荻野千尋は夢を見る。
意味不明な言葉が書かれた町並み、巨大な館、お風呂のむわっとした湿気、宴会の笑い声、地平線まで続く海、その海を走る電車、―――そして龍の背に乗って空を飛んだこと。
不思議で幻想的な風景、美しく、どこか恐ろしい。
そして、そんな夢を見た後、胸の内にはいつも懐かしさが残っている。
目覚まし時計が鳴る。千尋は手を伸ばして止めると、すぐに身体を起こす。
あの驚きに満ちた日々の夢を見た時、千尋の身体はいつもよりキビキビと動く。湯屋の朝に目覚めた時の気持ちを思い出すからだろう。もし働けなかったら自分の居場所がない世界では、常に駆け足であったし、寝ぼけたままでいるなんてとんでもないことだった。
千尋がこちらの世界に帰ってきてから、もう数年が経つ。
部屋は洋室で個室であるし、寝る場所は布団ではなくベッドだ。あの時の生活とあまりに違う日常に戻ってきたのだから、当然、いつまでも神隠しにあっていた時と同じように過ごすわけもない。だらけることもあれば、二度寝をすることだってある。
だが、時折過去を思い出しては、急き立てられるように機敏に動いてしまう事を踏まえると、濃密な日々の中で沁みついた習慣は全く消えたというわけではないのだろう。
千尋は階段を下りて洗面所まで向かった。蛇口をひねってぬるま湯を出し、洗顔料を泡立ててしっかりと顔を洗う。いつも通りのルーティンだった。
顔を洗い終え、眠気も無くなった表情で、肌の調子をみる。ニキビが酷い時期もあったのだが、洗顔料をいろいろ試して肌に合う物を見つけてからは調子が良かった。
鏡に映る顔はもう子供ではなく、かといって完全に大人になったわけでもない。その中間、狭間の時期だった。
顔を洗い終わると、いつも着けている紫の髪留めで髪の毛を後ろで一つに括った。
一人暮らしをしている千尋の朝はやることが多い。早起きして自分で自分の身の回りの準備をすることは、千尋と同じ年代なら面倒に思う人も多いだろう。だが、千尋にとってはそうでもなかった。これもあの”神隠し”の余波と言えた。
キッチンに立つと、まず鍋に水を入れて火をつける。準備をしておいた魚を取り出して、オーブンレンジで焼く。水が沸騰するまでの間に台拭きを絞り、机を拭く。すべての作業はもう手慣れたものだ。
朝ごはんを作りつつ、お昼の弁当も準備する。昨日多めに作って冷蔵庫に入れていたおかずと、炊いていたご飯を詰め、しばらく置いて粗熱を取る。後で、焼きあがった魚を入れるスペースを残しておく。
作った朝ご飯を食べながら、今までの事を思い出す。
千尋たち一家が神隠しにあったのは、千尋が小学四年生の時だった。家族そろって失踪していることから一家心中だと思われたが、新居を買ったばかりで引越しも予定していたことから、ニュースでも謎の失踪事件として取りあげられていたようだ。
そして、失踪から三ヶ月が経ち、もう生きてはないだろうと思われたところに、千尋達がなにも知らずに戻ってきたものだから、現代の神隠しとして大きな話題になった。
千尋の父と母からすると知らぬ間に時間が経っていて、事情も分からないまま世間の目にさらされることになった。千尋だけは神隠しの間の向こう側の世界のことを覚えていたが、人に話す気にはならなかった。
話したところで信じられはしない、と思っていたからだが、話せば、あの世界は幻となってしまうのではないか、そんな風にも千尋は思っていた。
だが、その結果、千尋たち家族はまるで狂人のような扱いをされることになってしまった。千尋たちがいくら「何も知らない」と言っても、世間は神隠しなどという超常現象を認めることはしなかったのだ。
それから、千尋の生活は変わってしまった。ある意味、神隠しにあった時よりも残酷に。
はっ、と千尋が時計を見ると、もう出かける時間が近づいていた。朝にテキパキと動いた時間がまるで無駄になってしまった。
片づけをして、学校へ行く準備をすると、すぐに時間は無くなってしまう。もっと遅く出ても学校には間に合うのだが、千尋は早めに家を出るようにしていた。---良くないものに出会うことがあるからだ。これも神隠しにあったことで変わったことの一つと言える。
千尋は高校の制服に着替えて、お弁当を鞄に詰め込んで家を出た。時間が早いこともあって、少しだけ涼しさが感じられる。もう夏は終わりかけ、秋の気配が近づいていた。
千尋が通う高校は住む場所から四駅のところにある。千尋が電車に乗ると、席には空きが目立っている。まだ早い時間で、乗る人もなんとなく顔見知りだ。
だが、その席の一つに、今日は黒い影が座っていた。どうやら運が悪い日のようだった。
千尋は黒い影から出来るだけ離れた位置に腰を下ろす。一応、その黒い影の様子が見られる位置にはしているが、影の方には極力視線を送らないようにする。
千尋が朝早く出るようにしている理由が、この影だった。千尋は神隠しの後、おかしなモノが見えるようになってしまったのだった。
どうやら向こう側の世界に行ったおかげで、その辺りの感覚が鋭くなってしまったらしい。普通に日常を過ごしている中で、ふとした場所になにかおかしい影が見えたり、異物の存在を見て取ったりするようになってしまった。
それは、あの向こう側の世界の影のような存在たちで、なにも物事を起こせない存在のようにも見えるが、時折恐ろしい存在にも見えた。影はたいていは好き勝手に行動するだけだったが、千尋が存在を認識している素振りを見せると追いかけてくるものもいた。
彼らは昼間には数が少ないが、朝や夕暮れになると多く見かける。登校の時間はまだ存在を感じられる時間帯だ。夏の頃はもう明るくなっているので、姿を見ることはほとんどなかったのだが、そろそろ姿が見え始める時期になってきたらしい。
千尋が可能な限り単独行動を行うようになったのは彼らのせいだった。夏の間はまだましだが、冬になるとどうしても日の入りが早くなる。誰かと一緒に行動すると、千尋の”奇妙な”行動は目に付くことだろう。実際、過去にも避けられない出来事のために、面倒な説明をすることになったことがあるのだ。結局、今では千尋は友人関係をある程度諦めることにしてしまっている。
電車はいつも通りの景色の中を行く。駅の周りには家が固まっていて、スピードに乗ってくると、畑や農地、点在する家、たまにある集落といった具合だ。この辺りは、昔から人が住んでいた土地で、もちろん都会ではないが、少し行けばこの地域の中では大きい街もあるし、電車も通っている。
大きい街の中であっても、彼らの姿がなくなるわけではない。ただ、人が多い中では彼らは翻弄されているようで、居つきづらい場所ではあるようだ。街の隙間などに留まっている姿を見ることもある。影の着ているものがボロボロになっていたりすると、良くないことが起こりそうだと思いつつ、千尋には適切な対処がわからないので、そのまま見過ごすことしかしていない。
一方、千尋が住んでいる辺りでは、彼らものびのびと過ごしているようである。ありきたりな場所では神社や自然の中に入ると、おかしなモノの影が多く見える。だが、そういった場所では、陰ではなくあの世界でいう「八百万のかみさま」達のような存在の気配も感じられる。はっきりとした姿が見えるわけではないが、敷地の遠いところにいる後姿を見たり、遠くから見た時にご神木の上に眠るナニカの姿を見ることがあるのだ。そういった存在については、千尋はなるべく接近を避けていた。
千尋は彼らの良し悪しの判断が付かないのだ。影が多い場所には近づかず、その存在は無視し、出来るだけ触れないようにした。遠回りをすることもあれば、入り口を塞がれてしまい、時間を潰す羽目になることもあった。周囲の人からすれば奇怪な行動をしているようにも見られるのはそのせいだった。
次の駅に着きそうになると、影は荷物をまとめはじめた。どうやら電車を降りるらしい。千尋は視界の隅でそれを確認して、心の中で安堵した。
だが、駅に着くと、ざわめきと共に別の高校の野球部と思われる一団が一気に乗り込んで来た。影は人を避けられずにうろうろとしている。もちろん乗りこんだ高校生たちからすれば、その存在が見えないのだから、気遣うも何もない。
千尋は見かねて、立ち上がった。
「あ、すいません」
そう言いながら、気持ちゆっくりめに歩きながら、高校生の間を抜ける。影を先導するように、一団の中で一回立ち止まってから、ホームに降りる。少しおかしな動きになったせいか、野球部の一団からは怪訝な目で見られた。あるいは、千尋の制服から降りる駅がここではないということまで分かった上での目線かもしれない。この辺りに高校はいくつもないので、だいたい場所は知られている。
降りた後に立ち止まるのも変なので、そのまま普段は降りない駅の改札まで向かう。後ろをちらっと確認すると、影も無事に降りられたようだ。
改札近くまで来たところで、外には出ないで、電車が出発するのを待つ。そうしていると、後から影がやってきた。影は帽子を取って感謝の挨拶をしてきた。私は知らないふりをしてやり過ごした。
次の電車が来るのを待ちながら、千尋は考えた。
年月が経っても、あの世界で体感した様々なことは、しっかりした感触まで覚えている。けれど、あまりにも遠く離れた世界にその存在を疑うことがないわけではない。だが、見え続ける影の存在は過去の体験を確かなものにしてくれる。
だから、千尋にとって彼らの存在は嫌な思いをするだけではなかった。それは、あの世界が確かに存在していた証拠だからだ。
おそらく、この世界とあの世界の繋がりは完全に分かたれているものではない。それこそ千尋たち家族が迷いこんでしまったみたいに、繋がっている場所は今でもあるのだろう。
もちろん、千尋もあの世界に戻るつもりはない。けれど、あの世界がちゃんと存在しているという確信が、千尋にとってかけがえのない心の拠り所になっているのだった。