ヴィーヤウトゥムノ伯国鉄獄覚書   作:松永闇斎

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逝き過ぎるということ ~恐怖!吸血女子短大生 VS 怪奇蛆虫爺~ (8)

 朱音は幽鬼のような──実際に吸血鬼の白い肌はそれそのものであったが──全てが終わったかのような表情をして「イークの穴倉」を彷徨った。その足取りはふらつくように、第二階層から、第一階層へ、やがて外に出る。

 その意義を自分ですら理解していない様子に、両の腕には「くいつき」と名付けられた犬の死体を抱えたまま。

 全く危機への感覚が欠如した状態である。

 この間に何らかの外敵と遭遇しなかったことは「害虫駆除」で既に掃討した道を辿ったこともあったが、実際のところ全くの幸運に過ぎない。〈混沌〉の淵にあるこの場においては、また新たな外敵が時空の位相を同じくする形で、唐突に湧き出す可能性は、全く十分にあり得たのだから。

 加えて、外の日の光が──相変わらず混沌に満ちたそれは薄気味悪い虹色が混じっているのだが──既に日没かつ曇天に近く、力の弱い吸血鬼にとっても蝕まれない程度に弱まっていることも、今の彼女にとって幸運であった。

 吸血鬼としての体質について相変わらず自覚が薄いままふらつく今の彼女には、思考の埒外にある幸運である。

 もっとも、今の彼女は、そんな外敵に襲われて命を落とすことも、身を焼く強い日光を浴びて朽ちることもどうでも良い心境にあった。かえってそうして投げやりに命を落とすことが、贖罪として成立するという発想に陥り、喜んでそうした可能性もあったかも知れない。

 それ程までに、今の彼女の精神はボロボロの有様に陥っていた。

 たかが犬一匹を図らずも殺しただけであるならば、現代日本人の一般的倫理としてもこれ程までに罪業を感じて病むことはいささか過剰であろう。今の朱音にとって問題なのは、その殺し方とそれをもたらした己への作用が、ただの殺害では済まない状態にあることだ。

 彼女は、吸血鬼としてこの犬の本質そのものを貪ってしまった。

 文字通り獣のように、犬に刃の如き歯を突き立て血を吸った。己の本能がなしたその蛮行に身の毛がよだつ。だというのにのみならず、結果として犬の記憶を、感情を、自我を読み取り、糧としてしまった。

 それでこの犬が、ただの野良犬であったならば。人間に馴染まず、ただ死肉を貪って日々を過ごす、先ほど自分も陥っていた自己保存の本能のまま全てに動くような手合いならば、そこでまだ朱音の中で言い訳が立ったかもしれない。

 だが、彼女はこの犬が主人にどれだけ愛されていたかを、どれだけ忠実であったかを、文字通り骨の髄まで味わってしまった。

 それが食らった自分の中で、その犬の本質が絶えず今もなお反芻されているのだ。

 その反芻が。本来吸血鬼にとって、心地よいはずの後味が。今のまだ人間の精神のままの彼女にとっては、吐き気を催す邪悪そのものであり、そうでありながら吐き捨てられない滋養として己の中を駆け巡っている。

 その齟齬こそが、今の彼女に地獄をもたらしていた。

 彼女の理性が、特にその内の「良心」が苛む。しかし、「本能」は受け入れ、むしろ賛美すらしている。

 正と負。この葛藤が生み出す混乱は、ただの負だけで構成されていた当初の〈烙印者〉としての杜撰な死の繰り返しよりも却って彼女を縛り付けた。当初、彼女にとってはある意味有効な防衛として作用していた精神的逃避が、今はそれすらも許されない状態にあった。

 そんな葛藤が、犬の屍を抱える全く不審な挙動を彼女にもたらしている。

 混濁した思考の中で、朱音は贖罪を求めていた。その贖罪の意識が、少なくともこの犬の骸をこのまま捨て置くことは出来ない、という焦りに満ちた使命感に走らせ、しかしどうするべきかまでまだ考え付かない。論理の処理能力は地の底まで鈍っている。

 考えがまとまらないまま、変わらず犬の死体を抱え込み──朱音はいつしか「辺境の地」の外郭に、取り留めない足取りを向けていた。

 ひょっとしたら、あの吸血鬼の「先輩」に、あのイオアンナに、すぐさまばったりと再会することが出来るかもしれない。そうして、自分の成してしまった凶行について、何らかの諭しであるとか、許しを、慰めを与えてくれるかもしれない。あるいはもっと直接的に、あの甘美な快楽に満ちた「荒療治」を成してくれることすら期待できるのでは?

 そんなある種の甘えた考えは、現実に裏切られていた。今、彼女の位相の近くにいる同胞──〈烙印者〉はイオアンナを含めて一人として存在しなかった。

 にも関わらず、朱音は辺境の地の外郭を彷徨った。狂人のようにふらつき、具体的な救い主の名も呼び回った。

「イオアンナ様ぁ、イオアンナ様ぁ。ねえ、私どうすればいいですか?教えてくださいよ、ねえ。ねえってば」

 外郭の様子は、依然としてこれまでと変わらない。無数の時空から流れ着いた惨めな浮浪人が、寄せ集めのスラムやバラックを築き上げ、明日も知れぬ日々を過ごしている。

 そんな住人たち──荒んだ、それこそ野良犬と変わらぬ有様をした胡乱な彼らでさえ、今の彼女の薄気味悪さには近寄ろうとせず、避けるばかりであった。これまた幸か不幸か、彼女を敵意や疑念をもって付け狙う者は、今のところはいなかった。

 ──ただ一人、彼女と似たような狂気に侵された一人の男、〈烙印者〉と対になる一個の〈滞留者〉を除いて。

 その小男は、夢遊病者のような──まさに朱音と同類のような口調で、囀るように呟いた。

「ああ、誰じゃあ。儂の茸も、犬も、畑もみんな、みんなあ、奪い去っていきよったものはあ、ああ……ああああ………」

 その狂気の行く先は、彼を蝕む呪いの赴くまま。彼自身も与り知らぬ何かを、ひたすら追い求めさせているようであった。

 

─────────

 

 弱い西日はさらに地平に沈み、いよいよ夜の帳の兆しを見せ始めた頃。

 朱音は、結局外郭のスラム街をふらふらと離れ、その外れの森の入り口にまで、ただ無意味に足を運んでいた。

 反芻していた犬の魂魄、その本質が、僅かに消化され始めたのか。微かにだが、理性ある思考が戻りつつある。

 しかしそれ以上に、心身の消耗は激しく、意識は未だ朦朧としたままだ。彼女は不意に近くの木の根に躓き、身をよろめかせた。

 反射に従うまま、両手で地面に手をつく。そうして手放した犬の死体が、彼女の眼前に転がる。

 罪悪感をもたらすそれをわざわざ抱えて歩き回り、今もなお視界に入れては、さらに己を苛み続ける。

(ごめんなさい、許してください。これ以上、私の中で蠢かないでください。お願いですから止めてください)

 身を丸めて震え、そして許しを乞うように見上げる。

 眼前には、己の躓きの原因となった根を張る、大木が一本。その大木に、何か霊験めいたものを、まことに勝手ながら見出した彼女は、一応仏教に根差しているのだろうが、誰に届くとも知れぬ空疎な案を思いつく。

(ああ、そうだ。許してください。お墓を作ります。だから、だから許してください。私の中から出てってください。成仏してください)

 影の中に仕舞い込んだ長剣──彼女の内の何かが結局手放さなかった、かねてからの獲物──を取り出すと、拙くも鋤の代わりにして土を掘り起こし始めた。

 ざくり、ざくりと剣先を突き立て、わずかに、しかし確実に土を耕し、やがて小さくも穴を掘り上げてゆく。

 その作業そのものが、どれほどの意味を成すのか、朱音自身にも分からない。ただ、何もせずにはいられなかった。

 今の光景の絵面を俯瞰して見れば、まさに陰鬱な墓守が死人の墓穴を掘るが如し。

 思考を停止しながら、それを繰り返すこと十数分。

 辛うじて犬を押し込めることが出来る程度の穴が、掘れたか否かという頃。

 無心に掘っている間、いつしか近づいて来た「小男」は、全く唐突に、何の脈絡なく朱音に問いかけた。

「誰ぞの、葬式かのう?」

 朦朧としつつも、その声にぞわりとする何かを感じた朱音は、傷んだ長い髪を払うように振り、声の方角を向いた。

 言葉は通じない。小男が辛うじて何か質問のようなつもりで声をかけてきたことしか分からない。だが、その声色だけは分かるのだ。彼女が貪った犬が、その血の記憶が、朱音に眼前の男が──この小人が──何者かを告げる。はっきりと告げてしまう。

「あ、あー……この子の……ご主人様?」

 

─────────

 

『いずれにせよ、私たち〈烙印者〉同士が、形而上学的な引力と斥力でめぐり会うのと同様に、あなたは〈滞留者〉とも自然と何度ともなく遭遇することになるでしょう。九割九分は、互いに敵としてね。その時は容赦も戸惑いもなく殺すことよ。私たちが宿したイェンダーの呪いとは、そういうものなのだから』

 

─────────

 

 あの限られた二日間の間に朱音に与えられたイオアンナの助言の内、〈滞留者〉に対するものはそれほど多くはなかった。

 ゆえに眼前にいる小男も、そもそも己が殺めた犬もまた、その〈滞留者〉そのものであることに、朱音はまだ考えが至っていない。

 ただ、今の罪業に心を押しつぶされ、今なお錯乱した状態にありながら、朱音の目にその男はどう映ったのか。

 己の殺めた、犬の主。

 貪った犬の記憶が、思い出したくもなく、理解したくもなく、されどなお事実として朱音に訴える。

 ゆえに思わず、声に出してしまう。犬が過去に聞き取り、理解していた主人の名前、その発音を。

「あ、え、その……マ、『マゴット』……さん?」

 重ね重ね、全くの不意であった。それがそれがどのような影響をもたらし得るかなど、少し考えれば、どう転んでも怪しまれる他はないというのに。

 小男は、その己が名だけを聞き取って、びくりと反応した。

「なんじゃああ、お前さんは何でワシの名を知っておるんじゃあ?」

 間の抜けた声色で、マゴットと呼ばれた小男は答えたが、やはりその言葉が朱音に伝わることはない。

 この小男の生まれ育った土地で言うところの「共通語」は、現代地球の日本人である朱音にとって、全く未知の言葉である。

「なぜじゃあ、なぜお前はワシを知っておる?ワシの何を知っておるんじゃあ!?」

 小男は訝しむようにも、取りすがるようにも大声を上げた。

 その有様に、朱音は錯乱の中、さらに怯える。

 一応、外見は西洋人の壮年過ぎと見えなくもないが、背丈は辛うじて朱音の半分と少しはあろうかという程度の、実に怪しげな小男。

 それでも記憶が、己のものでなかったはずの記憶が、混乱する頭の中で納得してしまう。この男が「マゴット」、「くいつき」なる犬の主人であると、何度でも告げてくる。

 その宣告が、さらに己の心を押しつぶす罪悪感を増して、朱音は泣き叫ぶように声を上げる。

「ごめんなさい!ごめんなさい!本当にごめんなさい!!」

 マゴットの「共通語」を朱音が理解できぬのと同様に、朱音の日本語もまた、マゴットに伝わることはない。

 手を振り、喚き散らす言語外の振る舞いからも、マゴットに謝罪の意味が伝わることはなく、かえって何か癇癪を起こして威嚇してきているようにすら、彼には感じられた。

 ゆえにマゴットは、ただ朱音の喚き散らしにつられるかのように大声で、問いを繰り返した。

「なぜじゃあ!?ワシは何でこんなところにいるんじゃ!?ワシはつい前まで……いやもっと大昔だったか知らんが……とにかくいつの間にかここに連れられたんじゃ!?お前さんは儂の名を知っておるのなら、何か分からんのか!?答えろ!答えんか!?」

 怒りと哀願の混じった口調は、元より朱音にとっては聞き取りようのない言語を、さらにまくし立てたものであるから、いよいよ疎通のしようがない。

 やはり彼女にとっては、ひたすら機嫌を損ねた怒号のようにしか伝わらなかった。

 全く、奇妙で、そして無様な応酬が繰り広げられていた。

「許して!本当に!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」

「教えろ!儂は何なんじゃ!?どうしてこうなったんじゃあ!?」

 今この場に、一切の言葉を介さぬ野生の獣が居たならば、理解し難い二匹の生き物が、互いに縄張りを争って威嚇しあっているようにしか見えなかっただろう。

 そして、あるいは逆に、この場に両者が何者か、双方何を話しているかまでもつぶさに理解している者が、もう一人、この有様を眺めていたならば──それこそ、イオアンナのような、多元宇宙の孤独行に長けた〈烙印者〉がこの光景を見ていたなら?

 恐らく、静かに溜息をついて呆れるか、逆に滑稽な寸劇と目に映って、腹がよじれるほど笑い転げていたかもしれない。

 〈烙印者〉と〈滞留者〉。イェンダーの諧謔的な呪いによって無限に殺し合うことが定められているはずの両者は、そうであることを拒むか、それ以前に己にそれぞれの自覚がないゆえに噛み合わないまま、児戯を繰り広げていた。

 しかし、そんな馬鹿げた一時の猶予もやがて、終わりを告げる。

 今ある過酷な現実を受け入れられぬ狂人そのものとして、お互いが勝手に疎通出来ぬままのたうち回っている間に、マゴットの側が気づいた。

 己の愛犬、その一匹が無残な骸となって、木のそばに「打ち捨てられている」ことに。

「わあああ!んああああああ!」

 しばし呆然かつ黙然としていると思ったら、にわかに上がった一際大きな絶叫に、朱音は転げて腰を抜かし、思わず背を向けてしまう。

 マゴットは、血に染まった白犬の骸のそばに縋りつくかのように駆け寄る。

 哀れなまでにやつれた──その原因は知る由もないが──己の犬が確かに見るも哀しき有様で朽ちていることを。その名前を訴えかけるように絶叫した。

「『くいつき』!『くいつき』!なんでじゃ!なんでじゃああ!『くいつき』!」

 朱音はただでさえ限界まで己にまとわりつく怯えと錯乱の中で、さらに凍り付いた。

 ──気づかれてしまった。己が不意にもこの小男の飼い犬を喰らってしまったことに───

 そう考えるのは彼女自身が、疲労と錯乱の中にあるがゆえの狭窄に過ぎない。

 それこそ「哀れな犬が無残にも野ざらしになっているのを見かけたので弔ってやろうと思いました。貴方の犬だったのですか?おいたわしいことです」などと、嘯くことが出来れば、十分誤魔化しの効く状況である。

 だが、己のやってしまった罪悪感に押しつぶされ、つまるところ「メタ」な認識に頭が回らない今の彼女には、そんな詐術など振るいようがないのだ。

 だから、自白してしまう。

「ごめんなさい!やっちゃったんです!ついやってしまったんです!許して下さい!許してください!」

 もし、通じていたら最悪にしかならない言葉を吐き出してしまっていた。

 相変わらず互いに言葉こそ通じていなかったが、ここまで必死なそぶりでこのように叫んでしまったのは、言語外のコミュニケーションとしても同様、全く最悪の域に他ならなかった。

 そして小男───マゴットの方は、朱音とは全く違う種類の狂奔──彼にとって全く避けられぬ全く固着した認知に至っていた。

 彼は口でこそ明確に出すことは稀であったが、それだけに己が「善良なる」人間であることに微塵の疑いを持たぬ日々を数十年以上に渡り送ってきていた。

 そんな己が、抱えている家族や、唯一の財産たる農園に突如別れを告げ、いつしかこんな得体の知れない土地で、記憶も定かでないまま彷徨っていた。おかしい、何故このような羽目に陥っているのだ?「善良なる」自分が何故一体こんな惨めな目に遭っているのだ?

 彼の今の思考の中は、実際、言葉通じぬ朱音に益体なく絶叫してきた問いかけのままであった。

 考えを繰り返すに繰り返すも、全くおかしい。あってはならないことだ。「善良なる」自分がこんな羽目に、全く理不尽な不幸にあうことなどあってはならない。全く持って道理に合わないことだ。

 同時にこうも思う。そんな「善良なる」自分が、こんな不幸にあっているのは許し難い、実に堕落に満ちた「悪」が今、己を取り巻く世界のどこかに蔓延っているためだ、と。

 己を、こんな「善良なる」農夫を陥れた「悪」はいずこだ?実際の所、彼が無意識に探し求めていたものはそれだったのかもしれない。

 そして、今見つかったではないか。

 今眼前にいる人間……とは思えない、肌の白い、乱れた髪から紅い瞳を覗かせた女。鼻は低く、平坦な顔はまるで幽鬼のようだ。

 ああ、間違いない。こいつが「悪」だ。現にこいつは、いつからか分かれてしまっていた儂の愛犬の一匹を殺めておったに違いないではないか。こいつが「悪」だ。

 きっと、こいつが己を故郷から遠く離れたこの醜い土地に拉致し、放り投げた元凶の「悪」に違いないのだ。

 「悪」を滅ぼさねば。「悪」さえ滅びれば、全て上手くいく。きっと元通りになる。儂も自分の農園に戻れる。「行きて帰る」ことが出来るに違いあるまい。

 なぜならば「悪」とは「善良」の欠如であり、それを除けば「善良」なる作用によって一切はまたつづがなく正常に戻るのだ。そうに違いないのだ。

 マゴットは、そうして「悪」を滅ぼすための行動を起こす。

 今の彼には、具体的に「悪」を懲らし得る、具体的な手段が一つあった。

 腰に下げている手鎌。この異形の世界に連れ込まれた折、恐らくは己が農作業をしていた最中に握っていたものだ。

 マゴットはそれをおもむろに利き手の右へ掴み直すと、先ほどまでの取り乱しが嘘のように黙然と、目の前の「悪」──白い肌をした幽鬼へと襲いかかった。

 怯えた謝罪の言葉を繰り返し、地面に伏していた朱音は、その殺意を気取ることができなかった。

 振り下ろされた鎌の切っ先は、朱音の右肩にしかと食い込み、まくしたてるような言葉の最中に、その声を呻きへと変えた。

「許し……あガっ!」

 鋭い痛み。己の中の堅い何か──肩甲骨に異物がぶつかったような鈍い感触。その反射で朱音は狂乱気味に腕を振り回し、暴れのたうち回る。

 小男は不意に、倍以上の目方を持つ朱音の体当たりをまともに受け、無様に転倒した。

「ギャッ!」

 獲物を持った手で身を庇うこともできず、マゴットは頭を地面に打ち付ける。その衝撃に一瞬視界が揺らぐが、どうにか立ち直って幽鬼を睨みつける。

 朱音は、通じることもない言葉でなおも訴えた。

「やめて!許して!私が悪かったから!お願い!」

 自分より小さいが、明確な殺意と、どうにもにわか仕込みの朱音の剣よりはるかに扱い慣れているらしい農具──今や紛れもない武器を持った相手に、今の朱音は抵抗できない。

 罪悪感と恐怖という重しが、依然として彼女の手足を縛り付けていた。

 朱音の哀願は、マゴットには通じない。

 その弱々しい声色と、身の縮こまり方は、今のマゴットにとっては、堕落した「悪」が早くも息も絶え絶えに、情けない姿をさらしているようにしか思えなかった。

 「善良なる」己には全く無自覚な、優越感と加虐心が、知らぬ間にマゴットの胸に巣食ってゆく。歯をむき出した、何とも言えぬ表情がその顔に浮かんだ。

 心中に駆り立てられるまま、マゴットは今度は堂々と声を上げながら手鎌を振りかざし、朱音に躍りかかる。

「スーザ!スーザ!」

 それは、己が帰属する故郷の名。己を奮い立たせる、あるいは陶酔させるための掛け声であったが、朱音には無論、意味の分かるはずもない。

 相手が攻撃を止める気配がないことに、朱音はさらに怯え竦みながらも、どうにか二撃目だけは身を捩って避けた。

「いや!もういや!マゴットさん!お願いですから話を聞いて、許して!」

 その通じない許しを願う声こそが、この小人の男に過剰な効力感を却って与えていることに、朱音は考えが及ばない。

 己の倍の体格を持つ幽鬼のような化け物が、明らかに己を恐れている。

 言葉は通じないが、その口から吐き出されるのは無様な命乞い以外の何ものでもない。

 効いている。効いているぞ。マゴットの思考はさらに高ぶった。やはり己の身に降りかかった理不尽な不幸は、こいつの仕業に違いない。だからこそ、今「善良なる」自分は敵を圧倒しているのだ。己は正しいのだ、と。

「幽鬼めが!儂を、元の故郷に戻せ!戻さんかあ!」

 己の錯誤への疑いは欠片もない。マゴットはそう叫びながら、手鎌を振りかざしてさらに攻撃を繰り出す。

 二度目の身躱しで倒れ込み、腰が引けた朱音はそれを避けることができなかった。

 三度目の鎌先は、朱音の、靴や脛当てもない素肌のままの膝に食い込む。

「いだっ……痛い、痛い!」

 声が枯れかけた濁声で朱音は叫ぶ。

 肉に食い込んだ手鎌を抜くと、マゴットはさらに四撃目を繰り出した。

 攻撃的陶酔に捕らわれたその一撃は、一挙に倒れ込んだ「幽鬼」の腹を続けて狙う心づもりであった。しかし興奮のあまり木の根に蹴りつまづいて不意にずれた。振り下ろした鎌先は朱音の股前、スカートの生地を貫き、地面に突き刺さる。

「ひぃ!」

 様々な危機感を一挙に頭を過ぎらせた朱音は、もう既にこれまでの道程の間でボロボロになっていたスカートの布地がさらに破れることを厭うことはない。引っ張って自ら引きちぎった。

 傷づけられた膝を引きずり、片足立ちながら、不意に地面に突き刺さってしまった手鎌を抜き取ることに手間取っているマゴットから、どうにかいくらかの距離を取った。

 恐怖の感情はさらに高まり募る一方で、罪悪感は意図せずして抜け落ち始めていた。

 そこにいるのは「同じ人間」のようなのに、そのはずなのに。まるで言葉が通じないという断絶、その苛立ちが拍車をかけていた。

 どうしてだ。どうして私を殺そうとするのか?

 犬を殺めてしまったのは確かに悪かった。現に自分は罪悪感に押しつぶされそうに、こうしてひたすらに苦しんでいるというのに。今でも、取り込んでしまったこの犬の記憶を噛みしめて可哀そうだとは思っている。だからひたすら謝罪している。何度も何度も。

 だが、その代価に殺されそうになるなんて考えにも及ばなかった。それは幾らなんでもひどい。贖罪はしたい、何らかの代償を拒むつもりもないが、それが命ではやはりつり合いが取れない。例え自分が呪われた不死たる〈烙印者〉であっても。

 どこまでも全くの予想外だ。第一、この「マゴット」と呼ぶらしい小男──己が取り込んだ犬の「くいつき」の温かみある主人の記憶とは似ても似つかぬ、余りにも狂暴で胡乱な有様ではないか。

 即座に手鎌に斬りつけられる心配はない距離を維持したまま、相手を見やる。

 地面に張り巡らされた木の根にでも食い込んだのか、手鎌を抜き取るのに、小男はまだ手間取っている。

 その有様を見て、朱音が自然と抱き始めたのは、嫌悪感だった。

 ───思えばどうなのだ、このみすぼらしい、白人に似た、全く風采の上がらない小男は?

 あの「くいつき」とかいう犬の記憶から省みられたイメージからは、もっと大きく、温和な紳士の印象が確かにあった。それが罪悪感を加速させる一因となっていた。だが実際にこの「マゴット」を目の前にしてどうだろう?

 よもやな事だ。日本の成人女性としてそこまで長身でもない自分よりも、かろうじて半分以上あるか程度の背丈のチビとは思わなかった。体格は、明らかに中型犬と部類できる「くいつき」と大して変わらない程になるのだろうか?

 着ている服装は何か外向けの作業衣か?それにしてもボロボロで手入れの様子が欠片もない──これについては同様に破れと汚れに汚れた外着に安価な防具を着つけた朱音自身も、まるで言えた立場ではないのだが。

 しかし、このみすぼらしさに朱音は既視感を覚えていた。そしてすぐに答えは浮かぶ。

(「どん百姓」どもみたい……)

 地球の現代大日本帝国、その都市部に生まれ、今は首都たる大都会岡山にも暮らす「大都会民」たる朱音には、根源的な差別感情が一つある。それが、山陰から北陸にかけた日本海側の「農村の百姓」──そこらの草でも食わせておけば怪我も治る、とでも日頃から大都会民同士で嘲っている集団。

 そのイメージが今、眼前にいる「マゴット」とぴったりと一致してしまった。

 朱音の心中が次第に、余りにもあっけなく変化する。

 恐怖から侮蔑に、罪悪感から被害者感に。あれほど一切が乱れに乱れていた心が、急に冷えてきた。

 すん、と背筋の伸びる感覚。朱音はその感覚に任せるまま、膝や肩の痛みに耐えつつ直立する。穴掘りに用いている間に襲われ、取り落としていた長剣を、痛みに食いしばりながら拾い上げていた。

 ようやく、絡まった木の根交じりの地面から手鎌を抜き取ったマゴットは、「悪」を滅ぼすべく朱音に目を向けた。だが、狂奔していた彼の心根は、その「幽鬼」のうって変わった調子に、急にたじろいだ。

 「幽鬼」はいつしか、全く訳の分からぬ、しかし確かに媚び諂うかのような、屈しているかのような態度の色をすっかり失っていた。黒い乱れた長い髪の毛にぞっとする白い肌の間から、赤い瞳でこちらをねめつけている。

 そしてその口からも、もう惨めそうな訳の分からぬ言葉を張り上げることもしていない。代わりにブツブツと、小さいが、しかし確かに何か呪詛めいたものを込めたような、正しく「幽鬼」らしい何かを紡ぎ始めている。

 マゴットの身体が、不意にも次第に震えはじめていた。

 第一、相手は自分より倍近い背丈を持っていたのだ。狂いながら手鎌で斬りつけている間には、どこか意識の外に置いていた事実に今更ながら気づく。それが今は直立して、己を見下ろしている。

 最初に遭遇した時点で何か穴を掘るのに用いていたのは、鋤でなかったのだ。長剣だ。刃渡りは自分の背丈よりも長い。それを肩を痛めつけたはずの右側の手で、負担の様子もなくしかと握りしめている。

 おかしい、「善良なる」自分は、ついさっきまで「悪」を、この「幽鬼」を懲らしめている最中ではなかったのか?おかしい。どういう吹き回しだ?

 全くの疑念に浸る間、体の震えはいよいよ止まらなくなってきた。

 やはり、この「幽鬼」の小さなブツブツ声には呪いが籠っているのではないか?そう思い込んでしまったことで、さらに震えが激しくなる。

 「───────い」

 マゴットに意味は通じないが、それは実に「呪詛」の言葉であった。

「キモい」

 朱音の側もそれを心中で連鎖していた。

「キモい、キモい、キモい、キモい、キモい、キモい」

 その心中の連鎖が、朱音の意識を殺意で埋め尽くす。それは、先ほど「イークの穴倉」の第一階層の間、「くいつき」という誤算に出会うまでは成立していた「害虫退治」の欺瞞を、しかしより一層強固にする呪詛なのだ。

 やがて、その心の反芻が決壊するように、朱音はその罵声と共に躍り出た。

 

「『キモい』のよ!この『どん百姓』お!」

 

 イオアンナから付け焼刃にも学んだ基本的な剣技が、吸血鬼としての膂力が、そして〈烙印者〉としての本領が、朱音の身に帰ってきた。殺意と共に。

 大上段からの振り下ろし───マゴットから見れば、背丈倍近い相手から繰り出され、その背丈よりさらに見上げないと、目に捉えることのできない、死角に満ちていながら、殺傷力の高い一撃。

 それがマゴットの右肩に食い込む。応報のように。

 背丈半分の男の手鎌の振り下ろしは、背丈倍の女の肩の筋腱を傷つけるだけで終わった。だが、背丈倍の「女吸血鬼」が腰をしかと落とし放った渾身の長剣の振り下ろしは、背丈半分の男の肩を裂き、そのまま腕まで切り落としてしまった。

 マゴットは、勢い付いた何かが己の頭部の横を、かすめたと思った。

 それだけで済んだと思った。しかし急に体がぐらついて、違和感に気付く。これまでに取れていた身体のバランスが取れない。

「あ……へ?……」

 それでも己が身に何が起こったのか分からないマゴットは、口からそう疑問の吐息を漏らしながら、急に軽くなったような「右」のせいで相対的に重くなった「左」に倒れ込みそうになり、左足を踏ん張った。

 しかし、足腰はともかく、上半身がさっきから重心を把握できない。反射的に大きく振り上げた左腕の勢いに全身が乗ってしまい、マゴットは右に倒れ込んだ。

 びちゃり、と言う音と共に。いつの間にか倒れ込んだ先に水たまりか何かができていた。随分と赤い水溜まり。倒れ込んだ目に入って、視界を遮る。

 左手で目をこすって辛うじて視界を確保しなおすと、その先には手鎌を握ったままの己の右腕があった。当然だ。右にある者だから右腕だ。

 しかし随分と離れたところに右手があるものだ。自分の右腕はこんなに長かっただろうか?

 そんな感想で、己が血の海に沈みながら、マゴットはふと上を見上げる。

 「幽鬼」が、己が懲らすことで己の「善良なる」故郷への帰還をもたらすはずの「悪」が屹然と立ちはだかっていた。

 そこで、農夫マゴットの思考は停止した。

 

 

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