広瀬由希は焦っていた。かつてない危機に直面していた。
その危機は普段から頭の中に漂っているアイデンティティクライシスや将来への不安といった掴みどころがない漠然としたものではない。それはもっと純粋で直截で、現実で実存で、ハイキングの最中に猛獣に出会ってしまったような。あるいは高速道路で逆走車が前から迫ってきたような。
唐突で避けられない、今そこにある危機。
逃げ道もない場で取り囲まれて、火を噴かんばかりに激昂した観音と一対一で果たし合うことになろうとは。
かつての恩師と今の師を重ね、多少といえども殊勝な気持ちになったダイアローグとは正反対。同じふたり、同じ日に起きるとは広瀬は想像だにしていなかった。なんとなれば、サバイバルゲームが終わってから大洗でも道のりも楽しくお喋りをして、一緒にビールを買って、素朴で牧歌的な瞬間の連続だったのだ。
少なくとも、広瀬にとって危機の兆候は皆無だった。
起きうる危機を片っ端から想像して尻込みしてしまう広瀬の悪癖は、こと自分に降りかかる災いとなると途端に精度が落ちるのが常であるが、今回ばかりは彼女の落ち度ではない。避けられようもない事故であったのだから。安全運転を心掛けた一日の最後としては皮肉な結果となった。
◆◆◆
サバイバルゲームは事故や怪我もなく盛況のうちに終わり、予定を繰り上げて大洗へと早めに向かう余裕すらあった。広瀬と観音は寄り道をしてクラフトビールを買い込み、〆切を退治して合流したはるかと夕餉の前から0次会に洒落こむなど楽しい限りを尽くす。
しかし。
しかし、景気よく日本酒を次々と開けながらあんこう料理に舌鼓を打ち、部屋に戻ってひとしきり落ち着いた時に事件は起こった。
食事の前からとにもかくにもビールを優先し、皆より先んじて飲み始めていた観音は会話のスロットルが開放されていて、言い換えれば「いい気分」になっていた。それは広瀬も同じであり、また原稿を仕上げてから大洗に直行し飲んでいたはるかにしてみても同様だった。
問題は、この時ばかりは運悪くというべきか、広瀬が前日に書いた散文がクラフトビールに関するもので、それが事態をエスカレートさせる遠因になったことは間違いない。
苦いビールを飲むために色々なソフトドリンクと混ぜたみた云々の話は、ビール好きを苛立たせるのに十分過ぎたということだろうか。
「こんなに美味しいのに、広瀬君は苦いとか飲めないとか言ってくるんだから」
飲み進めるごとに、観音は不満をこぼした。
どこまで本気だったのか、危機が終わってからも広瀬には判然としなかったが、彼女の「Hazy IPAを苦く感じる」といった言説は、観音の気に障っていたことは確かだったようだ。
件の会話の発端は曖昧であった。苦い、苦くないの繰り返される応酬は何もこの日だけに限らない。ここ一年か、それ以上ふたりの間で交わされてきた取り留めもないダイアローグで特筆するべきことではなかったのだから。
「これもどうせ、広瀬君は苦いとか文句を言うのだろうね」
グラスに黄金色のビールを注ぎながら、観音は挑発するような声音を出すと、広瀬は手元のグラスに鼻を突っ込みながら不満そうに答える。
「文句なんかいつも言ってないですよ。わたしは感想を申し上げてるだけなんです。これだってトップが香り高いのはわかりますが、結局苦い部分は苦いじゃないですか」
「いいや、苦くないね」
広瀬に言わせれば、やはり予兆はなかったのだ。これまでに何度も繰り返されてきた、いつも通りのじゃれ合い。物語にして書き留めるには、あまりにも意味を喪失した日常のダイアローグに過ぎないはずだった。
惜しむらくは、サバイバルゲームや運転の疲れと食後の倦怠感で緩み切っていた広瀬が注意に対する脳のリソースをカットしていたことであろう。彼女は油断しきっていた。
「それは個人差によるものでしょう」
「苦くない!」
だが、彼女は気付いていなかった。観音の声が次第に、いつにもまして大きくなっていたことを。彼女たちが集まれば飲み会の前から店にたしなめられることも珍しくないので、声の大小など気にする由もなかったが、それでも。観音の声は大きくなっていた。
そうやって観音につられて広瀬の声も大きくなり始めると、疲れ果てて布団に寝転がっていたはずのはるかがのそりと起き上がった。かと思うと、これはしめたと言わんばかりに口角を吊り上げた。その相貌は意地悪な魔女そのものである。
作家という生き物はおしなべて好事家であり、生まれついての野次馬であり、火事があれば見に行かなくては気が済まない。あるいは、喧嘩であれば火に油を注ぐことを生業としている。もちろん、はるかもそうだ。
二人の背後から「やれやれ!」だの、「ダメだよ言い返さないと!」だのと、はるかは実にはしたなく囃し立てる。この場で最も邪悪な存在を広瀬は見た。
そうして目の前で気焔を上げる観音と背後から煽り立てるはるかを眺めながらぼんやりと、会話の調子がエスカレートしていると気付き始めた矢先。事態は急変した。
「どうして君は僕の好きなものを否定するんだ!」
稲妻、青天の霹靂、怒号であった。これまでとは質的に異なる、まさに怒りと憎悪をはらんだ声で観音が火を噴いたのだ。はるかは「やった!」と目を輝かせてシュプレヒコールをあげる。対する広瀬はというと、周囲も沸く中で彼女はただひとり顔面蒼白であった。
飲食店での飲み会とは状況が多少異なる。テーブルに分けられ、店員や他の客といった見知らぬ視線が常にある環境と、仲間内だけでリラックスできる環境。そこに油断があったのかもしれない。
突然の激昂に広瀬の思考は停止した。彼女はひるんだ。とにかく、ひるんだ。
観音は道民の割に気質は江戸っ子のそれで、火事も喧嘩もなんでもござれの腕まくりであるが、広瀬はまるでそうではない。かよわい乙女とまでは言わずとも、争いは可能な限り避けて逃げてきた小心者である。
幸か不幸か、広瀬は観音が怒っている姿を見たことがなかった。
観音の仕事は調和と調停の役が主で、余分な摩擦を減らし信頼を勝ち取ることがコツなのだと普段から聞き及んでいるところであり、プライベートにおいても鍋奉行的なきらいがあるものの、その場の盛り上がりを最も重視する。
だから本気ではないはずだった。自他共に認めるエンターテイナーである観音が、新年会の和んだ雰囲気をぶち壊しにするはずがない。これもただのショーであり、彼女の手にかかれば喧嘩でさえパフォーマンスの一つなのである。
しかし巻き込まれた側はたまったものではない。
広瀬は怒られ慣れていないのだ。それは、怒られたことがないとか、滅多に怒られない良い子というわけではない。愚図で人一倍怠け者でよく叱られてきたからこそ、怒られることを極端に恐れて、その機会を最小化できるように努めてきたということだ。
注意されることも含めて、怒られるのが大の苦手だった。誰だって好き好んで怒られることはないわけであるが、彼女は怒られて注意された事実を忘れることができない、強迫的な性質があるからこそ、怒られることを忌避している。
怒られた事実よりも、その瞬間の記憶が頭の中で反響して思い起こされると、身体が硬直してしまう。そこに座っちゃダメとか、扉は閉めといてねとか、そういった些細な事でさえも、彼女の中には大きく響く。それがたまらなく嫌だった。
彼女は、あらゆるリスクを避け続けてきた。
怒鳴られることなんてもってのほか。その怒りが自分に向けられたものでなくとも、頭を下げてしまう。以前、飲み屋で店の落ち度から仲間が揉めた時も、彼女はただ俯いて、騒ぎが終わることをじっと待つだけだった。
故に、観音の激昂は敵対的感情から逃げ続けてきた広瀬にとって大きすぎる衝撃だったのだ。
そして都合の悪いことに、観音の剣幕が演技か演技でないかに関わらず、よくよく思い返してみれば、広瀬には心当たりがいくつかあった。いや、ありすぎた。
今まさに問題となっているクラフトビールについては、観音におかしなビールを拒否できない状況で何度も強要したし、それを楽しんできた。直接言い争うことは避けて散文に託して間接的に批判らしきこともしてきた。
弟子だと呼んでもらえているにも関わらず、まともに受け止めることができず、執筆に関しても約束を何度も反故にして蛇行運転を続けている。
もしかしたら、昼のサバイバルゲームで一度だけ、たまたま、意に反してオーバーキルしてしまったと疑われたことが引き金になったのかもしれない。
そうだ、観音の激昂が真に迫ったフェイクだったとしても、彼女を真に怒らせるに足る理由を広瀬は作り続けてきた。有体に言えば、広瀬は調子に乗っていたのだ。
だからこそ観音が本気でないことがわかっていても、その引け目から、本気でないと信じることができなかった。あるいは、演技の中に本気が混ざっているのでは。そう疑わずにいられなかった。
そして悲しいかな、怒鳴る観音を初めて見た広瀬は見分ける術を持たなかった。
背景で盛り上がるはるかを視認していたとしてもなお。
ゆえに、観音の笑みの消えた瞳と相貌は恐怖そのものであった。
どこまでが本気でどこまでが演技であるのかわからずに狼狽する広瀬の頭に浮かんだのは、過去にはるか邸で何度かあったやり取りだった。
ビール会というクローズドな場で、こうした言い合いが過熱してしまうことは度々あった。内容は今回と同じように大したことはではなく、ああでもない、こうでもないの水掛け論。次第に双方の声が大きくなると、その度にはるかが「もっと!」と煽り、広瀬が折れる。そして「もっと頑張らないとダメだよ」これであった。
相手が悪く、分も悪く、尊敬する人物であっても、はるかや観音を超えたいのであれば言い合いで尻込みしてはいけない。そういったメッセージであることは広瀬も承知していたが、実際にやるとなれば話は別である。
確かに彼女が憧れる戦前の文豪たちも大抵が血の気が多く、時には本物の拳さえ交えるほど激しいぶつかり合いは日常茶飯事だったかもしれない。しかし、静かな作家だって多いものだ。多いはずであった。一発殴っただけで死ぬような病弱な作家だってたくさんいた。
ふたりに煽られるたびに広瀬は内心では憤慨していた。作家にとっての武器は言葉でありペンであり、その言葉は自らの口から発せられるものではなしに、紙面によって展開されるべきであると。しかも、それは事実や感情を単に述べるのではなく、作品に必要な一部として論じられるべきであると。少なくとも、それが彼女の持論であった。
しかし、目の前で相手が激昂しているこの状況下において、そんな作家論を披露する余裕は一切ない。また、白旗をあげて逃走を許してくれる雰囲気は微塵もなかった。
周囲は好奇の目で、この争いの行く末を見守っている。日頃の行いのせいで味方も仲裁を買って出てくれる人もいない。孤軍奮闘四面楚歌、背水の陣とはこのことである。
さらには、その外側の安全圏から火に油どころかガソリンを注ぎ込もうとする悪魔の姿があった。
「やったやった、はじまった!じゃあ10分間やろう、10分!ようい、スタート!」
何がスタートだこの河童!と叫びたくなるのを広瀬は必死に堪えた。河童は相撲好きと相場が決まっているわけであるが、観戦も好むということだろうか。そうだ、これははるかに向けた天覧試合であるのだ。土俵に迷い込んだのが運の尽き、広瀬は天を仰いだ。
相撲と異なるのは、土がついても試合が終わらないこと。
とにかく、観音が本気だろうと本気でなかろうと、広瀬には退くという選択肢はなかった。そして、はるかを始めとして本気で向き合うことを期待されている。腹をくくるしかない。
観音は繰り返した。
「君はどうして僕を否定しようとするんだ!」
「わたしは観音さんを否定なんてしていません!」
「しているじゃないか!僕の好きなものをコケにして」
水掛け論、揚げ足取り。議論を空回りさせる手法が惜しみなく使われる。お互いの納得を引き出すため、あるいはどちらが正しいのかを決めるためのディベートではないのだから当然だ。
プロレスがいかに大変な仕事であるか、広瀬は痛感した。観客に楽しんでもらうためには本気であるように見せなければならず、本気であるかのように見せるためには、本気で臨まなければならない。つまり、あれは本気の闘いなのだ。
「でも、わたしはプロレス選手じゃないし、なろうとしたこともない!」
広瀬は胸中で叫んだ。必死の叫びだった。
「君はどうしていつもいつも!僕の好きなものを否定しようとするんだ!」
「していません!別に観音さんが何をお好きでも構いません!」
「否定しているじゃないか!僕の好きなビールが不味いって!」
「そんなこと言ったことありません!」
「言った!」
「絶対に不味いとは言ってません、わたしは苦いと言っただけです!」
「苦いが苦しいとか、苦いが不味いとか言っていただろう!?」
「それに似たことは申し上げたかもしれないですけどね!不味いとは絶対に言ってない」
「苦いのが好きなことを年寄り扱いして!」
「舌の感覚器官が減ることは事実です!」
「Hazyが出来損ないとも言っていた!」
「それは歴史的にはそういう扱いだったこともあるというわけで」
「誰がそんなこと決めたんだ!君か?君が決めたのか!?」
「もちろんわたしじゃなくてですね、濁っているのが未熟な醸造の証だと思われていた時期もあったという話で」
「君はどうしてそんな嘘をつくんだ!」
「嘘じゃないですよ、ユイ先生とかクラフトビールの本にそうやって書いてあったんです。一次資料にあたったことはありませんが」
「君はIPAの歴史を知らないのだろう!インドを経由した長い歴史あるビールを!」
「そらで言えるほど詳しくは知りませんよ!それにわたしはHazyの話をしているのであってIPA全体を貶めようとなんてしていません!」
「だから君は僕の好きなものを貶めようとしている!」
ムチャクチャであった。
これらを全て、互いに怒鳴り散らしているものだから、たまらない。普段から激昂せずとも飲食店で声が大きいと注意されがちな二人が睨み合っての大騒ぎ。
全館貸切のなせる業であるが、部屋を出入りしていた者からは別館にまで響き渡っていたとかなんとか。
「わかりました!わかりました!」
「わかってない!君は全くわかっていない!君は僕の魂を否定しようとしているんだ!僕は魂を否定されている!僕は何度も何度も傷付けられた!」
どこかの女性代議士先生が炎上した時のような発言だなと、広瀬は酸欠にあえぎ朦朧としながら思った。しかし相手は月ノ瀬観音である。代議士程度では収まらない器なのだから断然、相手が悪い。
広瀬は悟った。これは天覧試合であるが、実態は決闘裁判だ。勝者が正義を総取りする。そして、勝者がどちらになるのかはわかりきっている。これまで調子に乗っていた彼女を公開の場で裁くショーでもあるのだ。
ならば、そうであるならば。敗残の身になることがわかりきっているのであれば、取り得る戦略は一つしかない。
「わかったんです!いいですか」「わかってない!」「いいですか、ちょっと聞いてください!」
はるかが腕時計とふたりの顔を見比べながら、カウントダウンを開始しているのを見て、広瀬はまくしたてた。
「もしわたしのこれまでの発言が観音さんや皆さんの気分を害したのであれば、ここで謝罪します!謝罪しますとも!好みを否定する意図はございませんでしたが、わたしの言ったことがそのように聞こえていたのであれば、謝罪させてください!」
平身低頭、平謝りである。謝罪に次ぐ謝罪で相手の勢いを削ぐ。広瀬は必死に言葉を紡ぐ。
「はい、しゅーりょー!おつかれー!」
広瀬がまくしたてているうちに、はるかは上機嫌に終戦を宣言した。観音の演技は相変わらず続いていて、不満そうであったが声を荒げるのはやめたようだ。
やっとの思いで時間を耐えきったと広瀬は安堵した。少なくとも、この瞬間に求められた役割、観音の激昂を受けきって凌ぐことはできたはずだと。しかし安堵と同時にふつふつと、やり場のない怒りが今度は彼女の内側から沸いてくる。
大変な目に遭った。でも、どうしてこうなった。あの河童のせいだ、あの悪魔のせいだ。
「はるか先生、本当に覚えておいてくださいね」
彼女はぽつりとこぼした。
◆◆◆
翌日、帰りのドライブでは驚くほどに、前夜の出来事は話題に上がらなかった。
しかし広瀬の心は、ほとんど折れたまま。頭の中はそれでいっぱいである。
もうあんな対局はこりごりだ。クラフトビールがなんだって構いやしない。甘かったらビールではない?上等です、ええ。
なんでこんな目に遭ってまで存在しない甘いビールの精霊を庇わなければならないのだろうか。ビールだろうがビールでなかろうが、もはやどうでもいい。観音さんの激昂を避けられるならいくらでも鞍替えしますよ怖いんだもの。
同じ日、同じふたりの間で交わされたふたつのダイアローグは正反対の結果を生み、その高低差によって広瀬に拭いきれない記憶を深く、深く刻み込んだ。
(ふたつのダイアローグ おわり)
そうです。
わたしはもう、クラフトビールが甘いとか苦いとか、そういったことに口を出すのをやめました。
まずそこまでする義理がないんですもの。
ユイ先生やヨーコさんには悪いけど。
ビールの世界に新しい可能性を切り拓く?そういったこともあったかもしれませんね。
でもビールだと言い張らないことで、どれだけ観音さんの態度が軟化したことか。それはそれは、目覚ましい効果でありました。
あれだけ渋い顔をしていた彼女が、わたしがドブのような緑色のメロン味のビールを出そうともピーナツバター入りのビールも出そうとも、菩薩顔だったのですから。それどころか「飲み物としては美味しいね」と賛美さえ賜ったのですよ。
この効用に比べればビールかどうかなんて知ったことじゃあない。
何より、そもそもビールかどうかにこだわること自体、わたしらしくもなかった。心中でどう思っていようとも、人前ではその素振りを隠して、隠して。下手な笑顔で出るのがわたしの処世術でありモットーだ。
この長年にわたって積み上げてきたプロトコルを、観音さんへのちょっとした反骨心で破り続けていたのがいけなかったのだ。
一連のやり取りは楽しい会話の、ダイアローグのスパイスにはなったかもしれないけれど、そろそろ終わりにしよう。何事も続けるほど飽きられるものだし、何よりわたしがもう限界なのだから。
もがき苦しむのは創作のことだけでたくさんだ。