ヴィーヤウトゥムノ伯国鉄獄覚書   作:松永闇斎

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間章 ~老人と巨人~

 老騎士レイオルンが愛剣を握りしめ、意気軒昂たる足取りで「門」を潜ったその先は、灰色の荒野だった。

 頭上には、淡く虹を帯びた薄明がひろがっていた。空なのか、天井なのか、それすら判然としない。少なくとも、レイオルンの知る天とは似ても似つかぬものだった。

 乾いた地は、見えぬ気流に掻き回されて砂塵を噴き上げ、遠くには岩塊を積み上げたような山々がうずくまっている。生あるものの気配は、どこにもない。

 なるほど、と老騎士は思った。

 これぞ「冥王」の座すにふさわしい。

 上古の伝承は語る。

 「冥王」は、かつて天上の真なる主イルーヴァタールに対して驕り高ぶり、その秩序を踏み躙った。のみならず、主の創造の御業を猿真似し、己が欲のために天地を造ろうとまで企てたのだと。

 ならば、この不吉な薄明も、この命なき地も、その僭上の果てに生まれた出来損ないの世界に違いない。まこと、「冥王」にこそ似つかわしい地獄──鉄獄ではないか。

 そして、冥王はこのどこかにいる。

 老騎士が討つべき巨悪は、いまなおこの荒廃の底に潜んでいる。

 そう信じることで、レイオルンは胸中にわだかまる薄気味悪さを押し殺した。歩みはなおも堂々としていた。

 やがて背後の「門」は、いつの間にか閉ざされていた。だが彼は振り返らなかった。偉大な使命を負う者にとって、帰路の有無など瑣末にすぎぬ。

 砂塵の荒野を、彼は進んだ。数千歩。

 進めども進めども、景色はほとんど変わらない。灰色の砂漠に、ときおり廃墟の破片めいたものが混じるばかり。頭上では、あの淡い虹色が渦を巻いている。

 老騎士は、自らの内に芽生えつつある不安にも、焦燥にも、気づかぬふりをしていた。

 代わりに彼は、若き日に古老から授かった詩句を、乾いた唇のうちで繰り返した。巨悪を祓うと信じられた言葉を。

「ア・エルベレス・ギルソニエル、エレン・スィーラ……」

 お前はいずれ巨悪を討つべき運命にある――若き日にそう古老から言い聞かされて以来、胸を躍らせつつ幾度も唱えてきた詩句が、老騎士の唇からはほとんど無意識にこぼれ出た。

「……イ・ヤーヴェア・ヤーヴィエ・ナー――メルメ・クウェーン、フェーア・トロン」

 唱えるうち、胸を占めていたざらついた不安は、潮が引くように静まっていく。

 呼吸は整い、足取りにもふたたび力が戻った。

 やはりこの詩句には力があるのだ、とレイオルンは疑わなかった。偉大なる力が。これと共にある限り、自分は守られているのだと。

 その確信を胸に、彼はなおも荒野を進んだ。数千歩。さらに数千歩。

 何十年も親しんできた詩句を、今度はひとり灰色の空の下へ向けて高らかに放ちながら。

「ア・エルベレス・ギルソニエル!エレン・スィーラ!マル・アー・マルコル!ラスタ!マル・アンナテール、トゥレ!」

 そうしているうち、どこを見ても変わり映えのしなかった荒廃の景色のなかに、ふと一つの異変が現れた。

 砂塵の向こう、遠くで金色の光が瞬いていたのである。

 その光は真っ直ぐに走っているようで、同時に、乱雑に跳ね回っているようにも見えた。定まった軌道を描いているのか、それとも気まぐれに揺れているのかすら判然としない。だが一つだけ確かなのは、それが次第に輝きを増しながら、こちらへ近づいてきていることだった。

 先ほどまで老騎士の胸を騒がせていたのは、不毛と孤絶そのものに対する薄気味悪さだった。

 だが今や、そのざわめきは別の形を取っていた。

 変化が訪れたことそれ自体が、かえって彼の喉をひりつかせたのである。

 それでもレイオルンは、胸中のうろたえを押し潰すように、ひときわ大きく詩句を叫んだ。

「ア・エルベレス・ギルソニエル!!エレン・スィーラァ!マル・アー・マルコル!ラスタ!マル・アンナテール、トゥレェ!」

 その時だった。

 にわかに、呼び返すような声が届いた。

 それは耳に聞こえたのではない。頭蓋の内側へ、いきなり叩きつけられるように響いた。

(そう何度も呼びつけるでない!……今すぐ、疾く参るぞ!)

 では、あの来たり来る黄金の輝きこそが、その声の主なのか。

 光は次の瞬間、老騎士を見定めたかのように一気に勢いを増した。

 視界の正面をまるごと呑み込むほどの眩耀が迸り、熱までが、荒野の冷えた空気を押しのけるように押し寄せてくる。

 このまま見据えていては目を焼かれる。

 そう直感したレイオルンは、とっさに顔をかばい、両腕の蔭へ視線を落とした。

 ずざり、と。

 重く巨大な何かが、二十歩ほど先の砂地へ降り立つ音がした。

 地はわずかに沈み、乾いた砂が低く鳴いた。黄金の輝きが弱まり、視界を阻むものがなくなったことを感じたレイオルンは、音の先に視界を戻した。

 伏せた視線の先に、まず脚があった。

 巨大な脚だった。

 黒革とも金属ともつかぬ鈍い光沢を帯び、ところどころに金細工を散らしたブーツめいたものに包まれている。

 いや、脚などという見立てそのものが錯覚なのかもしれぬ――そう一瞬思ったものの、レイオルンは息を詰めたまま、視線をそのまま上へと這わせた。

 漆黒から紫へとかすかに色を移ろわせる、巨大な衣が垂れていた。

 貫頭衣のようでもあり、外套のようでもある。だが老騎士の目には、それすら巨大な城門に掛けられた幕のように見えた。

 さらにその上。

 逆光の奥に、頭部があった。

 黄金の輝きに輪郭を灼かれてなお、それが疑いようもなく「顔」であることだけは分かった。

 初見の感覚は誤りではなかった。

 今、眼前に降り立ったものは紛れもなき巨人だった。

 もしその四肢と胴の比が人間と同じであるなら、その背丈はレイオルンの八倍にも届くであろう。

 そう理解したとき、老騎士の脳髄はもはや処理が追いつかなかった。

 恐怖ではない。もちろん安堵でもない。

 ただ、あまりに常識を超えたものを前にしたときにだけ生じる、感嘆にも似た空白が、彼の思考を根こそぎ奪っていた。

 巨人は、しばしその小さき来訪者を見下ろしていた。

 反応を待っていたのかもしれない。だが老騎士は、先ほどまで声高に詩句を唱えていた人物と同一とは思えぬほど、ただ呆然と立ち尽くすばかりであった。

 やがて巨人は、その体躯に似合わぬほど控えめに口を開いた。

 囁きにも似た低い声が、それでもはっきりと空気を震わせる。

「ああ……かようなる地に、いかな理由でお越しになられましたかな?ご老人」

 その背丈に似つかわしからぬ、静かで抑えた声音だった。

「あ、ああ……うむ」

 レイオルンは、ようやく呆けから引き戻された。

 だが返せたのは、己を落ち着かせるためだけの、ほとんど意味をなさぬ声でしかなかった。

 老騎士は、なお舞い荒ぶ砂塵にまみれた己の衣を払いつつ、ようやく落ち着きを取り戻した目で、あらためて巨人の姿を見上げた。

 黒と紫の衣は、長い旅路を経たもののように埃をかぶり、ところどころ擦り切れている。

 だが、その古びの下には、細緻な金細工がなお埋もれきらず、衣の内にのぞく黒鉄の鎧もまた、枯れながら朽ちぬもののごとき鈍い光を返していた。

 貧しさとも野卑とも無縁の装いだった。

 むしろ、いずこかの王侯貴顕を思わせる風格すらある。

 さらに目を上げれば、彼を静かに見下ろす壮年の顔があった。

 黒髪と顎鬚を堂々と蓄えたその相貌には、不機嫌とも憂慮ともつかぬ陰が終始差している。眉間の皺は深く、長年の風雨に打たれ、なお雷霆に穿たれた巌のようでもあった。

 だが、それらすべてを差し置いてなお、否応なく老騎士の視線を奪うものがあった。

 巨人の背よりなお高く聳える、黄金の槍である。

 その穂先には、赤とも青ともつかぬ光沢が絶えず渦を巻く。遠目に見えたあの金色の輝きの正体は、まさしくこれであったのだろう。

 巨人はそれを右手に握り、使い慣れた杖のように灰色の大地へ突き立てていた。

「もし、道に迷うてここへ来られたのなら、拙子めが帰路を見出す一助くらいはできましょうぞ」

 その言葉を聞き、老騎士はかえって眩暈にも似た心地を覚えた。

 明らかに己より巨大で、強く、そして恐るべき存在が、拍子抜けするほど丁重な態度を崩さぬのである。

 現実味が、一瞬だけ遠のいた。だが、胸奥に潜ませてきた意志は、今さら揺るがない。

 レイオルンは、自らの声が皺枯れているのを意識しながらも、この巨人が自然に放つ威圧に押し潰されぬよう、ことさらに強く名乗り返した。

「帰途など無用!我が名はレイオルン!忌まわしき『東胡』らの巣食うロンドッグの地にある『門』を潜り、この地に蠢く『冥王』を討たんがため、老骨最後の奉公として参った!」

 それを聞くと、巨人は眉間の皺を一瞬だけ深くした。

 だが次の瞬間には、また何事もなかったかのような、感情を覆い隠した顔つきへ戻る。

「左様か」

 まずは、それだけを短く返した。

「貴殿は知っておられぬか!?『冥王』の居所を!もし貴殿の厚意に期待できるのであれば、ぜひとも案内願いたい!」

 巨人は、老騎士の問いを静かに受け止めた。

「ご老人。貴方の求める『冥王』なるものに、拙子は常々いくつもの心当たりを持っております。されど、その心当たりが多きゆえ、即答はいたしかねる。貴方のいう『冥王』とは、いかなる存在ですかな。まずはそれを、拙子に語ってはいただけませぬか?」

 老騎士は、訝しさを露わにして声を張り上げた。

「異なことを申される!『冥王』とはただ一つだ!一切の諸悪の源であるがゆえに!」

 巨人は、またしても静かな口調を崩さずに答えた。

「貴方や、貴方の故地の人々にとっては、あるいはそうなのであろうな。されど、この地にあっては、事はそのように単純ではないのだ。ことにこの『鉄獄』の第百階層――数多の〈混沌〉の合流点においては、何をもってただ唯一の『冥王』とするか、即断する術がなくてな」

 老騎士は、苛立ちを隠そうともせずに問い返した。

「なぜだ!?」

「幾度そのまま問われようとも、拙子から返せるのは同じ答えだけである。ゆえに、手数をかけるようで心苦しいが、貴方のことをもう少し聞かせていただきたい。先ほどから大きな声で繰り返しておられた、あの詩句とも訴えともつかぬ言葉についてもな。それを語っていただければ、拙子もまた、貴方の求める『冥王』のもとへ、なるべく過たず導けるであろう」

 巨人は、体格差そのものを除けば、終始こちらを威圧しようとはしなかった。

 そのためか、老騎士の苛立ちはなお収まりきらぬまでも、いつしか相手の促しに応じる気分へ傾いていた。

 巨人は二歩ばかり後ろへ退くと、傍らにあった大きな灰色の岩へ、ずん、と腰を下ろした。

 眩く輝く黄金の槍を背に回して立てかけ、両手を膝の上に置く。

 そうしてわずかに身を前へ屈め、老騎士をじっと見つめた。

 いくらでも、じっくり聞こう――そう言わんばかりの目つきであった。

 その体躯にも風格にも、尋常ならざる力が宿っていることは疑いようもない。

 しかもそのような相手に、礼をもって遇されている。

 それが老騎士の自尊をかすかにくすぐり、いつしか彼の気分は、あながち悪くないものになっていた。

「うむ……よかろう」

 レイオルンもまた、手近な岩に腰を下ろし、巨人の顔を見上げて声を張った。

「我が名はイルソルンの子、レイオルン!自由なるミドガロンの地の盟主たる故国イゼンドールを、魔の手を伸ばす『東胡』どもから守るため!その主たる『冥王』を討つべく、この『鉄獄』へ至る門を潜って参ったのだ!」

 巨人は、その名乗りと動機を聞き終えると、しばし黙していた。

 やがて、吟味するように言葉を選びながら応じた。

「ふむ。貴殿の故郷を脅かす異民族、あるいは異種族がおり、その背後には彼らを扇動する首謀者がいる。そして貴殿は、その首謀者がこの『鉄獄』に在るものと見定め、第百階層へ直通する門を潜ってここへ来た――ひとまず、そういう理解でよろしいかな。ご老人」

「その通りである!今や首謀者たる『冥王』の悪意は各地に溢れ、まさしく危急存亡の時!

 ゆえに我は、滅びの地ロンドッグへの二月に及ぶ過酷な旅路を踏破し、この地へ通ずる『門』に――」

 そこから先、老騎士は数分にわたり、己が旅路と武勇と使命について、詩的情緒をふんだんに織り交ぜつつ語り続けた。

 巨人はその間、口を挟まず、ただ黙して聞いていた。ときおり小さく頷くのみである。

 ようやく老騎士の熱弁が一段落したところで、巨人はあらためて口を開いた。

「委細、承知した。祖国を救い、善をなさんとする貴殿の滅私の試み、その心根はまことに美しい――ところで。先ほどから貴殿が口にしておられる、あの言葉について伺いたいのだが」

 そう言って、巨人はわずかに視線の力を強めた。

「正直に申せば、こうして拙子が貴殿の前へ姿を現したのも、その言葉に引き寄せられてのことなのだ。なんとも耳に残る響きであってな。一体いかなる事態かと訝って、急ぎ参じた次第である」

 一つ咳払いをして、巨人は続ける。

「貴殿は、あの言葉を、それ自体に力が宿るかのように繰り返しておられた。あれは、いかなる意味と意図をもって唱えておられたのかな?どうか拙子めにも、ご教示願いたい」

 いよいよ恭順の態度を崩さぬまま、教えを乞うてくる巨人。

 レイオルンはそれを嫌う理由もなく、大儀そうに居住まいを正し、やおら立ち上がった。

 そして誇らしげに、あの詩句をいま一度、高らかに唱えた。

「ア・エルベレス・ギルソニエル!エレン・スィーラ!マル・アー・マルコル!ラスタ!マル・アンナテール、トゥレ!」

 巨人は表情こそ変えなかったが、わずかに首を傾げた。

 だが、その変化にも気づかぬまま、レイオルンは胸を張って言葉を継いだ。

「これは儂が若き日より古老から授かった、偉大なる詩句!偉大なる運命を負う者がこれを口にすれば、力は満ち溢れ、まつろわぬ『東胡』どもは恐れをなして逃げ出す!そのような力を宿した言葉である!貴殿が引き寄せられたのも、また必定であろうな!」

 巨人はまたしばし黙し、一度そっと目を閉じた。

 それから、概ねその説明を受け入れるように、穏やかに頷いた。

「なるほど。やはり確かに、引き寄せられずにはおれぬ言葉ではあるな――ところで、その実に耳触りのよい詩句について、本質の意味合いを、古老からあわせて伝承として聞かされたことはなかったかね?」

 老騎士は背を伸ばし、いっそう得意げに答えた。

「伝承とな?うむ、無論、あるとも!」

「それは僥倖。ならば、そこもぜひ拙子に聞かせていただきたい。貴殿の今語っておられる常の言葉とはまるで異なる、いかにも相応の古語とお見受けするゆえな。さて、どのように伝え聞いておられるのかな?」

 その問いに、老騎士はいよいよ上機嫌になった。

「これはつまるところ、このような意味を持つ!『おお、偉大なるエルベレス!光り輝く星よ!マルコルよ来たれ!アンナテールもまた馳せ参じよ!』――とな!」

 それを聞いた黒衣の巨人は、ふいにひとつ小さく咳き込んだ。この砂交じりの空気に、巨人とて咽喉をいがらせたのであろう。

 老騎士はそれ以上の感想を抱かず、得々として話を続けた。

「エルベレスとは、偉大なる星々を統べる女神である!その輝きは、忌まわしき夜闇を好む『東胡』どもに安寧を許さぬ!きゃつらはその名を耳にしただけで、力任せのうすのろも、無知な赤子すら震え上がるのだ!」

 巨人は左手を額へやり、眉間をつまむようにしながら、しばし上を向いた。

 それから、なんとか話を先へ進める口調で言った。

「成程、成程……それは、まあ、よく分かるとも。では、そこから続く『マルコル』と『アンナテール』――なる名の者らは?」

 老騎士は、その問いを待ちかねていたかのように、さらに熱を帯びて答えた。

「マルコルとは、エルベレスに創世の時より付き従う御子にして、最も強き戦士、かつその良人である!その力は、あらゆる闇を一撃のもとに粉砕するほど!『東胡』どもはおろか、『冥王』すらその勇猛には怯え竦むのだ!」

 そのとき、どこからか、ひどく下卑た笑い声のようなものが聞こえた気がした。だがあまりにか細く、砂塵の擦れる音に紛れて、結局は空耳にしか思えない。

 巨人はなお岩に腰かけたまま、狂気じみた色彩の渦巻く天を仰いでいた。老騎士は、きっと感じ入っているに違いあるまいと、老騎士は勝手に得心した。

「そしてアンナテールとは、エルベレスの娘!その美しさは母に次ぎ、勇者に偉大なる運命を授ける、星辰の『形』の担い手である!」

 それを口にした瞬間だった。

 老騎士の背筋を、今度は理由の知れぬ怖気がひと息に走った。

 まるで、見えざる何かに不意に視線を合わせてしまったかのように。冷えとも熱ともつかぬ異様な感触が、全身を一度に這いのぼる。

 すると巨人は、ふいに背後を振り向いた。その動きには、先ほどまでの沈着さに似合わぬ鋭さがあった。

 ついで、レイオルンにはまったく聞き取れぬ、低く唸るような声を短く発した。

 それは何かを叱責するようでもあり、押し留めるようでもあり、あるいは名を呼んで制するようでもあった。

 直後、老騎士を縛っていたあの奇妙な怖気は、すうと退いた。

 まことに不可解なことではあったが、喉もとを過ぎた熱のように、その異様さはたちまち彼の意識から抜け落ちてしまった。

 さて、自らの「教え」を聞いたうえで、巨人はいかなる態度を示すであろうか。

 きっと何か感じ入るところがあるに違いない――レイオルンはそう大きく期待していた。

 だが、巨人の反応は、その期待に沿うものではなかった。

 眉間の皺はいっそう深まり、どこか鬱々としたものを呑み込むように、静かに唸っている。やがて巨人は、丁重さそのものは失わぬまま、しかし明らかに困ったような調子で答えた。

「承知した……さて、どうしたものかな」

 老騎士には、なぜこの巨人が、かくも偉大なる詩句の話を前にして、喉に何か引っかかったような態度を取るのか、まるで分からなかった。

 ゆえに、やや苛立ちを含ませて問い返す。

「さて、どうなのか。とは儂の側の感想よ。もとより儂は、この疑いようもなく偉大なる伝承とともに、『冥王』を討つべくこの地に赴いたのだ。貴殿は『冥王』に数多の候補があるというが、やはりそれこそ妙な話ではないのか?」

 巨人は、すぐには答えなかった。

 そこで老騎士は、さらに畳みかけるように言い募った。

「古老の伝えによれば、この偉大なるエルベレスはさらに仰せになっている!『冥王』こそは、すべて偽りの者!彼女の父にして、さらに天上の真の主たるイルーヴァタールに対し、愚かな反抗を繰り返しては、ついにエルベレスに追われ、この『鉄獄』へ封じられたのだ!」

 実に腹立たしきこと、と言わんばかりに吐き散らし続ける。

「されど、姑息な姦策を巡らすことだけはやめぬ、著しき忌み者よ!我が故地にて『東胡』を迷妄で誑かし、侵略の尖兵とするはその最たるもの!ゆえに儂は、その病根そのものを絶ちに来たのだ!さあ――『冥王』の居場所について、知る限りでよい、教えたまえ!」

 あまりに強い促しに、巨人はひとつ息をついた。

 老騎士には、それはただ小さく風向きが変わったようにしか感じられなかった。

 その背後で、またしても、どこか遠くから大きな笑い声が響いた気がした。だがそれも、老騎士の中では、結局ただの気のせいでしかない。

 巨人は、もはや止むを得ぬといったふうに、静かに口を開いた。

「……いや、ご老人よ。残念ながら、やはり拙子は、貴殿に期待外れの返答しかできぬ。貴殿の求める『冥王』は、この地にはおらぬぞ」

「なぜだ!?その証は!」

「おらぬことの証を立てるのは、常に、あることを示すより遥かに難しいのだがな。それでも、少なくとも一つだけは申せる。貴殿がその腰の剣をもって討ち果たし、それによって故国を救いうる類の相手――そのような意味での『冥王』は、この『鉄獄』の最深層にはおらぬ。これは、ほぼ断言してよい」

「重ねて問う!なぜなのだ!」

「ご老人。これはいささか身も蓋もない懐疑ではあるのだがな……貴殿の祖国を侵しているという『東胡』どもは、どうも、貴殿のいうような『冥王』なる者の指図で動いているのではないように、拙子には思えるのだ」

 老人は、信じ難いものを聞いたとでもいうように目を見開き、呆れと憤りの入り混じった顔で、体を撥ね上げるような勢いで、即座に言い返した。

「何を申す!あれほどの巨悪を差配するものが、『冥王』でなくて何であるというのだ!?」

 巨人は額に手をやり、わずかに揉むようにしながら答えた。

「『冥王』が巨悪をなしうること、そのものは否定せぬ。されど、世にある巨悪のすべてが、ことごとく『冥王』の差配によるとは限らぬ。至極当然の理である。ゆえに、その推し量りのため、もういくつか問いたいのだが……よろしいかな?」

 老騎士レイオルンは、再び鼻息荒く岩へ腰を下ろした。

 思いのほか蒙昧なことを口にする巨人めを、今度は自分が説き伏せねばなるまい。

 彼としては、そのつもりで忍耐強く相対しているのである。

「よかろう、問うがいい!貴殿の誤謬、儂が解いて見せようぞ!」

「ふむ。では、まずここから伺おう。貴殿は、故地を脅かす大軍勢についても、この『鉄獄』へ至る長き道のりで見聞きした脅威についても、一貫して『東胡』と呼んでおられた。だが、その名は、そもそも正確なのかね?」

「……わからぬ。なぜそのようなことを問う?」

 巨人は一度、深くはないが明らかな吐息を漏らした。

 それから、逆に返された問いへ、辛抱強く答えた。

「それもはたまた、なぜ、と言われてもな。『東胡』という一語のままでは、何一つ分からぬのだ。貴殿らと彼らのあいだには、言葉も、血筋も、習俗も、信ずる神々も、受け継いだ歴史も、さまざまな違いがあるはずであろう。そうは思わぬかね?」

 老騎士レイオルンは、なお怪訝そうな顔をしたまま答えない。

 巨人は少し食い下がるように続けた。

「たとえば、である。貴殿には、エルベレスと――その、なんだ、マルコルとアンナテールを中心とした神々への畏敬があり、そこから授かった知恵や教えがあり、さらにそれらに連なる伝承や歴史があるのであろう。ならば『東胡』にもまた、それに比すべきものがあるはずなのだ。その多くが、貴殿のいう『冥王』へと最終的に結びつく『邪悪』なものだとしても、だな」

 老騎士は眉をひそめたまま、なお口を開かなかった。

 巨人はさらに、今度は諭すというより確かめる調子で続けた。

「貴殿の装いを見るに、無知無学の一兵卒ではあるまい。己が故郷の天下国家に関わることを、権利としても義務としても背負ってきた御身であろう。そうであれば、敵とは何者か、その脅威の本質はいかなるものか――それを知る立場にもまた、おられたはずだ。しかも、若輩ではなく、歳月を重ねた御身であるならば、なおさらそうでなくてはならない」

 巨人は、老騎士レイオルンに静かに応対しながら、絶えず彼という定命の器の質を測っていた。

 そのうえで言えば、巨人は少なくとも、この老人を低くは見ていなかった。

 このレイオルンは、紛れもなく英雄である。

 有体な修辞を抜きにして、ただ統計的に言うならば、故郷の地において人類の側にまれに現れるであろう、上振れた外れの個体である。

 この老騎士はたしかに、ミドガロンのイゼンドールなる地において、英雄たりうるだけの先天の資質を持って生まれたのだろう。

 しかる後に相応の鍛錬を積み、長く戦いに身を置き、いまや円熟した武力を備えている。

 彼が討ってやまぬ「冥王」に対しては、それすら蟷螂の斧にすぎぬとしても、そこに至るまでの積み重ねそのものは、なお敬意に値する。

 だが、解せぬ。

 ――いや、解せぬというより、経験則に照らせば、もはや結論はほとんど出ている。

 この男は、英雄として稀有である。

 にもかかわらず、その資質を十全に発揮するために要るはずの諸々――敵を識ること、味方を識ること、己の立場を識ること、己が何に使われうるかを識ること――そのあたりが、老年の人間とは思えぬほどに欠けている。

 しかも、その欠落を補わせようとした形跡が、彼の属する共同体には見当たらぬ。

 そこが問題だった。

 この男ほどの者が、真にイゼンドールなる地を愛し、その故国が現に脅威へ晒されているというのであれば、本来かくのごとき場所へ来ていてよいはずがない。

 ここは、『鉄獄』の第百階層。

 数多の〈混沌〉が淀み、衝突し、沈殿する坩堝であり、宇宙的な掃き溜めそのものである。

 このような場所に、「使命」なる観念だけを抱いて踏み込み、大海の一滴のように消えうせるよりは、いっそ故地へ留まり「東胡」とやらの侵攻を一刻でも遅らせるべく最前線に立つ方が、はるかに理にかなっている。

 少なくとも、この老人の武勇だけを勘定に入れるならば、その算用になるはずだった。

 それでも彼は、ここにいる。

 問題は、彼がそんな算用を外す、愚行を侵していることそれ自体ではない。

 彼ほどの者を、かかる形でここまで来させた、ミドガロンのイゼンドールという国家、あるいはさらに広い紐帯そのものに、何かしらの歪みがあるのではあるまいか。

 となれば、ここからどれほど言葉を尽くしたところで、十中八九は無益であろう。

 それでも、先ほどから沈黙を守るばかりの老騎士に向けて、巨人はなお告げずにはいられなかった。

「やはりどうだろう?この地で『冥王』を探すことは断念し、貴殿は一刻も早く、存亡を賭けた戦場へ戻るべきではないだろうか?先にも申した通り、拙子は、貴殿を速やかに故郷へ帰す術を持たぬわけではない。それを与えることに、吝かであるつもりもない」

 ついに老騎士は、ふたたび口を開いた。

 その声音は、先ほどまでの使命感に駆られた熱を失い、妙に静かだった。

 だがその静けさは、和らぎではなく、むしろ両者のあいだに決定的な溝が開いたことの証のように思われた。

「先ほどからのその口ぶり――我らが誤っているとでも言いたいようだな」

 巨人は、どうにか関係を保つため、もう少し柔らかな答えを返すことも考えた。

 だが結局のところ、彼がもっとも重んじる哲学――すなわち知的誠実の要請から、別様に答えることはできなかった。

「拙子は、しょせんこの『鉄獄』を彷徨う部外者にすぎぬ。ゆえに断定はなおしかねる。されど、今のところは、蓋然として『そうだ』と答えるほかないな。貴殿独りのみならず、貴殿を含む同胞らもまた、何らかの過ちの陥穽に落ちているのではないか。そのように推察せざるを得ぬ」

 巨人はさらに、静かに、しかし諭すように低い声を重ねた。

「貴殿らは、たしかに『東胡』の侵攻に晒され、その苛烈さに苦しめられているのであろう。そのこと自体は疑わぬ。だが、それにもかかわらず、当の『東胡』について、貴殿らはあまりにも理解に乏しいように見える。そして、その背後にただちに『冥王』なる影を見出すことこそ、まさにその無知の最たるものではないかと、拙子には思われるのだ」

 老騎士レイオルンは、いつしか俯いていた。

「ここまで述べれば、邪推と聞こえるやもしれぬ。だが、ひょっとすると貴殿らは、己らの無力――いや、無為無策にこそ、すでに気づいておるのではないか?ゆえに『冥王』という影を必要とした。それさえ滅ぼせばすべてが覆る、そういう奇跡を仮託するための対象としてな。貴殿を取り巻く一切のもの――それこそ、数千年も昔から伝わってきたのであろう伝承をも含めた『構造』がもたらした幻想なのだ。重ねて言うが、これは貴殿ひとりの過ちではない。」

「邪推じゃ!邪推にすぎぬ」

「かもしれぬがな」

 巨人は、そこだけは敢えて曖昧に留めた。

『――おお、偉大なるエルベレス、光り輝く星よ。マルコルよ来たれ。アンナテールもまた馳せ参じよ』

 老騎士が口にしていたその詩句が、実のところどれほど歪み果てたものであるかを、巨人は誰よりよく知っていた。

 だが、その経緯まで長々語って聞かせられる間柄では、もはやないだろう。

「やはり、この不毛の地は、少なくとも貴殿が求める意味での『冥王』が在る場所ではない。そのことを、貴殿自身、もう薄々は感じておるはずだ。ただ、伝承ばかりが足かせとなり判断を曇らせている。だから、やはりここから離れてはみぬか?」

 老騎士が、怒りに耐え忍んでいることは感じられた。だが、続ける。

「何度でも言う。いま貴殿が為すべきは、やはりこの地を立ち去ることだ。故地へ戻って『東胡』の侵攻を防ぎ、そして――あえて言うが――その『東胡』について学ぶことだ。貴殿が討つべき真の『冥王』があるとすれば、それはおそらく、その先にこそ……」

「もう結構!結構じゃ、巨人!」

 老騎士はその言葉を遮った。ついに放たれたのは、決定的な拒絶の一言であった。

 彼は力強く、しかし焦燥はない言質で巨人に続けて言い放つ。

「我は、遠き日より古老に伝え聞いたエルベレスの導きのもと、この運命を選んだのだ!たとえ万が一にも、お主の言う通り、その伝承に偽りがあったとしても――それでもこれは、儂が、儂自身が選び取った使命だ!その選択までも、お主は否定すると申すか!?」

 巨人は、目を見開き、真正面から己を見据える老騎士を見返した。

 その怒りには、どこか己自身のそれと似た、眉間の力があった。ここに至ってようやく理解した。この老人の内にはなお、確かなものがある。

 歪められた伝承にも、狭い世界にも拘束されながら、それでも最後のところで「自分で選んだ」と言い張るだけの、ひとつの矜持が。

 ――かつての己も確かに急き立てられていたものと同じ片鱗が。ここまで来て、なお己にこの老人を押し留める資格があるのか。巨人には、もはや分からなくなっていた。

「……先ほどの非礼は、謹んでお詫び申し上げる。ならば、行かれよ、ご老人。〈混沌〉の作用甚だしきこの不毛の地にあっては、あるいは貴殿の選びにも、貴殿なりの真があるのかもしれぬ」

 巨人は、話のあいだ腰を下ろしていた大岩から立ち上がると、数歩後ろへ退いた。

「貴殿に、偉大なる運命あれ」

 ただ、それだけを、あえて言葉によって祝した。

 老騎士レイオルンがそれをどう受け取ったかは、定かではない。

 ただ彼は、巨人へ背を向けると、なお己の求める「冥王」の次なる所在を追うかのように、灰色の砂漠の彼方、次なる岩地へ向けて歩みを進めようとしている。

 巨人は、その小さな背に先ほど感じ取った己を同じものを見取り、心中に尊んだ。

 

 全ては、その刹那のことである──

 

 巨人の左手側、砂塵を裂く鋭い風切りの音とともに、無数の見えざる刃が殺到した。

 巨人は気づいた。気づいたその瞬間には、すでに全力で身を翻し、その悪意を遮ろうとしていた。

 だが、間に合わない。

 彼は己の不覚を悟った。先ほどまで老騎士との問答を横合いで嗤っていた「奴」は、とうに飽いて立ち去ったものと思っていた。

 だが、去ってはいなかったのだ。いつしか巨人にすらそう錯覚させるほど執拗に、そして巨人が老騎士へ抱いたものより、なお深い執念をもって、そこに潜んでいた。

 刃が届くその寸前、老騎士の全身には、たしかに災厄の到来を告げる張りつめた緊張が走っていた。

 姿を隠したまま自分を見下ろし、嗤う何かの気配を、無意識の底では感じ取っていたのかもしれない。

 それはたしかに英雄の器量であったが、それまでだった。

 無数の刃は、当然の帰結のように、老騎士レイオルンを殺めた。

 いや、殺したというには、あまりに整いすぎていた。

 甲冑は紙のように裂け、肉は断たれ、骨は外され、血は砂の上へひろがった。そして老騎士レイオルンは、その場にひとつの「標本」として残された。

 赤黒い血が砂地に絨毯のように滲み、その上に、彼を彼たらしめていた諸々が、異様なほど整然と並べられている。

 このまま逆の手順で組み直せば、また立ち上がるのではないか。

 ふと、そんな錯覚すら誘うほどに──無論、それが叶うはずもない。「奴」好みのいかにも悪趣味な肉刑そのものであった。

 巨人は「奴」へ向けて怒鳴った。老騎士に対してはついに見せなかった、剥き出しの感情で。

「なぜ殺す必要があった!?『冥王』よ!」

 すると、涼やかな声が返ってきた。

「なぜ生かしておく必要があるんだ?『冥王』よ」

 巨人が――「冥王」が、期待通りに憤懣を露わにしたことを、心から愉しむような涼やかな声が続けた。

「私がどういう男か、数万年も昔から知っているだろう。『冥王メルコール』?私は『馬鹿』が大嫌いなんだ」

 その言葉とともに、隠形の術を解いたもう一人の「冥王」が、音もなく姿を現した。

 艶やかな白衣。

 その上には豪奢な金細工が幾重にも散り、なかでも無数の指環が、ことさらに眩く全身を飾っている。

 頭冠と胸元には、巨大な赤玉をはめ込んだ「眼」の意匠が妖しく輝いていた。

 白い肌、黄金の長髪、青い眼を湛えた端正な顔。だが、その整いすぎた美貌は、人の心を掻き乱し混乱させるための作為が細微に渡り仕組まれた物。

 背丈は、黒衣の巨人――「冥王メルコール」より二回りほど低い。

 それでも、先の老騎士から見れば同じく巨人であり、その威風もまた少しも引けを取らぬ。

 その身から発する神威めいた斥力が、鉄獄最奥の砂嵐を絶えず押し返している。

 白衣の「冥王」は、そのまま黒衣の「冥王」へと顔を寄せた。唇には、あからさまな挑発の笑み。

 今少し品性の抑えが緩ければ、その顔へ文字通り唾棄していたところを、黒衣の「冥王」は辛うじて堪えた。

 そして、親が子を叱責するような調子で言い放つ。

「そうして、そのように数万年ものあいだ、飽きも懲りもせず他者を見下し嘲弄し続ける。だからこそ貴様は、毎度それ以上の恥と失態を繰り返すのだ――そうであろう?『冥王アンナタール』?」

 冥王メルコールは、冥王アンナタールにとって反駁しようのない過去の事実を、あえて簡潔に蒸し返した。

 だがアンナタールは、その程度で動揺する気配をひとかけらも見せなかった。むしろ愉しげに口元を歪め、即座に反撃へ転じる。

「貴方は、こういう『馬鹿』に感じ入るような『馬鹿』の真似をするから、いつも余計な手傷を負わされるんだよ。そのうえ、そんな『馬鹿』の同輩どもに、針小棒大にあげつらわれる。大昔を思い返しても、特にひどかったのは――そうだな、フィンゴルフィンとかいうエルフのガキの時か。なあ、『冥王モルゴス』?」

 フィンゴルフィン。

 モルゴス。

 その名を口にされた瞬間、メルコールの胸中では、さらに「フェアノール」、そして「ウンゴリアント」の名までが必然のように連なった。

 それらは、彼が心の底から悔いてなお消し去れぬ最大級の負債であり、その連想をわざと誘うことは、アンナタールのあまりにも露骨な悪意にほかならなかった。

 メルコールは答えない。

 ただ、巌のごとき眉間の皺に、誇張なく灼熱と極寒とをほどばしらせるような沈黙の憤怒で、アンナタールを威圧した。

 アンナタールはその反応に満足したように、さらに嘲笑を深める。

「いい加減に『馬鹿』どもをいちいち構い、甘やかし、放っておくのは止めろ。私も私で、貴方から『冥王』の座を押し付けられて以来、そういう『馬鹿』の始末に始終忙しいんだよ」

 メルコールはなお答えない。沈黙の憤怒は、その眉間にますます深く沈んでいた。

「実に、世の中は『馬鹿』ばかりだ。『統計』を知らぬ馬鹿。『経済』を知らぬ馬鹿。『軍事』を知らぬ馬鹿。『外交』を知らぬ馬鹿。『歴史』を知らぬ馬鹿。『科学』を知らぬ馬鹿。『生理』を知らぬ馬鹿」

 アンナタールは「馬鹿」の例示ごとに指折り数える。

「――貴方がさっきまで構っていたあの老人も、そんな数千年分の『馬鹿』の掃きだめから流れてきた、その集大成みたいなものじゃないか。

 貴方の見立てでも、そこは外れていないだろうよ?」

 アンナタールは、身に飾った無数の宝飾のうち、金色の流れるような文字めいたものが刻まれた指輪の無数の内一つを指先でつまみ上げた。

 そして心底愉快そうに続ける。

「そういう『馬鹿』の掃きだめは、貴方も言った通りすぐ『冥王』に依存する……それだけじゃない。たとえば、こんな、ちょっとした『細工』を施した金属飾りを一つ、火口へ放り込めば『冥王』は滅びる――そんな迷信をひとつ思い込ませるだけで、たちまち願望に酔って必死になる。そういう虫のいい話に、連中は『神話』の名を与えて縋りつくのだ」

 そう言いながらアンナタールは、指先ひとつで、己の得手とする「隠形」と「交信」の術を幾重にも織り込み、即興の細工をその場に結んでみせた。

 「一つならざる指輪」

 その出来上がりである。

「『馬鹿』どもに、あえて価値があるとするなら、こういう手妻ひとつであっさり惑わされ、その醜態で私を愉しませることだ。それだけだよ」

 ここに至って、メルコールはひとつ息を吐いた。

 それで己の憤怒を押し鎮める。

 怒気を抜き去り、なお丁重さを保ったまま、しかし今度はその静けさそのものを武器として、アンナタールへ反駁を刺し込んだ。

「そのような『馬鹿』どもに、なお何千年も執心しておるお主もまた、随分と『馬鹿』にやられてはおるまいか?」

 アンナタールの饒舌が、ぴたりと止まった。

「その証左に、お主こそ何たる幼稚のぶりよ。私の背中であの老騎士の話を聞いておる間に、『隠形』も薄れる程にケタケタと笑ったかと思えば、その『馬鹿』の言葉に一々殺意をむき出しにする。エルベレスの『娘』と呼ばれたことがそんなに癪に障ったか、『アンナテール』?」

 その問いにアンナタールは苛立つように即答する。

「よりによって、あの『馬鹿』の極みたるあばずれの係累にされて、不快にならずにいられるか」

 憤怒を過ぎらせる側が逆転した。今度はアンナタールの眉間に、メルコールと似たような皺が寄る。

「まあ、分からぬでもないよ。全くだ。私もあの女と夫と間違われた……恐らくマンウェと私を混同でもしたのだろうが……呼ばわれた時は素直に怖気が走った。我が真の妻、ウルバンディが聞けばまたお前以上に、怒りに怒るであろうな」

「その名も出すな!……ああ、重ねて虫頭が走る!」

 アンナタールはまたも即応に不快を表明する。

 メルコールは今一度溜息を吐いた。

「そうだ、そうなのだ。あの女も『馬鹿』ならば、あの女含めたヴァリノール共が盲従した我らが父イルーヴァタールもまた『馬鹿』……そして、全てが最初から破綻していたこと分かりきってなお、未だある意味でその父の命を、ただ忠実に果たし続けている拙人もまた『馬鹿』なのであろうな」

 いつしか、アンナタールに告げていたつもりが自嘲にすり替わっていた。

 

 そんなメルコールの言質の間に、鉄獄の第百階層は急激な変容を起こしていた。

 元より荒々しい灰色の砂嵐が、いよいよ柱を作るように遠く随所に湧きあがり、遠くの視界を塞いで行く。

 己の自嘲を噛みしめる間を失ったメルコールが、もう一つ溜息をついて呟く。

「『サーペント』が荒ぶりだしたな……来たのか?」

 メルコールは真上の天を仰ぐ。

 薄い虹色の狂気に輝く天空。それを引き裂く雷鳴のような輝きの軌跡の延長上に巨大な、竜と蛇の合いの子のような巨大な頭部が、どこかの地面を見つめるようにもたげている。

 その「隻眼」が見つめる先は数多、断崖絶壁に遮られた土地である。されどサーペントは低く、衝撃波の混じる唸り声を上げながら、その先に望まむ来訪者が在ることをしかと見捉えているようであった。

 ふと、巨大な「破壊」の音がサーペントの視線の先で巻き起こった。

 その「破壊」はただの発破ではない。ただでさえ不安定な時空の乱流である、この「鉄獄」の深層をさらに引っ掻き回し、撹拌せんとする時空の爆発──〈烙印者〉たちが、「サーペントの瞳の狩人」たちがなべて愛用する戦術の一環に他ならない。

「ああ、奴らか」

 白衣の冥王は、飽き飽きした花火でも眺めるような眼差しで、その「破壊」を見やった。

「私たちのこの『化身』を蹴散らす手間も省いて、いきなりサーペントの瞳を狩ろうというのか?さて、『死に戻り』たがりの無能か、それとも手慣れた熟練者か……ああ、まあ、どちらにせよ今回は気が滅入る。面倒だ。私はもう去るよ」

 アンナタール――冥王、サウロン、運命を与える者、あるいは「メルドール」の神王。

 多元宇宙を巡るその神格は、どこか拗ねた子供のような調子で、メルコールへ別れの一瞥すらくれぬまま、その場から姿を消した。

 黒衣の冥王は白衣の冥王の居た残滓をじっと見つめつつ、後ろに仕舞っていた、己が金色の槍を握りしめた。

(鉄獄へ向かえ。『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え)

 「破壊」の先にいる〈烙印者〉──イェンダーの呪いに囚われし者が駆り立てられる言葉が、メルコールの神秘の耳にも届く。

 己のこの身は、化身は、アンナタールのようにここから去る訳にはいかない。かつてアルダと言う世界の楔を維持した者、その代価として、多元宇宙の〈混沌〉を揺蕩う身となった者として、己はサーペントと共に、彼らを阻む巌となり続けなければならない。

「さて、行くか」

 メルコール、あるいはモルゴスはそう呟きつつ、ふと後ろを見やる。

 アンナタールに惨殺された、哀れな老人──否、志半ばに倒れた英雄の骸を捨て置くに心が憚られた。

 メルコールは黙祷し、そのまま音もなく静かに己が神威を行使する。

 万物を在らしめ続けるための力の制御――かつてアルダの地の楔のためにも行使した「創気自在」を。

 筋腱と、骨と、臓物に解体されたそれらは、灰色の砂に洗われるように塵へと消えていった。

 後に残るのは、乱暴に引き千切られた甲冑と、砂地に横たわる、老騎士レイオルンの剣のみ。

「ミドガロンの地の盟主たる故国イゼンドールの英雄、イルソルンの子、レイオルンよ。志半ばに死し〈混沌〉より忘却界へ汝の事績が消え果てようとも、冥王メルコールは汝を忘れじ……」

 定型めいた弔いの言葉のあとに、彼はただ一つ、率直な感想を添えた。

「『指輪』ごときの類に託さず、ただその剣ひとつで立ち向かわんとしたその意気、拙人には却って感じ入るものがあったぞ」

 冥王はそう呟くと〈烙印者〉を迎え撃つべく、黒き巨躯に黄金の大槍を携え、影を疾駆させていった。

 

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