ヴィーヤウトゥムノ伯国鉄獄覚書   作:松永闇斎

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逝き過ぎるということ ~恐怖!吸血女子短大生 VS 怪奇蛆虫爺~ (7)

 羽津朱音は、事ここに及んで欺瞞を許されない事態に陥った。

 「殺し」を厭う、生来からの思考──現代日本人の平均的な「倫理」は、元より一朝一夕で拭えるものではなかったのだ。

(生き物をむやみに傷つけてはいけません。ましてや殺すなんて、論ずるはおろか、話の俎上に載せることすら許されません)

 幼い頃から、いつ、誰からそう戒められたのかなど覚えていない。しかし、二十年近い生涯の中で、あまりにも当たり前なものとして培われてきた、空気そのもののような戒律だった。

 それを騙すためには、「例外」を縫うほかはなかった。

 第一階層の敵にはなべて備わっていた共通の「例外」──「害虫」への生理的嫌悪は、そんな彼女にとって、ほぼ唯一有効に働く「抜け穴」だった。

 しかし、今、眼前に敵意を向けてくる存在はどうだろう?

 犬。ああ、犬だ。

 無論、先ほどからの奇襲を含めて、既に朱音に負傷を与えたそれを、「害虫」ではなく「害獣」と見なすことは、不可能ではない。

 そうだ。彼女のかつての寄る辺であった現代社会においても、噛みついてくる野良犬については、容赦なく捕獲し、保健所で殺処分するのが妥当だと、当然のように法は下してくれる。社会は、世間はそれを認めてくれるだろう。

 だが、朱音にとっては不可能だった。心理の枷から逃れる余地がない。

(そういうことは、「男の人」で、「専門の職員さん」がやることだ。「女」で、「ただの一般人」の自分はやれないし、多分やっちゃいけないことだ)

 この鉄獄においては全く空論に過ぎない「倫理」が、しかし朱音の胸の内では、にわかに空回りしはじめていた。

 つい先ほどまで平然と、軽々と振り回していたはずの両手の剣が、急に重くなる。手足は震え、姿勢を維持するのもおぼつかなくなる。

 そんな彼女の、〈烙印者〉としての──殺戮者としての欠陥を、咎める者も、矯正する者も、ましてや慰めてくれる者も、今は誰一人としていない。

 そして眼前の犬は。白い犬は、そんな彼女の欠陥を知る由もなく──

 ただ反撃を怠ったのみならず、相対していながら明らかに反撃の余力を失いつつある、ただの愚かな敵と見据えて、再度、彼女に噛みつきを試みてきた。

「ひっ──」

 朱音は情けない声を上げた。殺したくはない、だが傷つけられたくもない。そんな、空回りし続ける倫理に囚われたまま、明らかに威力を欠いた、半端な軌跡で剣を振り回す。

 白い犬はそれを、さも当然のように掻い潜り、朱音の左手めがけて噛みついた。

「痛い!いや!痛い!」

 だだをこねるような口調で、朱音は苦痛を訴えるが、犬は噛みつきを緩める様子は微塵もない。再度の苦痛が、硬直していた朱音の意識を幾分か立て直す。

 「倫理」よりもっと低層的な「本能」、命の危機に基づいた必然が思考に走ったのだ。

(──そうだ。このまま犬に襲われ続ければ、確実に殺されるじゃない。殺されるくらいなら、殺すしかないじゃない)

 続けて先ほど犬を「害獣」と断じた順法精神が、それに賛同した。

(そうよ、これは正当防衛だわ。第一に、野良犬めが人間様の命を脅かすなんてあってはいけない。当然じゃないの?)

 だがなおも「倫理」が、意固地にそれらを拒否する。

(だからって、殺すことはないじゃない!?この子、きっと敵じゃないと分かってくれれば大人しくなってくれるはずで……)

 それは〈烙印者〉となって何度か死を経験したためなのだろうか。常人の葛藤とは大分異なり、朱音の脳裏には、各々が明白に解離して独立した思考が、とめどなく口論を重ねているかのようであった。

 その混乱は、朱音という一個の身体にそのまま、死に瀕して恐慌する無様という形で表出する。

「やだ!やだ!本当にもういやだ!どうしろって言うのよ!」

 何もかもを、今襲われている現実そのものをも拒むように、朱音は叫ぶ。

 その間にも白犬は、反撃する様子を見せない朱音の左手に、牙をさらに食い込ませた。

「ああ!あああああ!」

 増した苦痛に、いよいよ理性を失った朱音の絶叫。混乱が極まった結果、彼女という総体の手綱を握り、その身を突き動かしたのは──結局はもっとも卑近な「本能」であった。

 幸い、朱音の右腕には、いまだ剣が握られたままだった。彼女はイオアンナから学んだ振り方を恐慌に忘れ果て、その剣を、ただ重い棒のように白犬へと振り下ろす。

 刃は、振り下ろされた方向と一致しなければ、その効力を十全には発揮しない。ただ、重量ある鉄の棒としての効果は、確かに作用した。

 背中に刀身を打ち付けられた白犬は、その瞬間、「ぎゃん」と肺から空気を絞り出したような声を上げると、一心不乱に行っていた朱音への噛みつきを、にわかに緩めた。

 苦痛を誤魔化すためにばたつかせていた左腕が、ようやくその戒めから解き放たれる。

 傷は、初回の奇襲で受けたそれよりも深かった。もう少し噛みつきどころが悪ければ、動脈を裂かれていたかもしれない。

 幸いにも、今のところ致命傷は免れている。

 受けた傷は、第一階層で「駆除」に勤しんだ折に不慮に受けた傷と比べれば、さほど重くはない。

 なんならば、その傷は早くも少しずつ塞がり始めている。吸血鬼となったこと、〈烙印者〉となったことの恩寵は今も、確かに朱音を援けていた。──無論、今の朱音にそれを喜ぶ余地は欠片もないが。

「やだ!やだ!やだ!」

 苦痛から、脅威から、ひとまず逃れる余裕を得た朱音は、手脚を間抜けにばたつかせ、幼児のような拒絶の言葉を吐きながら、逃走を選んだ。

 『各階層を隔てる「時空の歪みの淵」──そこをまたぐことが出来るのが〈烙印者〉のみである』

 そのイオアンナの助言を、欠片も疑うことなく信じたままに、朱音は元の第一階層へとひた走る。

 白犬の吠え声が背後から響き渡る。追いかけて来る気配こそなかったが、その吠え声は、彼女の恐怖をなおも掻き立てた。

 「時空の歪みの淵」を潜る。

 最初に「イークの穴倉」に立ち入った時とも、つい先ほど第一階層からこの第二階層へと降りた時とも同様、奇妙な抵抗感を一瞬感じるだけで、朱音の逃走は受け入れられた。

 白犬の吠える音が、距離感以上にどこか遠くに感じられながら、彼女はそのまま第一階層へと逃げ帰ることができた。

 確かに、あの犬は追いかけてこない──。

 本来ならば、イオアンナの助言が実に金言そのものであったことを、感謝すべき場面ではある。だが今、彼女の心中を覆う怯えと失意は、他者へ──ましてや今この場にいない「先輩」へ──そういった念を巡らせられる状態ではない。

 朱音はただ、脅威から逃げ延びることができた安堵だけを実感して、その場にへたり込んだ。

 そして嗚咽する。一切の理不尽に、自己を憐憫する。

(ああ、もう……なんで、なんでこんな目に?……)

 これまでの事情が、恐怖と混乱の中で吹き飛んでしまっていた中、その心中の疑問は、彼女が内省のための理性を取り戻すのに、この上ないきっかけとなった。

 そうだ。自分はこの階層に這い回っていた害虫を「駆除」することについては、何の疑念も、罪悪感も抱かなかった。それが、気持ち悪い虫や軟体生物ではなく、犬であっただけで──日頃から愛でていた生き物であっただけで──「殺す」ことを躊躇ってしまった。

 己の「殺し」が、単なる言い換えと誤魔化しの上に成り立っていたことを、今、思い知らされたのだ。

 その結果が、この体たらくだった。

 折角イオアンナから学んだ剣の振り方を、「殺し」方を、すっかり忘れて殺されかけた。それが現実であり、事実だった。

 痛む左腕に、「辺境の地」で買った霊薬の封を解いて振りかける。

 このまま時間が経過すれば、今の自分の肉体は恐るべき勢いで傷を塞いでくれる──その確信はあった。

 だが、あの犬──今や「狂犬」と印象を変え始めたあれに噛みつかれたがゆえに、「狂犬病」の言葉が脳裏をかすめ、念入りに治療を施したい衝動に駆られたのだ。霊薬が実際それを予防してくれるのかとか、そもそも吸血鬼であり〈烙印者〉である自分に、そうしたウイルス性疾患が意味を成すのかとか。

 そういう理屈ではなく、ただ「禊」をしたいという非合理的感情。そうでもしなければ、落ち着かなかった。

 疲労感が、急激に身を襲う。

 この第一階層で、イオアンナの教え通り〈烙印者〉として上手くやれたはずの達成感は根こそぎ奪われ、第二階層で、困惑の中、犬一匹すら殺せなかった挫折感。それでいて今もなお、害してきた生き物に対してすら拭えない憐憫の情、殺しに対する抵抗感。

 それらすべてが、どっと彼女を襲った。

 第二階層への入り口付近に、崩れるようにへたり込む。

 あらかた「駆除」を楽しめていた間に「害虫」を除去してしまった第一階層が、今のところ安全地帯であることを保っていることは不幸中の幸いだった。

 この疲労を、どうすれば少しでも癒せるだろうか?朱音の思考は、自然と、その身に及んでいた生理的欲求へと流れ着いた。

 ──そうだ。今は空腹なのだ。お腹を空かせたままなら、ここまで気落ちするのも当然だろう。

 彼女は影に仕舞っていた己の持ち物の中に、食料──イオアンナからは「行楽に行くような代物」と揶揄されたもの──が多数あったことを思い出す。

 ビスケットに干し肉、そして「レンバス」とかいう、何か乾パンのようなもの。エールとワインの瓶──いや、アルコールは流石に今摂取する気にはならない。

 詳しくは聞かなかったが、イオアンナが端的に呼んでいたところの「レンバス」とやらは、どうやら携行食、非常食として貴重な、不思議な魔法の品であるらしい。

 今気落ちしている自分に、何か良い作用を与えてくれるかどうかは分からない。

 だが少なくとも、害になることはないはずのものだろう。そう願って、朱音は影から、それこそ見た目には本当に乾パンがもう少し柔らかくなったかのようにしか見えないそれを取り出す。

 しばらくまじまじと眺め、それを口に入れ、噛み砕いた。

 なるほど、あまり旨いとは言えないが、確かに活力を与えてくれそうな味がする。しかし──結局は、本当にそんな気分がするだけだった。

 朱音は、ほどなくして、己の胃袋に対する猛烈な違和感を覚えた。

 胃もたれとか、そういうものではない。むしろ逆だ。胃の中に、何か重いものではなく、軽い、本当に軽い、しかしそのために何の栄養にもなりそうにないような余計なものを、いい加減に放り込んでしまったかのような、そんな感触。

 故に、空腹感は微塵も満たされていない。

 これが「レンバス」の効力なのか──と、朱音は「魔法の食べ物」に対する失望を抱いた。

 仕方ない。それならば、まだしも見慣れた食べ物を摂ろうか、と。影の内から、今度はビスケットと干し肉を取り出し、しっかりと噛みしめる。

 ──これもあまり美味くない。お世辞にも両方とも出来の良いものには思えなかった。

 そして、その咀嚼物が胃の腑にたどり着くに及んで、受けた感触は──さきほどの「レンバス」と微塵とも変わらない。

 空虚だ。

 確かに腹の中に納まったはずなのに。物理的には確かに食べた分量だけ腹は膨らんだはずなのに。これまでの生涯の中で食べてきた何よりも、虚しく、根本的な意味を成していない無為さ。結果として、却って空腹感が増したようにすら感じられる。

 何故だろうか?あまりにも多くの事がありすぎて、自分は食べ物で腹を満たすという、人として、いや生き物として当然の根源的な物すら失ってしまったのだろうか?

 朱音の中で、先ほどまで、あの犬から被ったものとはまた違う混乱と恐怖が、次第に湧き上がってきた。

 それが、またしても彼女の正常な思考を、理性を蝕み始める。

 もう少し冷静であったならば、今の彼女には、当然思い当たるべきその原因が、己の変質した身体そのものにあることに考えが及ぶはずなのだが、その蝕みが及ぶべき結論までの道を阻んでしまった。

 朱音の意識は「決して満たせない空腹感」という問題に固着してしまい、それが、彼女に沈痛をもたらす。

 もう自分は二度とこの空腹感を満たせない、永遠に欠乏の感覚から逃れられないのではないか?そんな、まだ確たる証拠もないはずの「絶望的観測」が疲労に満ちた頭の中を駆け巡っていた。

 実際、それは全く無根拠な出鱈目で、今の彼女の空腹を満たす手段は必然としてある。しかし、それが何なのかを今の閉塞した思考に陥った彼女は知る術がない。ましてや、〈烙印者〉の孤独行にある中、彼女にそれを教え諭すものは、さしあたり、イオアンナは今、この場には居ない。

 再び、彼女の精神は解離に陥り始めた。その兆しのように彼女の口から乾いた笑いが漏れる。

「ひ……うひ……」

 彼女の自我は、今回において自閉を選び始めた。この絶望的に思える状況に対してただただ思考を停止することで、外界に対する一切に関心を失うことで、逃避することを選んだのだ。

 その結果として、今の彼女は再び本能の虜となった。

 本能が──彼女の自我のくびきから解き放たれた彼女の身体を、ふらつくように歩ませた先は、先ほど逃げ帰ったはずの第二階層だった。

 

──────

 

 白い犬──彼の主からは「くいつき」と名付けられていた中型犬は、まずは外敵を打ち払ったという矜持を胸に、誇らしげに尻尾を立てていた。

 全くもって奇怪な生き物だった、と「くいつき」は先ほどの外敵を思い出し、自然と誰にともなく唸り声を上げる。

 見た目だけなら、彼の主と同じように二本足で歩く「人間」であったが、その実、鼻が捉えた匂いはまるで違っていた。悍ましく、汚らわしく、どうにも我慢ならない匂い。ドブネズミのような匂いをしたその何かに、己はまさに一矢報いたのだ。

 打ち身を喰らう反撃こそ受けたものの、撃退には成功した。

 奴は叫びながらどこかへ逃げ去り、その匂いもあっという間に嗅ぎ取れなくなってしまった。

 何故あそこまできれいに匂いが消え失せたのかは理解できなかったが、ともかく自分が勝利したことに変わりはない。

 もしあの外敵の撃退を、自分の主人の前で見せることができたら──主人は、きっと自分を褒めてくれただろう。撫でてくれただろう。

 「くいつき」は尻尾を振り、主の手が己の頭を撫でる感触を思い出した。だが、その想起と同時に、深い寂寥が胸を刺した。

 そうだ。彼は愛しの主人と、もう長らく離れ離れなのだった。いつからはぐれてしまったのか、思い出せないほど、ずっと前から。

 第一、そもそも自分は、いつからこんな場所にいるのだろう?

 あの農園の中で、主人やその家族たちと過ごした日々は、既に遥か遠くの昔になってしまった気がする。

 いつからか、自分はこの洞穴の中を彷徨う身となり、時折遭遇する奇妙な生き物や小動物を狩っては、食らい、生きながらえてきた。

 そうして生き続けていることだけが、今の彼にとっての当たり前になっていた。

 主人やその家族だけではない、自分と同じ「同胞」たちとも会えずじまいでいる。

 主人が自分を「くいつき」と呼んでいたのと同じように、「きば」とか「おおかみ」と呼ばれていた、自分と同じ犬たち。

 彼らとは、主人との間ほどには離れ離れになってはいないはずなのに、やはり長らく出会えていない気がする。本当に「気がする」だけで、実際どうなのか、それすらも覚えがうやむやになっていた。

 困惑と不安が、微かに「くいつき」の脳裏をよぎった。だが、その思考は──再び感じ取った、あの匂いに中座させられた。

 あの奇妙な生き物め。なぜかは知らないが、またこの近辺に戻ってきたらしい。汚らわしい匂いが、再び「くいつき」の鼻孔をかすめ始める。

 全く懲りない人間もどきのドブネズミめ。今度こそ、その首根っこに食らいついて、息の根を止めてやろう。

 「くいつき」は匂いの漂う方角に警戒しつつ物陰に身を潜め、再び奇襲の準備を整えた。

 あの人間もどきは、確かに近づいてくる。前回よりもずっと無警戒に、どしどしと歩みを進めているのはいささか気になった。あの怯え竦んで逃げ去った様子と比べれば、確かな違和感を覚えざるを得ない。

 いいや、どうであれ構うものか。今度こそ、あの喉笛に食らいついて仕留めてやる。

 「くいつき」は洞穴の陰に身をひそめながら、忌まわしい匂いと足音が近づいてくるのを静かに待つ。

 獲物は、本当に無造作に歩き回っていた。まるで、この周辺こそが自分の縄張りであると誇示しているかのようだ。

 その不遜さに、「くいつき」は敵意を深める。先ほどの敵の背丈と体の寸法を思い出し、跳び出す地点と噛み付くべき急所を冷静に算段した。再び一方的な奇襲を仕掛けられる場は整った。

 あとは、敵が間合いに入った瞬間に食らいつくだけ。「くいつき」は、犬としての──動物としての本能を研ぎ澄ませた。嗅覚で、聴覚で、敵の本質を測り続けることも怠らない。

 敵は変わらない。何も変わっていない。

 あの、人間もどきの匂いを漂わせて、この場に近づいてきている。

 己の視界にも収まる位置まで寄ってくるまで、あと数歩。三歩、二歩、一歩──今だ。

 「くいつき」は果敢に飛びかかった。

 狙いは、完全に目論見通りだった。

 今度は、相手の視界の及ばない後ろ横から、延髄に噛み付く。

 それで、先ほどから手負いだった敵は、一気に抵抗の術を失うだろう。

 勝利を確信した「くいつき」は──しかし、その顎を敵の頸に届かせる前に──急激な視界のぶれを感じた。

 ───そして、気付く。己が、地に叩き伏せられていることに。

 裏拳。あの人間もどきは、首に喰いつかんと跳びかかった己の頭部を、実に正確に横殴りに叩き落とした。

 「くいつき」は、痛みと共に混乱した。

 何故だ? あの人間もどきの先ほどの狼狽した様子を見る限り、気取られるはずがなかった。

 あの生き物は、あの赤い目でしか外界を追えていなかった。聴覚や嗅覚は鈍く、己を捉えることも、追うこともできなかったはずだ。

 それが、なぜ今さらになってここまで鋭敏になっているのだ?

 今の動きは、明らかに音と匂いで、「くいつき」の所在をあらかじめ嗅ぎつけていた者の動きだった。

 つい前回の無様な逃走が、演技だったというのか?元からできるはずのことを、なぜ最初からしなかったのか?

 分からない。この人間もどきのことが分からなくなった。

 打ち据えられた痛みをこらえ、「くいつき」は見上げて「奴」の姿を見捉える。

 怖気が走った。

 ──なんだ、この表情は。

 外見そのものも、匂いも変わらない。

 だが、顔つきがまるで違っている。涎を垂らしたそいつは、真っすぐに「くいつき」を見つめていた。

 今やその眼光は、獣そのもの──「捕食者」のそれだ。

 人間もどきは、先ほどまで手に持っていた剣をその場の地面に突き刺すと、空いた両手を大きく振り広げながら、大口を開けて「くいつき」へ飛びかかってきた。

 その開いた口からは、彼とよく似た鋭い犬歯が覗いているのに気付く。その目論見が何であったかを悟るには、すでに遅すぎた。

 人間もどきは、その目方のまま、驚き竦んでいた「くいつき」にのしかかり、その胴を両の手で押さえつけてきた。そして、その口を「くいつき」の横頸──動脈の通った筋へと向け、食らいついた。

 「くいつき」は、いよいよ動転と困惑、そして首に走った痛みに、情けなく「ギュワン」と鳴き声を上げた。

 人間もどきの重みと、予想外の膂力に取り押さえられて、抵抗できない。

 視界は、押さえつけてくる人間もどきの手に塞がれて何も見えないが、首筋からもたらされる感触が、「くいつき」に走る怖気をいよいよ強めた。

 本能が、絶望的な事実を告げる。

 自分は今、まさに喰らわれている。

 肉ではない。血を。

 あるいは──自分の命そのものを。

 恐怖が抵抗を命じるが、急激に力が抜けていく。

 どこか、自我が、記憶までもが抜き取られていくような感触が、全身を侵食していた。

 ああ、なぜだ。なぜ自分は、こんな目に遭っているのだろうか?

 もたらされる心身の衰弱に意識が混濁していく中、「くいつき」が最後に思い浮かべたのは──

 あの遠い日の農園の光景と、己の頭を撫でる主人の姿であった。

 

──────

 

 憐憫を抱き、敵対を厭っていた白犬が、終始己をおぞましき敵、「人間もどき」としか見なしていなかったことを、朱音は知る由もない。

 結果論として、そう見なされてもおかしくない行為を自ら行ったことを、今のところ彼女はまだ自覚すらしていなかった。

 彼女の「本能」は、彼女が解離して閉ざした「良心」に代わり、今、忠実に己の自己保存に必要な食餌を存分に貪る。

 美味い。

 本来こんな犬っころの血が、取り立てて美味いはずはないのだが──飢えこそが最上の調味料であることは、吸血鬼にとっても変わらない。

 しかも、それが初めての「正しき食事」であるならば、なおさらだ。

 朱音は、現代地球で吸血鬼への変異を果たし〈烙印者〉となってこの地を死に続けながら彷徨い続けて以来、まだ一滴たりとも血を啜ったことがなかった。

 己が吸血鬼であることをイオアンナに諭されるまで自覚できず、そもそも吸血を要するほど飢える前に、その都度命を落とし、飢える前の状態へと「生まれ変わる」ことを繰り返していたためである。

 朱音の「本能」は、今ここに至ってようやく本懐を遂げたのだ。そうである以上、どれほど下等な血であったとしても、不味いはずがなかったかもしれない。

 吸血鬼の食餌には、物理的な滋養だけでは足りない。

 生き血であるか、せめてまだ死して間もない程度には温かく、魂魄が遊離していない死体である必要があった。そこからこそ得られる、生命の本質たる複数の要素を摂取してこそ、吸血鬼の腹は満たされる。

 そして、朱音の「本能」は、確かに白犬の一切を黙々と咀嚼していた。

 一般に滋養に満ちていると言われる血だけではない。白犬が犬であるなりに持っていた記憶を、感情を、自我を。

 そしてそれらが孕んでいた苦痛や絶望が深いほど、吸血鬼の胃腑は背徳的に歓喜した。

 この犬に関する多くが、朱音の内へと流れ込んでくる。血が、魂魄が、言葉なき語りをもたらす。

 己が「くいつき」と、およそそのような意味の人間の言葉で主人から呼ばれていたこと。他にいた二頭の犬と共に、幼い子犬の頃から愛されて育てられてきたこと。

 主人にも大家族がおり、農園であくせくと農作業を繰り返していたこと。己らが野山を駆けて食事を摂っていたこと。

 そんな日々がある日突然、「神隠し」により暗転したこと。

 訳もわからないまま、この洞穴の中を彷徨う日々を送る羽目に陥ったこと。

 主人と離れ離れになってから、どれだけの月日が過ぎたかも分からないこと。

 この洞穴に息づく得体の知れない生き物を、不味いながらも食いながら、どうにか生き延びてきたこと。

 そして今、こうして得体の知れない「人間もどき」を追い払って勝ち誇ったのも束の間、急に踵を返した反撃を受け、よりによって己が貪られる羽目に陥ったこと。

 最早あの農園に帰ることもできないこと、主人のこと──その絶望、その無念。

 それらすべてを、朱音の「本能」は、是非もなく堪能していた。

 「本能」に善も悪もない。ただ自己保存のため、己が己であり続けるために、より良いものを選び取るのみであり、喫緊の度合いが大きいほど、その勢いは強まるだけだ。

 その「本能」が、ようやく事を成し遂げつつあった。

 比較的壮健であった中型犬一頭の血。吸血鬼となって初めての食事としてはお粗末ではあったかもしれないが、これで当分飢餓に陥る可能性は払拭された。

 その現実の結果に満足した「本能」は、ようやくその焦燥的な活性を抑え、鎮静しようとしていた。

 命の危機が去り、絶望と不安が取り払われると、次第に解離した精神が戻ってくる。

 血を吸う間、荒げていた鼻息は少しずつ静まり、血を嚥下する喉の動きも弱まっていく。

 危険が遠のいたと見たところで、逃げ込んでいた自我が、ようやく現実に立ち戻ってきたのだ。

 最初に自我が意識できたのは、その身に満ちる確かな温かさだった。先ほどまで空っぽだった胃の感覚が、もう二度と得られないと思い込んでいた充足感が、腹の底いっぱいに広がっている。

 このまま、かつて人間の頃もしばしばそうしていたように、横になってしまいたいような心地よさ。

 ――だが、己が今、口に噛んでいるものが何であるか。そこから吸い上げていたものが何であるかを、自我とともに「理性」が遅れて理解し始める。

 その瞬間、朱音は犬の首筋から口を離し、壊れたバネのように跳ね上がって死体から飛びのいた。

 ──自分は何をしていたのだ?

 口から滴り、服の胸部を汚すものをじっと見つめる。

 赤黒い液体。

 下唇から顎を手の甲で拭えば、まだいくばくか新鮮な色をしたそれが、ベトベトと手袋にもまとわりつく。

 もう見て明らかだった。

 ──血だ。

 朱音は、己のものとも思えぬほどの金切り声を上げた。

 その声に肺の空気を絞り尽くした後、反射的に、大きく淀んだ穴倉の空気を吸い込む。

 その勢いのあまり過呼吸に陥り、朱音はしばしその場に倒れて、のたうち回った。

 身を捩らせるうちに、不意に白犬の死体に覆いかぶさってしまう。

 恨みがましい、険しい顔つきのまま息絶えた白犬の顔が眼前に飛び込んできて、朱音はさらに怯えて絶叫した。

「あああああ!」

 意図してか、不意にか、間近な岩に頭を打ち付ける。だが、その痛みをも凌ぐ苦悶が、やがて彼女の心中を襲う。

 麻痺していた「良心」が、最後に戻ってきたのだ。

 ごめんなさい。許してください。いや、駄目だ。許される訳がない──

 謝罪と自罰のあいだを取り留めもなく逡巡するその身は、いつしかまるで滑稽な猿回しの猿ように、跳ね回っていた。

 

──────

 

「……イオアンナ殿。率直に言ってそれは、その朱音……なる娘に対し、余りにも酷な取りこぼしをしてしまったと言わざるを得ないと思うぞ。『血を吸うべきことを知らぬ吸血鬼の新生子』というのは、ううむ」

 深い渋面をした男は、清酒を一口飲み干すと、滔々と眼前の女吸血鬼に所見を述べた。

「……やはり、董老師もそう思われますか?」

 その所見に対しイオアンナは、ワインをくゆらせつつも、恐縮そうに己の非を認めた。

「よりによって、それを言わぬままにその子を送り出してしまったのは、実に貴女らしからぬ失敗。そして確実に苛烈で凄惨な通過儀礼になるでしょうな。それを受け入れられるか、否かがそのまま彼女にとって重大な岐路と言っても過言ではないほどの大問題でしょう」

 イオアンナが董老師と呼んだ東洋人の男とは別にもう一人、イオアンナ以上の長身に深い紺色のダブルスーツを着こなした白人の男が、愉し気かつ皮肉を込めた口調で、董老師の見解に乗る。

「いやはや、千年昔に、吸血鬼の成りたての頃から呵責なく食事を行ったであろう、中世生まれのあなたにとっては盲点と言っても仕方のない話なのでしょうがねえ……」

 続けられる追い打ちにイオアンナは顔をしかめて、もう一人の男に制止を訴える。

「……どうかこれ以上はご容赦いただけませんこと?マルバス師。確かに卑しい生まれの下劣な性根に育った身であることは自覚していますの。むしろ、そうであることが、こうして千年級の吸血鬼として大成に繋がったことは、今更言うまでもないことでしてよ……」

 ここはテルモラ。その夕暮れの平原。

 「辺境の地」と同じく多元宇宙の結節点に形成された都市にして、〈烙印者〉同士の邂逅の場の一つ。

 既に大半の力を鉄獄行の間の捕食によって取り戻していたイオアンナは、己よりはるか格上の〈烙印者〉両名と久々の再会を果たし、「羽津朱音」という奇妙な新参の〈烙印者〉に出会い諭した次第を、包み隠さず語っていた。

 董老師──董明獲は、主観年齢にして千八百年を超える。生まれは中華・漢王朝の末期。すでに人の枠から外れた「邪仙」だ。

 マルバス師に至っては実にその倍を凌ぎ、齢五千年以上を超えていた。

 まだ古代メソポタミアに文明の曙光が上ったばかりの時代から、コーカサス地方に存在していた先史にも残らざる叡智に浴し、以来あらゆる歴史を垣間見てきた時代の生き証人たる存在である。

 共に純粋な人間でなく、多元宇宙そのものに先天的な介入能力を持つ「アンバーの血族」と呼ばれる存在であり、その不死性は吸血鬼のイオアンナよりもさらに別格と断言できる。

 〈烙印者〉としての格も両人共に隔たっており、董老師は「サーペントの瞳」を得る間近にあり、マルバス師に至っては既に何度かの「瞳」の取得を成した「勝利者」の一人であった。

 そんな先達たる二人に、こうも窘められては、イオアンナとしても、改めて朱音に対する失策を認めざるを得ない。

 自分は、彼女に多くを余すことなく教えたつもりであった。だが、よりによって一番の不安材料たる、吸血鬼の食糧問題を、その倫理的問題の克服の助力を全く忘れてしまっていたのだ。

 ほとほとに思い悩むイオアンナに、マルバスは飄々と言う。

「……いやいや、申し訳ない。イオアンナ殿。確かに興が乗りすぎて大分意地の悪い話をしてしまいました。ですが、気に病むことはないでしょう。あなたは吸血鬼としても〈烙印者〉としても最早十二分に過ぎるほど、その朱音嬢に手を尽くしたことは確かです。後は彼女自身の自助が為すべきことですよ。それが我ら〈烙印者〉というもの」

 董老師の方は、もう少し遠い目をしながら話をこぼす。

「しかり。己が望まざる身で夜の眷属となった挙句イェンダーに魅入られたのは不憫と言えば不憫……されど、現世とは元より悲劇……」

 自ら「邪仙」を称するに至った董老師なりの、思うところがあるのだろう。

 翻せば、イオアンナとしては、董老師の心境に近いものがある。己と同時空の歴史とたどった地球の同郷人。それも、己がもたらした仮初の秩序と平和の申し子たる彼女であるこそ。

 しかし、詮無き事だ。

 今、遠く時空を離れた孤独行を歩んでいるであろう彼女に、せめて何か良き変容の形があらんことを。

 イオアンナはいまだ己の屈折した信仰の対象たるハリストスにではなく、ただ〈混沌〉にそれを祈った。

 

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