ヴィーヤウトゥムノ伯国鉄獄覚書   作:松永闇斎

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逝き過ぎるということ ~恐怖!吸血女子短大生 VS 怪奇蛆虫爺~ (4)

 「荒療治」を経た「介抱」という形で図らざる初対面を成して以来、ここまで朱音にとってイオアンナは終始、誠実な救い主に思われた。

 無論、事実はそう安易なものではない。

 イオアンナは少なくとも当初に限っていえば、彼女に対し憐憫の情など欠片も持っていなかった。

 あくまで己の美食というささやかな事情と、吸血鬼にして〈烙印者〉という二重の稀なる同胞に逢った好奇心に駆られて、たまたま──図らずも朱音を救ったに過ぎない。

 一方、朱音の方とて、ここまでこれでもかと絶望と理不尽を叩きつけられた身である。

 その錯乱の中でこそ醜態を晒したを言わざるを得ないが、この期に及んで、眼前にいる女性を手放しに信じ続けられる救済者──それこそ「王子様」とただ盲従するほど、元来愚かではない。彼女なりの自助自立に必要なだけの、正しい猜疑心は備わっていた。

 ──イオアンナが「介抱」の際に朱音に施した「作為」は、あくまでその程度の好意を己に向けさせるためのものに過ぎず、彼女の自由意志までは全く奪わなかっていなかった。

 この点については事実、イオアンナは朱音と言う一人格に対し誠実であったとも言える。

 ともあれ、ここまでの経緯で、己らが同じ地球の出身者で、吸血鬼であり、〈烙印者〉であるという、異邦で何とも奇妙な同志とめぐり会った。それ以外は余りにも隔たっており、力の関係は全く非対称的ではあるのだが、その関係は一応は「友好」と言って差し支えないものだろう。

 加えてイオアンナは、ここまで彼女の血を吸って得た情報と、「介抱」後の振る舞いや態度に愛玩のそれを見出したがゆえ、朱音に少なからぬ好意を抱きつつあった。

 だからこそ、好意を持つからこそ、言うべきことは言わなければならない。

「さて、あなたが思い出したことを一通り聞かせてもらって納得はいったわ。ついでに、あなたがこれからどうするべきか──もう少し手助けしてあげるための『処方』も大体頭にはまとまっているのだけれどね……」

 軽く居住まいを正して、イオアンナは続ける。

「貴方自身が既に、痛いほどに内心理解しているであろうことを、今さらながら敢えて言わせて貰うわよ。やはりあなたは、吸血鬼としても〈烙印者〉としてもかなり稀なケースよ。残念ながら、実に悪い意味でね……」

 事実、一切を理解していたが、面と向かって言われれば正直落胆を抑えられるはずもない。

 寝台の上で俯きながら、朱音は弱々しく「はい」とだけ答えた。

「本当に、吸血鬼に変異してしまっただけで、現代地球に生きるのであったならば、まだ何か寄る辺らしい寄る辺で、それなりの日常を得られる好機もあったことでしょうけれど……全く、『イェンダー』共も何を考えて、事故で変異した瞬間のあなたを〈烙印者〉にしたものかしらねえ?……」

 元より「イェンダー」について言うには詮なき事を、イオアンナ自身も不意に漏らしてしまった。

 一切己を物語らず、己を誇示せず、そもそも個なのか全なのかすらも定かではない。静かに狂った呪いそのもののような、イオアンナにもみなまでは分からぬ輩なのである。朱音に、下手な意識に誘導しかねない言質を与えるべきではない。

 ふとイオアンナは周囲を一瞥する。

 これからの展望を──どれだけ薄氷であろうとも──前向きに指し示す場として、この薄汚い木賃宿の一室はあまりに相応しくないのではないか。

 そう思い当たったイオアンナは、俯いたままの朱音にこう告げた。

「そうよねえ。これだけ『介抱』で意識がはっきりしたのならば、次は早々に身体を慣らした方がよいわ。こんな薄汚い場所はさっさと出ていって、もっと良い場所に移りましょうか?」

 イオアンナの提案を朱音は流されるまま受け入れた。白馬亭で借りた木賃宿の一室を黙々に引き払う。

 出口前のカウンターでは、宿の主たるオティックの裔オティックが、軽薄に声を投げかけた。

「俺の宿で妙な『血遊び』をやり出さなかっただけ、今回は上客だったと認めてやるよ。今後ともご贔屓に」

「それはどうも。どうぞ次にお会いするまで、どうぞ、ごきげんよう」

 要領もセンスも得ない物言いには、適当なあしらいを返すほかない。

 渋面を覗かせる朱音の手を引きながら、イオアンナは共に白馬亭を去った。

 

────────

 

 吸血鬼二名が、「殺し屋横丁」と呼ばれる、まだ夜闇の続く辺境の地の内郭の横道を、静かに歩む。

「本当にごめんなさいねえ。地球現代っ子、ついでに大都会岡山育ちのあなたにしてみれば、随分汚らしい場所だったでしょう?あの木賃宿は、身を休めるには野ざらしよりはマシ、という程度に過ぎなかったし、私自身も『死に戻り』したばかりでその場の手持ちが乏しかったから、まずは手近にあそこを選ぶしかなくてねえ」

「いえ……路銀まで費やしてくれたのでしたら、重ねてお礼を言わないと……でも、今私には手持ちは……」

 朱音はおどおどと答える。

「いらない、いらない。今この場でたまたま手持ちが乏しいだけで、はした金もいい所よ」

 朱音は深くお辞儀をした。

 しかし、その礼の振る舞いもほどほどに、同時にどこか不安そうに外の光景をきょろきょろと見回す。正味、己の命を脅かすものが周りに存在しないかに、怯えるもののそれである。

 その様子を見て、イオアンナは説明がなお足りなかったと気づいて、説明を重ねた。

「ああ、怯えなくても良いのよ。ここは大丈夫なの。第一に、ここがどこであるかもまだ話していなかったわよね?今居るのは『辺境の地』の『内郭』と呼ばれる場所よ」

 「内郭?」と鸚鵡返しする朱音。

「そう。宿で聞かせて貰った話の限り、あなたが『死に戻り』している間に錯乱したまま入ろうとして、門前のチンピラに叩き殺されたことがあったわよね?その門を入った中よ」

 そう聞いて、朱音はびくりと怯える様子を見せた。イオアンナは静かに諭す。

「だから心配しなくていいわ。こうしてちゃんと『市民権』のある者達が住んでいる街区に入ってしまえば、治安はわりと良い方なのよ。あの宿に限って言うと、そうした治安を維持するために、慮外者や、仕方なく『外郭』の流民を安い旅籠代で押し込んでおくための隔離場所みたいな場所を兼ねているから、ちょっとそんな風には見えなかったでしょうけれど」

 まだ不安げに、警戒気味に周囲を見回しながら朱音は問いかける。

「じゃあ、今は……」

「そうね、とりあえずはあなたが生まれ育った現代日本の平均的な治安程度だと思って、まずは心を休めていいわよ。万一何か不逞の輩が居ても、今は私が追い払ってあげる」

 余計な緊張の解けたような息を吐いて、朱音は幾分か落ち着きを見せた。

 これから否が応でも〈烙印者〉として有り続けなければならぬ身としては、むしろ良い心構えであることには違いない。だが、力み過ぎてまた精神を擦り減らしては元も子もないのもまた確かである。

「本当に、ありがとうございます……その、イオアンナ様?いえ、閣下?……何もかも親身に助けていただいて」

「いいのよ、様も閣下もこそばゆいわ。イオアンナで良いわよ」

 朱音は、心底恐れ多いといった様子で、顔を横に振る。

「いえ……そんな」

 自分に降りかかった吸血鬼化、そして〈烙印者〉という呪いばかりに思考が回って、振り返れば目の前の女──アルビノの貴婦人が、いかにとんでもない存在なのかを、思考の外に追いやっていたことに、朱音は今になって気づいた。

 イオアンナ・ゾフィ・ラストゥラキスカ。

 故郷の地球で、東欧出身にして千年生きてきたと称する吸血鬼。それも今世紀もなお、朱音の故国・大日本帝国が属する三帝協商を凌いで世界の覇権を握り続けている、トラキア合衆国のフィクサーでもあるらしい──

 無論、これらの、今のところ彼女自身の自称に過ぎない。

 だが、この異世界の中、この身に降りかかった絶望的事態、廃人になっていた己を「介抱」してくれた恩人が、全くの出鱈目を口にしているとは、朱音にはどうしても思われなかった。

 一方で、だからこそ、彼女の自己紹介について並みならぬ疑問が湧いてくる。

「あの……本当に恐れ多いことですけど、今度は貴方様のことを……聞いてもいいでしょうか」

 感心するように、イオアンナは目を細め、好意的な口調で答える。

「他人を知ろうとする余裕が出てきたのはいい傾向ね。よろしくてよ。何が知りたくて?」

「あの、その……私が、とんでもない偶然と不幸で、吸血鬼と同時に〈烙印者〉って呪いを被ったのは、もう痛いほどわかりました。それで、貴方様は……貴方様もずっと昔から吸血鬼で、なおかつ今はさらに〈烙印者〉になられているのですよね?」

「ええ」

「貴方様は、どういう事情で〈烙印者〉になったのですか?やはり、私と同じように望まぬ事故とか、『イェンダー』って奴らに攫われて何かされたのですか?」

「?……ああ」

 別に隠し立てする必要はない。ただ、これから答える正直な感想に朱音はきっと愕然とするだろう。それを意識しつつも、イオアンナは、率直に回答する。

「違うわ。あなたとは全くの正反対。私は、自ら進んで『イェンダー』の輩と接触したの。そして、アイツラのもたらす呪いのなんたるかを重々承知し、理解したうえで〈烙印者〉となることを決めて、今この身の上になったわ」

 果たして予想道り。その返答に、朱音はただ呆けるほかなかった。

 「何故、わざわざこんな地獄に?」と、顔の表情が物言わず問いかけてくるかのようである。

「え?……その?……」

 口からは、拙い疑問の吐息しか漏らさない朱音の様子を汲んで、イオアンナは自ずから己が意図を述べた。

「動機は簡単よ。今のあなたの脳裏にも、呪いの命令が確かに響いているでしょう?──鉄獄へ潜って……『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え──とね。でも私はそんな声に関係なく、元より『サーペントの瞳』が欲しかったのよ。それがもたらす力を元手に、さらなる権力を手に入れるために」

 気が遠くなる思いに、朱音の足が地につかず、ふわりと浮き足立つような心地になった。

 これでに効いてきたイオアンナの自称が事実なのならば、既に彼女は現代の超大国どころか、人類史上全体を取ってみても、位人臣を極めた存在と言って過言ではないはずだ。

 彼女は、トラキア合衆国のセレブリティであることまでは確かであるが、詳細まではまだ語ってくれていない。だが、ここまでの話を聞くだけでも、故郷の地球で思いあたる──全く持って与太な──都市伝説がどうしても彼女に対し重なる。

 西ユーラシア大陸の超大国トラキア合衆国を裏で支配しているという「秘匿されし貴族」による「円卓会議」。その構成員は全員が齢数百歳を超える超人であるだとか、世界中に表の各国政府の年間予算の数倍に匹敵する財を備えているだとか──

 九割九分は、朱音の大日本帝国の市井でも、尾ひれ背びれのついた陰謀論の類として、一般に一笑に付されるか、白痴的情報弱者だけが、喚き散らして、生きがいの種にしているような類のものだ。

 しかし、それら面白おかしいだけの虚飾を取り除いた上で、残り一分が真実らしいという話もある。

 過去世界中に起きてきた数々の不審な出来事、未解決事件が状況証拠となって、何処か漠然ながらも確かに実社会の黒い飛沫としてこびりついてきたものが確かにある。地に足ついた人々もまた感じているのだ。

 そして、仮にその「一分の真実」が、今、まさに眼前にいるイオアンナその人だというのなら───

「あなたがもし、そんな御方なのなら……それでも権力って、まだまだ沢山欲しいものなんですか?」

 ───そんな拙くも素朴な疑問が、つい朱音の口から漏れてしまった。

 気に障る問いとなってしまった可能性は極めて高い、と言ったそばから不安がよぎる。だがイオアンナはなんら機嫌を損ねることなく、屈託もない笑みを浮かべて、肯定した。

「そうよ。権力というのはね、得れば得るほど、さらなる高みを求めるよう『人』を駆り立てて、留まることを忘れさせるものなの。私はその熱病みたいなものに、ここ数百年に渡ってずっと浮かされているし、今更その熱病から冷める気なんて微塵も起きないわ」

 己がどこまでも欲深いことを、堂々と宣言するその姿勢に、朱音は答えを見つけられない。

「それにね、地球人類史の頂点に立ったからこそ、同時にその矮小さ……と言うと、さすがに私を支えてきてくれた各方面に悪いかしらね。まあ、少し言いなおして『限界』というものを思い知らされるものなのよ」

 きょとんとした受け答えが帰る。

「限界……ですか?」

「ええ。限界よ。──確かにこれまではうまく行ったわ。私が同胞と共に十七世紀から十八世紀にかけて、西欧から東欧、中東までの様々な者達を、時にそそのかし、時に説得しながら造り上げてきた、我が故郷ブルガリアを中核にした国体。それこそがトラキア合衆国よ。それは今のところ歴然と世界の中心に立って異様を誇っている。取り分けてもその中枢、『永遠の都』コンスタンティノーブルは、私にとって愛しき我が子も同然」

 高揚して滔々と語るイオアンナ。

 しかし、少々芝居がかった調子で、今度は落ち込みがちに続けた。

「これまではそうあり続けられてきた。でも、これからもずっと、そうあり続けられるとは限らない。何なら確実に落日というものは来る。その日が来るなんて、とても悔しいことじゃない?」

「?…はあ……」

 そこまでくると、大日本帝国の大都会岡山に生まれ育った平民娘──「皇紀二千六百数十余年」を神話そのものと理解しつつも素朴に受け入れるだけの身には、およそ考えの及ばない境地である。

 ゆえに朱音は、あまりにも不躾な相槌を打ってしまった。

 その不躾に気づいて、彼女は俄かに萎縮する。滔々と己の誇りと目的を語った彼女に悪いのではないか、と。

 だが、それは朱音の杞憂であった。

 イオアンナにとって朱音は「大衆」である。その本質を十分に理化し尽くしている「大衆」の娘。

 ゆえにおおよそ朱音という娘の生まれ育ちからそれを根差した心情には一切の想像がつく。それを咎めるつもりは毛頭なかった。むしろ、押しも押されぬ権力者にたる彼女にとっては願ってもない。「大衆」とはかくあって欲しい。そのお手本のような娘である。

 自分が故郷の地球世界史で数世紀に渡り、トラキア合衆国内しかり、他国でしかり、「かくなる風に大衆があって欲しい」「前近代的な粗暴なる牙を、可能な限り抜きたい」と東奔西走し続けたのは、そもそもは当のイオアンナ自身である。

 己が権力のより盤石たるを求めて、裏でテロによる派手な扇動から、表に地道な児童教育運動に至るまで、奔走を重ねた日々が記憶に蘇る。実際は──彼女自身があれこれ陰謀と努力をめぐらさなくとも、現代という時代時流の必然としてそうなった気がしないでもないが。

 ともかく従順で、はねっ返りなく、日々の暮らしの一喜一憂こそが生涯の全てである──そんな大衆で世界が溢れて欲しい。それは彼女の権力者たらんとする、ほぼ本能の域の願いである。

 ──家畜?──決して彼らをそんな蔑称で呼んだりはしない。大衆は大衆だ。何かあればすぐ「名誉」だの「神の仰せ」だの、それどころか言うに事欠いて「平和主義」すらも口実に暴動に走る蛮族共より、よほど上等ではないか。

 重ね重ね、そんな大衆のお手本とも言える朱音を、イオアンナは無言にして無表情のままじっと見つめる。

 やはりさっきの間抜けな受け答えで、機嫌を損ねてしまったのだろうか──そう怯えかけた朱音の頭を、イオアンナは子供をあやすように、頭二つ分背の低い、彼女の頭を優しく撫でた。

「大丈夫、いいのよ。貴方はそれでよかったのよ。少なくとも、これまでは、ね」

 そうだ。己の故郷の地球で、己が生み出した愛すべき大衆。

 だからこそ、今この後に及び、この娘に限っては「教示」をし直すべきなのかもしれない──イオアンナはそう改めて確信する。

 ゆえに、こう言い改めた。

「でも、これからは駄目よ。今のあなたは日本人の平民じゃない。吸血鬼の〈烙印者〉──そうなってしまったのだもの」

 そう面と向かって言われて、朱音は言葉に詰まり、安直に問いを返した。

「どう、あるべきなんでしょう?……」

 同じように月並みな答えだが、しかし確かな核心を込めて応じる。

「勿論のこと、これからは吸血鬼にして〈烙印者〉らしく、よ。時間がどれだけ残っているか分からないけれど、木賃宿でも告げた通り、今から残る時間の限りで私が、それを教え込んであげるわ」

 

──────────

 

 イオアンナの方から提案してきた夜の街の逍遥であったが、「もっと良い場所に移ろう」という言質の通り、どうやら明確な目的地はあったらしい。

 総じて散歩というよりは、何かを探し回っているような歩き方をしていることに、朱音がいつしか気づいた頃──ちょうどイオアンナは、その目当てのものを見つけたようであった。

「今回はここだったか。まあ、毎回妙な『ズレ方』をするものよね……」

 見落としがちな探し物を、ようやく見つけたかのように独り言ちるイオアンナに、朱音は質問を投げかけた。

「あの……先ほどから、何を探してらっしゃったのでしょうか?」

 イオアンナは一瞬、意外そうに目を瞬かせたが、結局はまた「そうよね」といった表情で薄く笑い、答えた。

「ごめんなさいね。相変わらず〈烙印者〉同士なら当たり前、ってところの話を……だからと言って省いてしまいがちになっているのは良くないことだわ」

 そう言いながら、イオアンナは正面に向き直り、目の前の城壁に軽く手を当てた。

 「辺境の地」の外郭と内郭を分かつ、分厚い城壁。その長大にして、何の変哲もない石壁の一部。

「私が探していたのは『我が家』よ。あなたも〈烙印者〉として、本来ならば自然と見つけられないとおかしい『場』なのだけれどね。まあ、『死に戻り』をするたびに、作り直されて、時空の繋がりも変わってしまうものだから、毎度毎度、存外に見つけづらいのよ……」

 そう告げると、彼女は石壁をさも当然のように「押した」。──すると、石壁の一部が、それに応じて、全く当然のように「開いた」。

 薄暗い一室──吸血鬼たる二人にとっては十分なほど明るい部屋が、その奥に広がっている。城壁の内側にあるとは到底思えない、間尺外れの広さで。

「入って、どうぞ」

 イオアンナは端的にそう言って、朱音を中へ誘う。

 今更ながらも、あまりに奇妙な有様におじけづきつつ、促されるままおずおずと朱音は開いた「扉」をくぐった。

 そして、息を飲んだ。

 豪奢。一言でそうとしか言いようのない内装と調度品に彩られた、広い一室。

 いよいよもって、ますます合わない寸法ぶりに狼狽し、朱音は慌てて「扉」の間を行き来する。

 どう見繕っても数メートルがせいぜいの厚みの城壁に、何百畳はありそうな広いホールが収まっているとでもいうのか?

 その慌てぶりに道化芝居の有様を感じながら、イオアンナは淡々と説明した。

「純物理学的には繋がっていないわよ。その『扉』は一種のワームホールみたいなもので、ここは私たち〈烙印者〉がそれぞれに持っている、私有地ならぬ『私有時空』といったところね……あのイェンダーの呪いを受けたからこそ与えられる、ほとんど唯一と言っても良いくらいの直截な実益そのものかもしれないわねえ」

 私有地、私有時空──なるほど、中はまさしくイオアンナのために誂えられたかのような様相であった。

 朱音には東欧建築について何らまともな知識はないが、社会地理の教科書で見たコンスタンティノープルの古い建造物の内部に似ている、ということくらいは分かる。

 その圧倒的に広い間取りに対して、窓はほとんど見当たらず、光源となるものは壁面の暖炉ひとつと、数本の蠟燭だけというのは、いよいよもって「吸血鬼の古老の住処」そのものの証か。

「ここはね、私が十七世紀くらいの頃に──今のトラキア合衆国コモディニ州にあたる地域で所有していた城の私室そのものなの。百年位は愛着もって帰る場所にし続けていたのだけれど、戦乱の中で敵の畜生共に破却されてしまってね。恋しくて恋しくて仕方ない場所だったわ。〈烙印者〉の『我が家』とは、その名の通り、常に当人にとっての郷愁に満ちたものに姿を変えてくれるものらしくてね、今はこうして、それを再び楽しむことが出来ているわけなの」

 イオアンナは、広々とした居室のさらに奥から、象嵌細工の散りばめられた椅子を二脚持ち出し、暖炉近くに並べると、朱音に座るよう促した。朱音はそれに従い、神妙な面持ちで椅子に腰を下ろす。

「さて、ここまであなたと会ってから、長々しくあなたについても私についても、あれこれ話してきた。お互いに誤解なく理解できるようになってきたの思うの。実際どうかしら?あなたは私と言う同輩の存在を通じて、そろそろ自分のこれまでが何だったのか、自ずと意識できるようにはなってきたかしら?」

 教え子を諭すような調子で、イオアンナは朱音に真摯な口調で尋ねた。

 どこかイオアンナの「我が家」の様子に呆けていたところから、朱音慌てて居住まいを正す。

「はい……」

 まるで面接に臨むかのように、東欧アンティークの椅子に、ぴしゃりと座りなおし、程よい緊張感を見せるようになった。

「じゃあ次は『これから』よ。今からのどうあるべきか、どうなりたいかについて、言えることはある?」

 どこか答えづらそうに言葉を振り絞った。

「その、〈烙印者〉になって散々に『死に戻り』し続けてきたのは本当に苦しかったです……今のまま、独りでこの異世界に放り出されてしまうと、結局また貴方様に助けられる前みたいに駄目になっちゃうと思うので……その、せめてまずは死なないように、なりたいです」

 イオアンナは、素直にその答えを称賛した。

「そう、それは確かに地に足の着いた、良い志ね。〈烙印者〉は、この呪いを受けた者は、どれほど避けられない過酷を前にしても、まずは生き延びることが出来ること。それは基本中の基本と言ってよいわ」

 拍手を意図して三度手を叩き、イオアンナは続ける。

「ならば、生き残るためには?可能な限り、死なないためにはどうすればいい?」

 さらにぎこちなくも、朱音は答える。

「その……これからは、もっと、危ない所には近づかないで、可能な限り安全な場所を確保することを心がけます。はい」

 今度は肯定は得られなかった。いささか意地悪げな調子で、イオアンナは右手の人差し指を横に振る。

「かつてのあなた──ただの一日本人の平民だったあなたなら、それこそが正解だったのでしょうね。でも、吸血鬼にして〈烙印者〉となった今の身では、その答えは零点ね」

 朱音は、苦い顔をしつつ俯いた。

 窘めたイオアンナの口調は、もう薄々分かっているのだろう?そう言いたげな調子である。

 そうなのだ──本当の正解は、何となく分かっている。呪われた汝自身を、ここまで何度となく思い知り、イオアンナの話を聞いてきた。流石にこの後に及んで悟っていなければ、まさしく馬鹿丸出しである、とも思える。

 ただ、それを言ってしまって良いのだろうか?

 言って口にしてしまえば、羽津朱音という存在が、己が一切、跡形もなく、変わってしまうのではないか?

 その恐れが、いまだに思考の堂々巡り、あるいは逃避に繋がる。

 イオアンナは滔々と説いた。その逃避を許さないかのように。

「残念だけど、こればかりは、しかと受け入れなさい。何度でもいうわ。あなたは今や〈烙印者〉なのよ。呪われてしまったの。その呪いは『サーペントの瞳』を得ないことには、永遠に解かれることはないのだから」

 朱音の脳裏に、あの「イェンダーの魔法使い」が告げた言葉が、また響き渡る。

(鉄獄へ向かえ。『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え)

 朱音はかぶりを振って、必死に同じことを問いかける。

「その『サーペントの瞳』を手に入れない限り、私はその〈烙印者〉として、延々と死に続けなければならない。宿で仰ったことは、本当に本当なのですか!?」

「そうと。重ね重ね残念なこと、と付け足しておいてあげるけど、そうなるわ」

 重ねて縋りつくように問う。

「その使命を捨てて、どこかでただただ、死なない身で隠れ住むとか……そういうことは出来ないのですか!?」

「間違いなく、出来ないでしょうね。貴方の頭の中にも、使命は今も響いているのでしょう?それは例え、あの『イェンダー』の作為で植え付けられたものであったとしても、今はあなた自身に内在する衝動なのよ」

 イオアンナは、諸手をひらつかせながら話を続ける。

「我々〈烙印者〉が『サーペントの瞳』を求める衝動は、どう足掻こうとも抑えきれない。それを怠っていては、ある種の禁断症状めいたものを引き起こすでしょうね。恐らくは一月も抑え込んでいては、それこそ狂乱した、却って無謀無策な状態になってでも、『鉄獄』に向けて歩みを進めたくなってしまうでしょう」

「そんな……」

 そんなことも限らない、あるいはそんなはずはない、と言おうとした朱音の言葉を、イオアンナは遮る。

「私自身も、知る限りの同じ〈烙印者〉達もそんな怠惰なことなんて、試したこともないから、あくまで推測にしかならないけどね。きっとそうなるわよ。大体ね、貴方は私が拾った時点で記憶が歯抜けになるほどの『荒療治』しないといけない程、精神を荒廃させていた一因は、死の苦痛だけではないのかも知れないわよ」

(鉄獄へ向かえ。『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え)

 イオアンナが滔々と語る間にも、朱音の内から、しかと声が内から響いていた。

「無意識にも抗いがたい〈烙印者〉としての使命の声と、『死に戻り』のショックを重ね過ぎた怖気づきとが、葛藤した結果。そんな仮説を私は提唱するわ。だから、使命に後ろ向きな姿勢であることは、とてもお勧めできない」

(鉄獄へ向かえ。『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え)

「それでも、信じられないなら、それこそ試しにこの『辺境の地』で宿を取って延々と無為に過ごしてみれば良いかもね。さっきの木賃宿よりもずっとまともな宿泊場だって、紹介してあげてもいいし、宿代も払ってあげてもいいけど……ねえ?」

 恐ろしいほど甲斐甲斐しい、少なくとも施そうとする内容を取ってみれば慈愛に満ちていると言ってもよいイオアンナの提案も、今は虚しかった。

「あ……」

 そう吐息を漏らして頭を抱える。己を急き立てる「発作」。

 朱音の内に疼く。確かに重なり疼く。

(鉄獄へ向かえ。『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え)

 事実だ。この声は、確かにあのイェンダーの魔法使いにもたらされた呪いなのだろうが、心底から己のものであると。

 これでは、一月どころではない。数日、いや一昼夜すらも保たずに、己の心の平安は乱れに乱れ切ってしまうだろう。これでは元の落とし穴に自らははまり込んでしまう。

 また何かに急かされて、危険なこの土地でいとも簡単に、「何度もの死」に至ってしまう。その死を繰り返している内に、また「自分じゃない自分」を勝手に作り上げ、遊離してしまう。そしてまた、それすらも出来なくなった果ての───虚無の予感、死よりもっと恐ろしい何か。

「でも、でも………」

 その衝動に対し、絶望的な現実への想像が朱音の前に聳え立っている。

 ──鉄獄へ向かえ?『冥王』を凌ぎ、『サーペントの瞳』を奪え?──

 ────どうやって?

 そうだ。この『辺境の地』でさえ──地球で話にだけ聞き及んだ「発展途上国の治安」と等しいと思しき場でさえ、自分は耐えられなかったというのに。

 実のところ、自分には鉄獄なる地も、『冥王』なるおどろおどろしい存在については、想像すらつかない。だが、確実にここより死に満ち溢れている場と、その元締めなる存在には違いはなのだろう。

 ────────無理だ──無理だ──無理だ。

 そんなところを目指そうとしたら、自分は死ぬ。これまでより確実に、より多く、より凄惨に。

 それを反芻する内に、朱音の精神の淵から、再び絶望と狂気が芽生え始める。

 漏れ出す嗚咽。やがて、自ずと張り上げてしまうだろう絶叫。

 ────────

「はい、はい。嘆き狂うのはこれ以上無しよ。ちょっと落ち着きましょうかね」

 どこか、軽い声。気安い声。

 まるで、子供を育てて数年、うんざりながらもそのあやし方に慣れ切った慣らした母親のような──

 刹那、朱音は己の体が深く座り込んだ椅子からにわかに浮き上がる感触を覚えた。

 それが、イオアンナに抱きかかえられたのだと気づく──

『またガブっと、いっちゃいましょうねえ』

 日本語でも、現代ラテン語語でもなく、中世ブルガリア語。それもスラングじみた表現。朱音の耳には聞き取れるはずもない──

 ふと天井が目に付く。

 東欧貴族の部屋の天井とは、これまた細緻な彫刻が随所に施されたものなのだなあ、と呑気な感想が湧く。

 にわかに、朱音の首筋に何かが食い込む感触。

 最初は、確かに痛みであった。太い注射が、二つ、強かに深く撃ち込まれたような。

 しかしその苦痛の穴から、先ほどから己の淵に淀んでいた絶望が、狂気が、吸いだされてゆく。

 その浄化で得られる静かな悦驛と比べれば、首筋を刺す痛みなど、さしたるものではない。

 いや、それどころか──なんであろうか、このどろりとした快楽は。

 首筋からのたうつように、朱音の全身を渦巻き始める。

 食欲、睡眠欲、排泄欲、そして性欲。それらが一切が混合したような、より原初の快楽が全身を浸した瞬間。

「んご……んごほおおおおお!」

 およそ、うら若き乙女が口にしてはいけない、自分でも身の毛がよだつように思う艶声が口から飛び出た。

『んああ、うっめ、うめえべ!』

 中世ブルガリア語の田舎言葉の挙句スラングで漏れた下手人の品性の欠落は、少なくとも朱音には包み隠される。

 イオアンナ、早くも今宵二度目の役得であった。

 

──────

 

 

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