深淵の逃亡者   作:雷炎

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シャカールは犠牲になったのだ。


学園での一日

 「ふぇぇ…!?す、すみません〜! 目覚まし時計を止めようとしたら、棚の上の本を崩してしまいました〜!」

 

 早朝の栗東寮。アヤメミヤビが布団の中で目を覚ますと、すでに部屋の中は軽いパニック状態だった。

 同室のウマ娘は、メイショウドトウ。

 少し垂れ気味の目と、おどおどした挙動。彼女もまた、自分に自信がなく、いつも何かに怯えているウマ娘だった。ミヤビが「人目が怖い」タイプなら、ドトウは「自分のドジが怖い」タイプだ。自分と似たタイプでよかったと思ってしまう。ドタバタすることもあるが、相部屋という状況でも、この部屋は安心できる場所になっていた。

 

 「大、大丈夫だよドトウちゃん…」

 

 ミヤビはのそのそと起き上がり、散らばった本を一緒に拾い集める。

 

 「ミヤビちゃん、今日もお外、怖いですね…」

 「うん…できるだけ壁際を歩いていくね」

 「私も、マンホールで滑らないように気をつけますぅ…」

 

 片付けが終われば、服を着替え身支度を整える。二人はお互いの無事を祈るように小さく手を振り合い、それぞれの戦場(学校)へと向かった。  

 

 ボクノハチミーマダ?

          すまない、ご飯のお代わりを貰えるだろうか?

  あげません!!!!   嘘でしょ....ご飯がもう残ってないわ...

 

 トレセン学園の昼休みは、戦場だ。

 カフェテリア「はちみつドリンク」の争奪戦や、オグリキャップとスペシャルウィークらによる「食堂の在庫枯渇直前事件」など、常に何かが起きている。それでなくとも食堂は腹をすかした乙女達で溢れ賑わっている。

 人が多く相席になろうものなら発狂する恐れのあるミヤビの定位置は、食堂ではなく中庭の端っこにあるベンチだ。ここは死角になっており、誰も来ない。

(今日のパン、美味しい…)

 膝の上で購買のパンを小さくちぎりながら、遠くの喧騒を眺める。

 視線の先には、生徒会長のシンボリルドルフが優雅に歩き、副会長のエアグルーヴが誰かを叱責している姿が見える。

 「……別世界だ」

 ミヤビは、自分が彼女たちと同じウマ娘という種族であることが信じられなかった。

 彼女はパンを食べ終えると、次の移動教室へ向かう。廊下の真ん中は歩かない。端の、壁から15センチ以内のルートが彼女の指定席だ。

 「ちょうどいいそこの君! ちょっと手を貸してくれたまえ!」

 突然、廊下で声をかけられた。振り返ると、そこには白衣を着たアグネスタキオンが怪しげな試験管を持って立っていた。

(ひっ…マッドサイエンティストの人だ…!)

 アグネスタキオン。この学園の有名人。最も良い意味で有名人ではなく、謎の実験を繰り返して学園を騒がせることがしばしばあることが原因である。

 ミヤビは咄嗟に、

 「す、すみません私、影なので! そこにはいません!」

と訳のわからないことを口走り、忍者のような足運びでその場を逃げ出した。

「おや? …今の足運び、興味深いねぇ」

 タキオンは逃げ去ったミヤビの残像を見つめ、ニヤリと笑ったが、ミヤビは気づかずに全力で逃げた。

 

 

 

 

 放課後、いつものように練習場へと向かう。準備体操をしてテーピングを済ませる。

 

 「よし、今日はスタートダッシュの練習だ。ゲートへの入り方からやるぞ」

 

 トレーナーは、いつものジャージ姿でミヤビを待っていた。

 彼はミヤビの性格を理解し、他のチームと練習時間が被らないよう、わざと時間をずらしてメニューを組んでいた。そのため周囲が練習を終えるごろに始める。

 

 「ゲート…狭くて暗いところですよね。そこは好きです」

 「そうか、それは才能だな」

 

 珍しい苦笑する。普通のウマ娘はゲートの閉塞感を嫌うが、引きこもり気質のミヤビには逆に落ち着く場所らしい。

 

 「いいかミヤビ。ゲートが開いた瞬間、君は世界から切り離される。周りの目なんて関係ない。君の前にあるのは、誰もいない走路だけだ」

 「誰もいない…」

 「そうだ。一番前を走れば、君の視界に誰も入らない。誰にも見られず、ただゴールへ向かうだけだ。君は逃げの戦法で戦う。」

 

 トレーナーのその言葉は、ミヤビにとって魔法のようだった。一番前を走れば、誰の背中も見なくていい。それはつまり、一人で走っているのと同じこと。なんと素晴らしいことか。

 

(最も逃げはデメリットも多い。そこを踏まえて調整する必要はあるがな。)

 逃げは自身のペースで走り、レース全体の流れをコントロールできるが上手い話だけで無い。まず先頭で走るということは風の抵抗をモロに受ける。また他のウマ娘の目標にされてむしろこっちが利用されることもある。身体への負荷も無視できないほど大きい。

 だがアヤメミヤビというウマ娘が走るのであれば、逃げの戦法しかない。脚質も気質も集団に近づけば近づくほど良さを活かせなくなる。腕の見せ所だとトレーナーは準備するミヤビを見ながらそう考えた。

 

(いつも通りの走りを......)

ゲートに入ると気持ちを沈ませていく。水に潜るように、地面に染み渡るように下へ下へ落としていく。そうすると周りが気にならなくなっていく。いつからか始めたルーティン。

 

 

ガチャリ。

 

 ゲートが開く音が響くきミヤビの体が弾ける。

 低い姿勢。地面を這うような重心。爆発的な加速なのに、ドタバタとした音がない。ただ靴と地面の擦れる音が続いていく。まるで、最初からトップスピードで動いていたかのような、滑らかな移行。

 (……速い)

 思わずストップウォッチを握りしめたまま、計測を忘れそうになる。

 彼女は、走っている時だけ、別人になる。内気な少女の殻を脱ぎ捨て、本能だけで動く野生動物になる。

 

 トレーニングを重ねるたびに成長する担当バがどこまで行けるのか。走り終わったミヤビを見ながらトレーナーは口角が上がるのを抑えれなかった。

 

 

 練習を終え、大浴場で人が少ない一番端の洗い場を確保して汗を流した後、ミヤビは部屋に戻った。

 

 「おかえりなさい〜、ミヤビちゃん」

 

 ドトウが湿布を貼りながら出迎えてくれた。どうやら今日もどこかで転んだらしい。

 「ただいま、ドトウちゃん。……」

 

 ミヤビはブルっと震え、布団に潜り込んだ。夜遅くまで走っていたから少し体が冷えたのかもしれないと思い眠りにつこうとする。明日も平和に、誰にも注目されずに過ごせることを祈りながら。

 

 「おやすみなさい、ドトウちゃん」

 「はい〜、おやすみなさい〜。明日は、占いで『ラッキーアイテムは覆面』って出たので、探してみますぅ」

……覆面?と疑問に思いながらミヤビは、泥のように深い眠りへと落ちていった。

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