ヴィーヤウトゥムノ伯国鉄獄覚書   作:松永闇斎

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逝き過ぎるということ ~恐怖!吸血女子短大生 VS 怪奇蛆虫爺~ (2)

 イオアンナは、外郭で治療した日本人と思しき少女を、寝入ったまま辺境の地の内郭へと連れ込んだ。

 行く先は、オティックの裔たるオティックの白馬亭。つい一刻前にからかったばかりの店主の下である。

 思わぬ厄介客が戻ってきた様子を見るなり、オティックは「いつかやると思っていました」と言わんばかりのお道化た調子で声を上げる。

「おお、テメエ……とうとう食っちまったのかよ、内郭の市民をよお」

 少女の身に着けている、薄汚れているなりに仕立ての良い現代の人工繊維の服は、確かにまっとうな市民のものと見えなくもない。

 だが白馬亭の主人、すなわち辺境の地の耳目の一人たるこの男が、余所者か否かに気付けぬほど鈍感で、間抜けなわけもないのだ。

 イオアンナは鼻で笑う。

「冗談じゃないわよ。そんなふうに見える?この子は私と同じ〈烙印者〉よ。外郭でとち狂ったまま『大きな彗星』だの『人殺しの王子様』だの求めてたから、正気に戻すためにあれこれ介抱してあげたの」

 耳を掻きむしりながら、オティックは興味があるともないともつかぬ態度で応じる。

「そうかい。よー分からんが、まあ内郭で面倒を起こしてねえんなら、それで結構だ。素泊まりは一部屋、銀貨十枚な。分かっちゃいるだろうが、血で汚すような真似しやがったら出禁だぞ」

 イオアンナは懐から、手探りだけで銀貨十枚を取り出すと、片腕で少女を抱いたままカウンターを軽く叩くように置き、宿の奥へと入っていった。

 汚すな、と言っても詮もないほど、最初から薄汚れている木賃宿である。血の汚れはそれとは別の類だ、と抗弁されればもっともではあるが。

 ともあれ、その空いた一室に入ると、木で出来た安っぽい閂で施錠を行う。寝台に少女を寝かせて、その覚醒を待つ。

 イオアンナ自身は寝台の横の机に腰を下ろし、しばしの沈黙の時を過ごした。

 ──────

 程なくして、少女はその眼を開いた。

 だが、開いたきり瞬きをするばかりで、その他の反応はない。緊張も警戒も、高まっている様子は微塵もなかった。まだ寝ぼけているかのように、木目の天井を呆然と見つめている。

 やがて彼女は上半身を起こした。

 ここに及んでようやく、自分がなぜここにいるのかという根本的な疑問に思考が及び始めたのだろう。反射的に周囲を見回し、斜め後ろにイオアンナが座していることに気付く。

 きょとんとした表情で、少女は先ほどの狂気の只中と同じく、日本語で一言ぼやいた。

「王子様?」

 イオアンナは、軽いくしゃみをするような息で笑った。

 まあ、確かに図らずも救いの王子様の役をやってやったことにはなるのだろうか?

 元々は赤ずきんと祖母を無残に食い散らかした、まさに狼の如き性根で歩み寄ったのであり、今後も事と次第によってはそれをもしのぐ野獣として、彼女を「家畜」のごとく食み続ける気が満ち満ちているのだが。

 されど「王子様」──王子様、か。千年級の吸血鬼にとって、年甲斐もない琴線ではある。そう呼ばれることに、わずかばかり自尊心をくすぐられるのも、また事実だった。

 そんな心持ちとともに、イオアンナは「王子様」らしい作り笑いを浮かべつつ、日本語で返事をしてやった。

「そうね。確かに貴方がうわ言で求めていた……人殺しが大好きで大好きでたまらない王子様、みたいなものよねえ、私は、うん」

 眠たげだった少女の表情に、少しずつ確かな意識が戻ってくる兆しが見える。

 それにともなって、次第に己が呟いたうわ言が、羞恥すべき言葉であることを理解し始めたのだろう。

 寝台からばたつくように飛び上がり、全身をイオアンナの正面へと向けて寝台に座ると、深々と頭を下げた。

「あ、ご、ごめんなさい!」

「お目覚めのようね」

 イオアンナの作り笑いが、自然な笑みに移り変わっていく。愛玩動物として見るに、この上ない振る舞いを見せてくれたために。

「何だか、とんでもなく恥ずかしくて、悪い夢を見ていた気がするんですけど!?あなたがどなた様かも存じ上げませんが!その、なんというか、すっごい助けてもらったような、そんな感じだけはすごくするので……その!ありがとうございます!」

「よくてよ、よくてよ」

 期待どおりの態度を示したことに、イオアンナは内心ほくそ笑んだ。

 先ほどの「瀉血」を施しているあいだに、彼女の精神から絶望と狂気を奪い去るだけでなく、少し「足して」おいたことも上手く作用している。

 いわゆる刷り込み──イオアンナがこの上ない恩人であること──を、己が唾液とともにその心身に思い知らせておいたのだ。

 魅了や洗脳の類と言えばその通りだが、その絡繰りを誰であろうと非難されるいわれはない。彼女を救ったことは厳然たる事実であり、万一にも敵意を向けられてはたまったものではない、と保険として施したに過ぎない。

 そもそも、その気になれば、瀉血のやり方ひとつで、彼女を完全な物言わぬ傀儡から、イオアンナを永遠の主人のように慕う犬ころに至るまで、どのようにでも仕立て上げることができたのだ。

 ついでに言えば、その尊重と丁寧を尽くした瀉血の最中に、イオアンナは彼女の記憶そのものから、身元の概略も把握していた。

 名は、羽津朱音。

 少なくともイオアンナと「ほぼ」同じ地球出身の日本人。歳は少女と思っていたが、ちょうど二十歳成りたてであるらしい。

 とはいえ、それを既に知っていると直截に告げては、せっかく素直にさせた状態に妙な角を立たせかねない。

 一切を知らないふりをするように、イオアンナは己の故郷の公用語で話し始めた。

「あなた、見た目は東洋系に見えるけれど……何人なのかしら?私の『現代ラテン語』は聞き取れるかしら?」

 話を順につなぐために、あえてそう問いただす。

 朱音は、はっとした表情を浮かべたのち、たどたどしくも確かに答えた。

「はい……ちょっとだけ、きけます。私、日本人です……」

 改めて、この少女がイオアンナと同じ地球の生まれであることは確認できた。

 だが、同じ地球生まれで、ある程度言葉が通じるからといって、「どの歴史をたどった地球」かによって、その出自の本質は大きく異なる。

 これは、これから彼女にどういう態度を取るべきかを考えるうえで、イオアンナにとって大いに留意すべき要素であり、先の瀉血のあいだには読み取りきれなかった微妙な部分でもあった。

 イオアンナは、相手に問いただすべき項目をあらかじめ頭の中で組み立て、順に尋ねることにした。

 改めて、己の知っている「日本語」で問いかける。

「あなたが言った通り、私はあなたを助けたわ。これからも、もう少し手助けしたいと思っている。だから、これからあなたにとっては随分と変なことを聞いてくるように思えるでしょうけれど、疑問は一度脇に置いて、真面目に答えてちょうだい。いいかしら?」

「え……はい」

「いい子ね。それでは──」

 イオアンナは、日本人──朱音が落ち着きを取り戻すのを待って、質問を開始した。

「一つ目。あなたの世界の『シナ』と呼ばれる地域には、今も皇帝位は存続している?いない?いるとしたら、どんな王朝を名乗っている?」

 確かに変な質問だと、朱音は怪訝な顔をしながらも答えた。

「……ええと、第三大明帝国……です」

「そう、よろしくてよ。二つ目、あなたの故郷の歴史──『日の本』の十六世紀から十七世紀のあいだに、最初の近代国家をつくり上げた組織の名前は?」

「あ……その、ええと、多分、豊臣摂関家のことです」

「それも、よろしくてよ。続けて、三つ目。二十世紀に『世界大戦』は何度あって、どの陣営がどう争ったか分かる?」

 いよいよ不思議そうに、朱音は答えた。

「え?あれ?そのう……世界大戦って、一回だけじゃないんですか?争ったのは、太平洋三帝協商と、トラキア合衆国の西ユーラシア連合で……」

 その振る舞いも含めて、イオアンナは内心で安堵した。

 少なくとも、政治的な部分でも助けて気分の良い生まれの少女であることの確証が取れたからだ。

 つらつらと答えを重ねる。

「そう。それで、あなたの日本──大日本帝国の現在の首都は大都会岡山。今の同盟国は依然として第三大明帝国と、正統アメリカ帝国の『太平洋三帝協商』……どれも一応、制度としては立憲君主制を取っている。それで間違ってないかしら?」

「はい……そうです。そうですけど……」

 なぜここで世界史の口頭試問を受けているのか、と言わんばかりに、少女は困惑の色を浮かべる。

「話が早くて助かるわ。同じ地球から来たと言っても、どういう歴史を経た生まれかによっては、色々と面倒になるんだもの……あなたは私とほぼ同じ歴史の生まれで、三帝協商改め、三帝連合の国民と言っても、私の祖国とは和約を果たした後の歴史と時代で育っている。なら、まあ、その辺の面倒はなさそうね」

 朱音は、置いて行かれているような調子で問い返した。

「?……ごめんなさい。よく分からないのだけれど、あなたのお名前は……」

「あら、人に名前を聞く前には、自分が名乗るべき。それは、大抵の歴史と土地で共通のマナーじゃないかしら?」

 既に知っていることを、あえて意地悪く問う。

 それを言われて、至極申し訳なさそうにうつむいた少女は、詫びを乞う調子で答えた。

「あ、あ、ごめんなさい!私、朱音!羽津朱音です!さっき言ったとおり、日本人の……平民で……でも、母方のひいお爺ちゃんまでは浅野系の華族でした!」

 白々しく、イオアンナは答える。

「初めまして、朱音。ちゃんと言えるようね。私は、イオアンナ・ゾフィ・ラストゥラキスカ。貴方も知っているであろう、トラキア合衆国のブルガリア人。一応まあ……そこの、ちょっとしたお偉いさんよ」

 それを素直に信じた様子で、神妙に朱音は何度ともなく頭を下げる。

「た、大変なご無礼を冒しました!お許しください!」

 流石に卑屈すぎる様子が、却って心苦しくなってイオアンナは訂正した。

「いいのよ、無礼も何もないから。お偉いさんの貴族なのは確かなのだけれど、少なくとも表に出ていい立場ではないの。私は」

「それは、どういうことなのでしょうか?」

 朱音は、敬語で素朴に尋ねてきた。

 どうにも自分自身がそれであるという意識が、死人のような白い肌をしている彼女には自覚がないらしい。

「この白い肌と紅い眼はメイクなんかじゃないわ。私は『吸血鬼』なのよ。我々地球人類の中に存在し得る、一種のミュータントとしてのね。しかも齢はもう千歳を超えて生き延びてきた、古老も古老の域よ」

 イオアンナと朱音の地球世界史では、民間伝承や陰謀論──と破棄するには色々曰くつきな程度に、それでも少数の有識者や権力者にしか実在と実態は明かされていない存在であった。

 ゆえに朱音は心底から感心するようにつぶやく。

「ええー……本当に、居たんですね……吸血鬼」

 己がそうなっていることの自覚は、いよいよもってないらしい。さもありなん。これもイオアンナが瀉血の間に彼女の記憶からは、その経緯素性を把握できなかった情報である。

 これ以上はらちが明かないと、イオアンナは明かした。

「そう、本当に居るのよ。吸血鬼は。それも〈烙印者〉っていう、多元宇宙を彷徨うサイエンスフィクションじみた存在にまでなってしまう。異端中のさらに異端みたいな存在すらいるものなの。それが私だけでなく、二人も、三人も居たりなんかしちゃってねえ」

 朱音はいよいよ目を丸く、いささかに好奇心を抱いている様子で頷く。

 とうとう呆れた気分にもなってイオアンナは明かした。

「あなた、自分がその『三人目』って、自覚はないの?」

 ──────────────────────────────

「え?」

 しばらくの間、思考停止した間抜けな表情をした後、ようやく己に話題が行き当たっていることに朱音は気づいた。

「私が、吸血鬼?え?……それと、『スティ』……なんですって?」

 全く要領を得ていないことに、イオアンナは内心に驚き呆れる。

 長いが、ゆっくりと、丁寧に諭す。

「考えて御覧なさい。今は真夜中よ。この部屋の中の暖炉は灯してないから、光源と言えば、夜の三日月にも満たない月だけ。そんな暗闇にしては、随分と周りがはっきり見えるようには感じない?ついでに言うと今は秋も終わりかけて寒季に入りかける季節なのだけれど、それにしては肌寒いともあまり感じられないんじゃないの?」

「え、え……?」

 何か理解を拒否するかのように、朱音は頭を横に振り、長い髪を振り回す。

 イオアンナはもう一押す。

「そもそも自分の手を、肌を見て御覧なさい。今が月明りだとしても、余りにも白いと思わない?」

「あ、あー」

 己の両手のひらの色を見ながら、間抜けな声で明らかに混乱しはじめた朱音の頭をイオアンナは軽く小突く。

「私が『介抱』する前の錯乱に戻るのはちょっと我慢なさい。落ち着いて聞いて頂戴」

 ごくりと唾を飲んだ朱音は、縋るような上目遣いでイオアンナを見つめる。まさに怯える子犬のそれである。

「私たちの世界の二十一世紀初頭までに、科学的に判明している事実を教えてあげるわ。私たち吸血鬼が生まれるのは、常に先天的な遺伝と、後天的な影響が合わさったもの。ただ、いくつかあって前者と後者の配分が違うの。あなた大日本帝国の公共でそこそこの教育受けているでしょうから、ここまでの意味は分かるわよね?」

 朱音は無言に頷いた。

「いいわね?それで、あなたの場合は、生まれた時点では完全に人間。それで真っ当にご両親にでも育ててもらったんでしょうね。ただおそらく、数代前にはかなり強力な吸血鬼の発現者が要る程度に因子が濃いのよ。あなた浅野系の華族の末裔って言ったわよね?」

「はい……」

「その氏素性、浅野は浅野でも、『博多浅野氏』?」

「はい。そうです」

 眼を細めて、イオアンナも頷いた。心当たりのある、全く鬱陶しい同族の知己の面が、その面影が、この娘にあると言えばありそうで、ないと言えばない。顔つきに関しては微妙だが、彼女自身の証言そのものが少なからぬ証拠にはなる。

「よくてよ、よくてよ。それで、あなた……現実、いえここも現実なのだけど、元の現実──元の地球でなんかとんでもない事故か、重病にでもかかったりしなかった?」

 朱音はかっと紅い眼を見開いた。

 先ほどの瀉血で抜いた、絶望と狂気が残った記憶からいくばくか復元されたのだろう。流石に、それでまた再度発狂されては困るが。

 朱音は蘇ったらしき記憶に一時痙攣と動悸を起こしたが、幸いにも落ち着きを取り戻し、苦い現実を飲み込むように今一度唾を飲み込み、答えた。

「はい、私あの夜……大学の帰り道に国道のダンプに……」

「そう、それよ。交通事故ね。それであなたは瀕死の重傷を負った。そこで、身体がショックと自己救急のために、吸血鬼の形質を初めて発現させたのよ。症例としては、まあ、まだありふれたケースね」

 その時の状況をさらに細かく思い出したのか、朱音は身震いした。

 しかし、さすがにこれ以上、狂気の中へ逃げ込むことは──幸運にも、不幸にも──できないようである。

「そうよ、そこまではまだありふれているのよ。だけど、だけどね……よりにもよって、そこから間を置いたのか、置いていないのか預かり知らないけれど、同時に〈烙印者〉になっているってのが、ちょっと、ねえ……。出来すぎといえば出来すぎで、悪いのだけれど、不幸と言えば不幸でねえ」

 どこか諦観とも苛立ちとも思える声色を含ませて、朱音は尋ねる。

「吸血鬼は、まだ、その……信じられないけど、分かりますよ。でも何ですか、その『スティグマティック』ってのは?……」

「──Stigmatic、即ち〈烙印者〉──あなたが、吸血鬼になるだけじゃなくて、こんな見知らぬ世界にまで飛ばされて、挙句、気が狂う羽目になった原因よ。『白羽の矢』としては、こちらの方がよりいっそう稀で、かつ深刻なことにね」

 イオアンナは、ずいと顔を朱音に近づけて問うた。

「辛いでしょうけど、まだまだ飲み込みなさい。いい?」

 朱音は、再度、無言で頷いた。

「あなた、その事故にあった直後でも、そこからしばらく間を置いてからにせよ、一時は死に瀕しながらも、意識は多分、はっきりした状態にあったはずなのよ。吸血鬼体質が発現して、命を拾ったんでしょうから。そこからの記憶を、どうにか思い出してちょうだい」

「え、ええと……」

 右手を額に当てながら、朱音は自分のたどった苦痛の記憶を探る。

「クラクションの音のあと、跳ね飛ばされて、壁面か何かにめちゃくちゃに頭を打ったんですけど……それにしては、確かに妙に痛みは感じなくて、思考ははっきりしてて……ダンプカーの運転手が一応、降りて来て……でも、なんかそれに混じって、妙な人影があったような……」

 イオアンナは、その証言に溜息をついた。

「そうね、それよ。その人影よ。その人影……黒づくめのフードに、何か白く眩い装飾をジャラジャラさせた、どこか『魔法使い』めいたものを感じさせるような装いではなかった?」

 腑に落ちるような表情で、朱音は肯定した。

「ああ、確かにそんな恰好だった気がします。なんか顔こそ骸骨じゃなかったけど、死神か何かなのかなあって……そんなふうにボヤっと考えていた気がします……」

 イオアンナもまた、呆れるような納得感と共に、一つ溜息をついて応じた。

「やっぱりねえ。ありがとう。大体、理解できたわ」

「その、お知り合いか何かなのですか?」

 面白い冗談だと、鼻で笑いながらイオアンナは否定する。

「知り合いじゃないわ。まあ、例えるなら、契約を結ぶためにたまたま社交辞令を交わした程度。ただのビジネス相手よ。それも、死神だって全裸で逃げ出すような、性質の悪い商売人」

「……」

「それでまあ、本当にごめんなさいね。あなたに、どこまでも残酷な事実を重ねて突きつけないといけないのだけれども……」

 それを聞いて、朱音は何か確信めいたものを覚悟して受け入れているとも、どこか夢心地のままで、自分自身の現実から遊離しているともつかない無表情を、イオアンナに向ける。

「結論を言えば、今の貴方はもう元の生活には戻れない。かと言ってここで死んで終わることすら許されなくなっている。ただ死に続けて死よりも悍ましい滅びを受け入れるか、その猶予の間にどうにか苦しい道を超えて、宇宙的栄達を得るか。あなたにとっては恐らくは億に一つの可能性を掴むしかなくなってしまったわ」

 確かに、帰納的に判断できる事実を告げた。

 これまでの薄弱な調子を省みるに、ここで受け入れられずにパニックを起こすか、あるいは、その愚鈍さゆえにいまだ理解が及ばないか。

 イオアンナは、凡庸そうなこの少女が、そのどちらかの反応を示すと予想していた。

 しかし、その予想は殊のほか良い方に外れた。

 朱音は、いつしかその幼げな顔つきには似つかわしくない、思った以上に成熟の感じられるしかめっ面をつくると、天井をじっと見やった。

 イオアンナの目には、〈烙印者〉となってからの忌まわしい苦痛と死の記憶を思い返しながらも、どこか正気を失うまいと耐えているように映る。

「ごめんなさい、ちょっと、ちょっと待っててください……」

 天井から視線を外すことなく、嘆きとも恨みとも知れぬ表情のまま、朱音は誰にともなく、ただ時間を求めた。

 無論、その内省を邪魔するような無意味な悪意は、イオアンナに一片もない。

 軽く頷き、時を待つ。

 しばし、沈黙が流れた。

 木賃宿の薄い壁を通して、夜闇に明らかに正気でない喚き声が聞こえる。先ほどイオアンナが喰らったわめくキチガイとは、また別種の狂人のものだろう。

 「うるせえ、屑が」という声とともに暴行の音がして、やがて外は静かになった。

 そのあと、数十秒ほどして、犬の遠吠えが数度。

 さらに、木賃宿の天井裏で、恐らく猫が入り込み、すぐ去っていったような音。

 そのあいだも朱音は天井を見上げたまま、時折まばたきと、吸血鬼となった者特有の小さな呼吸音を聞かせるだけで、微動だにしない。

 イオアンナが察するに、それは些細な現実逃避でもなければ、まして自ら望んで妄想や狂気に飲み込まれようという仕草にも見えなかった。

 所詮、東洋の文化など知識と一時の体験以上には知らぬし、朱音自身がそれに熟達しているとも思えないが、いわゆる「禅」の境地やらに至ろうとする試みに、どこか近いものがあるのかもしれない。

 いずれにせよ、しかめ面がほどよく和らぎ、適度な緊張を湛えた表情へと落ち着いたころ、朱音はぼやくように口を開いた。

「何か色々としっくりくるように思い出してきました……今でも、下手に鮮明に思い出そうとすると吐き気がしたり、泣き叫びたくなるような気分になりそうですけど……なんとか、まあ」

 その謙虚でありながら、どこか腹をくくった落ち着いた姿勢に、侮蔑や嫌悪を感じる要素はない。

 イオアンナの返答も、自然と柔らいだものになった。

「無理はしなくていいわ。正直、今のこの振る舞い──あなたを外郭で見つけた有様から治ったにしては、上出来の上出来よ。あなたの精神は、『死に戻り』過ぎて、もう末期癌か何かというくらいには蝕まれていたから、大分『荒療治』したの。そこから今の状態まで落ち着いたのは、純粋なあなたの精神力の賜物に他ならない。誇っていい」

 朱音は天井から視線をゆっくりとイオアンナへ向け直し、無言で会釈する。

 ──何ということか。実にいじらしい。

 イオアンナに残り滓のように残っている良心と母性が、疼いてしまうほどに。

 ただの美味い血の餌食にしか思っていなかった己を、いささかながらも恥じてしまう。

「ただ、すいません。整理したいんです。その、もう一度、色々じっくり教えてください。私は一体どうなっちゃったんでしょう?……あの事故の時に見た不審な影に何をされたと仰いますけれども……そもそもここはどこなんですか?」

「いいわ、何度でもじっくりと教えてあげる。そうでなきゃ理解できるはずもない事態であるし」

 心から善意を振り絞って、イオアンナは静かに応じた。

「まずあなたは、元の地球──生まれ育った土地で交通事故にあって、それが原因で吸血鬼になったわ。この時点で信じられない、馬鹿げた話って思う輩もいるでしょうけど。生憎、各地の民間伝承からそんなに外れてない通りの生き証人が、貴方の目の前にいる。これが現実であり事実よ」

「そのう、聞き間違いでなければ、先ほど千歳超えていらっしゃるって……」

「ええ。生まれ育ちは西暦十世紀末、当時のブルガリア地方寒村のどん百姓。私の場合は、心根の腐った吸血鬼の気紛れに血を吸われて因子が発現したわ。そこからは……まあ、婆さんらしい長話になるから今は止めておきましょう」

 人外となってからの恩讐様々な者たちへの応報、自他共に認める貴族に叙されるまでの遍歴、諸国の暗部の立役者になるまでの武勇伝。そんなものはいくらでも口にできる。だが、それを誇るどころか、数々の疚しいことを包み隠しながら、口にできるほどに自己陶酔ができる性根でもない。

「今はまず、貴方が自分自身を理解すること。いい?ここまでなら、貴方の不幸もまだ、そこそこと言ったところよ。吸血鬼になってしまった者のその先ってのも実に千差万別でね。大体は不幸な末路だけれども、それ相応の生き方を成立させて、常人を超える寿命を謳歌する者も、私を含めていないわけじゃないから」

 真剣な表情で朱音は頷いた。

「大事なのは、ここから。あなたはさらに二重底で、より深刻な落とし穴に叩き落されてしまったわ。その元凶っていうのが、貴方がダンプで轢かれた間際に見たという、死神もどきの存在よ」

 うつむき、己の額に手を当てながら朱音は苦し気に告げる。

「とにかく、現実味のない浮ついたような何かでした……」

「それはそうよ。アイツラは『イェンダーの魔法使い』って言ってね。多元宇宙中の知的生命体が存在するあらゆる時空に姿を現す……まあ、一種の愉快犯とカルト集団の合いの子みたいな存在なの」

「イェンダー……多元宇宙……」

 聞きなれぬ言葉を噛み砕こうと朱音が反復する。

「そう、イェンダー。私たちのような地球の人間の過去未来だけじゃない。あらゆる有り得た並行世界の歴史上や、それすらとも繋がってない全くの異世界まで──それら多元宇宙中に姿を現して〈烙印者〉となる者を集めているのよ。そして、多分なんだけれど、物珍しさか何か、ただそれだけの理由であなたを全くの別世界であるここに、やはり〈烙印者〉として叩き込んだのでしょうね」

 己のさらなる不幸の根源に対して、自然と怒りと嘆きのこもったような声を朱音は漏らした。

「そのイェンダーって魔法使いたちは、どうしてそんなことをするんです?」

 イオアンナは肩を竦めて言った。

「そればかりは、アイツラの狂人ぶりと秘密主義が極まっていてね。推測以上はできないわ。それこそ、多元宇宙中を権力争いの渦中にする、そんな半端な神をしのぐような存在達が考えていそうなことのあれこれね。ただ言えるのは」

「言えるのは?」

「私たち〈烙印者〉となった者たちが、ある一つの確かに莫大な力をもたらす目標に向けて、邁進しようとする。その行為自体が、多元宇宙中を引っ掻き回す。それを是として動いている。それは確かでしょうね」

「目標?こんなところに連れ去られた私に目標なんてもの……」

 朱音の顔をじっと見つめてイオアンナは滔々と語る。

「あるわ。それは私たちが〈烙印者〉となった以上、最後の最後、忘却界に至る完全な滅びの道の瞬間まで、思い出そうとすれば、きっと思い出せてしまう。さっきあなたを『外郭』で拾った時に、あなたが陰鬱な狂人に陥っていた状態でも、恐らくは心の片隅に捨て置かれつつも残っていたはずのものよ。もう少し落ち着いて、内省的になって御覧なさい。自分が心底何が欲しいのか、それを思い浮かべてみるの」

 朱音は、それを素直に聞き入れると、先ほどと同じように天井に顔を向けながら、今度は強く目を瞑って無言に至る。

 今の自分が、何が欲しいか?

 それは当然元の生活だ。大都会岡山帝国女子短大の文学部として送った、平穏ながらも友人たちに囲まれた日々。

 親友たちは───杏は、京子は今どうしているのだろうか?自分がダンプに轢かれて死んで、父母と共に泣かせてしまってはいないだろうか?

 いや、そもそも自分の身は今こうして、どうにも異世界とやらに迷い込んでしまったから、失踪事件として扱われて、それで皆を心配させていることになるのだろうか?

 一方で今の現実に対する懐疑の念も浮かんでくる。

 吸血鬼?今の自分も、目の前にいるイオアンナと名乗った真っ白な肌と真っ赤な目をした西洋美人も?馬鹿馬鹿しい。ひょっとして、手の込んだ、それでいて悪趣味でつまらないドッキリに今も自分は乗せられているのでは?

 だが、幾度となくフラッシュバックする、夜中の交通事故の記憶がそれを否定する。

 やはりあの時生まれこのかた味わったことのない激痛と、そこから自分の身の内から変質した現行の身体感覚が、ペテンのようには到底思えなかった。

 それより、眼前のイオアンナが告げた「イェンダー」なる死神より馬鹿げた集団、誘拐犯の理不尽に怒りが浮かぶ。

 彼女の言うことが本当ならば、なぜよりもよって私を、こんな全く右も左も与り知らぬ世界に放り込んだのか?

 あの交通事故の最後の光景、運転手のおじさんの後ろから、天より降り立った。確かに「魔法使い」めいた怪訝な装い。より鮮明になってきた。

 そして、それは何かを口にした。日本語だったか、何か別の言葉だったか。

 そうだ。確か何か命令をしてきたのだ。唐突に、全く脈絡もなく、耳元を通じて脳にまで注ぎ込まれたような、まさに呪いのような声で。

「鉄獄へ潜って……『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え」

 その呪いの声の意味が、思わず口から漏れた。

「それよ」

 静かにイオアンナが応じてくれた。

「それが私たち〈烙印者〉に与えられた使命。そして、そうして奪ったものは、地球にどころじゃない。多元宇宙にすら行使できる特権を与えてくれる。結果としてあなたの願いもかなえてくれるであろう、偉大な宝なの」

 

 

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