深淵の逃亡者   作:雷炎

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新潟ジュニアステークス

 夏の終わりの新潟。直線だけで600メートルを超える異形の競馬場が、若きウマ娘たちの登竜門となる。

 街のスポーツカフェやトレセン学園の購買部では、数日後に控えた新潟ジュニアステークスの話題で持ちきりだった。

 

 「……で、結局どうなんだよ。あの『アヤメミヤビ』って子は」

 

 カフェのテレビモニターを見上げる一人の男性ファンが、隣の仲間に問いかけた。画面には、メイクデビュー戦で勝利後、脱兎のごとく通路へ逃げ込むミヤビの奇妙な映像が流れている。

 「タイムは本物だ。だが、あれはメイクデビューだったからこその逃げ切りだろ。今回は中央の重賞だ。しかも新潟の長い直線だぞ? 逃げ馬にとっては地獄のコースだ」

 「だよな。本命はやっぱゴールドブレイズか」 

 

それに呼応するように解説者の声がスピーカーから響く。

 

 『さあお伝えしています通り、やはり一番人気はゴールドブレイズでしょうか。前走の勝ちっぷりも余裕がありました。彼女の末脚は、この新潟の長い直線でこそ真価を発揮するでしょう。対するアヤメミヤビですが......彼女の逃げは、精神的な不安定さの裏返しに見えます。前走は見事な走りでしたが、パドックやその後のウイニングライブでの様子からメンタルに課題があると見えます。中央の、しかも重賞という重圧の中で、果たして自分の走りができるかどうか。専門家の間でも、彼女を消しとする声は多いですね』

 

 ネット掲示板の反応も冷ややかだった。

 

 『アヤメミヤビ? あの陰キャウマ娘だろw』

 『新潟の直線なめてるだろ。坂はないけど、逃げ馬が最後にはバテて飲み込まれる絶望の600メートルだぞ』

 『ゴールドブレイズの餌食になるだけ。重賞の空気感に飲まれてゲートで固まるに100ペリカ』

 

 世間の期待は、華やかなエリート、ゴールドブレイズに集中していた。アヤメミヤビという存在は、才能はあれどまだ「一発屋の変人」という枠を出ていなかったのである。

 それらを冷ややかにトレーナーは見ていた。

 (実力を見誤ってくれるなら好都合。注目されるゴールドブレイズに合わせる形で出走は間違っていなかった。)

 光があれば人はそこに注目する。名門出身で、華やかにデビューしたウマ娘に人は注目する。降り注がれる視線が減れば減るほどアヤメミヤビは輝く。舞台は整った、あとは取りに行くだけとトレーナーは呟いた。

   

 

 

 

 新潟レース場 天気:晴 良馬場

 

 夏の暑さが続く中、新潟の地は人で溢れていた。国民的行事のトゥィンクルシリーズの重賞ともなると、デビュー戦とは比べものにならない人だかりができていた。それぞれがパドックで自身の肉体を披露し、勝利への執念を燃やす。中でも一番人気のゴールドブレイズは、観客席へ向かって自信満々にウインクを飛ばし、大きな歓声を浴びていた。

 その中で、まるで幽霊のように歩き人々の前に姿を現すウマ娘がいた。

 「う.....うぅ......怖い......。みんながこっちを見てる.......。目が、目が合う.......」

 

アヤメミヤビは、頭を限界まで下げ、長い前髪の隙間から地面のアスファルトだけを見つめていた。その体は小刻みに震え、耳は絶え間なくピクピクと動いている。

 

 「あの子....たしかアヤメミヤビだったな。あれ大丈夫か?」

 「メイクデビュー戦とは訳が違う。これは難しいんだろうな」

 

 この調子では勝つのは無理だろう。パドックの周囲はせめて無事に走りきれるようにと願った。

 

 

 

 レース場へと続く地下通路をミヤビはトボトボあるいていた。

 「ミヤビ、顔を上げろとは言わん。だが、呼吸だけは忘れるな」

 寄り添って歩くトレーナーが、静かに声をかけた。彼のジャージのポケットには、ミヤビを落ち着かせるためのハーブティーが入ったボトルがある。それを手渡すと、震える手で受け取り飲み干す。

 

 「トレーナーさん.....。私、やっぱりダメです。あんなにたくさんの人が私の脚を、私の走りを見定めようとしてる。品評会の牛になった気分です......。視線が怖くて怖ぃぃぃ!!」

 

 耳をペタンと閉じて小刻みに震える。重賞レースという重みと観客が彼女を恐怖のどん底へと突き落としていた。

 

 「いいか、ミヤビ。いつも通りだ。今まで練習したことを今まで通り発揮すればいい。あそこにいる奴らは、お前を理解できていない。お前を笑う奴も、疑う奴も、走り出せば全員お前の背中を見ることになる」

 

 トレーナーはミヤビの肩を強く叩いた。

「新潟の直線は日本一長い。それはつまり、お前が誰にも邪魔されない孤独な時間を、日本で一番長く味わえるということだ。直線に入ったら、そこはもうレース場じゃない。お前と、風と、誰もいない地平線だけの世界だ。前だけを見るんだ。走るということに全てを費やせばその他は些事だ。」

 「誰もいない......地平線.....」

 「そうだ。そこへ行くために、今は少しだけ耐えろ。ゲートの中に入れば、そこはもうお前の聖域だ。深海へ潜る準備をしろ」

 

「.....分かりました逃げて見ます。誰にも見つからない、遠い場所まで」

 

 

 

 

 本馬場入場。 

 芝を蹴る音、湧き上がる拍手。照らす光。地下から出てきたミヤビの体をそれらが叩きつけてくる。地面が微かに揺れ続け、観客の今か今かという想いがレース場を包んでいた。

 ミヤビはそれらから逃げるように、一目散に発走地点へと向かい、ゲート裏で足首のストレッチをする。

 不意に一人のウマ娘が彼女に近づいてきた。人気のゴールドブレイズ。文字通りの金色の髪を靡かせて迫ってくる。

 

 「貴方がアヤメミヤビね」

 「はひぃ!えっとはい、そうです!」

 

 ブレイズは、ミヤビの地味な容姿を上から下まで舐めるように見回し、鼻で笑った。

 

 「これが噂の『逃亡者』? 悪いけど、今日の主役は私なの。あなたみたいな暗いのが先頭を走ってると、カメラ映りが悪くなるのよね」

「あ.....あの、すみません....私はただ.....」

「いい? 逃げたければ勝手に逃げなさい。でも、新潟の直線は甘くないわよ。あなたがバテて足が止まったところを、私が一番綺麗な形で踏み潰してあげる。二度と走りたくなくなるような絶望を教えてあげるから。覚悟しなさい」

 「な....なんでそんなに怖いんですか.....」

「...,.私は貴方みたいなのがきらい。勝ち上がって勝者になってるくせに辛気臭い顔をして、私は不幸ですって顔をしたのが嫌い。だから叩きのめしてあげる」

 

 ブレイズの瞳には、エリート特有の冷徹な選民意識が宿っていた。

 ミヤビは何も言い返せず、ただ俯いた。しかし、その時。

(.....踏み潰す?)

 ギリッと奥歯が擦れる。生まれつき恥の多いウマ娘生を生きてきたが、それでも踏み潰される通りはない。とても珍しいことに、アヤメミヤビは腹が立った。自尊心なんて一欠片もないと思っていたが、頭に血が昇るのを抑えれない。

 

 (私の走りは、紛い物じゃない......。逃げるために、必死で.....生きてるんだから.....!私から何も奪わないで!)

 ミヤビは前髪の奥で、ほんの一瞬だけ、鋭い光を宿した。

 

 

 

 

 『さあ夏の熱気を吹き飛ばすようにファンファーレが響き渡ります! 夏の新潟、2歳世代のスピード自慢が集結した新潟ジュニアステークス! 18頭の乙女たちが、今、ゲートに吸い込まれていきます!』 

 

 スタンドの熱気は最高潮に達した。ミヤビは11番ゲートへと入る。狭い、暗い、静かな箱。彼女はそこで、ゆっくりと目を閉じた。

(深く.....もっと深く....,.。私は今、光の届かない海の底にいる.....最も深く潜らないと)

 

『枠入りが完了して.....さあゲートが開いた! 各ウマ娘綺麗なスタートです! さあ、注目の先頭争い....いや違う!一人抜け出したウマ娘がいる!?』

 

 実況の声が裏返る。

 

『.....速い! 何だあの走りは!! 11番アヤメミヤビ! ゲートが開いた瞬間、まるで爆発が起きたような加速! 一気に先頭を奪います!』

 

 ミヤビは目を開けない。

 ただ、トレーナーの教え通り、このうるさい世界から、自分だけの世界へ逃げるために、身体の全細胞を駆動させる。身体中の血液が熱を帯びて駆け巡り、筋肉が弾み推進力を生み出す。

 

 『アヤメミヤビ、早くも後続を3馬身、4馬身と引き離す! 2番手にゴールドブレイズ、その内側にサイレントウィスパー! しかし先頭のミヤビ、その逃げ脚に一切の迷いがありません! 最初の1000メートルを58秒台の猛ラップで通過! これは早い、早すぎる!』

 解説者が慌てたように口を挟む。

『これは暴走に近いですよ! 新潟の長い直線を前にして、このハイペースは自殺行為だ。アヤメミヤビ、後半まで持つはずがありません!』

 

しかし、ミヤビの耳にその懸念は届かない。彼女は今、至福の時の中にいた。背後から感じる数多の視線。それを引き離せば引き離すほど、心が軽くなる。

 (もっと遠くへ.....! もっと、誰もいない場所へ....!)

 

 (早い!?いやこのペースなら持つ訳がない!バテたところを踏み潰すだけ!!)

 

 ロケットダッシュに驚いたゴールドブレイズだが、冷静に状況を整理する。ジュニア期でのこの高速展開。まずスタミナが持つ訳がない。ならば当初通りバテたところを差し切る。離れすぎないように距離を保ちながら、ブレイズは笑う。

 

 

 『さあ、運命の第4コーナーを回って、日本一長い直線に入った! 残り658メートル! 逃げるアヤメミヤビ、それを追いかけるゴールドブレイズとロッシュ!リードは依然として8バ身といったところか!』 

 

 直線の入り口。視界に広がるのは、どこまでも続くまっすぐな緑の絨毯。左右には誰もいない。前にも誰もいない。

(誰もいない景色。ここが、私の場所)

 

 だが、背後から猛烈な「圧」が迫ってくる。意識がそっちに持っていかれそうになる。

 

 『外から一気にゴールドブレイズ! 良血の末脚が炸裂するか! さらにはサイレントウィスパーも脚を伸ばしてくる! 先頭のアヤメミヤビ、足色はどうか!? さすがにこの直線、逃げウマ娘には長すぎるか!?』

 

 ゴールドブレイズは、必死にミヤビの背中を追っていた。

( どうしてあんな無茶なペースで逃げて、まだ脚が残ってるの!? 捉える.....絶対に捉えて、あの背中を追い越して見せる)

 「勝つのは私だ!」

 

 残り400メートル。

ブレイズが、ミヤビの背後3馬身まで迫る。観客席から悲鳴と歓声が入り混じる。

 

 「いけええ! 差せ! ゴールドブレイズ!」

 「アヤメミヤビ、粘れ! いや、もう無理だ、足が止まるぞ!」

 『残り300! ゴールドブレイズが並びかける! アヤメミヤビ、ついに捕まるか! 影が飲み込まれるか――ッ!?』

 

 ミヤビは、背後から迫るゴールドブレイズの気配を肌で感じていた。

それは、彼女が最も嫌い、最も恐れていた他者からの強烈な干渉だった。

 (....来ないで)

 ミヤビの心臓が、恐怖で跳ねる。

(来ないで! 私を、捕まえないで.....! 私は、一人でいたいだけなのに.....何で邪魔するの!!!)

 その瞬間、アヤメミヤビの中で何かが弾けた。

 恐怖という感情が、純粋な拒絶のエネルギーへと昇華される。彼女の細い脚の筋肉が、まるで意志を持っているかのように膨張し、これまでの走りを過去にするほどのギアが入った。

 

 『……なっ、突き放した!?』

 実況の声が、驚愕で裏返った。

 『アヤメミヤビ! 並びかけようとしたゴールドブレイズを、まるで赤子のように突き放した! 残り200メートル、ここからさらに加速するのか!? なんという脚だ! なんという心臓だ!』

 「....嘘でしょ.......」

 

 ミヤビの視界から、すべてのノイズが消えた。芝を叩く音は、もはや自分の鼓動と一体化し、世界から色が消え、ただ前に広がる芝しか目に入らない。

(逃げる.....逃げ切って見せる! 誰の想いも、誰の視線も届かない、誰も邪魔をしない世界へ!!!)

 

 『ゴールドブレイズ、食い下がるが差が広がる! 離される! 完全に離された! サイレントウィスパーも止まっている! 前を行くのはただ一頭! アヤメミヤビ! まるで新潟の直線に溶けていくような、異次元の逃走劇!』

 観客は、総立ちになっていた。もはや、応援の声は出ていなかった。ただ、目の前を通り過ぎる圧倒的な何かに、魂を奪われていた。

 

 『強い! 強い! 強い! 影が光を置き去りにした! 11番アヤメミヤビ、今、悠々とゴールイン!!』

 『恐れ入りましたアヤメミヤビ!!逃げに不利な新潟レース場で圧巻の走りを見せました!!!2着ゴールドブレイズ、3着にサイレントウィスパー。後続も決して悪くない走りでしたが、圧巻の走りをしたアヤメミヤビには届きませんでした!.....確定しました。勝ちタイムはコースレコードを更新! 2着ゴールドブレイズに付けた着差は、なんと、7馬身!』

 電光掲示板に刻まれた「7」という数字。

ミヤビはゴールを過ぎてもしばらく止まらなかった。誰もいない向こう正面まで走り続け、ようやく息を整えた。

 (……勝った……?)

 目線を下げると自分の手が震えているのを見た。勝ったのだという実感がじわじわと胸の中に染み渡っていく。テレビで見た重賞。数多いる学生の中で、一握りしか手に入れることのできない称号を掴んだ。その事実がたまらなく嬉しかったのだ。

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