右腕の切断、それに伴う大量の出血を止める術を持たない。
マゴットが朱音から受けた一撃は、論ずるまでもなく致命傷に至っていた。このまま放置すれば数分も持たずして、この小男は無残に命を失うだろう。
だが、朱音の心底から湧き上がった殺意は、それだけで済ませることを許さなかった。
「キモい!キモい!キモいのよ!この『蛆虫』野郎!」
哀れに己の血の海にうつ伏せに沈み込み、物言えぬ状態になった小男を、朱音は憤怒と共に強かに蹴り上げた。さながら、不貞腐れた子供がむしゃくしゃ紛れに手近なものを蹴り飛ばすように。
「この『どん百姓』が!」
「キモい」「どん百姓」──それは、今の朱音の基準にとってはイークの穴倉の「害虫」にすら劣る存在に思えた。故にそれに与える害意は、それ以上でなくては気が収まらない。
朱音は長剣の刃を真下に振り下ろせるように握りしめた。
蹴り上げで仰向けにされたマゴット。失血はさらに著しく、意識が薄れ、痙攣を見せ始めている彼に向けて、
「キモい!」
という言葉と共に一突きを見舞う。狙い定かならぬそれは左肩に突き刺さった。
怒り冷めやるどころか、さらに内に渦巻いて憎悪を増幅させた朱音はさらに叫ぶ。
「まともな言葉をしゃべりなさいよ!糞チビ親父!キモい!」
さらにもう一撃を突き下ろす。手首のひねりが図らずも効いた二刺し目ははらわたを抉った。
怒りは留まるところを知らない。最早、「くいつき」を食らった罪悪感は興奮と報復の念に吹き飛んでいる。
「飼い犬一匹殺されたからって、話も聞かずに物騒なもんで斬りつけてくるんじゃないわよ!しわくちゃのドチビ!キモい!キモい!キモい!」
三度目の突き下ろしは股間に突き刺さり、陰茎を裂いた。
ひたすら執拗に追い立てる追撃は、圧倒的苦痛をもたらし農夫マゴットの命の灯を突風で吹き消すかのようである。
しかし、ホビット、あるいはハーフリングと呼ばれる種の性質が──一般に知られる「人間」より背が低い分、強健な生命力を持つと言われるその身体が、皮肉にもまだこの小男に死を許さなかった。
苦痛と失血によるショック死にはまだ至り切らず、農夫マゴットは痙攣と弱く風切る呼吸をしながら、まだ辛うじて生きていた。
計四か所の裂傷それぞれから、動脈からの鮮血が流れる。霧のように吹き出る血も、ホースの口からあふれ出す血も、ただひたすらに鮮やかだ。
怒りに狂乱する朱音が、それをふと見つめる。急に物言わぬ感想が心の中で溢れた。
ああ───「きれい」だ。
先ほどから連呼した「キモい」と同様、端的で安直であり、それでいて真逆の感想。それはより単純な本能に根差したが故か。
不思議だと首をかしげたくなる。こんなに気持ち悪い、皺皺の「蛆虫」野郎から吹き出すものだというのに、有り得ないほどに「きれい」だ。
さながら、吐瀉物や排泄物だらけの肥溜めをひっかき回してみれば、全く脈絡なく数カラット以上の宝石の数々が無数に混じり、光を浴びて輝いているかのような、それほどの理不尽さと驚きがあった。
畢竟、それは朱音が吸血鬼の新生子であるがゆえの本能であった。相も変わらず、未だ己が吸血鬼となっていることに自覚の薄い上に、数々の感情の乱高下により論理的思考の麻痺しきった彼女には、なお内省できぬことである。
そして、そんな「きれい」なものを見て、必然、吸血鬼の本能からの欲動が、朱音の「腹の底」から湧き上がる。
───喰らいたい、貪りたい。
もう先刻までの犬に対する罪悪感は、血を啜るという嫌悪感は、怒りと興奮に消し飛んでいた。吸血鬼の本能は足りない、先刻の犬ではまるで足りなかったとせき立てる。
己の本能を抑えることが朱音にはまたもや叶わなかった。足元の血の海に沈んだ壮年の小男を、大きな人形のように抱き抱えた。最早、その洋服が、防具が血に塗れることは顧みない。
息も絶え絶えで、今や視界もぼやけてきたマゴットが抱いた感触は、己のみが宙に浮いたかという曖昧な実感のみ。その浮遊感を、彼は、死に瀕した己への何らかの救済の御手がもたらされたと、一瞬、全く都合の良い解釈をした。
だが、それは即座に裏切られる。
これまでの刺し傷とはまた一種異なった苦痛が、己の頸筋に走った。
神経を、脳髄を直接搔き回されるような痛痒たる一撃と共に、遂に農夫マゴットの命は消え去った。
いくばくか失血した小男の骸から、朱音は血を吸い、貪る。
吸血鬼の新生子となってから、本能に駆り立てられての、不意なる二度目の吸血。
その屍に残された、農夫マゴットの本質を、魂魄を、朱音は口につけた。そして飲み込み、嚥下する────
──冷めたスープを思わせる感触なのは、もう既に絶たれた命であるがゆえか?いや、それだけではないように思えた。
何なんだ、これは。朱音は、そのえも言われぬ味──舌が告げる、くどく下品な苦みのある味に──ありきたりで、どうしようもなくつまらないものを感じていた。
あの「くいつき」とかいう白犬の方が、よほど美味かったなあ──本能が、吐き捨てるように感想を告げる。
そうだ。あの犬は実に真っ当で純真で──悪く言えば犬らしく無知であったがゆえに、その記憶も、思考も、さっぱりとした味わいがあった。
省みて、この小男の血は、本質はどうだろう。
ああ、まさに「どん百姓」だわ──
朱音は、先ほどからの歯に衣着せぬ語彙で、まさしくそう思い浮かべる。
この小男の記憶そのものが告げてくる。生まれ育ったその時から、どこまでも卑屈で、そのくせ内側では尊大だったことを。
その一生の九割方は、厄介で面倒で、臭く汚らしい農作業の繰り返しに費やされていた。その間、さほど大きくもない田舎州からほとんど一歩も出たことがない。
稀に作物の換金か交易か何かで、どこぞの「大きな人」の町に繰り出した時も、小突かれ、蹴飛ばされ、侮られる。そんな無様な扱いを受けながら、へこへこと頭を下げ、それでいて腹には一物抱えたまま。何の論拠もない道理で己を慰め、道徳において己が正しいから、己が勝っていると、そう自分に言い聞かせ続けていた。
同じ村落の中でも「御大尽」に侮辱と共に弄られ、叩きのめされる日々。自分にとっては益体もない労役に駆り出され、些細な失態で拳を見舞われる。それでもへらへらと笑ってご機嫌を取ろうとする。
そして裏では、やはりブツブツと、己が正しい、なぜならば己は真っ当で「善良」であるからだ──と、根拠のない自己欺瞞を繰り返す。
小男は、そうやって、辛うじてようやく「自作農」になれた。妻帯者となり、子を何人か設けた。
なるほど、そこだけ見れば立派なものだ。だが、その卑屈な精神の発露は、今度は家長として、亭主として、己より下にいる存在へ向けて、何の呵責もなく振るわれる番になった。
己の妻を、子らを、新たに雇い入れた下人らを殴る蹴るは日常茶飯事。時には精神的にも辱めて、それで、かつての己がにやつくしか出来なかったのと同じように、彼らが振る舞うのを心から堪能する。
「くいつき」を含めた中型の犬三匹──彼と同じ種族にとっては、ちょっとした小馬ほどにも感じられる大きさの犬を飼い慣らしたのも、実のところ、己の箔付けと、周囲に対する実際的な威嚇のために他ならない。
この農夫は、そんな犬達がもたらす社会的な、そして物理的な威力を愛していたのであり、犬そのものに愛情や感謝の気持ちを抱いていたわけではない。だが、その区別を自覚することもなく、ただ「善良なる」自分の当然の権利だと信じて疑わなかった。
犬達は「善良なる」己にようやく得られた、全く正しい力であり、それが従い、己が行使するのは正当であると、ただ信じ込んでいる。そんな驕慢だけがこの男に心中にはあった。
知らぬは、忠実な犬たちばかりなり──そんな幸せな誤解のおかげで、あの犬の血は、あの記憶は、かくも澄んでいたのか?朱音は憮然たる感想を過ぎらせた。
そして、小男は日頃から貪っていた。飯を、特に大好物の茸を。毎日のように。
家長としての特権を行使し、真っ先に据え膳に手をつけ、家族を省みることもなく食い尽くす。
今の屍こそ、生前から痩せぎすではあったが、この男が農場で働く様の見栄え自体は、もっと恰幅がよかったらしい。もっとも、その姿はその姿で、朱音には唾棄すべきものが込み上げてくる。
───────
ああ、もういい。沢山だ──絵に描いたような「どん百姓」の有様ばかりじゃないか。
そんな食傷で一杯になった朱音は、噛みついていた小男──農夫、マゴットの頸から牙をむき出した口を離す。ボロボロの屍を手放し、地面に任せるまま取り落とした。屍は再びその血の海に沈んだ。無論、そうされても今や一言半句の文句も言うこともない。
朱音の本能が告げる──ようやく腹は膨れたが、不愉快きわまりない泥水のような味わいだった、と。
彼女の自意識もまた、「まったくだ」とその本能の評価に率直に同意していた。
自分でも信じられないほど、その心は冷めきっていた。
犬を、あの「くいつき」を殺めたことを自覚した時には、あれほど動転し、嘆き、自己の罪悪感に蝕まれて静かで呆けたような狂気に陥っていたのに。今、こうして二度目の吸血鬼としての食餌を成した今は、何の負の感情も、正の感情も湧かない。
ただ、つまらない餌食で腹は一応に満ちた。そのちょっとした満足感だけである。
この期に及んでみれば、自分はなんてくだらないことで、あれほど無様に取り乱していたのかと、むしろ羞恥心すら湧いてくる。それは、先ほどまでには、弔ってやろうと手づからにしていたはずの「くいつき」の死体を見ても何ら変わらない。
むしろこんな血塗れの小汚い犬の死体を、どうして自分はわざわざ持ち運び、こうして辺境の地の『外郭』を彷徨っていたのだろう?そもそも問答無用に噛みついてきた点では、全く主人に似た迷惑者だったではないか。
私は馬鹿か?それとも阿呆の子か?そんな感想すら、無言の内に抱くようになっていた。あれほど己を急き立てた罪悪感も、犬と主人の間の誤解に溢れた結びつき、その茶番に白けて塵に消えていた。
今の朱音がかろうじて驚いているのは、もはや自分のこの無感動ぶりただ一つだけだった。
ふと、周囲を見回す。この小男との「取っ組み合い」の間に、とうに日は落ちきって夜となっていた。
無論、吸血鬼たる彼女の赤い目に映るのは暗闇ではない。確かな視界、辺境の地の「外郭」の森の淵の確かな風景ばかりである。冷たい夜風が、いっそ心地よい。
夕方の日光を遮っていた雲は、いくばくか薄まったが、未だに月にも星にも朧にまとわりついている。しかし、その雲がもたらす淡い輝きこそが、変異前の人間であったときに見た天体の数々よりも、遥かに美麗な、白黒逆版の水彩画のような光景を、朱音の眼に見せていた。
イオアンナに諭されながら辺境の地の内郭を歩いている間には、俯いてばかりで見逃していた夜空。
知らなかった。いや、ようやく気付いた。例えこの身が、イェンダーなる存在に呪われた〈烙印者〉となろうとも、吸血鬼となろうとも、確かに美しいものは美しいものと感じ取れるのだ、と。
その感動が、嘆くばかりであった記憶を、これまでの百回は無様に繰り返した死の苦痛を、わずかながらも濯ぐようだ。
一方で、その美麗な光景を見つめている間に、酷い郷愁の念にも襲われる。
呪われる前──現代地球、大日本帝国、大都会岡山で過ごした平穏な日々。今、己の得てしまった異種の知覚こそが、それらと確かに遠く隔たってしまった証左に他ならないことを、不意に自覚してしまったためだ。
しかし、その嘆きの色合いはもう薄い。ああ、そうか──と、腹には諦念という名の重しがのしかかり、一方で頭だけは飄々と翼で浮いているかのようだった。
羽津朱音は逝き過ぎた。
死を重ね過ぎたのだ。苦痛と絶望の中で狂気に見舞われたせいで、数こそ数えきれていないが──恐らくは百を超える程の死を。
本来ならば、ただの一度で十分なはずの死を重ね重ね受けた。それがもたらした狂気こそ、イオアンナの「荒療治」に癒してもらったものの、味わった記憶だけは拭えない。それが、かつて当然であったはずの平穏というものが、実のところもう、心底信じられなくなっているのだ。
そして、羽津朱音は同時に行き過ぎた。
イオアンナから、いくつもの倫理を逸脱した術を学んでしまった。
「害虫駆除」をやっているつもりの間は欺瞞の内にまだいられた。だが、犬を殺し、「人」──と認めるには、色々思う所はまだあったが──を殺して喰らった今、気づいてしまった。命というものは、かくも軽く、そしてお粗末なものであると。
こんな思考と行動原理を得てしまった者が、今や現代地球に、大日本帝国に、大都会岡山に安穏とした生涯を送ることが許されるだろうか?そもそも自ずとそうしていられることが可能なのだろうか?
無理だ。自分のことをそう断言する。
(鉄獄へ向かえ。『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え)
そうして入れ替わるように、あの時以来の呪いの声が、「イェンダー」の声が脳裏に響き渡る。
ああそうだ、ひょっとすれば「サーペントの瞳」とやらを得れば、そんなことも、あの日常に戻ることも可能なのかもしれない。どうやらそれは万能の何からしいのだから。
しかし、それも恐らくは無為なことだ。
無数の孤独行の中で死の試行を繰り返し、万が一か、億が一か、はたまた兆に、京に一か?とにかくその果てに自分が「サーペントの瞳」を得たとして、その時の自分は、まだかつての日々を欲しがるだろうか?
それは例えるならば、成人した者が、自分が赤子の頃に愛着を持って弄んでいた玩具のように過ぎない。それは郷愁であっても、執着の対象には決してならないのだ。
だから、元に戻りようがない。
赤子の頃に、子供の頃に戻りようがないのと同じように。今の自分は、父と母の下に、親友の杏と京子の下に戻ることはできない。さようなら、ああ、さようなら。
────しかし────まあ案ずることはない。どうやら自分はあながち孤独でもないらしい。
〈烙印者〉として、成すべきこと自体は独りでなさねばならぬ。だが、同じように孤独行を目指す無数の者がいる。今の自分にとって誰よりも惹かれる、偉大なる彼女がそれを教えてくれた。
「イオアンナ様……『先輩』……」
あの人が語ってくれた通り、これから自分はまた無数に死ぬことになるだろう。
今でこそ、犬ころや「キモい」小男の相手だけで済んでいる。だが「鉄獄」の混沌の淵からさらに奥底に進むにつれ、〈烙印者〉はさらに恐ろしく、悍ましい怪物たちを相手にしなければならないらしいのだから。
また、いくつもの苦痛を味わう羽目になるだろう。また、いくつもの絶望に浸ることになるだろう。
多分その中で精神を摩耗させて「忘却界」とやらに至り、「サーペントの瞳」に到達できる前に、存在そのものが消えてしまう可能性の方が、ずっと高いのかもしれない。
でも、それはかつての自分の運命と、それほど違うところだろうか?
元の地球、大日本帝国の大都会岡山民だった自分も、あのままの日々を過ごしていたら、平穏に結婚するか、独身のままか、働くか、子育てをするか、それを何十年と繰り返して年老いて死ぬだけだっただろう。それと今の、殺して殺されるか、食って食われるかの日々と、実際の所、それが己の成すべきことであるという点でどれほど違うことだろうか?
全く別の日常だ。だが、日常を生きるという点で、全く変わらない。
平穏な現代日本人の日常から──〈烙印者〉の吸血鬼の日常に変わった。それだけなのではないか?
「蛆虫」の返り血を浴びた普段着の上に安い防具──酸鼻な恰好をしたまま、夜空を見上げ続ける。
そんな取り留めのない、されど己の余りに多い──逝き過ぎて行き過ぎた出来事を黙したまま思いめぐらす間に。
(鉄獄へ向かえ。『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え)
羽津朱音は〈烙印者〉であることを、吸血鬼であることを、ここにようやく受け入れた。
───────────
──────
───
両名の再会は、双方の予感と僅かな既視感を伴いつつも、それでいてすんなりとしたものであった。
〈烙印者〉同士の時空的な引力というものは、おおよそそんなものであることを、イオアンナの方は以前から知っている。
しかし、その再会が「辺境の地」ではなく、別の時空の結節点である「モリバント」の地であったことは、彼女にとっても意外であった。
吸血鬼が逍遥するに相応しき、三日月よりなお細い爪のような月明かりの下。モリバント市の中央にある名所、巨大な噴水の前で。
イオアンナ・ゾフィ・ラストゥラキスカは、確かに羽津朱音の姿を見た。
幻覚でもなければ、人違いでもない。
あまりにも無骨で不釣り合いな鎖帷子をまとい、髪を畳み込んで角つきの兜に収めている。北欧調の片手剣を帯び、木製の丸盾を提げている。現代日本人の短大生らしい服装は最早見る影もなく、かと言って女バイキングと呼ぶにはどうにも体格は貧弱で心もとない。
そんな朱音の姿を確かに認めながらも、念を押すように問いかけた。
「あら?……本当に朱音なの?」
答えは、ごく当然のように返ってきた。
「は、はい。お久しぶりです、イオアンナ様……ようやくまたお会いできました……『先輩』」
緊張を残しつつも、感慨深げにはにかむ朱音に、イオアンナもまた微笑を浮かべる。
「御免なさいね。正直、付け焼刃に教えただけでは無理筋かなとすら思っていたのよ。後から、あれも教え足りなかった、これも抜けていた、と色々心配していたのだけれど、思った以上に上手くやっていたのね」
「ええ、その、はい、自分でも驚いているくらいです」
「それで、あれから何回死んだの?」
傍から聞けば、余りにも剣呑で意味不明で、それを差し引いてなお縁起でもない問いかけ。しかし、殊に〈烙印者〉にとっては、実に意味の通じる挨拶のようなものである。
その挨拶に、朱音は自然と答えた。
「ええと、多分……二十四回くらい……ですね。ようやく『辺境の地』からここまで遠出を覚えたくらいでして」
その声色には、げんなりするほど幾度となく骨を折った疲労困憊こそ籠っていたが、かつての苦悶と絶望の色はなかった。
イオアンナは、愛娘の成長を感じ取ったような喜びに包まれると、無言のうちに朱音を抱き寄せていた。
───────────
朱音は感嘆のため息をついた。
相変わらず、自分には恐れ多いほど荘厳な一室だった。
モリバント市内からもワームホールをもって通じている、イオアンナの「我が家」。
彼女自身が最も親しんでいたという城の私室を模したその場へ、朱音は再び案内されていた。自分もようやく〈烙印者〉として板についてきたのだと思う一方で、大都会岡山の一市民たる性根もまた拭いきれていないことを、こういう場では自覚させられる。
「あなた、酒は飲めるわよね?」
イオアンナは、上等そうな古びた瓶の赤ワインとグラス二脚をサイドボードから持ち出し、歓待の準備を進めてくれている。
「あ……はい……」
朱音は反射的に返事をしたが、過去の過ちが脳裏を過ぎり、微かに眉をひそめながら唾を飲み込んだ。
思えば、自分が今こんな身になってしまったのも、あの夜、大学の飲みの帰りに酒量を誤り、ひどく酔ったままダンプに轢かれた失態が始まりである。
それを思い出して、躊躇いの心は湧いた。が、もう今となっては詮無きことでもある。
ましてや、自分の偉大なる「先輩」が、当時の自分では口にするどころか、目にすることすら憚られそうな高級品を勧めてくれるのを、断る道理もない。
グラスに注がれる、色濃く鮮やかな深紅の液体。
全くの作法上の慣例として、イオアンナが先に一口含んだ後、差し出されたグラスを朱音は受け取る。二人はグラスを軽く合わせ、小さく音を鳴らした。
「新しい〈烙印者〉の前途を祝して」
イオアンナがそう言ってくれる様子を、朱音はじっと見つめる。相変わらず美しい人だと、見惚れながらも、失礼にならぬよう意識を向ける。
「……ありがとうございます。お互い、いずれ『勝利者』となれますように」
その返事が、イオアンナをさらに上機嫌にしたようであった。
高級品に偽りない芳醇な香りと味を確かめながら、二人の間に、ようやく落ち着いた積もる話がほどけ始めていく。
───────────
「まず、私の案内した『辺境の地』の内郭民とは、上手く取引できたのね?」
「はい……その、イベリさんとか……びっくりしたせいで失礼な態度を取ってしまったお相手もいましたが、多分、概ねは受け入れて貰えたんじゃないかな、と。無論、今でも『死に戻り』する度にお世話になっています。はい」
「ふふ、まあ流石にゾンビや骸骨が平然と『内郭』の住人にいるとは思わなかったでしょう?向こうも、そんな反応をされること自体には大概慣れているから、気にすることないわ。そうね……ただ、教えた住人の中でも、ヒュイモグのご機嫌だけは間違っても損ねないようにしておきなさい」
「何か、特別なお人なんですか?」
「そうよ。鷹揚な古ウルクの末裔だし、あなたみたいな子があの男の逆鱗に触れるような真似はしないでしょうけどね。『辺境の地』を今の秩序ある形に築き上げた功労者で、今も都市の実質的支配者の一人なのよ」
───────────
「私が、あの二日の間に即席で教えた剣技も、少しは役に立ったのかしら?」
「はい、それははい。勿論でした!私がイークの穴倉で『害虫退治』をやる限りでは、自分でも驚く位に最初から上手く剣を振るえるようになりました、ただ……」
「ただ?」
「本格的に、自分よりも大型の獣や……その、戦いに慣れているような相応の熟練の相手には、やっぱりまるで通じなくって……さっき、お話した二十回以上の『死に戻り』のうち、半分くらいはそんな、どうしようもならない力負けばかりだったような感じです……正直、めげそうです……」
「まあ、そうよね。少なくともあなたの資質は、同格の相手に真正面からやり逢える感じでないわ。正々堂々とかそんな馬鹿みたいな真似はせずに、とことんせこく、狡猾に行きなさいな。今回も、一緒に居られる時間はそこそこありそうだし、また色々と手ほどきしてあげる」
───────────
「そう言えば、あなたも『我が家』を確保することは出来るようになったのかしら?」
「ああ、はい。いくらか〈烙印者〉として『結節点』を見回るようになる間に、やっとこう、『我が家』の入り口を見つけて、入る事が……」
「このモリバントの地でも入り口はもう見つけた?」
「はい」
「そう、じゃあ今度は私があなたの『我が家』にお邪魔していいかしら?せっかくだから、早速にでも」
「……いや、いいえ……止めておきません?私の実家の私室だった和式の八畳間……そのまんまですよ」
「あら、それなら余計に拝見してみたいわねえ………」
「いえ、勘弁です。お願いです。大日本帝国の平民の部屋なんて見たって……」
───────────
「なんか、まだ〈烙印者〉として十分に食らい尽くしていない間に、ちょっと『階層』を油断して深く潜ると、見た目はただの猫にしか見えない相手に、引っ掻き殺されました。それも三回くらい……」
「ああ、それはただの猫じゃないわ。れっきとした〈滞留者〉よ。名前は『フリージア』っていうの……そうね、正直なことを言えば、私も一度だけ喉を引き裂かれて、不覚を取ったことがあるわ」
「……先輩もそういうことがあったんですか」
「それはそうよ。私にも〈烙印者〉に成りたてだった頃の不慣れな時期があったわ。『死に戻り』したばかりで相当身体がなまっていて、元の感覚にまるで追いつけない時期は、本当に苛立ったわよねえ」
「あの猫、見た目だけは、今思い浮かべても本当に可愛らしいんですけど……」
「そうなのよねえ、本当、小憎らしい程に愛らしいのよねえ……」
───────────
誰それを殺した、誰それに殺された──かくして、殺伐とした話が日常の世間話のような調子で続く。
そんな中、イオアンナはふと、不覚にも失念していたことを思い出した。少し表情を固め、真摯な口調で朱音に問いかける。
「そう、いけないいけない。私、また当たり前のことだと思って、肝心なことを教えていなかったわね。……こう言われて、何か思い当たることはある?」
その問いかけに、朱音もまた、そういえばという調子で答えた。
「ああ、はい。その……吸血鬼の食事のことでしょうか?」
イオアンナは、悔やむように己が手を打った。
「色んなことを心構えしておきなさい、とあれこれお節介を焼いておいて、私は肝心要なことを教え損ねていたのを、すっかり忘れていたのよねえ……まあ、こうして平然としているんだから、結果としては自力で飲み込めたのでしょうけれど……吸血鬼に成りたてで、それを自覚するのは辛かったでしょう?」
頬杖を突きながら、溜息をつく。
「本当に御免なさいね。後から、あなたのことも含めて他の〈烙印者〉の同志たちに話したら、率直に呆れられたわ」
朱音は、心底申し訳なさそうな態度を取るイオアンナに、恐縮したように深々と頭を下げた。
「いえ、そんな……そのまま〈烙印者〉としての心構えも得られないまま、摩耗しきって消え去るより前に、イオアンナ様に助けていただいた上に、あれだけ手取り足取り教えていただいた身で、謝られても、その、恐縮に過ぎます」
「でもねえ。正直に言って、本当に今考え直すと、教えたことも全部ご破算にしかねない失態だったのよ」
グラスに残るワインを一気に飲み干しながら、イオアンナは愚痴るように続ける。
「人が先天的な要因と後天的な要因、その双方を併せ持って初めて吸血鬼に変異すること自体、確かに稀よ。でも、それにしても吸血鬼という存在が古来より数少ないのは何故か、分かる?」
「……はい、実際、それは体験した気がします」
「そうでしょう?まあ、まともに統計を取ったわけでもないし、取りようもないのだけれどね。まず、吸血鬼という概念そのものが行き渡っていない時代や社会で、そうなってしまった場合。吸血の仕方を知らない、そもそも吸血鬼になった自覚がない。本能や直感も行き渡らず、何を糧に食いつなげばいいのか分からないまま餓死してしまう、とか……」
思い悩むように首を揺らす仕草をするイオアンナ。
「逆に、吸血鬼という概念を伝承として予め知っていたとしても、なってしまった者がそれを受け入れられるとは限らない。古代中世ですら、同族喰いなんてのは洋の東西を問わず多くは禁忌であるし、近代を下れば猶更のこと……己が培った倫理と、新たに得てしまった食性との齟齬に耐えられなくなって、命を絶ってしまう。そういう個体も実際多いと思うのよ」
イオアンナは長々と持論を述べたうえで、朱音をじっと見つめた。
「貴方の場合、経緯が経緯なだけあって前者でもあり得た上に、後者は言うまでもない。まさに二重苦のままで置き去りにしてしまったようなものだと思うのよねえ……なのに」
さらにまじまじと見つめるイオアンナに、朱音は思わず目を背けてしまった。
「本当に何があったの?さっき再会したての時、あなたがあの時の羽津朱音その人なのか、ちょっと疑ったくらいだったのよ……」
朱音は天井を仰ぎ、強く目を瞑りながら呻る。
「んんん……それと言うのもですね……その、イオアンナ様が心配してくださった通りのドツボに嵌ったと言いますか……」
思い出すことと、心の整理に長い沈黙を要した後、朱音は一部始終を告げる。『くいつき』と『マゴット』のことを───
───────────
朱音がすべてを長々と語り終えたのち、その間じっと無表情のまま、ただ朱音を見つめていたイオアンナ。余りにも相槌が少ないので、果たして拙い自分の話が通じていただろうか、そんな不安を一時は過ぎらせた朱音であったが、
「あっ……ハハハハハハ!」
突如、堰を切ったように大笑いを始めたイオアンナに、朱音は取り乱す。
「え、その………あの…う…」
むせるほどの勢いで笑うイオアンナに、万一にでも何かあったのか、そのことを懸念した朱音は、戸惑いつつも手を差し出そうとする。だがイオアンナは、笑いをどうにか止めながら、手で心配しないようにと彼女を制した。
「いやね、驚きと笑いが収まらなくなってしまったわ。本当、もう……ハハハハ」
まだ溜まっていた息でも吐き出しきるかのように、もうひとしきり笑い終えたイオアンナは、率直に朱音を評価した。
「あなた、思ったより『私たち』側の人間だったのかも知れないわね……いや、博多浅野氏の末裔って言うなら、きっとアイツの血なのでしょうし、まあおかしくもないのかしら?」
朱音にはまだ理解し難い、全く独りよがりな納得に、イオアンナはうんうん、と何度も深々と首肯した。
「それにしても、『初めて』があの犬畜生と、あの『蛆虫爺』だったとか、中々に珍妙極まる例ねえ……」
「蛆虫爺?」
憮然と問いかける朱音に、イオアンナは首をかしげて問う。
「いや、あなた自身もそう罵倒しながら、アレのアレまでめった刺しにしたんでしょう? 『Maggot』と言えば現代ラテン語で『蛆虫』そのものじゃないの……まあ、千年生きてきた私からしてみれば、昔、医学の発達した東ゲルマン系から伝わってきた外来語みたいなもので、本当は『Larva』とかの方が馴染みあるのだけれど……」
朱音は、受験生時代の、現代ラテン語単語帳を必死にめくっていた頃を思い出し、ようやくその語彙に気付いた。それにしても、あの罵倒はたまたまだったのか、暗にそういう連想へ行き着いていたのか、今となっては定かではない。
ただ言えるのは、間違いなくあの時、あの瞬間は、あの萎びた小男が蛆のように「キモい」存在であったことだ。それは確かなことだ。
イオアンナは心底楽しそうにつらつらと語る。
「いやあね、他の〈烙印者〉同士の会話でも奴は……あの〈滞留者〉は『蛆虫爺』で結構通じるのよ。奴の地元の母語じゃ、何かいい意味があるのか、あるいは反転的に敢えて同じ悪い意味を名付けているのか分からないけれどね。どっちでも知ったことではなく、私たちにとっては『蛆虫』も同然よね、そうでしょう?」
そこまで言ういわれは……と、一瞬だけ良心が疼いたが、やはりあの最初の原体験は──奴の血から感じ取ったその本性は、確かに蛆虫そのものと言って差し支えないのかもしれない。
「まあ、そうでしたね」
朱音は結局、深く頷いた。
「しかも、私たち〈烙印者〉からしてみれば、一度遭遇するだけでもうんざりだというのに、『死に戻り』する度に何度かに一度は会う訳じゃない。あなたも過たずそうだったでしょう?」
そう問いかけられて、朱音は不意にも眉間に力を込めた。
そうなのだ。一度会って喰らって、それでも十分食傷気味なほどに不快な存在──それと、あれから二十数度の死を経る間に嫌と言うほど顔を合わせてきた。
イオアンナが当初教えてくれた通り、〈滞留者〉というのは──少なくとも、あの『蛆虫爺』のような下等な存在は、基本的に〈烙印者〉と違って死の記憶を引き継がない。
だというのに、会うたび会うたびに、あの「キモい」小男は寄ってきて、良くても訳の分からないうわ言を垂れ流し、悪ければ急に癇癪でも起こしたように襲い掛かって来る。
一切の無知ゆえだったとはいえ、罪悪感を抱いてしまったこと自体が、朱音にとってすら今や忌まわしい恥部に他ならなかった。
「本当に何なんでしょうか?あの『蛆虫』の『どん百姓』………」
ワインをグラスに継ぎ足しながら、イオアンナは苦笑を浮かべるように答える。
「『どん百姓』ねえ……どうあがこうと生まれ自体が、ブルガリアの寒村に過ぎない自分は自他共に認めざるを得ない言葉だわ……」
覆し難い差別意識が、敬意を払うべき恩人の無礼として刺さる言葉であったことに今更思い当たり、朱音は白い顔をさらに蒼白させる思いをした。
が、イオアンナは鷹揚にからからと笑って取りなす。
「ふふ、気にしなくていいのよ。私の吸血鬼としての千年の序盤は、我ながら忌まわしかったその『どん百姓』の性根から、如何に脱却するかに心血を注いだようなものなの。その臭みを抜き取った今となっては、ある種の勲章よ」
互いのグラスに二杯目のワインを注ぎながら、イオアンナは続けた。
「あの『蛆虫』の『どん百姓』の生まれ育った土地とか、その歴史うんぬんなら、他の生まれの近しい〈烙印者〉から聞いたことはあるわ。私自身もあなたも血を吸って感じ取ったから分かる通り、本当、心底につまらなく、くだらないものよ。そうねえ……」
イオアンナはしばらく熟考する仕草をすると、坐した椅子を引き、朱音に意図して近づきながら、問いかける。
「あなた、こんなことを考えたことある?『善い人だけの町や、国が欲しいなあ』なんて考え?」
どこか、からかうような笑みで顔を近づけたイオアンナに対し、少しだけたじろぎながら、されど問いかけに対して、素直な疑問が浮かんで、逆に問い返した。
「その『善い人』って、どういう人のことを指すのですか?」
それが全く望みの答えだったのだろう。イオアンナは再び天を仰ぎながらカラカラと笑った。
「そうよ、それよ!ちゃんと色んな『人』を見てきたのでしょうね?金持ちも貧乏人も、どの地方の生まれ育ちも、無論、外来人たちも……」
「ええ、それは、はい……」
大日本帝国、大都会岡山民からすれば、そう言われて思い浮かぶのが南の沿岸に広がる「金甲山特区」の様相である。
同じアジア系の主要たる、大明人、大越人、朝鮮人、満州人筆頭に、世界各国の白人黒人らもごった返している様子を幼い頃の社会科見学から見てきたものであった。
「『善い人』なんて言われたって、そんなものどう具体的に定義すべきか分かったものじゃないわよね───同じ種族?民族?氏族?……それとも言語?仕草?……あるいは、宗教?倫理?慣習?社会体制?どれも無数にある上に、さらに無数のかけ合わせが、私たちの生まれの地球にも、それ以外の多元宇宙に絶えず生まれ続けているわ」
「ええ……それは仰る通りで」
急に壮大な話になって、動揺する朱音。
「貴方は生まれつきそれが分かる育ちをしているから、そう答えられるのよ。でも、そうではない者もいるということ。生まれ育ってから、一つだけの身体的性質、一つだけの普遍的精神、それだけしか知らない。それが以外が存在することも知らない。仮に知っても、それを心底に受け付けない。世界には無数の『局所的最適解』があって、それで十二分に回っていることを知らず、ただ己とそのほんの周囲だけが『絶対唯一の解』と信じて疑わない者達……」
イオアンナは、心底冷ややかな笑みをもって告げた。
「それが、あなたも感じたあの『蛆虫』……『どん百姓』の本質よ。かく言う私も、ブルガリアの寒村でまだ『人』であったつもりの頃は、そうだったというわけ」
朱音は、そう言われてぞっとするほどの納得を覚えた。
あのマゴットの血の、本質のまずさが、己の知る大日本帝国の「裏側」の一部の民衆──いわゆる『どん百姓』どもと、大同小異のものに思えた。その理由が、確かに「先輩」の説にあったのだ。
「翻して言えば、ね……」
イオアンナが、朱音に頬が触れそうなほど身を寄せる。ワインの香りも相まって、蠱惑的な雰囲気を漂わせながら。
「私は、ひょんなことで血を吸われたショックで『吸血鬼』になってから、むしろ『人』になれたのよ。だから、貴方もこれからも『人』であり続ければ良いの。日々の暮らしが、学業を修めて日銭を稼いで、あるいは婚姻する形から……殺して殺されて、『サーペント』の瞳を得て『勝利者』となることを目指す。そう変わっただけ……それだけよ」
その言葉が、〈烙印者〉であると同時に吸血鬼ともなった「後輩」への、この上ない激励であることを、朱音は感極まるように受け入れた。
しかし───
そんな純然たる好意とは別に、急に、余りにも卑賤な欲望が朱音の中で密かに滾ってきた。
仕方がないではないか。美しく偉大なる「先輩」にこうも近寄られては。
当初、訳の分からない狂気と絶望の中で塞ぎ込んでいたあの時、実のところ確かに感じ取っていた、被虐的快楽が。あの「荒療治」の忘れがたい感覚が、急に脳裏に立ち戻って来る。
「ありがとうございます……イオアンナ様……『先輩』……」
潤んだ目で、確かに感謝を込めてイオアンナに答える。だが、同時に敢えて露骨なしなを作り、己のうなじに手を添えて、首筋をあからさまに晒す。
そこには、あの日の二度にわたる噛み痕がきっちりと残っていた。
例え如何なる著しい身体の損壊を経て死亡しても「死に戻り」をする〈烙印者〉であるはずの身にくっきりと残るようになった傷。それは、〈烙印者〉自身がしばしばそれを己自身のものとして受容してしまった結果に残るものだ。
「ああ、それにしても、振り返れば、本当に『先輩』から離れてからも、二十数回も『死に戻り』したのは大変でした。本当にしんどかったです。辛かったです。ああ、できることなら、一時でもいい、あの苦痛を忘れてしまいたいなあ、と、そう思ってしまうことがあります。あります」
実に下手くそな誘いだと、イオアンナは内心で嗤う。しかし、あの日の奇妙な合意形成が健在であることは、イオアンナにとっても僥倖であった。
「ああら、それは大変だったようねえ。それならば、あの日に『人殺しの王子様』を思い願っていた通りに『荒療治』でもしてあげないと……いけないかしら?」
イオアンナは、朱音が晒した首筋へ瞬時に咬合を走らせた。朱音自身が意図して晒したものとはいえ、まさに目にも止まらぬ勢いである。
あの首筋からの虚脱感と強烈な快楽の前に、朱音はまた恐ろしいほど下品な艶声を上げる。
「んごほおおおおお!?」
望み通りのものを施された朱音に、それを抑えようという羞恥は一片もなかった。
一方のイオアンナはと言えば、
(ああ、流石に図太くなったせいか……味は格段に落ちてしまったわねえ)
確かな落胆の色は隠せなかった。否、流石にあの百回超えの理不尽な死という「不幸の甘い蜜」は、もう二度と味わえないのも仕方ないのだが。
(まあ、それもこれからよ、これから)
〈烙印者〉として、このまま順当に育てば、朱音はさらなる心折れる絶望を知ることになるだろう。
鉄獄のさらなる深層に住まう脅威──直截に一国家を一昼夜で滅ぼせるだけの巨獣、全く理解し難い、己が「人」に過ぎないがゆえに味わう宇宙的恐怖──そういうものに遭遇するたびに、朱音はその血を濁らせては、イオアンナにこれまでにない味わいを提供してくれるはずだ。
(その時は、もっと味あわせて頂戴ね──私の可愛い『後輩』)
奇怪な合意による交合は、その後数分続き──その後に残ったのは賢者の一時であったという。