「マスター、十七年ものの処女の生き血を」
フード付きの黒い外套。青白い顔肌をわずかに覗かせる長身の客。それが、女の声で宿屋の主に呼びかけた。
主人は、すげなく答える。
「吸血鬼のアバズレは、『外郭』や路地裏のクッソ汚ねえ賤民共の血でも啜ってろ。そんでもって、ちっとでも『辺境の地』を掃き清めてこいや」
勝手知ったる腐れ縁に対する、うんざりさと諦念を込めた拒否の言である。
鈴が鳴るような軽さでクスクスと笑いながら、客は屋内に入って外套のフードを脱ぎ去り、その顔を露わにした。
青白い肌に、それと等しい色合いをした短い白髪。鮮血色の赤い瞳。
「随分な扱いじゃないの。『憩いのわが家亭』のオティックと言えば、冒険者たちに分け隔てなく安息の場を提供してくれる、いつも明るく鷹揚な店主だったのに……」
舌打ちしながら、無精髭を生やした瘦せ身の店主は反駁する。
「看板を見なかったか?ここは『殺し屋横丁』の『白馬亭』で、樹上にあるような風情のある宿屋じゃねえ。それに俺の名は確かにオティックだが、テメエの知ったる八代前の御先祖様本人でもねえ。何よりテメエは冒険者じゃねえよなあ。そうだろう?イオアンナ。不老不死の〈烙印者〉様よ」
どうぞと勧められることもなくもカウンターの一つに座り、イオアンナと呼ばれた女吸血鬼は胸元に手を組みながらぼやくように言う。
「そうよねえ。それが愉しくもあり、難儀でもあり……はあ、今はとにかく血が欲しいんだけど。仕方ないわよね。適当な赤ワインで我慢してあげるわ」
そういうと、イオアンナは銀貨一枚をつまらなげにカウンターに置いた。
傲岸不遜なる客の態度を早々に意識から切り捨てることにした若きオティックは、黙々と陶磁器のカップ一つをカウンター下から取り出し、ワイン樽の口から、定量の赤ワインを注ぐ。
テーブルにカップを、意図して不躾気味に置くと、ひったくるように銀貨を手にし、売上袋に放り込んだ。
イオアンナは眼前に差し出されたカップを手に取ると、その量の半ばまでまずは一気に飲み下した。残る半分の香りを楽しまんと、ワイングラスと同様に手のひらでもって揺らす。
されど安酒は安酒。香りはあまりにも貧層で乏しかったのだろう。上品ながらも、何処か嫌味たらしい息を一つ吐いた。
そんな振る舞いに反撃するように、オティックは凝った肩を鳴らしながら、皮肉気に問うた。
「それで、何年ぶり、何回目の『死に戻り』であらせられるのかな、貴婦人?」
「前回持っていた、懐中時計の主観時間にして約六年ぶり、〈烙印者〉となってからの記憶が確かな限り五三回目ね」
薄い眉毛の片方をひそめながら、オティックは感慨深く言う。
「つい一週間前に、全く同じ血を求めるクソ客が来たばかりと思いきや、また随分と隔たったもんだな」
「この『辺境の地』が〈烙印者〉の集う結節点ならではの、安定かつゆったりとした時間の流れゆえの現象よねえ」
早々に一杯目を飲み干したイオアンナは、空のカップを差し出し、二杯目を要求した。
黙然とオティックは樽から同量を注ぎなおす。
「そもそも、私たちが延々と探索を重ねる『鉄獄』が〈混沌〉の影響で時空間が乱れ切っているから、色んな時間計測があてにならないこともあるでしょうけど……」
気だるげにイオアンナは言う。
「その乱れ具合の激しさ次第では、次にここで処女の血を注文する私が『五五回目』で、その次に注文する私が『五四回目』だったりする可能性も有り得るわけよ」
「何回目に来ようが処女の血を注文するな。ここは一般種族の酒場だ」
「そうだったわね、じゃあ一般的な種族を連れてこなくちゃ。今度はドワーフの延髄をすするのが大好きなマインドフレアの〈烙印者〉と、この前知り合った勇者の魂が好物の大悪魔の〈烙印者〉も連れてきてあげるわ」
オティックは抗議の意味を深く籠めて溜息を吐いた。
「お前ら〈烙印者〉共はいつもそうだな、分かりきっている癖に何故何度も漫才をしたがるんだ?」
それは間違いなく、貴方の反応が毎度毎度面白いからよ──とイオアンナは口外せず内に秘めたまま、二杯目の安いワインをあおった。
「そもそも、だ」
オティックはカウンター越しにイオアンナをにらむ。
「お前ら〈烙印者〉は、どうしてこうも何度も繰り返し『鉄獄』とやらに死にに行くんだ?お前のような化け物ですら、文字通り何十も命を落として『死に戻り』しても、まだ本懐は遂げられない。そんな場所にまだ懲りずに行きたがる理由は何だ?」
イオアンナは、不意にきょとんとした表情をして、オティックを紅い眼で見つめた。
今更にそんなことを問われるとは、思いもよらなかったと言わんばかりに。
「『混沌のサーペント』の持つ隻眼の瞳の話は、私と同じ〈烙印者〉達から、それこそ何度となく聞いているんじゃなかったの?私たちの目的は変わることなくそれじゃないの」
両眉をひそめてオティックがぼやく。
「その化け物の瞳が、とんでもないお宝だからって、それが地獄みたいな場所で死に続ける理由になるのか?その省みなさは、俺にしてみれば、お前ら〈烙印者〉が何かに操られた人形にしか見えなくなってくる」
女吸血鬼はニヤリと笑った。たとえ不意にあろうとも、その笑みの口から鋭い犬歯を覗かせるのは、吸血鬼を熟知する常人にとっては威嚇そのものにあたる。
故にオティックはたじろいだ。
「あら、御免なさい。無論、そのつもりはなくてよ……」
そう詫びながらも犬歯を覗かせたままの笑みで、イオアンナは天井に深紅の眼を向ける。
「そうね、傀儡と言えば傀儡なのかもしれないわね。全ての『生きとし生けるもの』……多少はそこから外れた者も含めて、己が欲望に忠実であることそのものを、盲目的な本能の傀儡とするならばね」
「何が言いたい」
「つまりはこうよ」
ワインカップの淵をなぞりながらイオアンナは続ける。
「私が『イェンダー』と自発的に契約を交わして好き好んで〈烙印者〉となり、何度死んででもサーペントの瞳を求めて、栄達が多元宇宙に響くまでを望むことと。あなたがこの場末の『白馬亭』を開いて、毎日の銭をいかにトラブルなく、多く儲けたいのか工夫することと。そこに何の違いもないと言うことよ」
「どこがだ?違いばかりにしか思えないんだが?」
「いいえ、その一刻一刻が己の望むところであり、一刻一刻が同じように見えて全く異なる喜びであり、いつかは果てる所まで決してそれに飽きることはないであろうこと。その点において私たちはどちらも『嗣業』というものを抱く確かな同志というものよ」
「なんだその嗣業というのは?全く煙に巻くような話だな」
「分からない?もっと平たく言えば『運命愛』とでも言ってもいいけど?」
オティックはまた一つ溜息を吐いた。
「ああ、そうかい。なんとなく分かった。分かった。つまり、馬鹿は死ななきゃ治らず、阿呆は死んでも治らないってことかよ……」
「無粋ねえ。まあ、でも確かに、貴方向けにはそんな表現の方がいいのかもしれないわね」
「そんなにお望みならまた、五十四回目も死んでくるがいいさ、阿呆」
「ありがとう。そうしてくるわ」
二杯目の安い赤ワインを飲み干すと、イオアンナは心づけにもう一枚、銀貨を置いた。
左肩に鞘に収めた長剣を背負いなおし、白馬亭を後にする。
(──さて)
オティックのような、相変わらずからかい甲斐がありながらも、至極まっとうで健全な人の子をもてあそんで楽しむことはさておき。
敗者にふさわしい安酒のオードブルを済ませた次には、愚民の血というメインディッシュが欲しいところであった。それを店主が言った通り、夜の『外郭』に求めながら、イオアンナは石畳の上を、音も立てずに暗闇の中を悠然と歩む。
歩く間に、思考を巡らせる。
正直なところ、今回の死に様は、ああやって半ば煙に巻いた余裕を振りまくには、イオアンナにとっていささか小恥ずかしい代物であった。今回の己に残された直前の死の記憶を、深く、内省的に反芻する。
死した場所は、鉄獄の第四十六階層。城塞型の迷宮。
イオアンナを死に至らしめたのは、東洋の僧侶──にしてはあまりにも淫祠邪教への傾倒を極めきった、破戒僧であった。
ほとんど骨だけのミイラじみた肉体に、己の霊だけを定着させることで不死を実現した男。あくまで種族としては「生物的な吸血鬼」である彼女以上に、人としての本質を投げ捨てた輩と、その信奉者どもの群れ。
彼女が〈烙印者〉として絶えず無数の命を喰らい求めているのと同様に、彼らもまた、一種のミュータントたる吸血鬼としての彼女の血を、生贄の儀式に求めていたらしい。
イオアンナは己の失態を思い返し、軽く舌打ちした。
率直に言って、多勢に無勢の程度を測り損ね、判断を誤ったことを認めざるを得ない。
奴の信奉者と思しき邪教の僧どもの掃討にかまけているあいだに、奴は地獄の瘴気をまとった拳を、イオアンナの脇腹めがけて撃ち放った。見事にそれを食らい、臓腑を破壊された。
そのまま体勢を崩したイオアンナは、その崩れた動きなりに反撃の刃を浴びせようとするも、躱される。駄目押しに貫手で心の臓を貫かれ、正拳突きで脳髄を砕かれた。
その身は再生を果たせぬほどの損傷に至り、文字どおり崩れ落ちた。
今ごろ──あるいは、とうの昔に──鉄獄に横たわる屍となった、己の前の肉体はあの邪教の輩によって確保されたに違いない。
そして、その血肉は余すところなく、彼らの悍ましい術の触媒に用いられたであろう。
脳髄を打ち砕かれた時点で、前の心身そのものはすでに破砕されていたが、〈烙印者〉としての、より俯瞰的かつ抽象的な知覚の中で、そのような凌辱を屍が受けていた有様を、彼女は確かに記憶していた。
さもありなん。むべなるかな。
己とて、前回の域に至るまで、数千もの命を殺め、その魂と血肉を喰らって力を蓄えてきた。そして、一からやり直すこれからも、さらに無数の命を喰らう心づもりでいる。
他者に一度や数十度程度同じことをされただけで怒り、嘆くなど、幼児の了見である。
主観年齢千を超える吸血鬼にとっては、戒めとすべき、ささやかな足踏みに過ぎなかった。
(まあ、その千年超えて斬り結んできたキャリアにしては、多数の敵に対する戦術的判断が甘いのよねえ、私は)
イオアンナは、軽く己の頭を小突きながら、〈烙印者〉として自分と比べるべき同胞たちの顔を思い浮かべる。
(自分より倍以上は年季を持っているアビガイルや、マルバス師、董老師に及ばないのは仕方ないにしてもねえ。私より生まれも戦歴も百年は若いはずの弾正や田按世なんかと比べても、どうにも悪手をやらかすことが多い。どう埋め合わせるべきものかしら?)
己の欠陥を、いかに克服するかの思案を巡らせることで、イオアンナは吸血鬼としての空腹感をこらえていた。そうしながら、辺境の地の「外郭」へと、暗中、音もなく駆けて至る。
そここそが、真の無法地帯である。
先ほどの白馬亭が面していた「殺し屋横丁」なる物騒な通りの名など、内郭内での相対的な治安の悪さにあることを除けば、全く誇張に過ぎない。辺境の地の「内郭」に籍を持つ「市民」たちは、先のオティックも含め、この地の法を徹底的に維持し、またその庇護を受ける身であった。
一方で、「外郭」はまるで趣を異にしている。この辺境の地は、多元宇宙の結節点の一つとして、さながら神隠しのごとく、さまざまな時空から彷徨い至った「流民」たちの溜まり場でもあるのだ。
イオアンナら〈烙印者〉も、「市民」から見れば広義にはその流民の係累に属する。
それでもなお〈烙印者〉のほとんどが「内郭」に受け入れられ、取り留めのない世間話を交わせるのは、単純に知性があり、理性があり、品位があり、財があり──何より、あらゆる異種族を極めて厳然かつ慎重に「区別はしても差別はしない」だけの社会性を備えているからに他ならない。
〈烙印者〉の中でも真に「サーペントの功業」を成し得ると目される者は、根本的にそれを前提としていると言ってよかった。
そしてイオアンナにも、〈烙印者〉としてあるべき、その種の社会性が備わっている。
自分が血を啜るべきは、たとえどれほど美味そうであっても、市民権を持ち、辺境の地の秩序を支える要人たちではない。
不味かろうと、「外郭」にしかいる資格のない、本当にどうしようもない屑どもからであるべき──という、彼女にとってもその友人らにとっても、至極当然の自制である。
外郭のスラム街を、隠密裡に飛び回ること数分。彼女は今日の食事を、あっさりと見つけた。
そもそも、吸血鬼の耳には、外郭を歩いていた時点から聞こえるほど、獲物の声はやかましかったのだ。
「わしは知っちょるぞ!どこかの丘の上で、白い塔だの裂け谷だの、バラバラだのバラールだの、偉そうな連中が円卓囲んでうまい飯に舌づつみ打ちながら、のたくって話してるんだろ?おおこわいこわい。庶民の飯のことなんか一つも考えちゃいないくせにな!」
それは、直截に言えば、わめくキチガイであった。
イオアンナの既知言語で意味が通る語彙を独自の文法で使いこなし、そのそこそこ豊富な言葉の引き出しからするに、生まれた世界ではそれなりの教養人であったのかもしれない。
ほつれ切った植物文様の刺繍がかろうじて残る、ボロボロのローブをまとった痩身の外見にも、正気であった頃の風格の残滓が、わずかばかり見えなくもない。
だが、正気を失い、よだれを垂らしっぱなしの今となっては、それらはすべて、いっそう虚しく醜態を彩る装飾に成り果てていた。
「何も起きておらん!?それがいちばん怪しい!サウロンは嵐の前の静けさも一切合切、計画し尽くしておるのだ!『証拠を見せろ』だと?影の証拠なんぞ見えるはずがなかろうが!」
彼の夜半の喚き散らしを止めようとする流民は、一人としていなかった。
彼が完全に孤立したままここに流れ着いたのか、それともすでに見捨てられたのか──それは定かではない。
ただひとつ確かなのは、不幸にも次元の迷い子となってこの「辺境の地」に流れ着き、不満と誇大妄想じみた恐怖に満ち満ちて枯れ荒んだ声を上げ続けている。このわめくキチガイに与えられる救済は、もはや「死」しかないであろうということだった。
イオアンナは、今まさに捕食者にして──無論、本人にそのつもりは欺瞞や諧謔を除いて毛頭もないのだが──救済者として、ふわりと、わめくキチガイの目の前へと降り立った。
「ああ、黒い手が!サウロンの黒い手が──!?」
その見当違いな叫びを最後の言葉として、彼の意識は即座に絶たれ、永遠に消え去った。
死因は、ショック死。
吸血鬼として空腹だったイオアンナの、がっつくような首筋への噛みつき。それは狂気の空回りで疲弊し切っていた彼の神経には、あまりにも強すぎたのである。
白目をむき、ぶくぶくと口から泡を立てながら失禁する屍と化した、かつてわめくキチガイだったもの。
その喚き散らしが止んでくれたことは、残飯のような血で腹を満たす他ない今のイオアンナにとって、せめてもの快適さであった。その一点についてのみ、素直な感謝の念がこもる。
だが、不味い。ひたすらに不味い。
それでも滋養にはなるから我慢して飲むが、不快そのものは拭いようがない。
イオアンナの味覚にとって、気が触れた人間の血は、却って爽やかな珍味となることもあるのだが、少なくともこの男の血は完全な外れであった。
量にして約半リットル。それで血液という物理的な栄養素の何割かだけでなく、この男の魂魄を含めた生命の本質を、すべて奪い尽くした。
文字どおり血の気の引いた色になった男の死体を、ぶっきらぼうに押し倒して打ち捨てると、イオアンナは「うっぷ」とおよそ淑女らしからぬ声でうめいた。本当に不味かったのである。
口直しが欲しい。男は総じて女より味に劣るのだが、それでも、もう少し逞しく壮健な者のほうが、まだ飲める。
「梯子」できる獲物は、まだ外郭にいないか──と考えを巡らせた、その時。
イオアンナの耳に、か細くも気になる声が届いた。
それは先の餌食となったわめくキチガイと同じく、どこか狂気に彩られた声色をしていている。だが、ずっと静かで、心地よい。
それも高い。明らかに女の声である。
第六感で感じられるその生命力は虚弱で、ひょっとすると先ほどのわめくキチガイにすら劣るかもしれない。それでも構わない。微量であっても口直しになりそうな女の血ならば、それで十分だった。
再びイオアンナは、獲物の声の響く方向へ、音もなく駆け抜ける。
辺境の地の「外郭」は総じて荒んだスラムだが、粗雑ながらも流民たちがそこそこの住居とすべく、石や土のレンガを積み上げたボロ屋が連なっている。
それらの屋根や壁を跳ね回り、すり抜けながら、イオアンナは声の主を闇夜の視界に収めた。
声の主──少女は、土レンガの壁を背に座り込み、虚ろな瞳で夜空を見上げていた。
哀れなほどにやつれ、疲れ切った顔をしているが、本来ならばそこそこ見られた容貌をしているであろう、東洋系の顔立ちの人間。
その少女のつぶやきが、イオアンナの耳に届いた。
内容は、彼女には明瞭に聞き取れた。日本語である。
「大きな星がついたり消えたりしている。ウフフフ、大きいなあ……彗星かなあ。ううん、違う、違うよね。彗星はもっとバーって動くもの……つらいなあ、誰かここから出してくれないかなあ……」
今の夜は曇天であって、新月から三日月に近い月だけが僅かに明かりとなっている。星はイオアンナの吸血鬼たる視覚でも見えないほど雲は濃い。
何か、よくない幻覚を見ている様子であることは、すぐに分かった。
「出してくださいよ、私の白馬の王子様。私だけの、神聖な人殺しの人……ねえ……うふふふ」
本当に、心底いけない幻覚を見ているようだ──と、イオアンナは察した。
ともなれば、いよいよをもって、あのわめくキチガイと同様「救済」してやるのが、せめてもの慈悲ではないか。
イオアンナは吸血衝動にそんな大義名分を与えながら、その少女に歩み寄る。
(あら……?)
しかし、近寄るに至り、イオアンナはある強烈な事実に気付いて、にわかに足を止めた。
(ひょっとするとこの子……)
その直感がもたらしたものに、戸惑いながら手で口を覆った。
(もしかして私と同じ〈烙印者〉?しかも、吸血鬼?え、ましてや私に近い性質の?)
彼女は眼を細め、その眼が持つ別の知覚で、少女を見直す。
魂魄に刻まれたルーンが確かに彼女が〈烙印者〉であることを明かしていた。そして強く困惑する。
(本気で?本当に?……こんな弱々しい〈烙印者〉これまでに見てきたことあるかしら?……)
またの名をイェンダーの呪縛とも言われる〈烙印者〉は、同じ宿業を持ったもの同志として、しばしば時空間の所在を共にし合うことがある。そうなる場所もおおよそに定まっていて、取り分けてこの「辺境の地」が、あの内郭が遭遇の場となる。これは、先ほど「白馬亭」でもイオアンナ自身が口にした通りである。
そんな彼女は、これまで数百名に及ぶ〈烙印者〉に、格を上下を問わず出会ってきた。
上を見れば、既に「サーペントの功業」を成してその瞳を奪い、『勝利』を成した者。しかも、一度ならず、再度三度と〈烙印者〉になることを選び、複数の瞳を得て、今や並みの神や魔を凌ぐ存在となった先達も、指折り数えるほどとはいえ見知っている。
その一方で、下を見れば有象無象。ただの「タフ気取り」と「アホ勇者」──
何度死しても、その死因たる蛮勇と愚昧を捨てられず、〈烙印者〉の歪な不死の中、己の存在そのものが摩耗していることすら気づかずに正気を失っていった無能ども。
彼らが、やがて摩耗の果てに〈忘却界〉へと消え去っていった有様も何度か見てきた。
かくのように〈烙印者〉の格と、その悲喜劇は様々である。しかるに、この娘はどうか──
後者、その底辺には違いないのだが、もう一つ底が抜けているというべきか。
先に述べた〈忘却界〉逝きの無能は、それはそれで無能なりに腕や知恵自体が半端にあった。しかし、この娘にはそもそも、それすらもが欠片もない。
まず、いで立ちからして、既に荒事に向いたものでなかった。何か勘違いをしているのでなければ、この少女の服装はイオアンナの知る限り現代地球。その先進国社会で、ごく自然にありふれた。人工繊維の洋服である。刃も銃弾も防ぎようがない。
そして、先の狂気のつぶやきが日本語である以上、十中八九この少女は日本人である。ごく平均的な、平民と思しき者。
万が一にも、それに擬した諜報員であるとか、工作員であるとか、はたまた何らかのやくざな無頼であるとか、そういう要素を欠片も掴むことは出来ない。
どこまで行っても極々、すがすがしいまでに平凡な女である。
であるのに。
イオアンナの思考は、重ねての困惑を極めた。
そんな平凡な少女からどうして、〈烙印者〉のみならず、己と同じ眷属の血の香り──「吸血鬼」のそれが確かに感じ取れるのか?
正直吸血鬼としての格においても、下位も下位。その外見に違わぬ年数しか生きていないとも思われるのだが、紅い瞳、白い死人に近い肌の容貌、何より鼻先から嗅ぎ取れるものがまぎれもなく、イオアンナと同質の体質を示していた。
ここまでの相手に及んで、イオアンナの中で、わめくキチガイの血を吸った後の「口直し」の目的は既にその脳裏から揮発し果てていた。
イオアンナは、狂気のうわごとをブツブツと───解釈によっては艶やかと言えなくもない声色で口にしている彼女を、左手で胸倉を掴んで立たせた。
抵抗するそぶりは一切見せない。イオアンナと似た色をした紅い眼は虚ろなままどこか別のものを見ている。
イオアンナはさらに右手で、彼女の黒く癖のない長髪──されど今は手入れなく傷んでいるそれを振り払い、頭を傾かせて首筋を露わにさせた。
血を吸うために、イオアンナは発達した犬歯をその唇から曝け出す。
これからやること自体は、彼女の首にその犬歯を突き立て血を吸う。そこまでは実のところ変わらない。
だが、そこからの目的が変わっていた。
これからやるのは、彼女の血を吸い、その命を奪い尽くすのではない。
「瀉血」による精神の治療である。
あくまで治療として、彼女から精神に悪影響を及ぼす魂魄や記憶だけを、血とともに選択的に丁寧に抜き取るのだ。
イオアンナの生まれ育った地球世界史の「中近代」において、大雑把かつ非科学的に行われていた瀉血ではなく、あくまで己の吸血鬼としての超常の能力を応用したものとして。
先のわめくキチガイからの吸血は、たとえるならナイフとフォークで、筋と脂身だらけの不味い肉をがつがつと喰らったに等しい。
一方、今回のそれは──麻酔を施したうえでメスや鉗子を揃え、丁寧に患者の腫瘍を取り除く手術のようなものだ。
そのくらい、隔たった境地である。
イオアンナは少女の首筋の静脈を丁寧に探り当て、口元を寄せると、静かに鋭い犬歯を噛み入れた。
その瞬間、にわかに少女は全身を海老反りに仰け反らせる。
首筋から己の口腔が離れぬよう、長身のイオアンナの膂力が、その身体をしっかりと押さえ込む。ここまでは、当然あり得る身体反射であった。
しかし、次が想定外だった。
少女は首筋に感じた感覚からか、先ほどまでの虚ろな表情から一転。苦悶なのか悦楽なのか、どちらとも取れないほど強烈に歪んだ表情を、白磁のような顔に刻み込むと、口をぱっくりと開けて大声を張り上げた。
「ッんんほおおオオオオんぉ!」
あまりにも強烈、かつ下品な艶声。そして、尊厳という概念を欠片ほども感じさせないほどに滑稽な表情。
(ちょっとちょっと……それなりに可愛いらしい顔と声で、なんて有様よ……)
千年を生きてきたイオアンナですら、およそ内心の動揺を抑えきれないほどの勢いだった。その芸術的なまでの惨めさは、イオアンナが長らく蓄えてきた性癖──加虐心をそそり立たせるものであったが、今はそういう遊びをするつもりはない。
細やかな制御が求められる吸血を乱されぬよう、一拍遅れて彼女の口を手で塞ぎ、どうにか夜の外郭にこれ以上珍妙な絶叫が響き渡らぬように計らう。
(治してあげるんだから、ちょっと大人しく、いい子にしてなさいよ、ね?)
少女の静脈に達した歯に意識を集中させる。
血と肉に直に触れた状態から、彼女の今の心身の状態を、つぶさに読み取る。
(あーあ……酷いわ。これは、見事なまでにドロッドロ……)
思わず嘆息したくなるような感想が浮かんだ。
この少女の精神は、やはり絶望的なまでに淀みきっている。
これほどまでの淀みぶりは、ほとほとに弱い〈烙印者〉でなければ有り得ない。すなわち、身に降りかかる火の粉の数々に対して悲しいほど無力でありながら、〈烙印者〉としての呪われた不死性だけが、その身と心を中途半端に復元し続けてしまう。そんな事例でなければ。
その結果として、濃縮されたかのような絶望が、彼女の精神にはべっとりと貼り付いていた。
(主観時間一年にも満たない間に、私の倍は死んでいるわね、これ……どうしましょ、本当に)
どうもこうもなかった。結局のところ、どれだけ濃く、どれだけ複雑に淀んでいようと、丁寧に絡み合った糸を解きほぐしながら除去していく他にないのだ。
血の中を流れる彼女の淀みを、ひとつひとつ精査していく。
その中でも、とりわけひどい淀みが流れ込んでくるたびに、それを血とともに吸い上げ、舌先で転がしながら、霊性を帯びた味覚で判別する。
そして、彼女の心身の維持に必要な「生命」と「正気」の本質だけは、逆に犬歯から押し流すようにして彼女の体内へと戻してやる。
口中に残った、さらに濃縮された淀みの血だけを、イオアンナは嚥下した。
吸血鬼としても、真に古老でなければ成しえぬこの芸当は、イオアンナに予期せぬ余禄をもたらした。
(美味い……なにこれ、すっげ、うっま!美味いごっつう美味えべ!)
己の心中で、ブルガリア貴族となって久しい気品が剥がれ落ち、生まれた土地の貧農としての核が、田舎の賤民丸出しの感想を漏らし出す。
それほどの甘露が、イオアンナの口に芳醇でありながら、しつこさのない至高の味わいをもたらしていた。
(そういえば私、吸血鬼の血は同種異種問わず吸ったことがあるし、〈烙印者〉の血も酔狂で吸ったことはあったけれど……ほぼ同族の吸血鬼で、なおかつ〈烙印者〉の血を吸うなんて合わせ技は……これでようやく『二人目』かしらね?)
「一人目」の体験と比較するに、それが直接の原因ではないのかもしれない。たまたま、この少女の肉体と精神性が、イオアンナの味覚に極めて心地よいものであるだけなのだろう。
ともあれ「他人の不幸は蜜の味」という言葉を、今この事態ほど文字どおりに体現している状態はそうそうないことだろう。
少女の淀みは、それほどまでに美味であった。千年を生きた吸血鬼が、これまで味わったことのないほどに。
(ああ、たまらない。全部吸ってしまいたくなりそうだけど……ここは我慢して、治療よねえ)
ここで〈烙印者〉としての同族の血を貪り吸い尽くしてしまえば、次に生まれ変わった時点で、彼女は完全なる廃人と化すのは不可避。その次には〈忘却界〉へと消え去るほどの損傷を負うだろう。
それは金の卵を産む雌鶏を絞め殺すに等しい愚行である。
(はいはい、ちゃんと治してあげますからねえ)
生命の維持と正気に必要な精髄を、丁寧に彼女の血中へと戻しながら、イオアンナの治療は続いた。
途中、外敵のいない場所へと移動するための中断を挟みつつも、数十分にわたる作業であった。
治療を終えるに及んで、少女の顔には最早虚ろさも、加虐心をそそるような滑稽な苦悶の表情もない。今は心地よさげに、すうすうと寝息を立てるようになっていた。
イオアンナの内には、徒労感は微塵もなく、ただ心底からの感謝の念が広がっている。
(はあ……美味かったあ……名前もまだ聞いてないけど、最高よ、あなた本当に最高!)
吸った淀みの中で、彼女がどれほど〈烙印者〉としても吸血鬼としても、出来が悪く、そしてそのためにどれほどの悲惨な受難を被ってきたかが、言葉を介さずに深く、実に深く理解できた。
これは庇護しなければならぬ。
イオアンナの欠片に残る良心と千年に渡り肥大した欲望は、今まさに全く同じ結論に至り、厚く拳を握り合っていた。