広瀬由希はままならない   作:ひろせとら

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クラフトビールとの向き合い方に、まだ踏ん切りがついてなかった頃のお話。


クラフトビール武者修行

 風変りでありながら逃げようもなく必然であった巡り合わせの果てに、地下の密室でビール愛好家たちの前に立つはめになった時、わたしはインプレッション会の誘いを安請け合いしたあの日の自分を呪った。

 

 わたしはクラフトビールが好きだ。そこに偽りはない。だけれども、その「好き」は人並み月並みなものだ。

 

 いわゆる「カレーが好き」や「寿司が好き」と同じくらいの単純なる「好き」であって、特別詳しいというわけでも、もはやクラフトビールを飲めなくなるならば命を絶ってやるというほどの気概のある「好き」でもない。

 

 愛好家を意味するカタカナ言葉のファンとは熱狂的や狂信者を意味するファナティックの語が転じた言葉、だそうだ。そうなると、わたしはファナティックな、つまりビアギークやビール愛好家の域にはとてもではないが達していなかった。

 

 そもそもビールに限らずお酒が好きなのかについてさえ怪しいところがある。ほとんどの蒸留酒を割らないと飲むことができないわたしはアルコールの味がてんでダメで、親しみを持つことができない。

 

 たぶんアルコールそのものを愛しているのではなく、人付き合いにおいて多分に酩酊感に頼るところがあるのか、ただ誰かと飲む時間が心地よいだけなのか、人と違うものを楽しむ悦楽を欲しているだけなのか、そのいずれか、または全てなのだ。つまるところ、コンテクストだ。

 

 ただ一つ確実に言えることは、わたしは第一線のファンでありマニアでありプロであるユイ・アラモード先生、高田ヨーコさん諸氏に対して「変なビール」を勧めるにしてはあまりにも「にわか」であった。

 

 そんなドのつく素人であるわたしがなぜ、ビールのインプレッション会で正客扱いされることになったのか。なぜ、ビールを飲むだけの集まりに対して長々と、むやみに深刻そうな言葉を書き連ねているのか。わたしにとっては容易ならざる理由があったのだ。

 

 発端はわたしの稚拙な小説がヨーコさんたちに見つかる少し前にまで遡る。

 

◆◆◆ 

 

 わたし、広瀬由希は作家の手習いとして、春河童こと天野はるか先生、そして月ノ瀬観音さん両氏の周囲をうろついている野犬である。実のところ、この二人との関係はこの期に及んでも判然としないところがある。

 

 友達であるのか緩やかな師弟関係であるのか(苛烈ではない師弟関係など成立しうるのかは別として)、わたしが曖昧な態度のままあまりにも方々をふらふらとしているものだから、見放されるか処分されるかギリギリの関係が続いている。

 

 クラフトビールのそれと同じく、創作については年季もかけてきた情熱も、また力量も比べるまでもないので、二人の近くにいるとわたしの心中はいつも穏やかではなかった。

 

 これが知り合いでもなかったら、彼女たちの一挙手一投足、言の葉の隅々にまで一喜一憂することなどなかったはずだ。雄大な山々は遠くから眺めるにはその景色で目を楽しませてくれるけれど、裾野に立つと一面に広がる混沌とした藪と道なき道によって自らの矮小さをありありと突き付けられて、あの山を越える日など来るのだろうかと疑わずにはいられない。

 

 なまじ世話になってしまっているせいで、実力のみならず、わたしに何が足りないのか手取り足取り、いちいち自覚させられるので、彼女たちとの交流には喜びと同じかそれ以上の量の切なさが伴っている。

 

 そういうわけであるので、尊敬と愛憎によって生ぜられる鬱々とした気持ちに導かれて、わたしは何か意趣返しできる機会を無意識のうちに探し求めていたらしい。しかし、創作においては地道な積み重ね以外に逆転の手段はなく、即物的な結果は全く期待できない。そこで手段として選ばれたのが、変わったクラフトビールを飲ませて仰天させる、というものだった。

 

 必ずしも最初から不意打ちに似た意趣返しを狙っていたわけではない、と思う。始まりは珍しいビールが手に入ったので一緒に飲みませんか?という他意のないお願いだった。

 

 今思えば、ユイ先生の著作を読んだ後に、野次馬根性丸出しで日本初入荷の輸入ビールを買いあさり、しかし自分は特段ビールを飲みまくる方でもないので山のような缶の扱いに困り、はるか先生に会う理由に転用した、といった全く不純な動機を抱えていた。

 

 こうして開催される運びとなったクラフトビールを飲み比べる会、通称ビール会において、ただ美味しいビールだけを持っていっても面白くない。変わったものを混ぜてみようと思い、スムージーサワー等の既存のビール概念から離れた色物を持ち込んだのだ。

 

 このスムージーに対する反応が思いのほかによかった(悪かった)ため、それに気をよくしたわたしは、不定期に開催されるビール会に必ず変わったビールを持ち込むようになった。

 

 ビール会のよいところは注がれたビールは中身がどんな色でも粘性でも飲まなくてはならないという暗黙のルールがあることで、わたしはこれを利用(悪用)して、飲む湿布として知られるルートビア味のビールやケーキを投入したビールを半ば強引に飲ませてきた。

 

 都度わたしを叱りつける彼女たちでさえ、わたしがそういった普通ではないビールを持ち込むことを期待していたに違いない。正解のビールだけを飲みたければユイ先生に依頼すれば安全かつ確実であるわけで、わたしは求めに答えていただけとも言えなくはない。

 

 とにかく、もはや不愉快な出来事を強制されることのない立場に存するはるか先生と観音さんがビールによって苦しんだり怒ったりする姿と、それを可能にしているわたしという虚像は、いつも仄暗い悦びを与えるものだった。

 

 自己憐憫に酔うわたしには他者への加虐という嗜好が存在しないため、その心理はつまるところ好きな人に対して意地悪をしてみたくなるという、幼少期に卒業してしかるべき極めて児戯めいたものだ。尊敬する人と好きな人を混同している点では、幼児よりもタチが悪い。

 

 この広瀬由希の喜悦を、月ノ瀬観音その人はルサンチマンだと早々に看破した。

 

 そう、ルサンチマン。キルケゴールが言及し、ニーチェが具体化した概念だ。

 

 本来の意味では、そこで議論されているのは非常に前物質的な善と悪、強者と弱者、貴族と奴隷の観念であって、わたしのクラフトビール云々とは似ても似つかないのだけれど、なるほど、全体的な構図には近いものがある。

 

 かいつまんで言えば、ルサンチマンは決して負かすことのできない強者に対して弱者が価値の転換によって勝利を得ようとする試み、となる。

 

 創作ではどうしても二人に勝てないのでせめてビールでぎゃふんと言わせてやろうというわたしの魂胆に、——自分でまとめると情けなくて哀れで頬に水が伝うのを禁じ得ないが――、まさにぴったり一致している。

 

 つまり、わたしのクラフトビールを選ぶ基準と、クラフトビールとの付き合い方はルサンチマン精神に端を発しており、ただ利になる部分を利用しようとするだけの不純極まりない消極的な手段であって、ビールを愛してやまないユイ先生やヨーコさんたちの積極的で眩しいほどの質朴さとは根本的に相異なるわけなのだ。

 

 であるから、以上のような経緯を短い散文にしたためてからしばらくして、ヨーコさんとユイ先生にわたしのチョイスした「変な」ビールのみのビール会をやろうと同人誌即売会の会場で誘われた時、わたしはうまく話を吞みこむことができなかった。

 

 わたしにとって初めてサークル参加する即売会であり、本を手に取ってもらえるか否か以上に、何をどうすればいいのかわからず開場から間もなく途方に暮れてフリーズしかけていたことろ、本を求めにきてくれたのがヨーコさんだった。

 

 初めての本を手に取ってもらえた時の万感に至る感謝の気持ちと、相手の背から後光が投射されているかのような幻視は、わたしを激しく混乱させていた。

 

「広瀬ちゃん?はじめまして!高田ヨーコです。ユイ先生からもお噂はかねがね。ビール会のお話、とてもよかったのでウチでもぜひご一緒させてもらいたいなって。もうね、夏の本はわたしと広瀬ちゃんで決まりなの!」

「はい、はじめまして!はい?ありがとうございます!ありがとうございます?ありがとうございます!ありがとうございます…」

 

 誘ってもらった時点でヨーコさんの指すビール会がどのようなものになるのか、私に何が求められているのか、想像力を巡らせればよかったのだけれど、わたしは始めからモーロ―としていて、言葉をまるで咀嚼する余裕もなく、ほとんど反射的に二つ返事で承諾したことだけをよく覚えている。

 

 友人関係の希薄さゆえに人から何かに誘われる機会が滅多にないものだから、その場限りではいつも調子のよいわたしは浅慮速断、舞い上がってしまったのだ。

 

 開催は日程の調整や会場の都合から数カ月先になるとのことで、何事も先延ばし主義のわたしは大分余裕があるなとしばらく呑気に構えていたものの、何を準備するか、何が起きるのかという段取りを考え始めると、大変なこと、身の丈に合わない約束をしてしまったことに気付いた。

 

 わたしがさほどクラフトビールに詳しくないばかりか、わずかばかりの熱意でさえも歪んだものであることは先に述べた通り。しかし、それだけではなかったのだ。

 

 来るビール会までにヨーコさんたちやユイ先生に会う機会が何度かあった。これがよくなかった。わたしの中で不安は解消されるどころか、確信へと変わっていったのだから。

 

 ユイ先生の全身がクラフトビールで稼働していることは知っていたものの、ヨーコさんたちもそれに負けず劣らない。それどころか、クラフトビールとビールを通した人との繋がりに対する情熱は、ユイ先生をも超えているかもしれなかった。

 

 春先に開催された即売会にいくつも樽を運んできたヨーコさんたちを見て、ぞっとしたものだ。方々のブルワリーに約束を取り付けて、機材まで用意して彼女たちイチオシのビールを繋いでいた。樽はわたしも用意しようと調べたことがあるけれど、貸出から返却まで目を剥くような作業があり、とても個人では扱えないと諦めた。それを複数捌くのだから、これはただごとではない。

 

 何度かビアフェスに参加し、ブルワーの方々の話を聞いたことで、クラフトビールが単なる嗜好品の枠を超えた、自己表現の形式であること、また人と人をつなぐ可能性を秘めていることはぼんやりと理解していたものの、彼女たちは更にその枠を押し広げようとしている。

 

 これには参った。単なる銘柄についての知識のみならず、パッションの面でも、とてもついていけるような、一朝一夕で真似できるようなシロモノではない。

 

 はるか先生と観音さんだってクラフトビールが好きで詳しいけれど、これほどまでではない。わたしはその間隙を縫って利用していただけに過ぎず、彼女たちホンモノには遠く及ばない。

 

 年間千種(!)もクラフトビールを飲むのは人間ではない。化生の類である。怪物たちを相手取って、付け焼き刃のわたしにいったい、何ができるというのだろうか。いや、できることはないに決まっている。

 

 正直なところ、ビール愛好家の人々のことをわたしはまるで理解できていなかったし、彼女たちとの距離を感じないわけではなかった。

 

 クラフトビールの多様さとカルチャー、そして何より嗜好品としての味のよさについて疑うところはない。が、彼ら彼女らのビールに対する並々ならぬ執着と関心には埋められない溝を感じていたこともまた事実だ。

 

 目の前のビールについて熱く語る時のただならぬ雰囲気、語彙の特殊さ、往々にしてみられる並外れた行動力はなんだか同じ生き物とは思えない隔世の感があるし、ビールをどこか神聖な趣味として扱うところに親しみがもてなかった。

 

 趣味は趣味、酒は酒でそこに高いも低いもないはずだ。クラフトビールを普通のビールより、あるいは他の趣味より高度なものとして崇めているようにさえ見える信仰めいた信条はわたしにとって必ずしも好ましいものではなく、関心を持ちつつも、あまり近くで覗くと抜け出せない場所まで呑み込まれるのではないかという気さえした。

 

 ユイ先生はその典型かつ極北で、ビールについて語り始めると相手が他人だろうと空いたグラスだろうと神話や政治や哲学その他すべてを巻き込んで、人類史と地球をぐるっと一周回っても、まだ自分がぶっ倒れるまで話すのを止めようとしない怪人物。

 

 ヨーコさんも負けず劣らず、ユイ先生に比べればだいぶ常識人には見えるけども、「ビールとの出会いの幸福を演出したい」と据わって目でいわれてしまうと、こちらも身構えざるをえないというものだ。

 

 地下部という名前も、それが物理的な位置関係を示しているとしても、はなはだ不穏に聞こえる。古今東西、名前に地下と付く組織は反体制的でかつ革命的な精神に染まっていると相場が決まっている。とんでもない人たちに見つかってしまったなと戦慄した。

 

 生来から臆病で卑怯なわたしは不利な場面やアウェー、勝てない勝負は本能的にも能動的にも避けて生きてきた。だからわかるのだ。勝てっこないと。もちろん、これは勝ち負けの話なんかじゃない。楽しいお誘いの話なのだ。

 

 訂正。勝ち負けではないけれど、勝ち負けではあった。

 

 いや、わたしは物分かりのよい方でも、「本来勝ち負けではないんだから」と自分に言い聞かせられるほど柔軟な人間でもなかった。認めなければならない。わたしにとっては勝ち負けだったのだ。

 

 わたしはユイ先生とヨーコさんたちと争っていた、争いだと思い込んでいた。しかし、彼女たちの影と。わたしは彼女たちと張り合いたいと願う捻じれた自尊心と未知の人びとに対する恐れから、自らのうちに彼女たちの影を生み出し、それを本人と同一視していたのだ。負けず嫌いとルサンチマン、最悪の組み合わせ。暗闇で自分自身と殴り合う滑稽さ。わたしはそれだけ思いつめた。

 

 加えて、勝ち負けよりも辛かったのは彼女たちから向けられているのが期待であったことだ。

 

 これが期待ではなく、わたしの付け焼き刃的知識とルサンチマン的動機を暴いて恥をかかせてやろうという悪意であったなら、まだ対処のしようがあった。悪意は受け手次第でいかようにも凌げるもので、わたしがそれをどうにか吞みこめばよい話なのだから。

 

 しかし期待は、期待感はそうはいかない。

 

 期待は相手側から発せられる光であって、受ける側はそれを捻じ曲げ、躱すことはできない。ただ照らされるのみである。光から隠れようとする試みはすなわち、背信あるいは裏切り行為であり、わたしは立ち向かう勇気と同じく、逃げ隠れする胆力もまた持ち合わせていなかった。

 

 ヨーコさんは会うたびに「期待しているよ!」とお世辞でもなく、恐らく本心で声をかけてくれる。まさか「それがこわいんだよ!」と返すわけにもいかず、わたしはただ口ごもるだけ。冷や汗ものだった。

 

 わたしは困った。ほとほと困ったし、この困惑と焦燥は当日まで解決しないだろうと早いうちに確信した。

 

 とはいえ、いくら焦ってもアマチュアにできることは多くない。

 

 がっかりさせたらどうしようという不安と、しかしどうしようもないという諦観が行ったり来たりして、最終的にはいつもの「ええいままよ」の精神で自分自身をも押し切ることになる。

 

 持ち込むビールの選定は予想通りに難航した。

 

 はるか先生や観音さんに飲ませたものが手に入ればよかったものの、クラフトビールの世界は一期一会、有名なブルワリーであっても半年も経つと同じ銘柄を手に入れるのは困難になる。

 

 特にわたしが頻繁に利用するアメリカのブルワリーは、入荷の時期や頻度が不安定で、これまでに選んだものを頼ることが一種のみを除いてできなかった。

 

 また普段のビール会は一応、建前上は美味しいビールを飲むというのが趣旨であるので、半分ほどはその時期に話題となった評価が高いビールを選ぶだけで済んでいたのだ。これが15種近く、すべてわたしの趣味で選ぼうとすると、思いのほか大変だ。

 

 わたしが特に好むスムージーやちゃんと甘いビールは手掛けているブルワリーが知る限りでは少なく、決まった時期に似たり寄ったりではない種類を集められるとも限らない。

 

 ユイ先生に助けを求めればよかったものの、後の祭り。「わたしの選んだ変なビール」という会の趣旨に反するのではないかという妙な几帳面さと必要のないプライドを発揮して、誰にも相談できなかった。

 

 迷ったわたしは、選定をぎりぎりまで粘り、とにかく各地からかき集めることにした。

 

 奥の手も使って、いつ買ったのか忘れてしまっていたビールも冷蔵庫から引っ張り出す。

 

 はるか先生や観音さんに出すのはさすがに躊躇って、でも自分だけで飲む勇気も起きず、手を付けられなかったシロモノたちだ。そのビールが何者であるのか、そも美味しいのかがわからないものを在庫処分の如く持ち込むことに若干の負い目を感じなくもなかったけれど、「変なビール」のインプレッション会なのだ。趣旨は違えていないと自分に言い聞かせる。

 

 白状すれば、ヨーコさんたちやユイ先生なら、どんなビールでも御せるだろうという打算的な考えもあった。

 

 わたしのような神経過敏な人間がいつも最終的に行き着くのは自暴自棄のヤケであり、わたしはヤケのままで当日を迎えることになった。

 

 こうして、わたしは彼女たちと相対することになったのである。

 

◆◆◆

 

 大遅刻をかまして辿り着いた会場は、ビルの地下につくられたこじんまりとしながらも雰囲気のよいバーであった。最近新装されたそうで、どこもかしこもピカピカ。暖色系の灯りに包まれている店内はいかにも居心地がよさそうだ。

 

 が、雰囲気のよい居心地のよいというのはあくまで後からの感想だ。普段は外から中が見えない店に寄り付かないわたしにとって、初めて入ったその地下は逃げ場のない袋小路であり、また自身がまさに窮鼠であるとしか思えなかった。

 

 さらに、会場として貸し出してくれた店のオーナーはヨーコさんたちと長年の付き合いだとか。アウェーとはまさにこのことで、心細いことこの上ない。見知らぬ土地での孤軍奮闘、絶体絶命。捨て鉢の覚悟は決めてきたとはいえ、しんどいものはしんどいのだ。

 

 ただこれだけではない。会場の心理的不利は序の口に過ぎなかった。遅刻を平謝りしながら持ち込んだビールのリストを配ると誰かが開口一番、

 

「割とどれも美味しそうだね」

 と呟く。追撃は止まない。

 

「変というほどでもないかも」

 わたしは思わず叫びそうになるのを必死にこらえた。ほら、言わんこっちゃない!わかっていたさ!わかっていたけれども!

 

 観音さんであれば見た瞬間に助走をつけて殴りかかってきそうなリストでこの反応とは。予想はしていたものの、実際に自分の耳で聞くと、やはりこたえるものがある。

 

「でも裏面は、広瀬ちゃんらしいスムージーとかあるみたいですよ」

 ユイ先生やヨーコさんのフォローが入るものの、その優しさが傷口にしみる。なにせ二人もまた向こう側なのだから。もはやわたしは敵地で捕えられ斬首を待つ囚人の心境にあった。

 

 執行人と衆人はひい、ふう、みい、いっぱいいる。その中でも特にクマのように大柄で圧倒的な存在観を放つ存在があった。緊張で息も絶え絶えになりながら初めましての挨拶をすると、しっかりとした名刺を、なに?ビアジャッジってなに?荒川氏なるこの人物は資格を持ったプロの審査員であり、まさにジャッジの役割として招かれたそうだ。

 

 聞いてない!わたしは思わずのけぞった。聞いてない!こんなこと!

 

 もうメチャクチャだった。勝ち負けなんてものは地平の彼方まで吹き飛んでしまい、わたしはもう平常心を取り繕う余裕もない。

 

 まったくとんでもない人たちに見つかってしまったのだ。

 

 ルサンチマン解消のためにクラフトビールを利用したことで、クラフトビールでも強者の前に引きずり出されることになるとは。なんたる因果だろう。そしてその因果ゆえに、わたしはこの場にいるのだ。

 

 それもこれも身から出た錆がこの身を蝕しているわけであって、わたしはこれもまた業だと腹をくくるしかなかった。

 

◆◆◆

 

 数時間にも及ぶ格闘の末、20種を超えるビールとの闘いをわたしは、わたしたちはなんとか制した。この経験によって、わたしはこれまでの認識を大幅に改める必要に迫られている。

 

 このように書くとあたかも洗脳を受けたようではあるけれど(地下の密室で長時間にわたって盃を繰り返し交わし、酩酊に身を委ねるという過程は外形的には洗脳のそれに他ならない)、とにかく、ビール愛好家である彼女たちの境地の真髄に手が触れた感覚はしかとあった。

 

 それは単にわたしのビール観を覆しただけではなく、自称文士としてのモノの見方にさえ多大な示唆を与えるものだった(洗脳ではない)。

 

 インプレッション会の進行は終始和やかな雰囲気で進んだ。

 

 開始前に少し殺気立っているようにさえ感じたあの雰囲気は、わたしが遅刻したせいで彼女たちが「燃料切れ」に近く、痺れを切らしていただけなのかもしれない。

 

 普段のビール会であれば不意打ちを喰らわせる側であるわたしも、担々麺やら龍角散のビールには文字通りに麺喰らい、始まる前の心配はどこへやら、驚かせる側も悪くないものだと心の底から楽しめた。

 

 また、わたしの用意したビールのほとんどは大した驚きも生まずに易々と飲みつくされてしまい、暖簾に腕押し、歯が立たない無力感に直面したけれども、それでもいくつかの銘柄は彼女たちを喜ばせ驚かせ苦しめることさえ果たせたために、差し引きでも十分おつりがくるほど気持ちは上向いたのだった。

 

 スムージーサワーはバリウムだのと一部辛辣な声があったものの、彼女たちにいわせれば十分美味しいし、こういうのだってたまにはわるくないとまずまずの評価だった。

 

 はるか先生と観音さんをカンカンに怒らせたことのあるヒノキのビールでさえ、「これを拒絶するのは狭量過ぎるのでは?」といった声さえ上がるほど。

 

「ほれ見たことか、天野はるか!月ノ瀬観音!ヒノキがなんぼのものじゃい!」

 

 意気揚々、わたしの高らかな雄たけびが地下に響き渡った。

 

 わたしにとっても予想外であったのは、かつてビール会開催の口実とした幻のブルワリーMonkishが最近リリースしたセゾン。これはいけなかった、本当に。飲めたものではなかった、いや、ビールであるかどうか以前に、飲料の範疇から逸脱しているものだった。

 

 野生酵母を用いたビールには発酵の過程でトイレのような臭気のガスが発生するものがある。このビールらしきものはそのようなかぐわしき香りにただ不快なだけの酸味がまとわりつく液体で、とうてい受け入れようもない味だった。

 

 興味深かったのは、こんなビールでさえも皆がどうにかして解釈しようと試みていたことだ。わたしは香りからして危険を感じ取り、自分のグラスにはごく少量しか注がず、そっと瓶を遠くに押しやったのだけれど、彼女たちは「これはひどい」としきりに唸りながら何度も何度も口に運ぶ。時間が経つと「温度で変わるかも」とトライし続ける徹底ぶり。

 

 わたしは圧倒された。総じて、彼女たちはどんなビールに対してもあらゆる角度、あらゆる方向性からの解釈を試みる。

 

 あんな食事になら合うかもしれない、こういうシチュエーションにこのビールがあったら楽しいよね、ビールよりもワインのつもりで味わった方が意図がわかるかも、等々。表現のバリエーションには限界がないようで、アルコールの回った頭ではもはや捉えきれない長口上が次から次へと飛び出す。

 

 その真摯さと熱意にはただただ頭が下がるばかりだった。

 

 ビール愛好家はファナティック、狂信者であるというわたしの認識は半分当っていて、半分誤りだった。彼女たちはビールを妄信しているわけではなく、姿を捉えようと必死なのだ。必死さゆえに、語りには当然熱が籠り、語彙は解像度を上げる道具として多様になる。その向き合い方にはアカデミックな感さえある。が、何事もそこまで入れ込むにはやはり熱狂が不可欠であるのでファナティックに見えても仕方がないのだろう。

 

 ただ、かのセゾンはさすがの彼女たちにも難敵であったようで、最終的には「何を作ろうとしていたのか忘れてうまくいかなかったので、取り敢えずオーク樽に突っ込んでおけばビールになるんじゃないかと期待されて、そのまま缶につめられてしまった何か」と笑えない結論に達していた。

 

 あのクマのような荒川氏も話してみれば昨今世間を騒がせている猛獣とは似ても似つかず、とても理知的で朗らかな好人物だった。酔い始めるとまるで当てにならないユイ先生と心の中で比べてしまったことは黙っていよう。

 

 プロだからこそか、ビールに対する評価は好き嫌いを判断に含めず無私に徹するシビアな部分があったし、緊張させられる場面は多々あった。でも、だからといって誰の意見でも突き放そうとせず、むしろ積極的に皆の意見を引き出そうとするオーガナイザーの役目も果たす。その姿はなんだか村の長老や預言者じみていて、しばし聞き入ってしまった。

 

 特によかったのは、そのビールが自分にとってどんなビールか示す一文、

 

「もう1パイント飲みたいか」

 

 目の前のビールに対して、これより端的に態度を表明できる文はないだろう。クラフトビールにとどまらず、文学的で、非常に含蓄がある。感心するばかりだった。

 

 わたしの不安や不純な動機に端を発する謝罪に対しても

 

「謝ることなんて全然ないんです。どんな意図だって構わない。だってクラフトビールはそれを受け止めきれないほど狭量なものではないから」

 

 どうだろう。わたしもその頃には相当に酔っぱらっていたので、一言一句が原文通りか全く保障できない。でも、大意はこんな感じだったはずだ。わたしの中にあった様々な逡巡は相対的には問題にならないというのだ。

 

 まことにあっぱれ、万歳三唱したくなるくらいに気持ちのよい吹っ切れ方。いったいどんな体験をすればクラフトビールに対してここまで全幅の、無限大なる信頼を向けられるのだろうか。ちょっとおかしいんじゃないかと思わなくもないが、しかし不思議と納得させられた。

 

 荒川氏に限らず、ユイ先生もヨーコさんたちも、わたしの態度を非難する人は皆無だったし、そのような雰囲気さえ感じることはなかった(単に酔ってわからなかっただけかもしれないけれど)。

 

 すべてが杞憂だったわけではない。しかし少なくとも、このビール会をわたしなりに乗り切ろうと必死になった結果はわかってもらえたのだろうと思う。荒川氏の言の通り、クラフトビールに対する彼女たちの熱の前には、わたしの悩みなど些事だったようだ。

 

◆◆◆

 

 彼女たちのように好きなものを好きと認めること、好きになることについて全て理解できたわけじゃないけれど、何かを好きになる方法と、知らないもの新しいものをどうにかして呑み込もうとする姿勢について、わたしには大いなる発見があった。

 

 好き嫌いは個人の価値の基準として大事であっても、それは必ずしも楽しむことを排除しない。苦手であることが予見されるものであっても、むやに遠ざけるよりは積極的に近付いてあらゆる側面を見出そうとした方が、それを最終的に嫌いになったとしても、無駄にならない。

 

 ヨーコさんたちビール愛好家に共通するのは、対象に積極に向き合おうとする姿勢だ。それは対象から距離を取って関わろうとしない拒絶と無関心の態度とは真逆で、そこによいもの、光るもの、輝く何かがあるはずだという信頼によって成立する積極さ。

 

 ただ、どんなものにでも評価できる可能性があるというのは楽観的過ぎるし、どうしようもないものにぶつかってしまうこともある。でも、そんな時でさえ、積極的に解釈しようとした努力は無駄にならない。実に様々な意見や感想が飛び出すその過程こそが重要で、何より楽しいものだから。

 

 そして、その積極さはクラフトビールに限られるものではない。お酒でも趣味でも、人でも。だからこそ、ヨーコさんはわたしという厄介な人格の持ち主にも声をかけたのだ。

 

 人でもモノでも距離を取ろうとする癖に支配されてしまっているわたしが、彼女たちに距離を感じ、おまけに胡乱にさえ感じたのは当然だった。あまりに眩しかったから。

 

 ビール会はわたしに嬉しい気付きも与えてくれた。この積極さの問題を解決するのは、実は難しくないと。

 

 知識があった方がよいのは当然であるけれども、なくても構わないからだ。重要であるのは、まずは腕を広げて受け止めること。自身の持つあらゆる記憶、思い出、感じたことを相手と繋げようとするちょっとした勇気。

 

 今まで関係があるとは思えなかった要素が繋がっていって、好きになれなくても、受け止められなくても、何か愛することのできる部分が見つかるかもしれない。わたしはやっとお酒とポエムの関係性を理解した。なぜワインの感想にアスファルトや塗装の剥げた遊具が出てくるのかずっと謎だった。それはこういうことなのだ。お酒の味はなにも液体の味だけではない。お酒によって引き起こされる頭と体の中の反応も、また味のひとつなのだ。

 

 特にクラフトビールは、試行錯誤の繰り返しと自己表現の一環という意味で、創作活動によく似ている。

 

 この何事も積極的に受け入れようとする態度は、創作にも要求される不可欠な資質だ。人もモノも何もかも、全てを感性の領域でつなげるのは言葉だけで表現する小説家にとって避けて通れない儀式なのだから。

 

 より根本的プリミティブな議論に立ち返れば、そもそもビールという飲み物はその大多数が複雑な味わいで構成されている。甘いかどうかが好きかどうかの基準にしかならないわたしでさえ、いわゆる甘い飲み物とは定義されていないビールであってもヴァイツェンやヴァイス等のドイツの伝統的スタイルも「甘いから」好きだ。ヘイジーIPAのような苦味の強いスタイルであっても、フルーツやガムのような甘みを見つけることはできる。

 

 積極的にビールを解釈し、味を掴もうとする試みは、口に含んだ液体への解像度を上げて、好きな情報を引き出そうとする即物的な効果も期待できる。好きになれる可能性が高まるのはどう見積もっても、よいことだ。

 

 彼女たちがビール愛好者というのは伊達じゃない。これは愛だ。理解しようとする試みは愛なしには成立しない。まったくもってビールへの愛で、託されたものという意味で、物語に対する愛と変わるところがない。

 

 あまりにも多くのものへの愛が必要とされる作家にとって愛することは絶対的な要求であり、作家を目指すわたしはこの愛と理解の関係を深く受け止めるべきなのだろう。

 

 これはとても美しい発見だった。あの好き嫌いの激しい、はるか先生と観音さんにも必ずや伝えなくてはならない、この愛を。

 

 こうしてユイ先生とヨーコさんたちの薫陶とお墨付きを得たわたしが、実に眩しい自信をもって分からず屋のはるか先生と観音さんに立ち向かい、そして説教をかまされるのは遠くない未来の話になる。

 

(クラフトビール武者修行 おわり)

 




本稿は飲食・評論系サークル「神田地下部」様がC106で発行された『ビア通~オルタナビアレビュー~』に寄稿した『クラフトビール武者修行』を底本とし、一部修正・改変しております。
実際に飲んだビールのレビュー等は是非そちらをご参照ください。
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