深淵の逃亡者   作:雷炎

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メイクデビュー

 メイクデビュー戦。それはトゥインクルシリーズへ挑む乙女の始まりであり、残酷な勝負の世界へと足を踏み入れるタイミングでもある。レースに一勝でもできるウマ娘は僅かな4割。つまり倍率の高い試験を乗り越えてトレセン学園の門を叩いたウマ娘の半分以上は、ウイニングライブをセンターで踊ることなく学園を去ることとなる。そのため、メイクデビューを果たせることは喜ばしいことであり、

 

 「や゙だあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!ごべん゙な゙ざい゙トレーナーざん゙ごわ゙い゙い゙い゙い゙い゙!!!!」

 

......決して大粒の涙を流し奇声を発して拒むものでは無い。

 

 季節は6月の函館。ダービーが終わり、いよいよ若葉達の季節がやってきた。アヤマメミヤビ自身の仕上がりは問題なし、デビューを飾ろうかと思ったがここで問題となるのは彼女の性格。人前で走ることを拒み、ひっそりと走りたがっている彼女をどこで走らせるかが悩みだった。

 走る場所は決めている。

 

函館レース場。

 

 阪神や東京ほどは人が入らないここは絶好のデビュー場所だ。だが今月に入ってから明らかにデビュー戦を意識してネガティブな発言が目立つようになっていた。

 

 (あっ....あの私まだまだ基礎体力とかつけないとなあ〜!)

 (焦っても良いことないですよね.,..)

 

これではデビュー戦の日を伝えた瞬間から緊張してコンディションに支障が出る。そう思ったトレーナーはあえて当日まで何も知らせずに走らせてみることにした。勿論リスクがあることは承知している、だがアヤメミヤビの実力であればいけると思ったが....。

 

 「当日まで黙っていたのはすまない。だが君の性格を考えればこれが最善だと思った。.....メイクデビューはいずれすることだ、その中でも有力バがまだ出走せず尚且つ函館開催のこのレースが実力を発揮できる。違うか?」

 「ううううう.......それはそうですけど....やっぱり怖いです...。」

 

 ハンカチで涙を拭い、どうにか外見を取り繕うばできたがまだぐずるミヤビを落ち着かせる。パドック紹介は最後にしてもらい何とか引き延ばしているが、それもそろそろ限界だ。

 

 「無理は承知だ。レースが終わった後好きなだけ罵倒してもらって良い。だがこれだけは言わせて欲しい。君が一番だ、ただ前だけを走って欲しい」

 

 そう言ってトレーナーはあるものを取り出して渡す。

 

 「.....耳カバー?」

 「そうだ。いつもつけているものより、防音にすぐれた素材を使用している。これなら君の走りを邪魔する雑音(歓声、ざわめき)が聞こえにくくなる。」

 「いつも通り君がゲートに入ったら、目をつぶれ。そして、こう考えるんだ。『私は今、深海の底にいる。光は届かない。誰もいない。』」

「ゲートが開いたら、ただ、全力で深海から逃げ出すことだけを考えろ。逃げたい』という本能だけで走れ。ゴールが、君が唯一安心できる誰もいない場所だと思え」

 

 「はい.....分かりました。」

 

 そう言い、パドックへとミヤビは向かっていく。

 

 

 「15番アヤメミヤビ、どうでしょうか.....かなり緊張していますね。」

 「そうですね、ここからでも分かるほど震えていますが、何とか頑張って欲しいです」

 

 パドックに立ったは良いが極度の緊張で目は開けず、身体は小刻みに震えていた。どこから見てもデビューの重圧に押しつぶされそうになっている。この場の1人を除いた全員が、走れるのかと心配する。

 

 

 (やだ、やだやだやだ…! 私の顔を見てる、私の身体を見てる…! ぎゃああああああ!!!帰りたいよ....帰りたいよ)

 初めてふむ函館の芝。レース場の地。大勢のカメラと観衆が自分に注がれるのを感じる。思わず手と足が同時に動きロボットのように動いてしまう。同じくレースを走るウマ娘すら、心配そうに見つめていた。

 

 震えるウマ娘とは対照的に時間がつつがなく進み、出走の時刻になる。

 ゲートイン。ミヤビは震えが落ち着きゆっくりと目を閉じる。

 周囲のウマ娘たちの闘志を燃やす鼻息、ゲートの金属の匂い、そして地面から伝わる振動。それら全てが遠ざかる。

(誰もいない。ここは、海のそこで光は届かない、暗い、私だけの場所.....いつも通り....いつも通り)

 しかし、何千もの視線が集中する、その圧だけは、物理的なノイズキャンセリングでは消せない。ミヤビの呼吸は浅くなり、脚の筋肉が石のように固まる。いつも通り潜ろうとしてもうまくいかない。彼女の頭の中は真っ白になり、意識は恐怖に飲まれていく。スタートを待たず、今にもゲート内で倒れそうだった。

 微かにファンファーレが鳴るのが聞こえる。走る時間だ。

 

 

 

ガチャン!

 

 

 

 ゲートが開いた瞬間、弾かれたかのように飛び出す。あれほど緊張しこわばっていた体が跳ねるようにゲート外へでていく。そのまま一歩、二歩と足を地面に滑らせると身体は加速していき、先頭に立つ。

 

 「「「えっ!?」」」

 

 後続のウマ娘が思わず声を発する。その声を置き去りアヤメミヤビは更に加速する。内気な彼女の心に押し込められていたエネルギーが一瞬で爆発し、まるで圧縮されていたバネが解放されたかのように、体が前方に弾き出された。

 彼女は、まるで静止画の中の残像のように、他のウマ娘たちを置き去りにした。 

 

(誰もいない。後ろには誰もいない)

 100メートルを過ぎたあたりで、ミヤビは恐る恐る目を開けた。視界は、青い空と緑の芝だけ。彼女が今、世界の最前線を走っていることを示していた。

 恐怖の対象であった視線は、遙か後方へと置き去りにされた。歓声も、風の中に消えて、ただのホワイトノイズと化している。

 

安堵。

 

 「これなら大丈夫!」

 ウマソウルが、心臓が脈動する。この瞬間、怯え震えるウマ娘ではなく、彼女はレースを走るウマ娘へと変化した。

 

 

 

 (よし!!大丈夫だミヤビ、そのままだ、君はそれで良いんだ!)

 

 ミヤビの走りのエンジンは、「勝利」ではなく、「安全地帯への逃走」によって最大出力となる。だからその安全地帯への逃走を果たすために、ゲート練習を積ませた。初動の反射神経と加速のための動き方を染み込ませた。全てはスタートダッシュを成功させ、彼女の才能を発揮させるこの時のために。 

 

 「400m通過!先頭はアヤメミヤビ、パドックでの姿がまるで別人のようだ!みるみる後続を突き放し加速している!まさかまさかのデビュー戦での大逃げに打って出た!?」

 「嘘だろ!? なんだあの加速は!? 無名の新人が、こんなに…!」

 

 会場がどよめく。無名のそれもパドックであれほど震えていたウマ娘が、レースが始まると見事なスタートダッシュを見せ走っていく。後方のウマ娘たちも、ミヤビの異常なスピードに戦慄した。彼女の走りは、闘志や楽しさではなく、切羽詰まった生存本能から生まれている。それがゆえに、一切の迷いがなく、無駄がなかった。

 

 

 

 「レースはいよいよ最終直線に差し掛かろうとしています、先頭は変わらずアヤメミヤビが突き放している!10....14馬身差で二番手ウィッグフォーが粘っている!三番手以下は苦しいか!?」

 「これは凄いですね。あれほどの見事な逃げ、とても初出走のウマ娘とは思えないです!ウィッグフォーも決して悪くない走りですが.....今回は相手が悪かったとしか言いようがないです。」

 

 最終直線。ミヤビは後続に10バ身以上の差をつけていた。後続も負けじと力を振り絞りスパートをかける。

 

 

 だがそれはアヤメミヤビも同じだった。身体を更に低くして加速する。

 

 (逃げだろ!?更に加速しやがった!!?)

 

 

 

 「全員よく見ておけ。 これがアヤメミヤビだ!」

 

「ゴールイン!一着アヤメミヤビ!文句なしの圧勝だ!勝ちタイムは....1分45秒!!?函館1800mのレコードタイムには届きませんでしたが、OP以上でも通じるとんでもないタイムです!次のレースが今から楽しみです!」

 

 

 (終わった...走りきれた!)

 

 

 自身の唯一が証明された。耳カバーを外し、そう安堵して後ろを振り返り後悔した。

 (終わった...みんなが私を見ている!あああああああああ!!!!)

 歓声と拍手が、津波のように彼女を襲いかかる。ミヤビの視界に、カメラの無数の赤い光が点滅した。カメラも観衆もこちらを見ている、見られている。

 ミヤビの体は、勝利の達成感ではなく逃げなければという原始的なパニックに支配された。彼女は、ウイニングランのために方向を変えることなく、勢いそのままに全力で控え室に戻るべための末脚を発揮した、

 「ちょ、ミヤビ! 待て!」

 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい無理です!無理です!帰らせてくだざぃ!!」

 トレーナーが、愛バの逃亡劇を止めるために、慌ててミヤビを追いかける。こうしてアヤメミヤビは、デビュー戦を圧倒的な勝利と、前代未聞の逃亡で飾った。彼女の物語は、華やかな光の舞台で、最も暗い影から始まったのだ。

 

 なおトレーナーの必死の説得により、何とか勝利インタビュー(過去最短終了)とウイニングライブに参加することはできた。

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