ヴィーヤウトゥムノ伯国鉄獄覚書   作:松永闇斎

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逝き過ぎるということ ~恐怖!吸血女子短大生 VS 怪奇蛆虫爺~ (5)

 己の精神の崩壊を修復した「介抱」──あるいは「荒療治」が、いかなるものであったのかを、朱音はここで初めて理解した。理解してしまった。

 正気に戻った直後から、朱音は身を震わせる。

 己の羞恥に満ちた有様、とりわけあの奇矯な声を上げてしまったことに赤面するだけではない。

 故あってのこととはいえ、「女」の身を容赦なく侵されたという事実に対する本能的な怒り。

 しかし、それが実際に適切な治療として作用してしまっているのだから、目の前の「恩人」に感謝はすれど、不平を漏らす余地は──様々な意味で──なかなか見つけられないという理性との葛藤。

 そして、何よりも。

 およそ人間であった頃には想像すら及ばなかった、圧倒的な快楽を、ただいま明瞭に味わい、完全に屈してしまったという事実。

 その余韻は、恐るべきことに今なお心地よく──出来ることならばもう一度味わってみたい、という浅ましい欲望までもが、己の本能に根を下ろしつつあることに、内心困惑を極める。

(この快楽が、再び決して味わえないのだとしたら、では何のための生であろうか?)

 恐るべきことに、そこまで己の身体が言い切ってしまっているのだ。

 イオアンナの側はと言えば、またもこの上ない甘露を──最初と比べればほんのわずかな量とはいえ──再び味わえたことに、内心歓喜していた。

 己から庇護してやろうと述べた眼前の娘に、あまりよろしくない性癖が芽生えつつある様子も、確かに察してはいる。

 だが、同じ女としての本能の共感がもたらす、いささかの決まりの悪さを除けば、罪悪感はほぼ皆無である。

 それも当然の事。

 最初の「荒療治」でもそうであった通り、この娘の生殺与奪はおろか、その自由意志の収受すら、元より己の手のひらの上にあるのだ。それを依然として自由自体は残しているのだから、己の慈悲深さをひけらかすでなく、ただ内心にのみに限り誇ってもよいだろう。

 その上で、滑らかに大義名分を立てて、波風をより抑えるのが千年生きてきた老獪さ。そのほんの手並みとしてうそぶく。

「ちょっとあなたには刺激が強すぎたでしょうね……けれど、これはその身で今体感している通り、必要な措置でもあり、あなたに従来よりもずっと多大な『猶予』を与えることのできる、有効な術でもあるわ。色々言いたいことはあるかもしれないけど、『これからも』大人しく受け入れて頂戴」

 しばらくの沈黙のあと、朱音は無言のまま頷いた。

 今ここに、世にも奇怪なサディズムとマゾヒズムの合意にして、屈折極まりない「双方の実益」が成立してしまったのであったが──互いに、それを口に出して明言することはないのであった。これもまた、イオアンナの意図した術中である。

 ここで話題を切り替える意図を込め、イオアンナは手のひらを合わせて、ぱん、と軽妙な音を立てた。

「さて、改めて落ち着いたところで話を……いいえ、より具体的に、吸血鬼であり〈烙印者〉たることの『講義』を始めましょうか?」

 

────────────

──────

──

 

 ──地球からの来訪者、吸血鬼の新生子にして、〈烙印者〉たる羽津朱音。

 彼女は今、再び「辺境の地」の門前に、ただ独りで立っていた。

 今は黄昏時。赤く燃える夕日は「夜の眷属」となってしまった彼女にとってはいささか眩しすぎるものの、その身を蝕むほどには強くはない。

 あの偉大に過ぎる千年吸血鬼の「先輩」、イオアンナの「我が家」に保護──というには訝しむ要素もいささかあるのだが、ともかく──されて、二昼夜に満たない時間を過ごしていた。

 その間に、彼女からは実に様々な心得と手ほどきを受けた。

 朱音は落ち着き払いつつ、その内容を心中でそっと反芻する。

 ──吸血鬼とは、そもそもどのような種であるのか。

 ──重ねて〈烙印者〉たる使命と呪いとは何であるのか。

 ──それらを踏まえた上で、朱音が「サーペントの瞳」を得るまでに、その可能性に至るまでに、いかなる心得を抱き、何処に向かうべきなのか。

 ──立ちはだかる「敵」には、例えば如何なるものがいて、如何に処すべきであるのか。

 わずかな休憩時間を除けば、恐るべき勢いで叩き込まれたと思う。

 厳しいスパルタ教育であった、と言えば確かにそうだった。だが、高圧や理不尽といったものは、奇妙なほどに感じなかった。

 思い返して比較するに、彼女がまだ人間であった頃──大日本帝国の一平民として受けてきた短大までの教育課程の中で出会ったどんな学業、どんなスポーツ、どんな習い事の先生よりも、イオアンナは遥かに巧みな教育者であった。

 それも当然のことか。

 多くてせいぜい四十年、下手をすれば十年も年長でない男女から得られる教育と、千年もの間、絶え間なく激動の時代を生き続け、人類史の暗部にして頂点に達した存在から賜れるそれとでは、比べること自体がおこがましい。

 あるいは、それは自分自身が、かつての自分とは見る影もないほど、変質してしまった影響もあるのかもしれない。

 虚しさが、自己憐憫が、己の心中に忍び寄ってくる。

 しかし朱音はそこで、益体もないそれらを己の外に追い出すべく、長い黒髪を揺らして首を振った。

 ──もう今、この場から、すでに独りの戦いは始まっているのだ。

 

─────

 

『私たち〈烙印者〉はね。こうして多元宇宙のあぶれ者として、時折この地のような時空の結節点で出会うことが出来るわ。けど、その時間はどれだけ長くても数日ほど。互いの存在に、ある種の斥力が発生し続けている。遅かれ早かれ、わずかにズレた位相に分かれてしまうの』

『……それでは、イオアンナ様の下に、いつまでもいることは?……』

『そう、無理よ。だから「〈烙印者〉同士協力してサーペントの瞳を」……なんて虫の良い話も叶わないわ。私たちの間に発生する斥力は、この地を離れた途端、いよいよ強まって、私たちをあっという間に引き離してしまう』

『もう会えなくなるんじゃ……それじゃ私はどうすれば……』

『ああ、それは心配無用よ。私とあなたの間には、斥力だけでなく引力もまた働き続けている。つかず離れず──あなたの故郷の宗教の……ブッディズムに言わせれば「縁」が出来た状態みたいなものね。この斥力がある程度収まると、今度は自然と引力で互いに引き寄せられて、「辺境の地」で再び会うことも出来るでしょう』

『よかった……』

『もっとも、次のそれがいつなのかまでは、全く保証できかねるわ……だから、今まだこうして繋がっている間に、あなたに心得を叩き込むつもりよ。そして、離れることになったら、次に会えるまでは、己の力のみで災いを振り払いなさい。それが、まあ「宿題」というところね』

 

─────

 

 「先輩」の言葉を──「宿題」であることを思い起こして、己の意識を強く持つ。

 朱音はまず──日没となって、常人がほとんど視界を持たなくなる夜を待った。

 その後、「辺境の地」の夜も開け放たれたままの門を、誰にも見つからぬよう、こそこそと隠密に潜り抜ける。

 丸腰のまま、かつての死因の多くを担った「門前」のチンピラと遭遇する危機を避けるために。

 内心で朱音は呟く。

(明日のために、その一……『装備を手に入れろ』……)

 

─────

 

『そういえば、あなた……「死に戻り」するごとに、武器はもっていないのかしら?』

『武器?』

『そう、武器よ。大体の〈烙印者〉には、この「辺境の地」に降り立った時点で、何らかの手慣れた獲物がその手に備わっているはずなのよ。私の場合は、この剣一振りね』

『………』

『ねえ、どうなの?』

『最初から「死に戻り」を繰り返してこの方、一度たりとも、手元にあったことがなかったはずです。その……そもそも今の武器、どこから持ち出されたのですか?』

『?……あら、私たち〈烙印者〉が、己の「影」の内に物をしまい込めることすら知らないの?……』

『全然知らなかったです……』

『流石に、この辺りは「イェンダー」共に無意識にでも叩き込まれていなければ、おかしい域なのだけれど……そうね、自分の背中に常に大きな横空きのポケットが存在しているような意識して御覧なさい……』

『………』

『どう?出そう?』

『え…何が?』

『何でもよ。ポケットを意識して後ろに手を回してみて……手、手よ』

『はい……あ……』

『………出たわね……それは?』

『なんでしょう?ビスケット……』

『………』

『なんでこんなものが?……』

『とりあえず、取り出せそうなものを全部出して御覧なさい……』

『はい……』

 

─────

 

『これで全部みたいです……』

『………』

『イオアンナ様?』

『随分と量の多い金貨銀貨はともかく……ビスケットに、エールとワインの瓶、干し肉、「レンバス」、それと……魔力つきとは言え所詮は地図……戦場じゃなくて行楽にでも行くような中身ね………』

『はい……後は何故か石ころと……この紐で繋がった皮製の水着みたいなものは?』

『そんな煽情的な水着が……ない訳はないでしょうけど見当外れね。「スリング」よ、いわゆる原始的な投石器……石を勢いよく投げるのに使うの。「ダビデとゴリアテ」の伝承は知らない?』

『?………こんなのでどうやって石を投げるんですか?……』

『まあ、現代っ子には分かりようはないでしょうけど……さて、どうしたものやら』

『………』

『ああ、不安になるのは無理もないけど、流石にこれ以上は一々しょげ返るのは止しなさい……そうね、あなたがどこまでも荒事に元来向かないのは分かったから、まず最初にやることは武器や物資の確保よ』

『……武器……物資……』

『そう、これだけ金があるなら、まずはそれを整えに行きなさい。「辺境の地」で〈烙印者〉ともあれこれ取引してくれる店をいくつか教えてあげるわ。まあ、今のあなたなら多少の獲物は扱えるはずだから……』

 

─────

 

(まずは、なるべく長めで広刃の剣を手に入れる……ヒュイモグさんと言う人の店から……)

 無事「内郭」に隠密に入りなおすことが出来た朱音は、暗唱できるほど叩き込まれた店の位置を頼りに、夜闇を小走りで進んだ。

 本来学校の授業の物覚えも人並みだったはずの自分が、こうもすんなりと記憶出来たのは、生存本能がなせる業か、はたまた、吸血鬼となったがゆえの精神の変化か。

 いずれにせよ、朱音は無事、聞いていた特徴どおりの店を見つけ出した。夜間にも灯がともされ、開いている店───

 店に足を踏み入れた途端、朱音はぎょっとした。

 店員──にしては余りにも仰々しい、吸血鬼となった己の言えた口ではないのだが、顔色が緑がかって悪い、禿頭の大男。

 大昔の中東古代人か何かのような服装をまとい、その体格に見合った椅子に深々と腰を下ろし、分厚い本を読みふけっていたようだ。

 店舗と思しき周囲には、果たして中世相応の武器が大量に並べられていた。

 大男は、店に入る前から朱音の存在に気付いていたかのように、すでに入口の方へと顔を向けており、物珍しげに朱音を見ながら問いかけてきた。

 だが、言葉が分からない。

 今の問いかけで通じないことに気付いた大男は、意思疎通を図ろうと、いくつかの言語で続けて話しかけてくる。

「娘、お主──か?」

 最初に聞き取れたのは、やはり学校の授業でいくばくか学んだ中国語であった。

「はい、その、多分そうです……その、できれば日本語でお話出来たらうれしいです。分かりますか、日本語?」

「ん、葦の国の言葉や?これはお主の母なる語か?」

 イオアンナ以外にも、わずかに違和感はあるとはいえ、日本語らしきものを話してもらえていることに安堵しつつ、朱音はなお不安げに言葉を返す。

「はい……その、イオアンナという方にここを紹介いただいたのですが……」

「あな、あの女吸血鬼や……よかろう、取引しよう」

 朱音の緊張をよそに、話はすんなりとまとまり、持ち金の何割かで長剣を買うことが出来た。

 ずしりとした重みを感じるそれを小脇に抱えながら、自分でも少しやり過ぎかと思うほど、ぺこぺこと頭を下げて、朱音は店を後にする。

(次は……セラクシスさんと言う人の店で、革製の鎧や籠手に靴を……)

 イオアンナの言い付けを逐一思い出しながら、次の店へと駆ける。

 

────────────

 

 次の取引相手、セラクシスと言う男は、先ほどのヒュイモグという男以上に顔色の悪い──というより、死斑だらけの肌をした完全に「死人」であった。

 常時よだれを垂らし、首を揺らしながら、霞んだ瞳は常に左右よその方向を向いていた。

 しかし、言語そのものは疎通困難でこそあるものの、常に意味のある何かを明瞭に口にしており、躁気味な明るい調子かつ、友好的に朱音に話しかけてきた。

 朱音はどっと疲れを感じながらも、辛うじて『現代ラテン語』がいくばくか通じた手探りで買うものを買い、店先で即座に身に着けた。

(ええと……それで、今度は……ムワートさんという方の店で『霊薬』を………)

 

────────────

 

 次の取引相手は完全に人ならざる存在で、顔つきは愛玩犬にも似たような種族であったが、実に穏やかで人当たりが良く、先のヒュイモグ以上に流麗な日本語らしき言葉で取引が出来た。

 いくつか、名の通りの霊薬の小瓶を揃えてもらい、代価を支払うと、丁重に礼を取って、その宗教的施設と思しき建物を後にする。

(この薬を飲むなり、患部に振りかけるなりで、傷がすぐ直るとか……本当なのかな?……)

 ともすれば、故郷で飽きるほど聞き及んだ馬鹿げた民間療法めいた話である。

 だが、己の庇護者たるイオアンナの言と、そもそも今まで自分が被ってきた苦痛に満ちた不思議の数々を思えば、今さら疑っても仕方がない。

 ひとしきり霊薬の瓶を見つめた後、背の「影」に仕舞った。

(最後は、イベリと言う人の下で、『警告の指輪』……だったかしら?)

 

────────────

 

(ああ……もう……)

 イオアンナが指示した最後の取引相手は、動く人骨そのものであった。

 夜闇に思わず叫び声を上げてしまい、それが当人の機嫌に障ったのは明白だった。

 重ねて中々言葉が通じない中、すでに残り三割に満たない金貨銀貨を根こそぎ要求されつつ、やっと目的の性質を持った指輪を、自分の指の太さに最も合った中指に嵌めることが出来た。

 ──これで、最低限の『装備』は整った、らしい。

 今後、如何に「死に戻り」に陥る羽目になっても、この方々から、必ず似たようなものは一式取り揃えろ──そう言い含められている。

(明日のために、その一……完了。次は……)

 

────────────

 

『装備を一通り揃えてもまだ油断はしては駄目。貴方の事だからしないことでしょうけど、間違っても「辺境の地」の住人には「内郭」は無論、「外郭」の輩にも喧嘩売る真似はしない。まだ夜闇の中を、こそこそと進みなさい』

『それは分かりました。次には何をすべきなんでしょうか?』

『当初からの門から『外郭』をさらに通り過ぎて、しばらくまっすぐ進みなさい。森の中をいくらか進んで、いつしか空が昼でも夜でもない、奇妙な灰色の渦巻くような様相を見せ始めたあたりから、小山が自然と見つかると思うわ。その山沿いに進むと、やがて洞窟があるから、そこに入りなさい』

『洞窟ですね……どんな場所なのですか?』

『「イーク」って呼ばれる人型の種族の穴倉よ。率直に言って、哀れで惨めな、この「辺境の地」近隣でも被差別の存在ね。ただ、所以あってそれだけでは済まなくなった連中なの』

『所以?』

『彼らの長……「ボルドール」という名の王と配下たち、そしてそれが住まう穴倉そのものは、これが私たち〈烙印者〉とはまた異質な永遠の呪いを被った存在なのよ』

『……永遠の呪い……ですか』

『そう。具体的に言うとね、彼らは私たちの最終目的地である「鉄獄」の〈混沌〉に飲まれてしまった時空の〈滞留者〉みたいなものよ……私たち〈烙印者〉と同様、殺されても「死に戻る」という点である種の不死性を持っているわ。ただ、彼ら自身はそうして自分たちが死んだ、殺されたという記憶そのものを継承しない。あるいは平行世界に全く同じだけど別の存在が無限に存在している、とも見ることが出来るかもしれない。客観的には後者の方が正しいのかしらねえ』

『……なんだか、背筋がゾッとする話です』

『あら、何が?』

『自分の知らない自分が、沢山いて、それが傷ついたり、死んだりしているってことですよね……それはそれで、とんでもなく嫌なことじゃないかな……って』

『何を今更。私たち〈烙印者〉もその点は同類じゃなくて?』

『ああ、ああ……』

『私たちの立ち位置、彼らの立ち位置の相対性を思えば、憐れむ余地なんて欠片もないわよ。大体ね、私たちのように記憶の連続性が嫌でも担保されてしまっているなら、それこそあなたのような陥穽に嵌ってしまったようなものでしょうけど。自分でない自分が、並行宇宙論の枠組みの中で無数に居て、それが仮に無数に殺されても、それは果たして「自分」か?よねえ……少なくとも私個人は、そこに単純な生物学的なクローンの問題とか、ひいては一卵性双生児と同等の意味合いしか、見い出さないわね』

 

────────────

 

 奇妙に歪んだ灰色の空。森の細道を伝うにつれて見えてくる「小山」。

 そしてその麓に沿って歩みを進むにつれ、見えてきた大きな穴倉。

 見つかった──「入口」だ。イオアンナ様──「先輩」の告げた話の通りそのままに。

 

────────────

 

『まあ、そんな哲学論議は、いずれあなたが私の目論見どおりに成長してからにしましょう。大事なのは、そこが、あなたに限らず未熟な〈烙印者〉にとっては、恰好の狩場に相応しいという戦略的な事実よ。いいこと?そこを潜った先はほんの端にすぎないけれど、確かに〈混沌〉の坩堝なの。「入口」を訪れて抜けるごとに、次に入った時には全く別の地形や様相を呈する、時空の歪みの淵になっているわ』

『………よく分かりませんが、そんな行き来して大丈夫な「入口」なんですか?』

『そこは心配しなくていいわ。何度往来しても〈烙印者〉たる私たちの心身には、何の不調もない。むしろ入った先にどうしても抗いきれない外敵がいた場合には、真っ先にその入ったところから離脱なさい。〈烙印者〉以外は大体追いかけてこないわよ。そういう「入口」なのだから、むしろ私たちの戦術的優位を固めてくれる存在と考えて、大いに利用するのがいいわ』

 

────────────

 

(時空の歪みの淵……戦術的優位……)

 イオアンナの語る事柄も、その語彙も、朱音がこれまで大日本帝国の平民として生き続けてきた世界とは、大きく隔たっている。

 それらが、二日足らずのあいだに、頭の中にじわじわと浸透して「知識」として定着してきたのは、やはり彼女が教師としても極めて優秀だからなのか、それとも自分の側の変質のためなのか。

 訓戒を思い出すたびに浮かぶ疑問だが、どうやら結論は「両方なのだろう」に落ち着きつつあった。

 ともあれ、朱音は己自身、奇妙なまでに落ち着き払っていた。

(明日のために、その二……)

 

────────────

 

『ここまでの話で、〈烙印者〉であることが全く苦しい呪いばかりのように聞こえたでしょう?事実その面はあるし、今までのあなたの体験では、その側面しか見えてこなかったはず。でもね、全ては表裏一体。「特権」と言えるものも、また無数にあるものなのよ。それは何だと思う?』

『分かりません……ただ、貴方様が好んで〈烙印者〉になられたのでしたら、きっと何かはあるんじゃないかと思います……』

『そうね、そこに考えが至ったなら、まず及第点はつけてあげる。私がイェンダーの呪いを受け入れたのも、結局「サーペントの瞳」を手に入れる最も成功する可能性があり、かつ最短の方法だったからに他ならないわ。じゃあ、それが第一に何か──これは答えて見せなさい』

『……やっぱり、「死に戻り」できること……なのかな?』

『よくできました。いえ、よく言えました。そうよ、これまでのあなたにとっては呪いでしかなかった「死ねない」こと──より正確には、いかなることがあっても「死に戻り」で済むこと。これは、私たちのように最初から目的を持っている者にとっては、最上の特権よ』

『…………』

『私だって、千年生きた吸血鬼とはいえ、真の意味で滅びる時は滅びる。この命一つきりでは、とても「鉄獄」の最奥、神か魔かという敵がひしめく場に擲つには、望みの薄い賭けだもの。あなたのように心さえ削られない限り、私たちは「サーペントの瞳」を手に入れるために、何度でもやり直し、挑戦することができる。実際のところ、これは確たるエゴあるものにとっては、恩恵そのものよね』

『……何だか、妬ましい……ううん、羨ましいです。そうやって、死ぬこと自体に恐れがないということが……』

『いいえ。そんな妬みも羨望も、同じ〈烙印者〉である限りは無用よ、朱音。あなたにも、〈烙印者〉として間違いなく持っている、もう一つ大きな特権がある。それを堂々と「行使」できる意識さえ持てれば、私もあなたも、多少の格の差はあっても、「同志」と言えるだけの関係になれるわ』

『私とイオアンナ様が、同じなんて……』

『謙遜は虚しいわよ。〈烙印者〉になってしまった以上、そういう躊躇いはおよしなさい。そして、躊躇なくもう一つの「特権」を行使するの……いいこと?それは……』

 

────────────

 

(『動くものは殺せ』……)

 イークの洞窟へと歩みを進めて入るとともに、「その二」の言葉を心中で反芻する。

 羽津朱音は、今までに命を殺めたことはない。

 ──いや、無論、故郷の地球で牛豚鶏や魚類は日々の食卓で味わってきたし、ハエやゴキブリなどの害虫を駆除したこともある。

 肝心なのは、日々の衣食住や衛生の一部としての殺生ではなく──

 

────────────

 

『動くものは殺せ──〈混沌〉の影響を受けた存在ならば、何でもいいわ。私が指示した「イークの洞窟」には、害虫の類がそのまま巨大になったものや、小動物程度の奇妙な生き物がいくらか潜んでいる。それを殺めなさい。貴方自身の手で、第一の指示で手に入れた武器で、確実に』

『………』

『さすがに平和な時代に生まれ育って、つい最近までただの「平民」だったあなたに、いきなり人型の生き物を殺せというのは、きっと尻込みしてしまうでしょうから。害虫が一番いいでしょう。それならば駆除として「殺意」も持てるでしょうしね』

『ごめんなさい、仰ることがあまりよく分かりません……その、殺すこと自体に意味があるんですか?』

『そうよ。気持ち悪い虫や爬虫類なら、日常でも殺したことがあるでしょう?それの延長上でいいから殺すの。それが、今のあなたには特別な意味を持つわ』

 

────────────

 

 洞窟の中は、濃い暗闇に満ちていた。

 しかし、朱音の視界は依然として、土くれや岩の壁、整地されていない足場をはっきりと捉えている。

 その視界の先、入口から少し進んだ、自然と開けた場所に──何かがいた。

 蛇。長さが二メートル半はあろうか。

 気付いた瞬間、ゾッとする。あんな長い蛇は、テレビの陳腐なショー番組の映像でしか見たことがない。

 向こうが、こちらに気付いている様子はない。

 そのあいだに、朱音は手に持っていた長剣を抜き──そっと鞘を足元に置きながら、諸手でぎこちなく握りしめた。

 二日足らずのイオアンナの「我が家」での薫陶のうち、半分ほどは剣を扱うための、ごく初歩的な技の体得に費やされている。

 吸血鬼と化した身ゆえか──鉄の塊であるはずの長剣は、かつて地球で従兄弟に触らせてもらった金属バットより軽かった。

 剣を扱うにあたっての正しい前提──第一に持ち方から、正しく刃先と平行に振り下ろして「切る」こと、切っ先を真っすぐに「突く」こと。

 それで木材に綺麗な断面を作ったり孔を開けられた時には、学生時代にようやく鉄棒が、水泳のクロールが出来るようになった時と同じような達成感を確かに覚えた。

 だが、「動くもの」にそれを振り下ろすこと──それを「殺める」ことは、これが初めてである。

 

────────────

 

『かつてのあなたならば、それだけで確実に命の危険に直結する害虫でしょう。今、吸血鬼にして〈烙印者〉となった分と、これから私に習う剣技を足してなお、あなたに死をもたらす可能性はいまだ確かにある存在よ。でも、もう分かっているわよね?運が悪くても「死に戻り」で済むのだから、心おきなく対峙なさい。そして殺すのよ』

『ええ、それは分かりましたから……でも、殺すことに意味は……』

『あるのよ。いいこと?必ず殺意を込めなさい。生理的に嫌悪するものを、とことん憎悪しなさい。重ねて言うわね?前まで無様な「死に戻り」のあいだに、あなたは己を解離させていたことがあったようね。そんな無様な真似は二度としては駄目。一切罪悪感なく、確かに己が、己の意志で、それを殺めた──その意識こそが、あなたが〈烙印者〉として相手を「咀嚼」するのに必要なものなの。これは口で説明しきれない。これ以上は、あなた自身で体験するしかないわね』

 

────────────

 

 イオアンナの忠告は、正直、まだよく分からない。

 だが、きっと正しいのだろう。

 朱音は、土茶けた、しかし嫌悪したくなるほどに艶めかしい、その大きな蛇をじっと見つめる。

 ──ああ、そうだ。気持ち悪い。本当に気持ち悪い。

 なんでこんな生き物が、今この場に存在しているのだろうか?ともすれば、己の命を脅かしかねないのだろうか?

 苛立たしい。むかつく。悍ましい。

 消えろ。消えてしまえ。それが間違いなく正しいことなのだ。

 生理的嫌悪から生じていく感情を、吐き出すことなく真顔のまま、心中に延々と渦巻かせる──。

 「野生の感」などと言われるものは、所詮あのテレビショーが大げさに振りまいた虚偽か、せいぜい偶然の産物に過ぎないのだろうか。

 朱音の肥大していく「殺意」をよそに、大きな蛇はとぐろを巻いたまま、どこか体を動かすのも億劫そうにしている。

 振り下ろし、唐竹割り──まだまだ剣を振るうには未熟この上なく、ぎこちない朱音が、少なからず「何かを得た」と感じている技が、彼女の脳裏にふっと選択肢として浮かび上がる。

 一歩、一歩。

 音を立てぬように──特に地響きには聡いという蛇の聴覚にも、それとは気づかせぬ程度に。不規則に、静かに。

 白色ノイズに近い奇妙な風鳴りの音は強く、さらに地底でも常に何かが蠢いているらしい洞窟内の雑音の数々は、幸いにも朱音の目論見に味方していた。

 

────────────

 

『剣技を含めたあらゆる殺法は「空間と瞬間の争奪」よ。しかるべきところに、しかるべき力積をぶつける。それが出来る機会をいかに相手から奪い、いかに自分の物だけにするか。そのために、誰しもが間抜けなまでに全身をよじらせて必死になる訳』

 

────────────

 

 朱音の身長百五十五センチ。刃渡り八十センチ。諸手の握り三十センチ。

 標的──現在三メートル先。

 イオアンナがこれまで用意してくれた木材の標的が、己と同じ背丈だけでなく、むしろ地面を切るような低い位置に設えられていた回数の方が多かった意味が、今ここに及んでようやく理解できた。

 その時になってようやく、とぐろを巻いた蛇が動く。

 頭部を、気紛れか、何かの危険を察知してか、とにかく朱音の方角に向けようとする。

 ──もう遅い。

 「殺意」を、技という出力に漏れなく置き換えた朱音が動く。

 朱音はまだ、実のところ自覚がない。

 学生時代「どんくさい」と言われがちだった己の運動能力が、吸血鬼への変異を通じて、まずは成人男性アスリートの中でも上振れの部類に達している──その事実に。

 であるからして。

 その技──斬り下ろしの結果がもたらしたものに、最も驚くしかないのは、実際のところ唯一、当の朱音自身であり──

 結果は、その茶色の鱗をした蛇の胴体数か所の、致命的な破断であり──

 すでに己の全身の大半が利かなくなっていることに気付かなかった蛇は、その顎を開いて敵に飛びかかろうにも、まだ切断されきっていない長い胴に引きずられて、無様に己が頭部を地面に叩きつける羽目になった。

 その惨めさをしかと見た朱音は、そのまま、さらなる殺意を無言のままぶつける。

 長剣の刃先を、ざくざくと、蛇の胴や頭部ごと洞穴の地面を耕すかのように突き入れていく。

 一度──

(死ね)

 二度──

(死ね)

 三度、四度──

(死んでしまえ)

 五度目に及び、蛇は頭部をざっくりと貫かれ、すっかり動かなくなった。

 その瞬間、朱音の全身に、奇妙な感覚がぞっと満ちる。

 あのイオアンナに血を吸われた時の快楽が、「何かが抜け落ちる」ことで生じる快楽なのだとすれば──

 今、朱音を貫いたものは、「何かが入り込んでくる」ような快楽。

 ただ、その質は全く同じ。

(この快楽が、再び決して味わえないのだとしたら──では、何のための生であろうか?)

 そう直に問いかけてくるほどの、快楽。

 この時、ようやく羽津朱音は理解した。

 〈烙印者〉の本懐を。イオアンナが「これ以上は口では表せない」と言ったものの、本質を。

 

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