四月。舞い散る桜の花びらは、希望という名の光をまき散らしていた。日本中のウマ娘たちの夢の舞台、トレセン学園の入学式。その喧騒から遠く離れた建物の陰で、一人の少女が、その全てに背を向けるように佇んでいた。
彼女の名前は、アヤメミヤビ。
彼女の容姿は、トレセン学園の華やかな生徒たちの中で、異質なほど地味だった。長く伸びた前髪は、彼女の目を深く覆い隠し、小さな顔立ちをさらに目立たなくしている。着慣れない真新しい制服は、彼女の細い体に大きすぎるように見え、まるで自分を隠すための布切れのようだった。
(ひいぃぃぃぃぃ....輝いてるよ!?みんなが輝く中、私だけが負のオーラを放ってるよ!?来ちゃった....遂に来ちゃったよ!!!)
ミヤビは極度の内気であり、人に見られることに耐えられなかった。目立つことは悪。注目されることは恐怖。それが彼女の人生の原則だった。走る才能だけが、彼女をこの学園へ引きずり込んだ唯一の理由だ。
走りだけが彼女の全てであり、己の唯一を証明することができた。
「走らなきゃ。それが、私にとって唯一嘘をつかなくていい時間だから....。」
周囲の喧騒とは裏腹に1人体を縮めて歩くのだった。
入学式の喧騒が落ち着き、オリエンテーションが始まるまでのわずかな時間。ミヤビは、誰にも見つからない場所を求めて、学園の広大な敷地をさまよった。たどり着いたのは、学園の裏手にある、普段は使われない小さな未舗装のグラウンドだった。
(ここなら大丈夫。きっと誰も来ない…)
静寂に包まれたその場所で、ミヤビは制服のスカートを気にせず、そっと走り出す。最初はゆっくりと、周りの空気を確かめるように。だが、すぐに彼女の身体は、本来の姿を取り戻し始めた。
地を蹴るミヤビの脚からは、想像を絶する爆発的な力が生まれる。
彼女のフォームは、教えられたものではなかった。ただ、速く走りたいという本能だけが、彼女の身体を最も効率の良い形へと導いている。まるで精密機械のように無駄がなく、流れるような美しいシルエット。
ドッ、ドッ、ドッ…
足音が、重く、地面に響く。そして、加速するにつれてその音は一つ一つ分離しなくなり、やがて空気の壁を切り裂くような鋭い風切り音だけが残る。ミヤビは、目を開きながらも、自分の内側に深く沈み込んでいた。
深く深く、海の底へ沈んでいくように意識を潜らせる。
人目を気にしなくていい。誰の期待も背負わなくていい。彼女は今、自分自身という名の、最も安全な場所にいる。その瞬間の速さだけが、彼女の孤独な心を慰める唯一の証明だった。
一回の全力疾走。ミヤビのタイムは、既にデビュー戦で一着を取れるだけのものだった。だが、それを知る者はいない。彼女自身でさえ、時計を見ることを恐れていた。知ってしまえば、誰かにその「価値」を見出され、光の中に引きずり出される気がしたからだ。
走り終え、息を整えていると、ミヤビの視界に、一本の白いラインが目に入った。
それは、彼女の走った跡に、細く長く残された、白い砂煙の尾だった。その尾は、彼女の走りがどれほど常軌を逸していたかを物語っているようだった。
「…消えて」
ミヤビは、その「証拠」を掻き消そうと、足で砂を払いのけた。彼女は、自分の才能が、まるで追跡者であるかのように思えてならなかった。