広瀬由希はままならない   作:ひろせとら

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和解せよ!(1/2)

 わたしは三崎港の周辺をあてもなくふらふらと歩き回っていた。急な斜面が多く、階段と坂とやけに入り組んだ道ばかりで歩きにくいことこの上ないけれども、背伸びしがちな都会とは無縁の、堅実な漁港の生活が充溢している様は不思議と落ち着くものがある。

 

 湿り気を帯びたぬるい海風も、アルコールで火照った身体にはちょうどよかった。磯がないからか海沿いでもあの特有の臭気は感じられず、代わりに放置された魚のような匂いがうっすらと感じられる程度。至るところでわたしと同じように暇そうな猫が所在なさげにさまよっていた。

 

 港や岸壁をぐるりと見て回っても、待ち合わせにはまだ時間がたっぷりとある。このような時に便利で、有意義に時間をつぶすことができる場所といえば、神社仏閣に他ならない。わたしは歩みを止めると地図アプリを引っ張りだした。

 

 目指すは海南神社だ。藤原家にゆかりのある、平安時代から続く社らしい。

 

 その土地の歴史、成り立ち、環境、風土的な性質を知るのに手っ取り早いのは寺社に立ち寄ること。

 

 というのは、はるか先生と観音さんの受け売りで、確かにわたしも旅行先では必ずといっていいほど訪れるわけだけれども、どうも彼女たちの真似をしているような自覚がある。本当に、ただ真似ているだけ。

 

 そのように感じるのは、もちろん二人のように歴史の縦糸と文化の横糸が織り込まれた広大な知識を保有していないことに起因するのだろう。

 

 学生時代に比較的早い段階から日本史よりも米国史に傾倒してしまったせいか、国内の歴史や地理については、体系的な基盤を欠いていて、なんとかそれを体得しようともがいている最中だ。こうやって旅先で色々と見て回ろうとするのも、その悪あがきの一環なのかもしれない。

 

 あるいは、日本史のやや曖昧な雰囲気。古文書の発見により定説が頻繁に書き換わるところに苦手意識がある気もする。

 

 しかし、単に知識の問題ではない気がするのだ。より深刻で、根本的な、信仰の問題が絡まっているような気がしてならない。直截に言い換えれば、寺社とは切っても切り離せない神様の存在や拝むことへの熱意が足りないのだ。

 

 国際政治や安全保障といった曖昧で実体を持たないものに親しみを覚えてしまったせいで、わたしの空想世界は物的ではなく観念的な領域に接続されすぎている。または宗教学にのめり込んだ時期があったせいか、宗教や信仰を人間の意識レベルに解体しようとする向きがある。いずれにしても、霊感や神的存在との接触を感じたことが一度もない。

 

 わたしはほとんどすべての日本人と同じように無宗教なんかではないけれど、特定の宗教や神様、あるいは先祖の霊にまで親近感を覚えることができたためしがない。

 

 だから、はるか先生や観音さんがそういった体験を口にするたびに、行ったこともないし行くこともできない場所での話を聞いているようで、落ち着かない気分になるのだ。

 

 これは世迷言に対する冷笑なんてものではなくてむしろ羨望であり、嫉妬でもある。わたしだってそんな体験がしてみたいのだ。わたしは神や霊との繋がりを全く感じられないからこそ、誰よりも求めているところがある。いいから出てきて欲しい!とも。

 

 しかしそういった存在は往々にして、呼び掛けるものには応えないもので、手詰まりである。

 

 要するに、信心が足りないということらしい。

 

◆◆◆

 

 海南神社は三崎港からすぐ近くにある飲食店街の奥、木々に覆われた崖と崖の間にすっぽりと収まるように位置している。全体的にこじんまりとして、航空写真で確認すると実際にとても狭いのだけれども、木々と崖で敷地の外が見えないためか、下界から隔絶された秘境のような雰囲気がある。

 

 敷地のギリギリ手前に石造りの鳥居が立っている。あいにく信心が足りないので、鳥居の位置がなぜ神社ごとにてんでばらばらなのかは知らない。複数あったり、天を仰ぐほどに巨大であったり、かと思えば軒より小さかったり、磯に生えていたりする。

 

 祀りたい対象によって、あるいは神社が期待する示威的効果によって変わるものなのだろうか。一神教のように祀る対象が共通していないので、同じ様式を守る必要がないのかもしれない。あるいは、単に敷地の広さによって決まるだけなのかも。

 

 一礼して神域に入る。この鳥居の下での礼も正しい作法であるのかさえよくわかっていないまま、いい年を迎えてしまった。幼稚園が仏教系であったので、こういった作法を一通り仕込まれた記憶はあるのだけれど、それを正しく憶えているのか、そもそも正しかったのか自信がない。

 

 お寺では門(山門と呼ぶそうだ)の敷居は仏様の頭だから踏んではいけないと教えられた。頭だとすれば踏まずに跨いでも不敬であろうし、そもそもそんな往来の多いところに門を建てた人間たちと頭を突き出されている仏様にも問題がなかろうかと思えてならない。

 

 頭というのは子供の注意を惹くための喩えなのだろうけれど、もう少しなんとかならなかったものか。大方、人々が踏みつけると敷居が削れたり変形したりして、門が閉まらなくなるだの変形して見栄えがよろしくないだの、そういった実務的な理由が頭という逸話の元なのだろう。

 

 霊的な存在にそっぽを向かれているわたしは、反骨心のせいかこのような解釈を好むようだ。ありがたいお話や逸話は、その裏に人間の意図が織り込まれていると固く信じているわけだ。こんなわけだから、ご利益も近付いてこないのかもしれない。

 

 「いや、そもそもここはお寺じゃなくて神社だから関係ないんだっけ」

 

 ぽつりとひとりごちる。そんな簡単な区別もついていないのだから神も仏もございませんとも。いや、わたしのせいじゃない、神仏習合許すまじ。あなや。全く、鳥居をくぐるだけでも忙しい。

 

 境内には人っ子ひとり見当たらない。平日の昼過ぎはまことに偉大である。おかげで人目を気にせず、思う存分見て回れるというものだ。

 

 まずわたしを出迎えたのは立派過ぎるくらいの掲示板だ。モニターがビルトインされていて、なんとタッチ式で神社の案内をしてくれる。田舎といって差し支えない三浦半島の先端でさえこんなハイカラな設備があるのはインバウンドのおかげか、それともずいぶんと潤っているのだろうか。あるいは、行政からの支援が手厚いのか。

 

 いずれにせよ、この観光地はまだしばらくは安泰だということだ。

 

 「由緒由来を記した縁起書によると、藤原貴族の系統である藤原資盈公(ふじわらのすけみつこう)、盈渡姫(みつわたりひめ)の夫婦が三崎の地に流れ着いたことが、当神社の起こりです。資盈公は二年という短い期間に、海賊の平定、教養の普及などに努め、この地の文化の礎を築いたとされます。」

 

 ありがちな反応の悪いタッチモニターと格闘して神社の由来を呼び出すと、表示されたのは神社のホームページとよく似た、というか同じ説明書きだった。まあ、そういうものだろう。この場でしっかりとした文献が出てきたところで、有難がる参拝客はそう多くないだろうから。

 

 しかし、これだけではあまり納得はできなさそうだ。藤原の某おふたりが何者であるかわからないし、肝心であるのは、なぜ三浦半島に流れ着いたのかではないだろうか。観光ついでというわけでもないだろう。

 

 郷土史の資料をいくつか当ったところ(郷土史に直接触れるのはこれが初めてのことだと後から気付いた)、大体以下の通りであるらしい。

 

 平安時代、西暦にして860年頃に時の天皇であった文徳天皇が崩御し、まだ幼い皇子たち兄弟のいずれかが皇位を継承することになった。文徳天皇の生前から駆け引きがあったものの、兄たちを退けて皇太子となっていた第四皇子の惟仁が9歳という若さで即位、清和天皇となる。

 

 しかし文徳天皇の生前にあった駆け引き、すなわちあまりに幼い惟仁に代わって第一皇子である惟喬親王に皇位を一時的に継承させようとしたが、皇統が兄弟間で分裂して争いが勃発する可能性を危惧した左大臣源信の反対によってならなかった一件、が尾を引いていた。

 

 かつて惟喬派であった大納言の伴喜男は、惟喬を排し惟仁の即位を決定的にした源信との対立を深め、来るべき時のために勢力拡大を図ろうとする。

 

 そこで筑肥二州の国司の長官職、守であり九州大宰府にいた藤原鎌足の末裔である藤原資盈に声がかかったところ、資盈公は伴善男が悪人であると知っていたためか、この申し入れを拒んで従わなかった。伴善男は激怒し、文徳天皇に資盈謀反の意ありと讒言した。これが貞観六年、西暦864年のことであるそうだ。

 

 ちなみに伴善男は、同年に源信が弟たちと共謀し謀反を企てているといった投げ書が世間を騒がせた際にはこれを裏付けるような発言をし、またその2年後に生じた応天門の変では源信が応天門に放火したと虚偽告訴まで行っている。

 

 これらの経緯から察するに資盈の善男は悪漢であるという読みは当っていたのだけれども、悲しいかな、文徳天皇は伴善男を信じてしまった。資盈の末路はその伝えるところ、筑紫の配所に追いやられることになった、あるいは追討の兵が差し向けられた、またはその両方とされている。

 

 そういうわけで妻である盈渡姫を連れ親子と家来たちと大宰府から脱出あるいは移動することになった資盈たちは途中暴風に遭って散り散りになり、三崎の地に流れ着いたということらしい。

 

 その後は海南神社が伝える通り、土地の豪族の世話になりながら住民たちを教化し、周辺の海賊を征伐した。そして漂着から2年後に資盈夫妻が没すると、今の三崎港にほど近い花暮と呼ばれる海岸に里人たちの手によって祠が立てられ祀られるようになった、という顛末である。

 

 

 なるほど、なるほど。虚偽によって九州から三浦半島まで流される羽目になるとはあまりに無念であろうし、かような境遇の中で見知らぬ地に骨を埋めることになるにも関わらず里人のために尽くしたとなれば、2年という短期間にあっても祀られるだけの理由としては十分だと思える。

 

 しかし、日本史は皇位継承に関わる話がとにかく多いとは思っていたけれど、ここ三浦の地でもそれを拝むことになるとは。皇位の断絶に焦る今と、継承権争いに際して血で血を洗う過去の良し悪しなど決められないとはいえ、当事者よりも周辺の方が熱心であるのは変わらないらしい。坂口安吾が喝破していたように、これこそが悪しき意味での日本らしさと思えてならない。

 

 きっと資盈以外にも伴善男に貶められた有力者が他にも数え切れないほどいたに違いない。また、このような出来事は伴善男のみならず、あらゆる時と場所で起きていたのだろう。

 

 彼ら彼女らもまた資盈と同様に日本の各地に離散し、その土地に定着したり、中央の文化を広めたりしたのかもしれない。そのように考えると、神性を感じられるかどうかは別として、当時の人々を偲んで手を合わせるのはごく自然なことのように思えてくる。

 

 が、文献を訪ねる中で気になる記述があった。海南神社の起りは資盈夫妻以外にまた別にあるらしい。

 

 ひとつは、三崎の浜に「うつろの船」で漂着した神様があり、海で藻狩りをしていた里人がこれを拾い上げて、その神像を海難神社として祀った。この社が海の南に向いていたため(今の海南神社もそうだ)、転じて海南神社と改められた。「うつろの船」とは虚船と記される、日本各地の民族伝承で漂流が確認された乗り物のことで、絵巻などで伝わるところの姿形はクラシカルなUFOによく似ている。

 

 ふたつめは資盈の死後百年余り経った天元五年、西暦982年に元は補陀落山海潮寺のあった場所に創建されたというもので、こちらが定説であるそう。花暮の祠をこちらに移転したとする向きがあり、そうなれば観音菩薩信仰と合流したといえる。

 

 現在の海南神社が藤原資盈公と盈渡姫を本殿に祀り、それ以外にも大物主大神や天照大御神ほか多くの神様を祀っている大所帯であることから上記のいずれもが正しいルーツで、この土地に根付いた信仰が各時代この神社に集合していった、ということなのかもしれない。

 

 おやおや。これはまあ、楽しい。とても楽しい。

 

 こうやって調べてみてもやはり曖昧な部分は多いけれど、それは腑に落ちない違和感を伝えるというより、解釈の余地を残してくれているように思える。

 

 何も歴史の隙間が全て記されている必要はなく、全てが同時にあったかもと思わせられる方が面白いじゃないか。十二分に観念的な人間が遊ぶ広さがある。

 

 辞書を引き引き、知らなかった単語を探るのも楽しい。これではるか先生や観音さんの前で恥をかく確率も下げられたら儲けもの。

 

 正直なところ、怪しげな伝承を紐解いてみようという罰当たりな気持ちがあったのだけれども、思いのほか楽しんで、世界に浸ってしまった。

 

 つまるところ、日本史もまた、わたしの食わず嫌いだったということだ。 

 

 霊感はどうにもならなくとも、拝む気持ちくらいは持てるようでありたい。

 

 

(和解せよ! 続く)




<参考文献>
下里岬友散人、『みさき案内 5版』1920年、三崎名所案内発行所。
『三浦郡神社由緒記』1935年、三浦郡氏子総代会。
内海延吉、『三崎郷土史考』1954年、三崎郷土史考刊行後援会。
『三浦半島の口碑伝説百選』1958年、横須賀文化協会。
「海南神社について」、(https://kainanjinja.jp/about/index.html)、2026年7月16日閲覧。
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