日曜日、お昼の時間に合わせて電車で移動する。目的地までは、乗り換えも含めて電車で二時間程度の距離だ。隣の市の中心部に当たる。
「千尋!」
千尋の父は改札から出たところで待っていて、手を挙げて声をかけてきた。
お腹が出ているのは昔のままだが、どことなく顔や腕が細くなったように千尋は感じた。そして、白髪もずいぶんと増えたようだった。
「ちゃんと来れたな」
「うん、大丈夫だったよ」
「そうか。じゃあ、飯を食おう」
そう言って、駅ビルの中のレストラン街へと歩を進めていく。
父と出会う時は、いつもこの時間帯だった。お昼の時間にあって、昼ご飯を一緒に食べて、少しだけ買い物をして、遅くならないうちに返す。気遣われていることが分かってしまうことが、千尋にとっては少し遠さを感じて寂しい。
けれど、まだ子供の自分が一人暮らしをさせてもらえていることを考えると、断る選択肢は無いし、ちゃんと過ごしているところを見せないといけない。千尋としてはそんな義務感が強かった。だから、なににしても耐え忍ぶことが多い時間になる。
オムライス屋に入り、千尋はプレーンなオムライスと紅茶、父はデミグラスオムライスの大盛とアイスコーヒーを頼んだ。それから、しばらくは近況の話をした後に、父は改まって話を切り出した。
「それで、……連絡があった進路の件だがな」
「うん」
「本当に大学に行かないで就職したいのか?」
「うん」
父がもどかしい表情をしているのを、千尋は表情を変えずに見続けた。
その意向を千尋が伝えたのは先月の事、電話口で最初は「そういう選択肢もあるかもなぁ。まぁ、最近は大学に言っておいた方が良いだろ」と軽く笑いながら聞いていた父も、私の意思が強いとなると声を強張らせた。そして、実際に対面して話すのが今日、というわけだった。
「なんでそんなに働きたいんだ?」
「早く自立したいの」
「……別に、離れて暮らしているのは、そんなに大した負担にはなっていないんだからな。あの家はおじいちゃんの家で、どうせ維持費はかかることになるんだから」
どうやら、千尋の父は経済的な事を気にしていると思っているらしい。千尋もそのあたりの事を全く気にしていないわけではなかった。確かに千尋が今住んでいる家は、祖父が住んでいた家なので、家賃が二重にかかるということはない。
だが、当然生活費はかかるし、一緒に住むより負担になっているのは確かだ。父親が苦労していることは千尋には分かっていたが、ただそれを真正面から指摘しても認めないことも分かっていた。
だから、千尋はあくまで自分がしたいのだ、と主張をする。
「ううん、違うの。私が早く自立したいの」
父は腕を組んで目をつむって、しばらく黙り込んだ後に口を開いた。
「やりたいことがあって働く、というわけじゃないんだろ」
「これをしたい、っていうのはあるよ。それに、別に学びたいことだってあるわけじゃないし」
「何をしようとしているんだ?」
「接客。旅館とか、ホテルとか」
千尋は少しだけ嘘をついた。本当は、一番働くイメージが湧く、というだけで、やりたいことというわけではなかった。
「それなら、別に大学に行ってからでも遅くないんじゃないか? それでいろいろ見えてくるものもあるだろう」
「でも、やりたいこともないのに、大学に行くのはもったいないじゃない」
「うーん。お父さんはな。やっぱり、大学に行けるものなら、行っておくというのは良いと思っているんだ。高校から卒業することが悪いって思っているわけじゃないぞ。ただ、一度働いてしまうとな、もう働くことだけで精一杯になってしまうからな。千尋は成績だって良いわけだし」
そのタイミングで、店員さんが注文した品を持ってきたので、会話が一度止まる。目の前にオムライスと飲み物のグラスが置かれ、店員さんが立ち去ったところで、父は言った。
「まぁ、まだ高校一年生だ。とりあえず大学も目指す、っていうことでいいんじゃないか。選択肢は広い方が、後になって変えたくなっても大丈夫だしな」
それから、カトラリーに手を伸ばしながら言う。
「注文も来たし、とりあえず食べよう。いや、旨そうだな」
どうやら、結論は保留ということのようだった。
千尋もスプーンを手に取り、口にオムライスを運ぶ。確かに美味しいが、気を張っているせいかお腹の方があまり空いていなかった。
千尋だって、父が言うことは理解できる。先生や友人も似たようなことを言うだろう。だが、千尋はもう、一度働いてしまっているのだ。働いたことがあるから、なにもせずに学ぶだけの立場をどうにも居心地悪く感じてしまうのだ。
それでも、父が自分の事を気にしていることはわかるから何も言えない。けれど、「あの時、お父さんとお母さんがお店の物を食べたりしなかったら、こんなことにならなかったんだよ」という気持ちもゼロではなかった。
ご飯を食べ終わった後、千尋たちは服屋に移動する。千尋としては、服は足りていて買わなくても問題ないのだが、千尋の父は買わないと「遠慮するな」と言いしつこい事もあって、千尋としては大人しくちゃんと自分の趣味に合う服の中で、あまり高くないものを選んで買ってもらう。
その間、千尋からは学校の話をするが、部活もやっておらず、友人もほとんどいないので、由利との話が多くなる。千尋の父は、由利の事を千尋とずっと一緒にいる友達だと思っているはずだった。
買い物が終わり、帰宅するためにビルから駅へと向かう途中。人が多く、ざわめきが多い駅の構内通路を歩きながら、父は何でもない風に口を開く。
「あー、母さんもな。最近は働き始めたんだ」
「そうなんだ」
「向こうには知り合いもいないから、母さんも落ち着いてきていてな。もちろん病院にもまだ通っているんだが」
「うん」
「最初は知り合いもいないところで大丈夫かと心配だったけどな。良い人ばかりだし、それに大分時間も経ったから、もうあの話なんて話題になることもないし。千尋の方も、そうだろ?」
「うん。全然ないよ」
千尋と家族への神隠しによる被害はテレビで取り上げられていた時が一番酷かった。千尋が小学校の時にはからかわれることもあったし、周囲からもいろいろと噂された。けれど、今では神隠しのことが話されることはほとんどなかった。高校に入った直後に、少し触れられたくらいだ。
「だからな。もっと時間が経てば、きっとまた家族で暮らしても大丈夫になると思う。苦労させて悪いが、もう少し待っていてくれ」
声の大きさは周りに聞こえない程度に抑えてあるが、千尋の父は真剣な顔と口調だった。
「わかった」
千尋も父の方を向いて、真面目な顔で頷いて答える。
千尋の父は、いまだに家族全員仲良く過ごすことを夢見ている。それはおそらく難しいだろうと千尋は考えているものの、父に対してそれを表に出すことはなかった。
千尋は帰りの電車で、買ったものが入った大きめの紙バッグを持ちながら、座席に疲れた体を埋めるようにして座った。窓の向こうには以前よりも早くなった夕暮れの気配がある。それを眺めながら、千尋はとりとめもなく考えた。
千尋が一人暮らしを初めてもう一年は経つ。
形としては、千尋が中学三年生になるタイミングで、今の家から千尋の父と母が出て行ったような形だった。理由は複雑だが、原因を辿ればあの神隠しが元になっていることは確かだった。
そもそも神隠しから帰ってきた後の千尋たち家族は大変だった。千尋の父は無断欠勤となっており、会社を解雇されていた。買ったばかりの新居は支払いが出来ず、処分することとなった。
家に関して言えば、お金以外に周りの目が厳しいという側面もあった。ニュースで晒されてしまった千尋たちは、いつも視線に晒されていた。
そして、千尋たち家族は父方の祖父の家に身を寄せることとなり、今住んでいる萱森町にやって来ることになったのだ。その後、千尋の父は祖父の伝手を辿って慣れない仕事を始めることになった。
そんな状況が続くなかで、千尋の母は精神的に病んでしまった。周囲の目線を気にするようになってしまい、外に出られなくなった。
そして、神隠しで別人に取り替えられてしまったのだと真剣に主張するようになり、千尋のことを目の敵にするようになったのだ。
「今の千尋は別人よ。千尋じゃないわ」
「成長しただけだよ。もう千尋だって中学生になるんだよ」
「いや、違うのよ。私にはわかるもの。あの子、隠し事をしているわ」
父がどんなに取りなそうとしても、母はかたくなだった。神隠しの前から千尋と母の関係はあまり良いものではなかったが、それが急激に悪化した。
千尋も変わってしまった状況に適応することに必死で、自分自身を省みる余裕などなかった。神隠しの時の経験から得た強さがあるから、なんとか一人で頑張れた。けれど、その強さを見て、母はさらにかつての千尋との違いを見出してしまうようだった。
実際、千尋は神隠しの間の記憶がない、という嘘をついていた。その点も、違和感を持たれる一因だったかもしれない。
しばらくの間、千尋たち一家の間に漂う空気は酷いものだった。母は千尋をいないもののように扱い始め、千尋もそれを受けて一人で家事をこなす。父は慣れない仕事をしながら、母と千尋の間を取り持った。
そんな期間がしばらく続いた後、祖父が亡くなった事や、母が病院に通うようになったこと、千尋が高校生になること、それらの積み重ねで、千尋は祖父の家に一人で暮らすことになった。有り体に言えば、家族の中で距離を置こうということになったのだ。
一戸建ての家は、一人だけで暮らすには広すぎる。千尋も最初の頃はさみしさもあったし、寝坊しそうになって慌てた事や、ご飯に失敗したこともあった。しかし、人間は次第に慣れていくものだ。
それに、かつて湯屋にいた頃に一人で働いていたことを思えば、大した事では無い。
……結局、こんな風に色々なことをやれるようになってしまったことが、神隠しで変わってしまったことの証明なのだろう、と千尋はそんなようなことを思った。