わたしは0次会という遊びが好きで、自らが集まりを企画する際には決まって別に飲む会場を決めてしまう。
元は時間調整のために用意していたものであったけれど、今では0次会にふさわしい店が近くにあるかどうかで、1次会の場所選びが左右されるくらいに、個人的に重要視している。
それは、いざカンパイの音頭を取る前に飲んでしまうという一種の愛嬌や特別感を愛するが故でもあるし、2次会よりも人数や時間を管理しやすいという実務上有利な面も影響していると思う。
また、大勢と飲む時についつ酒量の増えがちなわたしが、高い酒をバカみたいに飲み過ぎないようにするための予防策かもしれない。それに観音さんやまひろのような素面でも舌がよくよく回る人種に対抗するため、暖機運転するためにも事前のアルコールは重要だ。
しかし、それらよりも何よりもわたしが嬉しいのは、0次会から付き合ってくれる人たちの存在だ。
どうせ1次会で集まるのは決まっているのだから、付き合いも何もないように思えるかもしれない。しかし、ある共通する目的をもったグループの集会であるのに対して、0次会はこれといった目的を持たないという違いがある。別に時間調整なんてこの時代、いくらでも他に手段もあるはずだ。
ゆえに、この0次会にわざわざ足を運んでくれる人は、わたしの個人的なつまりに賛同して来てくれるのだ。と、わたしは勝手に思い込んでいる。だからこんなわたしに付き合ってくれる人が可視化される0次会がたまらなく楽しいのだ。
もちろん、来てくれそうな人が興味を持つであろう店選びに余念はないわけだけれど、わたしの思い違いなのかもしれないけれど、誰かが「0から行くよ」とメッセージを送ってくれた時、会場でドアチャイムが鳴って知り合いの姿を認めた時、わたしはとても嬉しくなる。待ち人来たり、と。
最近ではありがたいことに、わたしの性癖を知ってか知らずか、はるか先生や観音さんを含めて少なくない人が0次会から集まってくれるようになった。
観音さんに至っては、はじめからわたしの意図を見抜いていたのか、はたまた人の気持ちを掴む方法を心得ているからなのか、随分前から付き合って貰えていたのだけれど、二人が揃うとまあなんとも得意な気持ちになるのだ。
忙しいのを押して足を運んで貰う申し訳なさより嬉しさを優先する身勝手さがわたしにも備わってきたのだとみえる。
◆◆◆
この日も、はるか先生と観音さん、そして同輩である沖野まひろも揃って0次会に集まってくれた。昨年にあった用宗での小旅行以来、不定にこの4人で集まるのが習わしになり始めている。1次会と同じメンバーなのだから0次会なんて、と無粋なことももう言われない。
「お疲れ様です!」
まず観音さんが現れると、わたしは自分でも呆れるくらいにテンションの高い嬉しそうな声をあげた。一杯先に飲んでいたからだ。
数年前であれば、いや、昨年くらいであれば、あの先生方より先に飲んでいるなんて考えられなかったけれど、今は少し違う。カンパイを待たなければ失礼になるほど、緊張のはらんだ間柄ではなくなったし、酒飲みの作法もおぼえたのだ。
先に着いた人が水だけを前に待ちぼうけをくらうのは忍びないし、一杯飲んで味の感想を伝えるくらいが望ましい、はず。何より1次会ならヒンシュクを買うかもしれなくとも、ここは0次会だ。細かいルールを持ち出す方が野暮というもの。ナメてるなんて、そんなわけありません。
「またエラいとこを選んだね」
「でしょう?」
観音さんの「エラい」には「どうしようもない」のニュアンスが含まれていたけれど、0次会でホクホクしている今のわたしにはノーダメージだ。
会場は一風変わったビアバーで、店内すべてが真っ青に照らされていて、更に頭上にミラーボールが輝くサイケな空間。にも関わらず、店員さんは普通のバーよりもやたらと丁寧、親切ときている。ビールは観音さんたち好みのIPA系でかためられており、しっかりとした造り。1次会の店までは5分もかからない好立地と、選択に自信があった。
「ビールは悪くなさそうだね」
メニュー表をぺらぺらとめくる観音さんの姿を見て一安心する。
ほどなくして、はるか先生とまひろも続けて現れてカンパイの運びとなった。二人の反応が上場だったのも、また良し。全員が揃ったわたしはすっかり上機嫌になっていた。
近況報告から話題は飛んで飛んで、北海道へと移った。観音さんの故郷であることは言わずもがな、実はまひろにとっても第二の故郷のようなもので、この4人で集まると北海道は避けて通れない。
函館から北西に進むと日本海に面した江差という町があり、そこの夏祭りに参加するのが彼女の恒例となっていた。
「今日は羊羹のお土産はないの?」
わたしは口を尖らせてまひろに催促した。
この羊羹は江差の老舗、五勝手屋羊羹の丸缶のこと。羊羹といえば一般的には木枠に流し込まれて整形された、いわゆる流しの長方形のものが想起されるが、この丸缶は名前の通りに丸い筒に入っている。形以外にも、酸化を防ぐ昔ながらの知恵なのだろうか、筒の開放する側にざらざらとした砂糖がまぶしてあるという特徴がある。
スティックのりのように押し出して、付属の糸で薄くスライスして頂くのだけれども、わたしはこれにかぶりつくのがとても好きなのだ。手は汚れず、皿もフォークも必要ない。作業しながらでも頂けてしまう。推奨されていない、原始的な食べ方をするのもオツなもの。
ひとくち目に砂糖のコーティングを口に含んで、ジャリジャリと噛み締めると、それはもう幸福な気持ちになるものだ。
数年前にまひろの手土産で貰って以来、すっかりわたしは虜になってしまって、定期的にお取り寄せしているほどだった。構造上の問題か少し賞味期限が短いのと、それなりに良い値段がするために、こうしてまひろに始終ねだっているというわけ。
「だってあなた、自分でも買ってるじゃない」
「だからこそなの!」
「広瀬君もすっかり五勝手屋が気に入ったみたいだね」
観音さんは両手の指を開きながら腕をクロスさせてみせた。そう、五勝手屋羊羹は言わずと知れた、あの指貫グローブ御大の大好物であり、わたしたちはこのジェスチャーだけでもそれが通じるくらいにこの羊羹について話していた。あ、はるか先生が笑って少しむせてる。
「そうなんですよ、あのジャリジャリにかぶりつくのがよくって」
「また品のないことを。これだから若者は」
「えー!逆にちゃんと切って食べることなんてあるんですか?」
「それはもちろん」「うそ!」「うそじゃない」
わたしだけがバナナのように食べているわけではないはずだ。公式のホームページにも『糸で切る流儀もお楽しみください。』とあり、これはつまり苦言に近い気もするのだけれど、糸で切らない層の方が多いことを物語っているはずなのだ。
「はるか先生はどうですか?がぶっといきたいですよね?」
「私もお皿には出すかな、うん」「ええ、そんなあ」
そうしてわたしが先生方に食って掛かっていると、まひろが意外な助け船を出す。
「あの部分だけ売ってるよ」「え?」
「あの砂糖の部分だけ売ってるよ」「まじ?」
丸缶は1本で100gほどでボリュームがあるため、半分ほどに切られたミニ缶なるものがあるということは知っていたけれど、まさか、本当に?
皆の前であることも忘れて早速調べてみると、なるほど。まひろの言った通り、砂糖でコーティングされたあのアタマとも呼ぶべき部分が5mmほどにスライスされて販売されているではないか。
「これはすごい!こんなものがあるなんて。それに商品名見てくださいよ!」
はるか先生と観音さんにスマホの画面を向ける。
「『通好み』とはまた、なんともまあ面白い名前だね!」
二人がからからと笑ってみせる中、わたしはその場で上限まで注文してしまった。
「もう頼んだの?」「うん、10袋までしか頼めなかった!」
「頼み過ぎでしょ。そんなに好き?」
「それはもう。あのアタマの食感を味わうために食べているようなものですからね」
まひろの呆れ顔もなんのその、これは大発見なのだ。
「そうかそうか、そんなにジャリジャリが好きなのかい?それじゃあ当てて見せよう。あのカステラも好きなんだろう?」
「福砂屋!長崎カステラも大好きです!あの下の部分だけ食べたくって」
そこからは何が好きかを当てる遊びで大いに盛り上がった。
◆◆◆
好きなものの話題で盛り上がるなんて、いかにも健全で、当たり前のことのように思える。
けれど、こういったことを口に出せるようになったのは、わたしにとってはつい最近のことだった。振り返ると、わたしは好き嫌いについて公言することをずっと避けてきた。 好きはともかくとして、嫌いや苦手を口にすることが妙に憚られたのだ。
それは好きな人だっているという他人への遠慮が変形したものかもしれないし、出されたものは残さず食べるべきといった作法を強迫的に実践しようとしたせいかもしれない。道徳的な慣習が不合理な自縄自縛のルールへと変化するのは日常であるので、おそらく後者なのだろう。
あるいは、好きと嫌いについて人並み以下の低い感度しか持たないがゆえに、自らの嗜好を秘してきたのかもしれない。わたしは、これがなければ生きていけないというほど好きなものへの自覚がないし、これを受け入れるくらいなら死んでやるというほど嫌いなものへの自覚もない。
他人の好き嫌いへの表明やその烈度、特に最近の、いわゆる推しに対する熱狂、ファナティックな態度にはいささか、いや、かなり戸惑いをおぼえるのだ。
憧れといってもいいかもしれない。それほどに身を焦がすほどの何かがあるのは、さぞ快であるだろうと。そのような対象と衝動に親近感のないわたしは、わたしの生ぬるい好き嫌いを明かすことに居心地悪さを感じ、恥じてきたのだと思う。こちらの方が問題だ。強迫よりもタチが悪いのだから。
しかし、いずれにしても、最近になってこのわたしの悪癖は鳴りを潜めつつある。その原因は言うまでもなく、はるか先生や観音さんたちの影響だろう。彼女たちと過ごすにつれて、様々な気付きがあった。それは自分の好みよりもよほど彼女たちの好みをよく把握していることに限らない。
まず第一に、好き嫌いの表明は単にそれだけであれば、他人の快/不快に影響しないことがわかった。別に観音さんにわたしの好きなものを否定されても、ムカつくかもしれないけれど、不快には思わない。
もちろん、これは言い方や二者の関係性が大きく影響する問題であって、畢竟、全ての問題はそれらによって左右されるのが前提にあるとしても、好き嫌いはその範囲が共有されていなくても、それだけであれば至って中立的、ニュートラルな性格の話題なのだ。
同じ好きで盛り上がれないのは残念かもしれないけれど、どうして好きなのか、どうして嫌いになってしまったのかを話すだけでも会話を楽しむことはできる。なんとなれば、好みでないなら「このお皿もらっちゃいますね」と独り占めするチャンスだって生まれる。
そもそも誰にだって選り好みはあるのだから、それをひた隠しする必要もないし、TPOさえわきまえれば、礼に失するわけでもない。こんな当たり前のことにわたしは気付いていなかったらしい。
第二に、好き嫌いの表明は不幸な自己を避けて、おもてなしを成功させるためには不可欠だということだ。どれだけ感謝の気持ちを伝えたとしても、相手が苦手なものを贈ってしまっては、悲惨な結果が待ち受けている。
この点、観音さんはかなり開けっ広げに好き嫌いを表明しているので、これまでにも何度も地雷を避けることができた。例えば、特定のビールの銘柄のみしか取り扱いのない店は注意するとか、臓モツ系は避けるとか、甘いビールだけではダメとか。
これらの条件のせいで難儀したことがなかったわけではないけれど、助かる側面の方が大きい。お店選びはこの時代、無数の選択肢から1つだけを選ぶ実に厄介なタスクだ。そこにきて、こうしたブラックリストを通すと、かなり選択肢を狭めることができる。そしてもちろん、観音さん本人の好みにも合致しやすくなるのだから、あんとか懐柔したいと企むわたしにとってもウィンウィンであるのだ。
彼女のこの好き嫌いへの表明はもちろんキャラ付けの一環であるとは思うのだけれども、やはり当人の性格を考えると、この互いに良しな効果を狙って、敢えて積極的に発信しているのではないかと思うのだ。つまるところ、おもてなしの達人はもてなされるための術もよく心得ている、ということなのだろう。
第三はTPOにも関わるところで、好き嫌いを話すことができるのは、好き嫌いを話せる仲になりましたね、という意思表示になるということだ。
初対面でいきなり、わたしは〇〇が嫌いですなどど宣言すれば、たちまち「聞いてもいないのに、なんなのこの人」と距離を置かれてしまうに違いないが、仲良くなったつもりなのに、何が好きかも嫌いかも教えてもらえないのは寂しいものだ。
それらを明かすことは観音さんの例にあるように、もっと仲良くなるための一助になるわけであるし、また、インギンでなければならない段階が過ぎたという目印にもなる。
こちらについては、はるか先生の方が良い例かもしれない。はるか先生は元々、万人受けする気質で、人を遠ざけるような態度は微塵もみせないけれど、胸の内はやんわりと隠すところがある。
いつも隣にいる観音さんと対照的過ぎるから気のせいというわけではなくて、特に好き嫌いについては、かなり意図して表現を抑制している。彼女から受けた言葉をあえてそっくりそのまま返せば、『いい子ちゃん』なのだ。
だから最近までわたしもはるか先生の好みを掴み損ねていた。特に嫌いなものについては、未だにあまりわかってないかもしれない。それでも、「実はね」といった形で明かしてくれるようにもなって「そうだったんだ」と後になって腑に落ちる機会も増えた。
自覚的か無自覚かはわからないけれど、彼女の中にも伝えてよいラインというものがあるのだろう。はるか先生の態度と人との付き合い方は、同じく『いい子ちゃん』であろうとするわたしにとっては大いに参考になった。
こんなところだろうか。つらつらと並べたけれど、換言すれば、好き嫌いを口にするのは確かな効用があるのだと、ようやく気付いたということなのだ。
甘いビールが好きと放言を繰り返していると、甘いビールの情報をどんどん寄せてもらえる。なんたる僥倖だろう。
そして五勝手屋のくだりに入り、好き嫌いの連鎖がまた楽しい会話を生むことに気付くことができた、というわけだった。
◆◆◆
さて、0次会が狙い通りの結果となって舞い上がっていたわたしの好み談義に、まだ若干の続きがあった。
「本当に甘いものが好きなんだね君は」
「甘ければなんでもってわけでもないんですけどね」
わたしはアルコールが入って調子に乗ると、口のつがいが外れたようになる。言うつもりでないことも、口から飛び出してしまう。
「というと?」
「甘くても栗とかカボチャとかが実は苦手で」
「ええ、じゃあさつまいもとかも?秋の味覚が全滅じゃない?」
「そうなんです。パサパサもさもさしている食べ物が全般的にダメで。出されたら目を瞑って食べますけど、どうしても避けちゃうんです」
「わかった。つまり広瀬ちゃんはつぶあんよりこしあん派だね!」
「ですです!今はこんなんですけど、小さい頃は呑み込むのが苦手で、焼き芋とかカボチャの煮つけとか食パンに何度泣かされたことか。その影響なんです」
「それは中々に厄介だね」
「なんというか甘ければ何でもオッケーというわけではなくて、文脈とかコンテクストベースなんですよ。はるか先生ならわかってくれますよね?」
0次会が好きであるのと同じ理屈だ。モノが好きなのではなくコトが好きなのだ。そして先生の好き嫌いはわたしと同じで、場所や雰囲気や経緯に左右される気がしていたのだ。それゆえに、態度が曖昧なことが多いのだと踏んでいたのだけれど、わたしのウザ絡みに対して
「いやあ、どうだろう」
苦笑いでバッサリ。
それだけに飽き足らず、まひろは
「メンド」「うっ、この。それは反則でしょう」
余りにも鋭利な一撃を加えてきた。ギャルの「メンド」は「うざ」とか「キモ」の類語で深い意味はないけれど、単刀直入にグサリとくる危険なやつなのだ。
「いやあ前々から思っていたけど、本当に面倒くさいな君は」
この隙を観音さんが見逃すわけがなく、したり顔で追撃が入る。さらに続いて
「はるか君。どうして君の周りにはいつもいつも面倒な女ばっかり集まるんだろうね?」
「いやあ、ははは」
いつものわたしであれば、すっかり萎んでしまって大人しくなっていた。しかし幸か不幸か、この時は口のつがいはぶっ壊れたままであった。
「ふーん。もしかして、ああ、批判の意味はないんですよ。もしかしてなんですけれど。観音さんの自認って女性ではなかったり、します?いや、批判の意図は決してないんですよ、決して」
口のつがいが壊れている時には当然、周りの空気を読む目も壊れている。
「ほほう、言ったな?」「言いました」
「言ったな!?」「言いました!」
この後、0次会に限らず1次会が終わるまで、言いたい放題のボッコボコにされましたとさ。
好き嫌いの表明は、まだわたしにとって簡単なものではないらしい。
(好きと嫌いについて 終)