走り終わり、オリエンテーションへ向かおうとしていた彼女だったが、その白い砂煙を、全て見ていた人間がいた。
近くの校舎の半開きの窓から覗く影。そこに身を潜めていたのは、一人のトレーナーだった。
彼はこれまで数多くのウマ娘を指導してきたが、大きな成果を残せていない、言わば「くたびれた」中堅トレーナーだった。彼自身も、トレーナーとしての限界を感じ、もうすぐ学園を去るかもしれないという諦念を抱いていた。
しかし、彼のその諦念は、今、ミヤビの走りによって、粉々に打ち砕かれた。
(なんだ、あれは…)
彼の胸が高鳴り、心臓が痛いほど脈打っていた。彼の目に映ったのは、技術ではない。理屈ではない。ただ純粋に、速さへの本能だけだった。冴えないのトレーナーでも分かる素質。
「あの走り、まるで、研磨される前の原石だ。粗削りだが、その芯は…ダイヤモンドだ」
彼は、ミヤビの地味な外見や、周囲を警戒するような内気な態度を知っていた。試験のタイムは決して秀でていないものの、何か才能を感じる走りだった。そんな判断に困るコメントが書かれていれば目には止まる。事実彼も、入学試験の報告書で彼女の名前を一度見たが、目立たない容姿と控えめな態度のために、すぐに記憶から消していた。
だが、走り出した彼女は、別の生命体だった。彼女が纏う暗いオーラは消え、代わりに他者を寄せ付けない圧倒的な速さの覇気を放っていた。
「あれはスカウトしたい、走りを間近に見たい!」
久しく感じていなかったトレーナーとしての欲が、身体を巡るのを感じながらそう呟いた。
オリエンテーションが終わり、荷物の荷解きなど慌ただしい一日であったがようやく予定が終わり、ミヤビは一息ついていた。もちろん誰にも見つからないように、建物の裏手でジュースを開ける。
カシュッという気持ちのいい音とは対照的に、心のうちは沈んでいた。
(やっぱり皆んなはキラキラしてるなあ.....馴染めるかは諦めたとしても誰か友達は欲しいな....。)
ジュースを飲み、ふと横を向いた。
いつからいたのか1人の男がじっとこちらを見ていた。
手から缶が滑り落ちて地面に落ちる。
コツ… コツ…
その男の足音が、ミヤビの耳に届く。此方へ近づいていく。ミヤビは反射的に飛び退き、怯えた目つきで男を見つめた。
「な、誰…ですか。見て…見てたんですか?」
彼女の声は震え、今にも泣き出しそうだった。頭が真っ白になりながらも、すぐに動けるように立ち上がる。
男は、ミヤビを驚かせたことを謝るように一歩下がって頭を下げた。
「すまない。驚かせてしまい申し訳ない。私は見ての通り、トレーナーをしているものだ。早速本題に入ろう。君の走りを…私は見た」
ミヤビは顔を覆い、逃げ出そうと後ずさる。走りを見たと言った。つまりあの走りを見られていたのだ。
「やめて!どうか、忘れてください。私、走るのは…その、ただの暇つぶしなんです。誰にも知られたくなくて…」
「暇つぶしだと?」
静かに、しかし力強く言った。
「君は、自分の才能の価値を理解していないのか。それに君は走るためにここに来たんじゃないのか?」
その言葉に身体が反応する。
確かにそうだ。
走るのが好きで、自身の唯一を証明するためにここに来た。ならば走るしかない。咄嗟に言葉が出てしまったが彼女自身、その為にトゥインクル・シリーズの門を叩いたのは自覚していた。
「あの時の跡は、嘘をつかない。君は、自分の意思とは関係なく、光を放ってしまうウマ娘だ。君の脚は、トゥインクル・シリーズで栄光を掴める走りだ!」
彼の眼差しは真っ直ぐこちらを見ていた。情熱と使命感に満ち溢れたその言葉はミヤビにも届いていた。
彼がスカウトに来たことは分かっている。周りのウマ娘達が、有望なウマ娘にはトレーナー直々にスカウトが来ると言っていたのを聞いていた。
だが生来の不安症と人見知りは、スカウトを受けることに後ろ向きになってしまう。本来ならスカウトレースに走って、どこかのチームに拾ってもらい細々と走る予定であった。目立たないように走り、長く走って一勝でもできれば御の字だと思っていた。
しかし入学して当日にスカウトされたとなっては、いやでも注目されてしまう。それが嫌だ。でも.....
(この人は私の走りを認めてくれている。唯一のものを褒めてくれている。この人ならアヤメミヤビというウマ娘を見てくれるのかな。)
トレーナーはゆっくりと近づき、ミヤビの顔の高さまで身をかがめ、彼女の隠れた目をまっすぐに見つめようとした。
「いいか、アヤメミヤビ。君は、影で生きたいと願っている。だが、君の才能は、君自身が望もうと望むまいと光を求めている。」
「私は、君のトレーナーになりたい。君の才能を、ひっそりと終わらせるのは我慢ならない。君がその才能を恐れず、堂々と、この世界の頂点へと駆け上がるために、私が、君と光の間に立つ盾になろう。君が注目を浴びることが怖いというのなら、全力を持ってサポートしよう。不安を塗りつぶし、G1を取れるように私を利用してくれ!」
藤堂の瞳は、強烈な決意の炎を宿していた。ミヤビは、今まで誰も自分に投げかけてこなかった、その熱量に圧倒され、初めて自分を覆い隠していた前髪の奥から、藤堂の顔をしっかりと見た。
(この人は…私を、変えようとしている?)
ミヤビの心に、恐怖と、ほんのわずかな、期待のようなものが、同時に芽生えていた。
「.....分かりました。よろしくお願いしますトレーナーさん」