最後の一音が鳴り響き、やがて静寂が戻る。
「……オッケーです! お疲れさまでした、小金丸さん、重稲さん!」
音響スタッフさんの言葉に、やっと張りつめていたものが解かれ、大きくため息をついた。
「ふー……お疲れさまでした」
「お疲れ様でした!」
精神的な消耗で眩暈すらしている俺とは対照的に、水無瀬は慣れたものなのか、平然とニコニコしている。
「先輩、お茶飲みますか? タオルは? ハチミツ要ります?」
「いや、いいから、いいから」
何かと世話を焼こうとしてくる後輩の姿に、周囲のスタッフさんたちも苦笑している。
俺たちがやっていたのは、今度発売される彼女――と俺の、初の共同制作のシングル。
そう、CDデビューである。
「なんだか凄く遠くまで来た気分だ…………」
「でもデビューはゴールじゃないんですよ! スタートです!」
CDの売り上げ減だとか、昨今は配信が主流だとか、色々言われてはいるけれども。
ある種のネット小説家にとっては今でも書籍化が憧れであるように、アマチュアミュージシャンの憧れはCDデビュー、なんならメジャーレーベルからCDを出すのが大きな夢である。
「まあな。……あの時散々もめたけどさ。やっぱり作っててよかっただろ、"やまびこの夢"」
「うーん」
"やまびこの夢"は、水無瀬結花の美声を前面に押し出した一曲だ。男声はあくまでもコーラスに徹する曲であり、ソロパートはもちろんハモリすらない。俺も歌っている、とはあまり主張しにくいが、あの頃の曲を現状で世に送り出そうとすれば、一番無難な選択肢だった。
「もっと一緒に歌ってる曲のほうが良かったですよ、やっぱり。先輩はまだ錆がどうだって言いますけど、僕からすればもう分からないぐらいです」
「そりゃあお前の贔屓目じゃないか?」
「先輩は目標値が高すぎるんですよ。最低限の質はもう整ってます。あとは先に世に出してから、更なる向上はそれからでいいんです」
「そんなもんか」
「そんなもんです」
普段のからかうような、じゃれてくるような雰囲気とは違う、先達としての余裕から自然に出たであろう柔らかい笑顔に、一瞬だけ見惚れてしまう。さっと顔を動かして周囲を見渡したが、スタッフはそれぞれの撤収作業で忙しく動き始めていて、こちらに構っている暇は無さそうだった。
「……帰るか」
「はい!」
レコーディングスタジオを出たところで現地解散の予定だったが、俺たちはどちらからともなく互いに見つめ合った。
「ごはん、食べませんか? お喋りしましょうよ」
「別に構わないが……会話なんていつもやってるだろ」
「顔を見て話したいことだってあるんですよ」
「例えば?」
半ば分かっていて尋ねた言葉に、彼女はいつもの自信に満ちたドヤ顔で胸を張って答えた。
ちなみに、彼女の胸囲は……多分平均よりは大きい、と思う。
「次の予定についてです! 確か別口で遊んでもいいって言ってましたよね」
「まあ、そうだな。俺がやってるのはほぼ1人用のゲームだし、一緒に遊ぶのは難しいから」
天下の往来で、配信だのコラボだの視聴者だのという単語を迂闊に使える時代は既に終わった。
言葉選びは慎重に、でも相手には伝わるように。
「どこ行きます?」
「この辺だと……近くにいい場所があるな、案内してやる」
「へえ! 先輩のお墨付き!?」
「1か月ぐらい行ってないけどな。潰れてないといいが」
「ええ……?」
「爺さんが一人でやってる場所なんだよ」
「なるほど」
数分ほど歩き、とある雑居ビルの2階に上がる。
「いらっしゃい」
老齢の店主の柔らかい声が、俺たちを出迎える。
小ぢんまりとした店内は、座敷とカウンターを合わせても20名がギリギリなくらい。
ビジネスマン向けの居酒屋にしては珍しく、平日に休みを設けて土曜日も営業している店だ。
休日とあって、俺たち以外に客の姿は2,3人だけだ。
「サバ2つで」
「はいよ」
「座敷使いますねー」
「どうぞどうぞ」
慣れたやりとりを経て、座敷席へ。
水無瀬は当然のように向かいに座るものだと思っていたが、何故か俺の隣に寄ってくる。
たまたま俺たちが視界に入る位置にいたお客さんが、ぎょっとした表情を浮かべた。
うん、俺も同じ気持ちだ。
「おい」
「別にいいじゃないですか」
何をするのかと思えば、店主に聞こえないように、こっそりと耳打ち。
"このお店って、もしかして……"
黙ったまま、頷くことで答える。
場末の居酒屋。幾度となく自称してきた俺の自認。イメージする風景は、いつもこの店だった。
「そういうこと」
「よーく、わかりました」
何が分かったのかは分からないが、とにかく水無瀬はそう言った。
「で、顔を見て話す云々ってのはどこに行ったんだ」
「別に僕はこの距離で見つめ合っても構いませんけど?」
「なんでよそ様のお店でそんなイチャつくカップルみたいな真似をせにゃならんのだ」
店には小さく音楽が流れているが、客の会話を邪魔するほどの音量ではない。
静謐を破らないよう、小声で会話する。
「……傍から見れば、やっぱり恋人同士に見えますかね、僕たち」
一つ息を吐いて、壁に背中を預けた。
「内情はともかく外面はそう見えるんじゃねーの。満足?」
返事がないので彼女の方を見やると、拳3つ分の距離で目が合った。
顔は良い。声質も良い。ただ、言動の多くがちょっとガキっぽい。
水無瀬はイタズラ成功と言わんばかりにニッと笑みを浮かべると、静かに向かいの席へ移動した。
「何なんだよ本当に」
「先輩は僕が恋人だったら嫌ですか?」
「人生は楽しくなりそうだな。平穏からは遠くなるだろうが」
自分から聞いたくせに、ストレートに褒められると照れて視線を逸らす。
先日、かなり遠回しに遠回しに遠回しに俺に恋人がいないことを確認してきたことから、彼女の気持ちは何となく分かってはいる。そもそも、広大どころか無限に広がるインターネット上から俺を特定して見つけ出している時点で、その努力と執念は尋常ではない。直通の連絡先を知っていたのだから、それで連絡を取ればよかったのに。
(……いや、最後の手段として取っておいた可能性はあるな)
果たして何年を費やしたのだか知らないし聞きたくもないが、どこかしらのタイムリミットが訪れたときのために温存しておいたのかもしれない。それはそれで、本末転倒な気がするが。
自らの油断で掴んでいたはずの魚を逃がしてしまったとなれば、俺なら多分七転八倒する。
「はい、サバ2つお待ち」
ちょうどよく焼き鯖定食が運ばれてきて、現実から逃げる口実が出来た。
空腹は人から冷静さと寛容さを失わせる。後のことは、後で考えよう。
「少し気になったことがあるんだけどさ」
「……何ですか、先輩」
雑居ビルを出たすぐ先の裏路地。平日ならいざ知らず、休日のこのあたりに人通りはほぼ無く、通るのは車ばかりで、それもまばらだ。
「まず前提として、俺と仕事があるいは音楽がしたいだけなら、俺を事務所所属にする必要はどこにもない。むしろフリーでいさせたほうが小回りが利くし、何なら専属としてこき使える」
箱に入れば、多かれ少なかれ、箱内の人間と絡まざるを得ない。
外に置けば、そうしたしがらみに困らされることなく、ひとりで俺を独占できる。
「本当の理由を教えてくれよ。なんで、俺をグレスタの所属にさせたんだ?」
水無瀬は僅かな間だけ俯いていたが、やがて毅然と顔を上げた。
「先輩のおかげで僕はメジャーデビューしました。でも、弟子が名前を売り始めたのに、師匠がひっそりと忘れ去られたままなんて、嫌だったんです。グレスタは少数精鋭の事務所……もちろん、所属したから絶対に成功するみたいな、夢のような話ではないですけど。少なくとも先輩のあのやり方では、大きく飛躍なんてのは望めません。僕は……先輩にも光が当たってほしかった。それが先輩の意に反することだと知っていても」
「飛躍ってのは、配信者としてだろ。音楽とは関係なくないか」
「音楽家としての先輩も含めた、先輩の全部です。僕は欲張りですから」
「……分かった」
言い分は理解した。賛同するかは別だが。
「あと……あと……!」
その先を口にすれば、俺たちのすべてが変わる。
どう転ぼうが、今のままではいられない。
だから今だけは。あの鳥が羽ばたくまでは。
俺は手を振って、水無瀬の言葉の続きを遮った。
やはり、"それ"とグレスタの所属にも直接の関係はない。
最初から外部でこっそり接触していたほうが、
「帰ろうぜ。例の彫刻がまだ終わってないんだ。毎晩悪夢のようにうなされる……」
俺は返事を待たずに、駅の方角に向けて歩き出す。
足音が、少し遅れてついてきて――俺の左手を、彼女の右手が掴んだ。
「ひとりじゃないです。僕も手伝います」
俺はその手を、振り払わなかった。
「鳥は両翼で空を飛ぶ……か。そんなことさえ忘れていた」
「んふふ、なんですかそれ。詩人は僕の担当ですよ」
名残を惜しむように、この時間が一瞬でも長く続くように、ゆっくりと歩き続ける。
なお、遊びの約束は結局二人とも覚えておらず、後でメッセージで連絡を取り合う羽目になった。
押しまくる人間と多少頭の回る人間の組み合わせなら普通こうなるか……いやそうはならんか……で無限ループしていたんですが、永遠に完成しなさそうだったのでとりあえず投稿します。