幾ばくか神妙な気持ちを得たわたしは貸切り状態の境内をぶらぶらと見て回る。
派手なタッチモニターに次いで目に入るのは入口から見て右手の巨木——大きな大きなイチョウの木、源頼朝公手植えのご神木だそうだ。頼朝公とはまた大物が出たなと思ったけれども、どうも本当のことらしい(疑ったわけではないのです)。
巨木は植えられたところから手前に張り出していて、枝の一部が奇妙に丸く膨らんで垂れ下がっている。なんでも、これを女性の乳房と見立てて、触ると乳が出るようになるとされているらしい。
イチョウは多くの実をつけるため子孫繁栄に結びつけられる。それが転じたものなのだろうけれど、うん。枝を触って乳が出るというのも考えものだ。ホラーである。はるか先生には無用だろうけれど、わたしはちょっと触っておこうかな。
それはそれとして、三崎が観光地化したのは鎌倉時代からだったそうだ。あまり考えたことがなかったけれど、地図を見れば一目瞭然。鎌倉と三浦半島の距離からすると、それは自然なことだったのかもしれない。
相模湾を背に建立された鎌倉幕府。海を臨めば見えるのは大島、伊豆半島、それに三浦半島となる。歴史と地理、併せて見るとこうも面白い。これこそわたしが興味関心のある人の目から見た歴史じゃないか。
ご神木を横目に短い階段を駆け上がると、すぐ正面に本殿がある。本当にコンパクトな境内だ。
小銭を投げ入れて、二拍一礼。
神との繋がりが稀薄なわたしにとって、この行為は他人の真似事であり、あるいは真摯な祈りでもある。
願うのはいつも家族の健康と安全。多くの物語が身にふさわしくない願いはやめておけと告げている。だからこれくらいであれば神頼みにちょうどいいんじゃないかという妥協。
その上で、お祈りの前にいつも心で口にする一節がある。
「もし聞こえているのなら、もしわたしが見えているのであれば」
存在に確信がないものに祈るのは、確信しているものに対して祈るのと正反対で、より大きな気力を必要とする。つまり、容易くない。
学生時代に聞きかじったゲーム理論によれば、神の存在はその実際の有無に関わらず信じる方が得だそうだ。存在するならば信じた方がご利益があるし、存在しなくても損はしないから。信仰とはそういうものなのかしらんと、あの界隈の人々に対して眉をひそめたものだけれども、言いたいことはわかる。
しかし、確信を持つことができないものに対して信じているポーズをとることはできても、内心ではやっぱり信じることができていないわけだから、ご利益は望めなさそうなものだ。
そのような意味でわたしもゲーム理論の信奉者と大して変わりない。
わたしの祈りは空虚である。
それは先祖の霊に対しても同じだ。
わたしが小さな頃になくなった祖父母に手を合わせる時でさえ、どうしても「もし聞こえているのなら、」と心に出してしまう。
お盆などで胡瓜や茄子やらの乗り物を用意して、火を焚いて目印を示していても、彼らがわたしの元に着ているのだという感覚を信じることができない。
このひねくれた感じはいつから始まったのだろう。思いあたるのは、祖父の死だ。
父からの祖父はわたしが小学生低学年の頃に亡くなった。祖母の数年後だ。厳しい人だったけれども、物心がついて生と死の概念を把握して初めて亡くした人だった。
訃報を聞いた時、なぜかわたしは彼がまだ死んでいないと思った。ショックに対する防衛反応なのか、あるいは単に葬儀に関する諸々の儀式を子供心に嫌っていたせいかなのかはおぼえていない。
けれど、この否定が、彼の死を拒絶することで彼を生かそうとした考えが、霊的なものとわたしの繋がりを絶った気がしてならない。答えはわからない。
わたしは今後も、信仰心のないまま、神さまの存在を感じることができる瞬間に期待して、追い縋るだけなのだろう。
あまりにも場違いなことを考えながら、わたしはもう一度礼をした。藤原資盈公だってこんな人間に手を合わせられても困惑するだろう。
本殿から背を向けようとすると、敷地の端、崖の斜面に小さな階段があることに気付いた。近くに寄ってみると、本殿より更に上にも何かを祀っているらしい。わたしは近くにあった説明書きを見落としたまま、階段を上った。
かわいらしいサイズの社がある。弁財天が祀られていて、大漁満足、海上安全、あるいは芸に関するご利益があるらしい。効き目がある芸事の例が列挙されている。が、文に関するものは見当たらなかった。
まあ仕方ないのかな。文芸という奇々怪々なシロモノは言葉として文の芸を示しているとはとても思えないし、かといって他に適当な言葉もあまり見当たらない。言葉を扱っているにも関わらず、だ。
とはいえ、これも縁だと誰かは言うだろう。わたしはわたしがこの社に気付いた縁を遮二無二になって妄信するつもりで、ここでも手を合わせることにした。もちろん、「もし聞こえているのなら、」は忘れない。
そろそろお暇するとしよう。時間は余っているけれど、神域にいる方がむしろ神的世界での孤独が深まる一方なのだから。
すると、斜面を下りた先、階段の前に先ほどまではなかったものがあった。
いや、正確にはいた。
ネコだ。世話をされているのだろうか、ふっくらと毛並みのよいオレンジ色のネコがこちらを眺めながらちょこんと座り込んでいる。茶トラと呼ぶんだっけ?しかしこのネコは縞模様がなくてオレンジ一色だ。
ネコの目に警戒の色は見えないけれども、どこか観察するようでいて、見通されているようで、気まずい。別にネコに対して気まずく思う必要なんてないはずなのに。あれ、そもそも境内って動物がいても大丈夫なのだっけ?寺社のどちらがダメだった?
先にも港をぶらついた時に何匹もネコを見かけた。でも、このネコは特別なようだ。毛はつやつやとしていて整えられているし、病気とは無縁であろうくらい状態がいい。
陽の光を浴びて薄く発光しているようにさえ見える。ふかふかの大きな毛玉、ボールのようだった。本殿の前、階段を塞ぐようにして座り込んでいる。香箱座りだ。
わたしが階段を下りて近付いても、ネコは全く動こうとしなかった。むしろ動転しているのはこちらの方で、わたしの困惑を知ってか知らずか、ただじっとこちらに目を向けている。
わたしがこうも慌てるのには理由がある。ネコが苦手なのだ。
苦手といっても嫌っていたり怖くて逃げ回ったりといった類のものではなく、ネコたちの性分と気性がどうにも合わない。
彼ら彼女らがいったいぜんたい何を求めているのかが、いつもさっぱりわからないのがもどかしいのだ。人間のわからなさも大概ではあるけれども、物をあげたり遠ざけたりすることで距離を調整することはできるし、不格好ながらもコミュニケーションは取れる。
でもネコはそうはいかない。気まぐれであることがネコに搭載されたOSの第一法則なのはわかっている。でも、それがわたしはどうにも。
ああ!寄ってくる!
とうとうネコはわたしに関心を持ったようで、触れる距離までずいと近付いてきた。無視するわけにもいかない。わたしがぎこちなくしゃがみ込んで顔を近付けても逃げようとしない。
「こ、こんにちは」
何をやっているのだろう。わたしはバカみたいに正直に挨拶した。ネコはうんともすんともにゃあとも言わず、ただじっとこちらを見つめている。
わたしは撫でてみようと手を差し出して、でも引っ込めた。誰かの飼い猫であれば勝手に触るのはよくないだろうし、そもそもこのネコが撫でられることを求めているのかよくわからない。
それに、境内の中というのも手伝って頭が触れるのに「待て!」したのだ。
古今東西、触らぬ神に祟りなし、である。
数多の物語が身体的な接触を起点に、様々な厄災を登場人物たちにもたらしている。理不尽なものでいえば目に入った瞬間に条件が達成されてしまうものもあって、そうであればもうわたしは終わっているのだろうけど、それでも余計なことをするのは避けたかった。
わたしがぎくしゃくした動きを見せてもネコは変わらないままだ。お腹が空いてでもいるのだろうか。
「ごめんね、今あげられるものは何も持っていないの」
やはりネコは答えない。
いずれにせよ、わたしが手ぶらであるのは事実で、触ることもできない以上、わたしがネコにしてあげられることは何も見当たらなかった。
何を求められているのかがわからない。何を期待されているのかも。あるいは、何も期待していないのに近付いてきたのかもしれない。これだからネコが苦手なのだ。
「そういうわけだから、ごめんね。ばいばい」
とにかく居心地が悪いわたしは、先に思い立った通りに境内を後にすることにした。
階段を下りて敷地の外を目指す。が、ネコがなぜか付いてくる。これには参った。にゃあともナーとも言わずに、ただしっぽを立てて振りながら付いてくる。
食べ物の匂いでもさせているのだろうか。確かに先刻マグロを頂いたけれど、犬じゃあるまいし。いや、猫も同じだったりするのかな。だとすると、期待させるのもかわいそうだ。
わたしは小走りでネコから逃げた。しかし同じ速度でぴたりと走り寄ってくる。
猫好きなら喜ぶシチュエーションなのかもしれないけれど、わたしにとっては恐怖だった。
嫌だ、嫌だ!どっかにいって!
何を求めているか示してもくれないのに追いかけ回されるなんて御免被る。そうやってこちらに意があるように思わせて、最後にはわたしが悪いといった態度で、がっかりした表情で立ち去られるなんて嫌に決まっている。
手でしっしと払うのも憚られるものだから、わたしは着物の裾を掴んで逃げるように駆け出した。巨木を抜け、案内板を横目に走る、走る。鳥居での礼もそこそこに、境内から射出されるように飛び出した。
20メートルほど離れただろうか。突然のことで息を切らしながら振り返る。
よかった、流石に付いてきてない。
けれど。
ネコはいた。鳥居の真下に座って、じっとわたしのことを見つめている。
寒気がした。得体の知れない感覚があった。額を流れる汗は走ったせいではない。
やっぱり触らずに逃げて正解だったんだ。あのネコはただものじゃないのだ。本当にネコなのかどうかも怪しいところ。
いいや違う、あれはただの猫だ、ただの猫。でも、それではなぜわたしを追いかけてきた?なぜ鳥居の外まではついてこない?
神域の中で手を合わせながらも、神さまとの巡り合わせがないと不平不満を垂れ流し続けたわたしに、それこそ神が遣わせたのだろうか。ならば見せてやろうと。あるいは、これでも触って気を紛らわしたまえと。そうとなれば、わたしの呼びかけは終ぞ実を結んだことになる。望んだ形とは言えそうもないけれど。
いやいや、神さまの存在が有だとしても、急に呼びかけに応えるわけがない。神を試してはならぬと言うじゃないか。試して出てくるものじゃあないんだ。というより、それを信じていなかったのがわたしじゃないか。きっとあのネコは境内で飼われているんだ。だから外に出ないだけに違いない。
わたしに寄ってきたのもただのきまぐれに過ぎない。ネコはそういうものなのだから。
思えば、猫も神様も似たようなものだ。近くにいるのに気まぐれで、問いには答えてくれないし、何を期待しているのかわからない。だからわたしはどちらも苦手なんじゃないか。
わたしは立ち止まって凍り付いたまま、鳥居の下に座るネコを見続けた。視界の外に出すのが怖くなったのだ。
そのままあれがネコなのかそうでないのか、思考の渦に没頭していると、後ろから二人組の女性が近付いてくる。ふたりは海南神社に向かっているようだ。
若い女性たちだ。学生ではない。でもいかにも今風な感じで、ネコがいたらきっと喜んで撫でるに違いない、そんなふたり。
が、事は起きなかった。
ふたりは足元にいるネコに気付かなかったかのように素通りして、境内に入って行った。
わたしは。
わたしは、それを見届ける前に走り出していた。
もうたまらん。これは、とても手に負えない。
こうしてわたしは、慌ただしく海難神社を後にした。
旅行から帰っても、あのネコが何だったのか、頭の奥底に考えがこびりついて消えない。
(和解せよ! 終わり)