤはよくなりませんけど」
「細かいこと気にしないで」
「あと僕の荷物を全部ひっくり返す必要もありませんよね」
「美容って奥深いじゃん」
「どういう言い訳ですか」
お兄が呆れたようにため息をつく。
その後ろで。
ごん。
またモリモリが木に頭突きした。
葉っぱがぱらぱら落ちる。
誰も助けてくれない。
ウチは静かにお兄の上着を畳み直した。
……失敗。
第四作戦。
終了。
やっぱり、本人から直接盗るしかない。
ウチは水筒を置いて座るお兄を横目で見ながら、今度こそ悟られないように小さく息を吐いた。
その胸元には、まだ。
ラーの鏡がある。
もうムーンペタが見えてきた。
焦る。
町に入ったら、あとは犬……王女のところに行くだけ。
鏡を使われたら終わり。
犬が人間に戻る。
そこから、何が起こる?
お兄が死ぬ?
あの女が何かする?
モリモリと二人で旅を続ける?
ウチだけ置いてかれる?
胸がざわざわする。
嫌。
絶対嫌。
お兄が死ぬのが嫌。
それだけ。
別に王女が嫌いだからじゃない。
……いや嫌いだけど。
それとは別。……たぶん。
ウチは走った。
「お兄!」
前を歩く背中に飛びつく。
「うわ」
初めてちょっと驚いた声が出た。
腰に腕を回す。
そのまま胸元へ手を突っ込む。
「あ」
あった。
硬い。
冷たい。
それをしっかり掴む。
「サーシャ」
お兄の声が低くなった。
でも、離さない。
「ごめん!」
全力で引き抜いた。
鏡。
手のひらサイズ。
これ。これさえなければ。
「サーシャ、返しなさい」
「ヤダ!」
「返してください」
「ヤダ!!」
走る。後ろから追ってくる気配。
速っ。
お兄速っ!
僧侶系じゃないの!?
「待ちなさい!」
「待ったら取るじゃん!」
「取りますよ!」
「じゃあ待たない!!」
町の入口まで全力。
門番が目を丸くする。
「サマルトリアの姫さ――」
「どいてえええ!!」
ダッシュでムーンペタ突入。
後ろからお兄。さらに後ろからモリモリ。
町の人が避ける。
犬が吠える。
ウチは走る。
そして。
ちょうどいいの見つけた。
井戸の横のでっかい石。
よし、と頷いて振り返る。
数歩先でお兄が止まった。
息一つ乱してない。
肩で息してるウチとは違う、そういうとこ腹立つ。
「サーシャ」
静かな声。
「それを壊したら、トンヌラーヌ王女を元に戻せませんよ」
「うん」
「一生、犬のままかもしれない」
「……うん」
「それでも?」
ウチは鏡を見る。
顔が映る。
ちょっと泣きそうな顔。
ダサ。
メイク崩れるじゃん。
「だって」
声が震えた。
「お兄、死ぬじゃん」
お兄の顔から笑みが消えた。
「ウチ知ってんだから」
あの夢。変な記憶。
葬式。白い花。
並んでいた、あの二人。
冷たい床。
握りしめたナイフ。
そして――どこを探しても、お兄がいない世界。
夢だと思いたかった。
ただの悪夢。 疲れていたから見ただけ。 未来なんかじゃない。
そう何度も言い聞かせた。
でも。
あまりにも鮮明だった。
匂いも。 声も。 胸の奥が潰れそうになる感覚も。
今でも、思い出せる。
だから怖い。
もし、あれが本当にこれから起きることなら。
もし、この鏡を使うことが、その未来につながっているなら。
ウチは絶対に見過ごせない。
手の中の鏡が、急に重く感じた。
ただの道具のはずなのに。
これ一枚の向こう側に、お兄がいなくなる未来がぶら下がってるような気がして。
指先に力が入る。
「これ使ったら、なんか起こるんでしょ」
声が、思っていたより低く出た。
お兄は答えない。
いつもの軽い笑いもない。
ただ、少し離れたところからウチを見ている。
その沈黙が、逆に怖かった。
「お兄、また死ぬんでしょ」
口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
“また”。
自分でも、その言葉が何を意味しているのか全部わかってるわけじゃない。
でも。
ウチの中では、それが一番しっくりきた。
一度、どこかで、お兄は死んだ。
そしてウチは、それを止められなかった。
「サーシャ」
お兄が静かに名前を呼ぶ。
いつもよりずっと優しい声だった。
その優しさが、余計に腹が立つ。
そんな声で呼ばないでよ。
大丈夫みたいに。
何も起きないみたいに。
「だったら犬でいいじゃん!!」
気づいた時には叫んでいた。
声が町中に響く。
近くを歩いていた人が足を止めた。
店先の人も振り返る。
井戸端にいた人たちまでこっちを見ている。
視線が集まる。
普通なら恥ずかしい。
王族としてどうとか。 みっともないとか。
そんなの、今はどうでもいい。
知らない。
そんなの。
ウチはお兄だけを見た。
「犬でも生きてるじゃん」
声が震える。
「元に戻らなくても、生きてるじゃん」
手の中の鏡を抱え込むみたいに握る。
「でも、お兄は死んだら終わりじゃん」
喉が痛い。
息がうまく吸えない。
それでも止められない。
「だったらさ」
一歩、後ろに下がる。
お兄から、鏡を守るみたいに。
「王女さまが犬のままでも、その方がマシじゃん」
自分でもひどいことを言ってるのはわかる。
でも。
比べられない。
ウチにとっては、知らない誰かが元に戻れるかどうかよりお兄が生きてるかどうかの方がずっと。
ずっと大事だった。
「犬でも生きてるじゃん。元に戻んなくても死なないじゃん。でもお兄は死んだら死ぬじゃん!!」
自分でも意味わかんない。でも止まらない。
「ウチ、もう嫌だから! 何もできないの! 知らないとこで勝手に死なれんの! あとから、こうすればよかったって思うの!!」
お兄が近づく。
「来ないで!」
鏡を石の上に置き、拳を振り上げる。
お兄が止まった。
「サーシャ」
「……ごめん」
「待ちなさい」
「ごめんね、お兄」
拳を振り下ろした。
ガシャン。
鏡が砕けた。銀色の破片が飛び散る。
手が痛い。
ちょっと切れた。
血が出る。
でも、壊れた。壊した。
これで、未来は変わる。
お兄は死なない。
……はず。
「……」
怖くて顔を上げられない。
怒られる。
絶対怒られる。
お兄優しいけど、こういう時いちばん怖い。
「サーシャ」
「……はい」
「手を見せて」
「え」
「怪我してるでしょう」
手を掴まれた。
淡い光。
ホイミ。
切れたところが塞がっていく。
「……怒んないの?」
「怒ってますよ」
笑ってる。怖い。
「めちゃくちゃ怒っています」
「ごめんなさい」
「王族が重要文化財を拳で叩き割るとか聞いたことありません」
「ごめんなさい」
「しかも素手」
「そこ?」
お兄がため息をついた。
その後。
懐に手を入れた。
「だから」
何かを取り出す。
「こうなると思って、ムーンペタに入る前にすり替えておいたんです」
手のひらに、鏡。
さっきと同じ。
いや、違う。
こっちの方がなんかキラキラしてる。
神聖っぽい。
「……」
「……」
「……え?」
地面を見る。
砕けた鏡。ただの鏡。
お兄を見る。
ラーの鏡。
地面。
お兄。
地面。
お兄。
「えええええええええええええええ!?」
町中に声が響いた。
「いつ!?」
「町が見えたあたりで」
「いつすり替えたの!?」
「サーシャが僕の背後で『今日こそ絶対ブッ壊す』って三回くらい呟いていたので」
「言ってた!?」
「言ってました」
「うそ!」
「モリ夫も聞いてますよ」
モリモリを見ると静かに、だけど力強く頷いた。
おでこが赤いけど、木に頭ぶつけてたからかな?
心配するまでもなくモリモリがハッキリと告げる。
「鏡を殺す目をしていた」
「鏡殺す目って何!?」
お兄が本物のラーの鏡を懐にしまう。
今度こそ深く。
「サーシャ」
ちょっとだけ、声が優しくなった。
「僕は死ぬつもりありませんよ」
「……」
「前と同じになるとも限らない」
心臓が跳ねた。
前。
やっぱり、お兄も?
「それに」
お兄がウチの頭を軽く叩く。
「今回は、君もいるでしょう」
何それ。
ずる。
そんなこと言われたら何も言えないじゃん。
「でも」
ラーの鏡を懐へ戻すお兄を見ながら、ウチはまだ完全には納得していなかった。
さっきまであれだけ必死になって壊そうとしていたのに、本人は相変わらず落ち着いている。
大丈夫だとか。 今回は違うとか。 ウチもいるとか。
そんなこと言われたって。
未来が本当に変わる保証なんてない。
一度見てしまったものは、そう簡単に忘れられない。
「はい」
お兄がこちらを見る。
ウチは少し迷ってから、念を押すように言った。
「もしあの王女とモリモリのせいで、お兄が死にそうになったら」
言葉にした瞬間、胸の奥がまたざわつく。
白い花。 あの二人。 お兄のいない世界。
嫌な記憶を振り払うように、ウチはぎゅっと拳を握った。
「なったら?」
お兄は困ったように笑いながら先を促す。
「鏡じゃなく本人ぶっ飛ばす」
「やめなさい」
間髪入れずに返ってきた。
「先に言っとく」
「やめなさい」
「マジで」
「やめなさい」
全部同じ返事。
しかも声の調子までほとんど変わらない。
ウチがどれだけ本気で言ってるか、絶対わかってるくせに。
「そこはちょっとくらい考えてよ!」
「考える余地がないので」
「あるし!」
「ありません」
お兄はきっぱり言い切る。
ほんっと融通きかない。
ウチが頬を膨らませていると、少し離れたところで黙っていたモリモリが、急に腕を組んだ。
やたら堂々としている。
嫌な予感がする。
「安心しろ」
「何が?」
反射的に返す。
モリモリは胸を張った。
「すべては俺が守る」
……。
一瞬だけ、風の音がやけに大きく聞こえた。
何その急な主人公発言。
さっきまでほぼ会話に入ってなかったくせに。
でも。
ウチは少しだけ目を細める。
こいつなりに言ってることは本気なのかもしれない。
だったら確認しとく必要がある。
「ウチは?」
ウチが聞くと、モリモリは少し考えた。
ほんの少し。なんでそこで考えるの。
でもモリモリはまっすぐウチを見て頷いた。
「サシ美も守る」
「お兄は?」
「守る」
即答。そこはちゃんと言う。
……まあ、よし。
「自分は?」
次に聞く。
モリモリはまた少しだけ黙った。
視線を遠くへ向ける。
そして。
「知らん」
「そこ一番大事だろ!!」
思わず蹴りを入れる。
反射だった。
完全に反射。
ウチの足がモリモリの脇腹に入る。
どんっ、と鈍い音。
普通なら少しよろけるくらい、のはずが。
モリモリの巨体が綺麗に横へ吹っ飛んだ。
「え」
蹴ったウチ自身がちょっと引いた。
そのまま地面を転がって、道端の草むらに突っ込む。
ばさばさばさっ、と鳥が何羽か飛び立った。
「……」
お兄が額を押さえる。
深い、ものすごく深いため息。
「サーシャ」
「いや今のはモリモリが悪いし」
「蹴る必要はありません」
「でも自分守んないって言うから!」
「だからといって蹴らない」
「ウチなりの教育」
「教育の方向性が間違っています」
草むらの方を見る。
モリモリが普通に起き上がってきた。
服についた葉っぱを払っている。
無傷。
やっぱ丈夫。
なんか腹立つ。
「次は自分も守れよ!」
ウチが言うと、モリモリは一度だけ頷いた。
「善処する」
「絶対わかってないじゃん!」
また蹴りそうになって、お兄に肩を掴んで止められた。
ちぇ。
そんなくだらないやり取りをしながら、ウチらは街道を進んだ。
ムーンペタの町並みの中心へ向かう。
門。 屋根。 行き交う人。
ここまで来た。
ラーの鏡はまだお兄が持っている。
ウチが全力で壊したのは、ただの鏡。
あれだけ走って。
あれだけ必死になって。
最後には拳まで痛くして。
結果、完全にお兄の掌の上。
思い返すと、めちゃくちゃ悔しい。
でも、少なくとも。
本物はまだ使われていない。
未来もまだ決まっていない。
ムーンブルクの王女が元に戻ったその先で、何が起こるのか。
あの記憶みたいになるのか、ならないのか。
わからない。
それでも。
今度はウチがいる。
何も知らないまま置いていかれた時とは違う。
ウチは前を歩くお兄の背中を見た。
絶対、今度こそ守る。
何があっても。
そうして、ラーの鏡を持ったまま、ウチらはとうとうムーンペタの町へ戻ってきた。
砕けたのはただの鏡。
未来はまだ一個も壊れてない。
ウチは懐に鏡を隠しているお兄を横目で見る。
……チッ。
次はもっと上手くやろ。