花を見つめている。蓮の花だ。
朝早いにも関わらず堪えがたい蒸し暑さの中、池の前で仁王立ちになったわたしは、じっと蓮の花を見つめていた。着物の中で肌着がじっとりと肌に張り付いている。
蓮は初夏に咲く。早朝からつぼみが緩まり始めて2時間ほどで開花が終わり、昼に閉じる。それを3日ほど繰り返すそうだ。
目の前のこれと定めた一輪、ーロスと名付けたー、が咲き終わるのをずっと待っているのだけれど、いつ終わるのか、終わるとしてわたしがそれに気付くのかは確たる自信はなかった。なにせ蓮に限らず花を見る習慣がないものだから、どこまでが満開なのかがわからない。
白状すると、わたしはこの場に来るまで蓮と睡蓮の区別がついていなかった。あるいは、その2種が別の植物であるという事実に思いを巡らせたことさえなかったかもしれない。蓮はつまりレンコンで、睡蓮はなんだろう。レンコンのとれない何か。
実物を見比べると違いは笑ってしまうくらいに一目瞭然だった。睡蓮は水面に浮かぶように咲き、花の大きさも小ぶりでかわいらしいとか可憐とか称される部類に入る、と思われる。それに対して蓮の花は水生であること以外にまるで趣が異なるのだから。
まず大きい。水面から葦のようにわらわらと円盤状の葉が突き出して鬱蒼としている間に、つぼみだけを乗せた葉柄が葉よりも更に長く伸びていて、それが子どもの顔くらいの大きさに花開く。何もかもの大きさが睡蓮とは違う。
すべてが人の背丈くらいはあって、まさか見下ろされる側になるとは思っていなかったので驚きだ。観察対象に選ばれたロスは控えめで、わたしの胸元くらい。
いちばん背の高いつぼみにいたってはわたしの頭より高い位置にあり、やはりバランスが悪いのか時折吹く生ぬるいそよ風でも激しく揺れている。
しゃがみこんで対面することになるだろうから、足がしびれたらどうしようとか、折り畳みのイスも持ってくればよかったかなとか。まったくの杞憂で、わたしが想像していたのは睡蓮だった。
古典の引用や聖なる香りがするらしいといった断片的な知識から得られる静謐さからは乖離した姿で、大きさも相まってその威圧感からはひまわりが想起された。それらが池の中に密集しているので、半ば期待していた幻想的な風景とは程遠い。
青々とした大きな葉や巨大なつぼみが競うように空に向かう様は混沌としていて野生の趣があり、神妙な気持ちにはとてもなれそうもない。
花そのものも、そうだ。白や淡い赤で彩られた厚みのある花弁は10枚どころか20にも30にも見える。あまりに多い上に揺れるものだから、わたしはロスただ一輪さえ数え切ることができなかったくらい。
「ちょっと止まってみてくれない?一瞬だけでもいいから!」
わたしの懇願も虚しく、ロスはせわしなく身体を揺らしてみせた。
混沌を体現しているのは花弁だけではなかった。レンコンの断面のような薄緑の花托の周囲には何百本もの雄しべが敷き詰められていて、黄色の花畑が広がっている。生命力が横溢しているようだった。
毎年この開花を心待ちにしている人々も多いそうだけれども、花の美しさよりもまさにこの、咲き誇る逞しさに惹かれるのではないだろうか。そう思わざるをえない。
とはいえ、わたしの憶測は当てにならない。花を語るには物事の機微に不見識すぎるし、花の美しさというもの自体に対してでさえ、懐疑的かもしれない。
花を慈しみ愛でる心の働きには生物としての優位性が強く影響しているのではないかと、どうしても考えずにいられない。
花が能動的にわたしたちに危害を加えることはまずないけれど、わたしたちにとっては踏み潰したり手折ったり、枯らしてしまうのは簡単なことで、それは生物として圧倒的な優位を意味する。
そこにあって慈しみとか愛だとかは一方的なもので、獣よりも多少の知恵がある人間が自分たちの感覚や道徳性を高めるために、動物を愛玩するとか、ロボットが時折みせる人間らしさの錯覚に和んだ気分になるとか、そういった類のものだ。
もちろん、花に惹かれるの理由はそれだけではないにしても、一個の人と花を比べた時、この純然たる関係性は覆しようがない。そして人が花を見た時の反応は、意識しているかいないかに問わず、この前提によって規定されるわけだから花の美しさに対する感想は常にバイアスがかかったものなのだ。
だから花の美しさとは、花が美しく愛でられるべきものという観念によって支えられているのではないだろうか。また、より穿った見方をすれば、季節の移り変わりを託すことのできる雅な象徴として、花が活用されているだけなのではないか。
掛け合わせられた観賞用の花に限らず、美しいとされる花の全てが自らの種を繁栄させる目的の下に、他の生物に対してアピールするため、その容姿を進化させてきた。そのため花を美しいと感じるのは人間の能動的かつ情緒的な発見ではなくて、単に生物としての受動的な反応に過ぎないのではないか。
花を女性化して美しさと繋げるのも不思議なものだ。雄花と雌花に分かれていない種はいくらでもあるし、そうであれば花の性別は中立的か中性的なはず。わたしたちの感覚は、無意識に依存し過ぎているのでは……?
◆◆◆
ロスを長針が二周するほど見つめ続けて、ようやく、わたしは花の観賞といった雅で華のある趣味には向いていないのだと思い知った。花を目の前にした感想が美しさではなく「花の美しさについて」なのだから。
風情もへったくれもあったものではない。まだ団子の方が情緒を解するだろう。いや、わたしだって本気で花は実際には美しくはないなどと出鱈目を信じているわけではない。二割くらい、頭をよぎるだけだ。
情緒だのワビだのサビだのといった静と動の境を味わう大和撫子らしさと君は無縁なのだと指差されているようで癪に障るけれど、感性すなわち素養の問題であり、こればかりはしょうがない。
女性らしさや雅さを無理に結びつけようとする発想がよくなかったのかもしれない。花は歴史上においても生活においても人類にとって必要不可欠な存在であり、その意味において特別なものではなく、観賞にハードルを設けているのは自縄自縛が得意なわたし自身というだけ。
そも観賞において花の一輪のみを対象にすること自体が間違っていたのだ。それはどちらかというと観賞ではなく鑑賞であって、獲物と対決する虫取り少年や手続き的に学者が取り組む態度に近い。あるいは大病に服して身動きが取れず、見舞いで持ち込まれた花瓶しか見ることができない人の苦い時間潰しである。いずれにせよ、何かしらを患っている。
数時間かけないとわからないものなのだろうか。『観賞』の前に気付けなかったのだろうか。着物姿の女が朝っぱらから池の前で微動だにしない様子を客観的に、第三者の視点から捉えると、彼女らしきそれは人間よりも妖怪やら怪異の類であって、偏執的としか表現しようがなく、我ながら呆れを通り越して不気味で仕方ない。
8月の頭、もうどうにも間に合わなさそうな原稿から逃げ出して、わたしは鎌倉にある植物園を訪れていた。
時刻は早朝の7時を回ったところ。昼夜があべこべな夜型人間にとって大きな苦痛を伴う行動だけれども、同時にわたしは怠惰と衝動を反復横跳びする種にも属しているので、こういった突発的な外出をしたがる自分自身にもしばしば、付き合わなければならないことがある。
思い立ったが吉日という慣用句はわたしにとってはありがたい教訓などであるはずもなく、呪いのようなものだ。思い立ってしまえば吉日だろうがなんだろうが、頭に何か考えが憑りつくと、いてもたってもいられなくなる。椅子に一週間ハリツケにされて満更でもなかったのに、突然明け方に家を飛び出す心情を説明しろという方が無理な話だ。
あいにく花を見にいきませんか?と誘える友人は皆無であるので、当然ひとり。
だいたいにおいて花がどうこうと言い始めたら、わたしを知る人であれば
「だしぬけに花だなんて、らしくない。君には団子の方がよほどお似合いだ。おおよそ文学趣味が転じたのだろうけど、背伸びしようなんてかわいいところがあったんだね。もう乙女って年頃でもないのに」
と散々に煽られてアンタには年について言われたくない、なんだとコノヤロウバカヤロウの取っ組み合いが始まることは必至だ。
もちろん花が似合わないのは指摘されるまでもなく百どころか、千も万も承知している。実際、花を見るようなガラじゃない。花より団子、色気より食い気、花見も花火も関心なし。
事あるごとに着物で現れて何か文化に理解を示す傾いた雰囲気を醸し出していても、その実、はるか先生の真似をしているだけに過ぎず、着こなしよりもどれだけ簡単に着るのかを重視する始末。雅さの欠片もない。ポピーのアクセサリーどころか、花柄の服さえ一着もない。
いったい、花を愛でる、花に見惚れるという状態がしっくりこないのだ。花を愛でているわたし、花に見惚れているわたしが想像できないともいえる。
花を愛でている自分自身を愛でる、あるいは花の美しさに心を打たれているのを自覚するといった経験はあいにくのところ皆無だった。前者ができるほど自分への視線に無関心ではなく、後者ができるほどの情緒もない。
この疎外感はきっとわたしだけのものではないはずだ。花を楽しんでいるフリをしている自分自身を写真かビデオで見せつけられたら、少なくない人がこの違和感に気付くに違いない。
いや、いけない。またこれだ。もしかするとフリなどといって花を好まないのは哀れなわたしひとりだけで、皆はいつもわたしを置き去りにして花見と洒落こんでいるのかもしれない。
だからこそ、もしかしたら知り合いのうち誰かひとりくらいは可哀想と思って付いてきてくれるかもしれない。
ただ、わたしはワビサビを抜きにして本当に単に花が見たかったのであり、花を見るという行為そのものがやりたかっただけであり、またなぜ見たくなったのかを説明するにはあまりに回りくどい思考の過程を経ていたから、誰かに声をかけるという発想が最初からなかった。
◆◆◆
「あなたの文章からは三島由紀夫の作品みたいな匂いがするね」
きっかけはその一言だった。
この会話自体がもう随分前で前後の文脈は曖昧にしか思い出せない。わたしが書いたものを公開し始めて少し経ってから、数少ない付き合いの長い友人が発したのだと記憶している。
誰かに似せられるほど、それに褒められるほどの量を書いていない自覚は当然あったので、近代文豪最後のきらめきたる彼の名が出てきたことで、わたしは舞い上がるどころか赤面、ただただ恐縮するばかりだった。
正直に付け加えると、読書に対しても怠惰すぎるわたしは三島由紀夫の作品をあまり読んだことが無く、またぼんやりと好意的な印象を持っていなかったのでかなり困惑した。
印象がよくない理由は明らかに、わたしにとっての彼についての知識がもっぱら歴史的あるいは政治学的なものであることに起因している。戦前から取り残されてしまった哀れな人物。それがこれまでの、わたしの彼に対する評価だった。
現代でこそ彼の言動やセンセーショナルな最期はなにか面白いものとして消費されている感がある。でも激動の時代を経てもなお、ある瞬間に踏みとどまってしまった人々の苦悩を思うと、わたしはどうしても笑うに笑えなかった。
今が自分にふさわしい時代ではないという感覚は誰しもが持つものかもしれないけれど、その時代が経験したことのある過去になってしまった時、処方できる薬は何もない。とてもつらいことだ。
わたしは作家を志すようになった今でも文学や文芸の意味するところをつかめていない。政治的にも哲学的にも。
けれど文学の色は戦前と戦後ではっきりと断絶しているように思える。戦後から高度経済成長期に入ると、いわゆる大作家であっても、あまり文豪と呼ばれなくなったことも無関係ではないはずだ。
戦前の作品群に親しみと密かな憧れを抱くわたしは、二つの時代を生きながらも、戦後からキャリアの始まった三島由紀夫に、あまり興味を持てなかった。
その時代を生きる人が書き残した作品と、その時代に郷愁を感じる人が書き残した作品は明確に異なるためだ。
後者は政治的保守が存在しない良き時代への回帰を謳うのと同じようなものだ。わたしは自分自身が憧れを持ちつつも、憧れを元に自分の理想的な世界を再構成することは拒否したいのだ。
こうしてわたしは彼への一方的な人物像と、作品に充満しているに違いない郷愁への強烈な憧れを理由に読むことを避けていたのだけれど、しばらく経ってから考えが変わった。
自らの作品を書き上げようと完成させようとのたうち回るうちに、作家と作品の関係性について思いを巡らせることが多くなった。元よりわたしは、両者は全くの別物であり、作家がどのような人物であろうとも、作品への感想は独立しているべきだと考えていた。
だから作家がどのような思想を持っていようとも、仮に社会や他人に対して許されざる罪を犯したとしても、それは作品になんら影響を与えないし、与えてはならないとさえ思っていた。極端な例を挙げるなら、ゴッホの絵をゴッホの境遇を知らずに鑑賞したいというようなものだ。
しかし、作家や監督の作品を順に辿ることでしか味わえない楽しみが存在する。
人にも縁にも金にも恵まれず、社会への怨嗟の中に生きるしかなかったはずの作家が最後まで人間の善性を信じ切る主題を書き続けたとしたら。
落伍者を主人公とするシナリオが得意な監督が、完全無欠であるはずのヒーローの作品を撮るとしたら。
破綻した実生活でよく知られる俳優が努力と慈愛に満ちたキャラクターを何度も何度も演じきったとしたら。
その作家の唯一無二の経験があってもなお、作品の主題が経験に反するものであること自体が、メタ的に一種の作品となり、一つの作品内では表現できない美しさが内包される場合がある。
それは厳密には形に残る作品ではないのかもしれないけれど、その価値は否定しようもない。
またどんな文章であっても、何かを書こうとする限り、自分自身を切り離すことは困難であるどころか不可能であり、自己から離れてしまったら最後、読むに値しないものしか文字にすることができないと気付いた。
つまるところ、作品の価値や作品から受け取ることのできる情動を作家から完全に隔離することはできないのだ。これは回りくどい説明を抜きにして、あらゆる作品が作者以外の数え切れないほど多くの人々の手を経てから読者に届くという事実だけからでも、恐らく説明できるはずだ。
となると、三島由紀夫その人が気に入らないからといって彼の作品を読まないというわたしの態度は間違っているということになる。
このような経緯があったからなのか、あるいは単に興味が湧いたからなのか、わたしは彼の作品を手当たり次第に漁ることにした。手に取りやすい短編集を端から読む、読む、読む。
なるほど、なるほどだ。他人の作品を読んでなるほどと腑に落ちるような態度を示すのは穏やかではないけれど、なるほど。わたしの彼に対する偏見は半分あたっていて、半分間違いだったようだ。
病んでいるけれど、かすかに健やかな息吹の流れる文学。苦手だけど嫌いではない味。理解できるのに共感はしたくない。遠ざけたいのに、気付くと机の上に乗っている。そんな作品ばかり。興味深くても愉快ではないものだ。わたしが手に取ろうとしなかったのも無理はなかった。
彼がある時代精神(だったもの)に取り残されているという認識も正しかった。彼は超のつくほどに真面目で強迫気味で、目を引く主題や仕掛けを好むにも関わらず、大胆さとは程遠い。彼の文章は流麗に走ることなく堅実の一手のみに徹しており、ただただのっぴきならない、追い詰められて息の止まりそうな崖っぷちの焦りが淡々と、しかし情熱的に続く。
三島の作品は一貫して、嫌で仕方ないのに崖から荒れた海を見下ろしているような、読んだ者の腹の中から空気を全て奪おうとする前のめりで頑迷な薄暗くて湿度の高い雰囲気に満ち溢れている。しかしタチが悪いのは、三島は読者を鬱屈とさせようと意図していないことにあるのだと思う。鬱屈としているのは彼自身なのだから。
これが戦前に文豪としてもてはやされた人々と三島が根本的に異なる部分だと思われる。戦前にも生と死を弄び、昏い雰囲気を作品に忍ばせる文豪の名をほしいままにした作家は数多くいたけれど、それは当時の言い方をすればファッショなのであって、本気ではない。
しかし三島は質的に違う。病人のフリではなく、本当に病人であった。彼があの空気を纏ったままで昭和初期に現れていたら、文壇からは目の仇にされていた、あるいは神童とされていたに違いない。本物に舞台を荒らされては商売にならないからだ。
それはともかくとして、三島の世界と文章に浸かっていると、友人の指摘した意味がなんとなく理解できるようになってきた。もちろん「ああ確かに、彼の作品に似ているかもしれない」などと偉そうなことは露ほど思わなかったけれど、彼の文章に蔓延る鬱々とした気質には嫌なくらい既視感を覚えることがたびたびあった。
彼の苦悩は時代も場所も遠すぎて理解できようもないけれど、彼がペンを握る姿だけは克明に想像できた。彼の創作には余裕がない。
余裕がないという一点において、わたしは彼に共感する。そう、自他共に認めるところ、わたしには余裕がない。わたしのそれはキャリアへの不安のみならず、彼と同様に書くこと自体への余裕のなさにある。好きで書いているにも関わらず。
ゆえに「匂い」という表現は言い得て妙だった。
この発見は当然ながら、わたしにとって喜ばしいものではなかった。彼を目指したことはなかったし、そのつもりもない。だってそうでしょう?彼は現代に合わなさすぎる。生々しい言い方をすれば、あんまり売れないだろう。
それに、わたしは読者に焦燥感を与える作家にだってなりたくない。これでもはるか先生たちからのオーダーに沿うように面白おかしく書いているつもりなのだ。
もしそう受け取ってもらえていないのだとしたら?不条理が身に降りかかっていること自体を笑ってもらうしかないだろう。
そんな彼の作品の中に、「牡丹」という短編がある。取り立てて美しくも、心打たれる作品というわけでもない。
友人に誘われて訪問した牡丹園にはオーナーの加虐的な過去が顕れていた、という話で、牡丹園までの道中で目にする生活への視線や牡丹の描写とは裏腹に、戦争の陰惨さがわかりやすく示されている。
にも関わらず、わたしはこの作品がどうにも気になった。敢えて言うならば、回りくどい彼の作品群の中でも直截に、心の揺れが描かれているように感じたけれど定かではない。
花を主題にしつつも、花に託された思いが純粋で美しいものとは限らないという部分がひねくれた自分には響いたのかもしれない。
あるいはただ、牡丹を観た後にビールを飲む描写が気に入っただけなのかも。
理由はともかくとして、わたしは思ったよりも気に入っていたらしい。
読んだ後にしばらくしてから急に思い立って作品内で登場する牡丹園が実在するのか調べてみると、どうやらわたしの住む近所にあったようだ。
牡丹園自体は今では跡形もないけれど、牡丹の花は鎌倉にある公営の植物園まで移されたのだとか。
そういうわけで、これも何かの縁だと思い、わたしは植物園に足を運んだわけだった。
なぜ牡丹ではないのは言わずもがな。牡丹の季節はとっくに過ぎていた、そこで蓮なのである。意味がわからない?わたしにも、よくわからない。
特定の時期にだけ見ることができて、詳しい人に対してもそこそこ玄人感の出せる花。つまりは怠惰と衝動の賜物だ。
結果は以上の通り。わたしは花を楽しむ才にやはり恵まれていないのだ。何事もままならないもので、期待したリセットのようには、はるか先生のようには、いつも通りにうまくいかない。
ちょっぴり残念だけれど、同時に安心する部分もあった。これで急にわたしが花を趣味にし始めたらと考えると、想像するだけでも恐ろしい。それはわたしがわたしでなくなるくらいの転回であり、認識の崩壊であり、書ける種の発育不全になってしまう。
聖なる、と称される香りが急に鼻をくすぐった。
「しまった」
どうやらわたしが本物の花を目の前にしながら花は本当に美しいのかだとか三島みたいになるのは嫌だとか悶々としている間に、ロスの開花は終わっていたようだ。
開花を一通り見る、その一念で訪れたのに。これだから、もう。
しかし咲いてしまったものはどうしようもない。明日また来る忍耐も、わたしには残されていないだろう。
無性にビールが飲みたい。事前に調べておいた昼飲みができる店にナビを合わせる。
これがわたしと彼の違うところだ。わたしは彼よりもしたたかで意地汚くて即物的。郷愁に囚われるほどセンチじゃない。
「じゃあね」
わたしはロスに手を振ると、今この瞬間に飲むことができれば彼とは真逆の作家になれると信じて、植物園を後にした。
(蓮と牡丹 おわり)