広瀬由希はままならない   作:ひろせとら

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ある夜の恐怖

 日常に潜む恐怖とは、ありふれたものにすぎない。

 

 それは約束の時間に遅刻したらどうしようだとか、スープを服にこぼしたら嫌だなあとか、新幹線のチケットを失くしたらどうなっちゃうのだろうだとか。どれも程度の差はあれど制御可能で、なおかつ実際には滅多に起きないことばかり。

 

 それでも冷や汗をかくには十分なわけだけれども、此度の小旅行ではそういった日常の枠を超えた恐怖体験があった。

 

 

◆◆◆

 

 

 何の憂いもないわけではない。しかし、少なくともこの旅行について不安に思うことは一つもないはずだった。

 

 クラフトビールを巡る観音さんとの衝突は既に一応の区切りを迎えていて、蒸し返される可能性がゼロになったとは言えないものの、対処法がわかった今、恐れるものではない。つまるところ、彼女を刺激しなければいいだけなのだから。

 

 思えば、わたしもどうかしていたのだ。歴史的事実であろうがなかろうが、ヘイジービールが好きな人に対して「かつては出来損ないとされていましたからね」なんて面と向かってのたまうのは正気の沙汰ではない。喧嘩になるに決まっている。反省、反省だ。

 

 それはともかくとして、この度の旅行、国内最高峰と呼び声の高い山梨のうちゅうブルーイング訪問はただただ楽しみな、身軽で安穏な遊びになるはずだった。注意することがあれば飲み過ぎないこと、くらいだろうか。

 

 というのも、この訪問は二度目で、わたしは前回かなりの粗相をやらかしたのである。

 

 数年前に宮武慶子さんが発起人となって催された訪問では、直前に各人の誘い人が次々と欠席を表明したことで慶子さん、観音さん、わたしの三人というちょっぴり珍しい組み合わせとなった。

 

 しかし良い酒が目の前にあれば多少のトラブル、多少の欠員もなんのその。わたしたちはビールを大いに楽しみ、しこたま飲んだ。そこまではよかったのだけれど、夕食後からの酒盛りがいけなかった。

 

 風呂を済ませてあとは寝るだけという最高のコンディションで飲んでいたところ、ビールの在庫が尽きてしまった。翌日も旅程があるのだ、そこで寝てしまえばよかったのであるが、部屋の片隅に転がっていた別の酒が目についた。

 

 ああ、愚かなことかな。わたしが二人に手土産に持参した日本酒である(ビールを飲みに行くのに日本酒を土産に選ぶこと自体が既に愚かであった)。帰り際に渡すつもりだったのだから車に置いてくればよかったものの、どういうわけかわたしは二本の四合瓶を部屋に上げてしまった。

 

 その後について記す必要はないと思う。わたしたちは開栓の後におちょこがないことに気付き、湯飲みでそれをがぶがぶと飲み始めた。恐ろしいスピードで1本を空にして、2本目に手を付けた後から記憶がない。

 

 そして明け方頃に目覚めたわたしは洗面所に駆けこみ、虹を見たのだった。

 

 

◆◆◆

 

 山梨は食にも酒にも事欠かない観光地で、朝ワインや昼ビールなどの誘惑は多かったものの、以前の散々な経験を活かすことでなんとか自制心を保ったまま、宿に辿り着くに至った。最年少の参加者として、足を引っ張ることは避けたかったというのもある。

 

 そうして迎えた旅先での夜。

 

 全ての行程が終わった後の、ただ飲んで食べておしゃべりするだけの時間は特別なものだ。集った皆が会話に花を咲かせたり、深夜放送の中継に耳を傾けたり、あるいはただそこで寝てしまったりと思い思いに過ごす。普段でも出来ることなのだけれども、であるがゆえに、代えがたい価値がある。

 

 わたしも、その時点までは大きな粗相なく過ごすことができ、あとは深酒しないことを心掛けて部屋に戻るだけと安心しきっていた。幸い、今回は日本酒を持ち込んだりなどしていない。飲み過ぎる心配も皆無のはずだった。

 

 

 その矢先、何か奇妙なことが起こった。事件というほど突飛で劇的なものではなく、かすかな違和感であり、ノイズのようなもの。

 

 何かの話題のついでなのだろうか、誰かが古い(わたしにとっては十分な古さ)歌謡曲のワンフレーズを口ずさんだのだ。その旋律に聞き覚えはあったし、通しで聴いたことはないにしても知っている曲であったが、なぜか歌詞が異なる気がした。と同時に、軽い笑いが起きる。

 

 すると、また別の誰かが違う曲のフレーズを口ずさんだ。同じだ。知っている曲のはずなのに、知らない歌詞。どうも1番と2番の歌詞が違うといったわけではない気がする。にも関わらず、わたし以外の全員がそれを面白く、かつ懐かしいものとして共有し、うなずいていた。

 

 奇妙だった。とても。どれも聞いたことがある旋律とリズムであるのに、歌詞だけが違う。それが何度も何度も繰り返されるのだ。違和感を通り越して、不気味であった。全てがどこか、ズレている。

 

 そのズレの正体は、わたしがそれぞれの曲を正確に覚えていないことに起因するものではないはずだ。全てが明らかに違う。直感がそう告げている。わたしはうすら寒くなって、無意識に姿勢を正した。

 

 そんな困惑しているわたしに目ざとく気付いたのは、やはり観音さんだった。 

 

「おやおや、広瀬君。なにやら困っているようだねえ」

 

 観音さんのこういった声掛けは珍しくないことだ。会話の中で浮いているとすぐに気が付き、フォローを入れる。それだけに有難いことの方が多いわけなのだけれど、この時ばかりは彼女の面に湛えられた笑顔も、どこか薄気味悪く見えてしまった。

 

「もしかすると、何について話しているのかわからないのかな」

「いや。どうでしょう、ね」

 

 正直に言って恐ろしかった。急に周囲が別の言語で話始めたようなものなのだから。

 

 いや違う。同じ言語で話しているのに、別の言語で話しているように通じないのが恐ろしいのだ。何の前触れもなかった。これが恐ろしくないわけがない。

 

 彼女たちの反応から察するに冗談というわけではないらしい。わたしをびっくりさせようと示し合わせた様子でもないのだ。互いへの目配せは一切なく、ただ事実として、わたしが理解できないことを不思議がっている。

 

 皆の視線がわたしに集まったのは気のせいではないのだろう。引いてはいけない注目を集めてしまった。何かが違う。それとも、おかしくなっているのはわたし?いつもの周囲に溶け込むことができないというだけの話ではない、あってはならないもの、異物そのものになった感覚。

 

 

 わたしがおかしくなったのだろうか。いくら気を付けていたとはいえ、朝からお酒を飲み続けていたし、ありえなくはない。でも、泥酔はしていないはずだ。していたのであれば、歌詞の違和感に気付けるわけがないのだから。

 

 原因はわたしなのだろうか、それとも彼女たちなのだろうか。どちらでも状況は変わらないわけだけれども、わたしの採るべき態度は真逆になる。

 

 冷静になれ、悟られるな、考えろ、わたし。

 

 彼女たちがわたしをハメようとしている?いったいなんのために?わたしを拉致して騙しても、わたしはなんの情報も価値も持ち合わせていない。仮に何かわたしに吐かせたくても、こんな大がかりな手間は必要ない。よい酒とよい食事だけで十分だ。

 

 そんなスパイ映画のような話ではなさそうだ。皆はわたしと違う人間なのかもしれない。レトリックでなくて、本当に。だとすると、いつから違う人間になったのだろうか。

 

 あるいは、実は今までの世界はすべてシミュレーションの中にあって、わたしは新たなノイズとして検知されてしまったのかもしれない。これからわたしは彼女たちから根掘り葉掘り質問攻めされて、周到な確認の後に危険な異物として排除されるのだろう。

 

 もしかすると、この旅行中わたしの気付かぬ間に彼女たちは宇宙人にでも拉致されて頭の中を弄り回されたのかもしれない。言語を操れる一方で意味は理解していない生き物、異星人、怪物に。言葉が伝わっているのも気のせい?手違いがあり、わたしだけ手術漏れがあったのだ。

 

 そうでなければ、彼女たちは集合意識を持ったウイルスか菌糸類に脳をやられたのかもしれない。わたしはこれから噛みつかれて引っかかれて、あんなことやそんなことをされて、彼女らと同類に堕とされるのだろう。

 

 ひょっとすると、わたしが何かの拍子に元の世界から弾き出されて、少しだけズレた別世界に転生してしまったのかもしれない。あいにく何か特別な力を授かった実感はなく、啓示もない。わたしは知っている曲の歌詞だけが違う世界に閉じ込められたのだろうか。

 

 ないしは、わたしたちは全員が造られた存在で(残念ながら元からわたしに信仰心は欠けている)、わたしだけがエラーを出してしまったか、廃棄される予定であった誰かの記憶を引き継いでしまったのかもしれない。正しい記憶を保持するわたしと偽りの世界との戦いが今、始まるのだ。または、偽りであるのはわたしだけという場合もありうる。

 

 

 言い知れない不安によって、脈絡のない思考が一瞬にして駆け巡った。寒気がする。

 

 いずれにしても、わたしに味方はいないのだから。

 

 観音さんは笑顔を貼り付けたまま。彼女の笑顔にわたしが恐怖するのは珍しくないことだけれども、これは話が違う。彼女はなぜわからないのか、なにがわからないのかの答えをわたしに欲しているようだったが、答えるわけにはいかなかった。その答え次第で、とてもよくないことが起こりそうな気がするのだから。

 

 わたしが焦りを募らせていると、誰かが「こういうの知ってる?」と何やら動画を再生し始めた。

 

 ほらきた!

 

 これでわたしが正気かどうかを判断しようとしているのだ。もしくは、わたしの精神を完全に破壊して、彼女たちの仲間に引き込もうとしているのだ。

 

 案の定、彼女の端末からは先ほどまで皆が口ずさんでいた旋律が流れ始めた。

 

 だが様子がおかしい。それぞれの曲はメドレー形式で繋げられているようであったが、継ぎ接ぎではなく一体として演奏されている。歌手もどうやら同一人物に聞こえる。

 

「こ、これは?」

「やっぱり知らないんだ。すごい流行ったのになあ」

 

 皆が頷いた。

 

 うん?流行った?ちょっと待って欲しい。それはつまり、昔の話であって、今の話ではないということ?古い歌謡曲ばかりなのは、そういうこと?

 

 そう、最も重要で根源的で、問題解決に近い質問をわたしは忘れていた。

 

「その曲というかメドレーが流行ったのって、いつなんです?」

 

 

◆◆◆

 

 

 なんてことはない。わたしがこの世に生を受けるより前の流行した替え歌だったそうな。

 

 年の差、ジェネレーションギャップ、世代間の断絶、隔世の感。

 

 これは、こればっかりはどうしようもないものだ。誰にだってある。

 

 わたしは思い出す。大学のサークルに創立者であり、その集まりの名物であった先輩がいた。わたしと先輩は6つほど年が離れていたと記憶している。極度の変人であり、擁護するまでもなくキョウの一字に両脚を突っ込んでいたが、いつも面白くて愉快な人物であった。

 

 が、時たま、わたしたちと談笑している最中であっても、その人は遠くを見るような目で居心地悪そうに、苦々しい笑顔を見せることがあった。それは痛々しいものであった。ある時、その様子を見かねたわたしは尋ねた。

 

「どうかしたんですか?らしくないですよ」

 先輩は躊躇いがちにこう答えた。

「いやね、君たちとはどうしても合わないんだよ。人生の時期が」

 

 良い意味も悪い意味でも、あらゆる意味で超越的な人であったが、しかし、年の差には抗うことはできなかったのだ。

 

 わたし自身にもよく似た経験がある。

 

 大学卒業後、進路に迷ったわたしはモラトリアムを求めて転入の形で別のキャンパスに3年生として移った。まだ制度が整備されていなかったのだろう、わたしは教養課程の講義を必修として取得することを求められ、ぴかぴかの新入生たちの群れに放り込まれることになった。

 

 苦痛だった。ひどい苦痛であった。たかが4年間しか離れていないにも関わらず。心機一転、せっかく知り合いもいないのだからフレッシュな気持ちで臨もうと思っていたにも関わらず。

 

 問題はわたしが抱いていたちっぽけなプライドのせいなんかではなかった。全てが合わないのだ。単なる話題のみならず、生活態度、言葉遣い、常識、流行への反応、その全てがことごとく彼ら彼女らと違う気がした。いや、実際に違ったのだ。異星人になったような気分だった。

 

 一番話が合ったのが研究室の教授、わたしのボスであったくらいに、周囲の人々とは合わなかった。彼とはもちろん、他の大学生たち以上に年は離れていたが、「年の差がある」という事実によってわたしたちは意気投合することがたびたびあった。

 

 「最近の若者は」という、恐らく人類が言葉を獲得してからずっと使い潰されてきた枕詞が、なぜ廃れないのか理解できた気がしたものだ。

 

 しかも学校という場は恐ろしいことに毎年毎年、全く別の性質をもった生き物が同じ場所におびただしい数をもって流入してくる。教職員の苦労は押してはかるべし、というわけだ。

 

 わたしはそのような洗礼を繰り返し受け、数年かけて彼ら彼女ら新人類と付き合う方法を体得した。それはとてもシンプルだ。

 

 無理に話を合わせようとせず、聞き手に徹すること。

 

 これである。なんてことはない、ごく一般の処世術と変わらない。

 

 言い換えれば、年の差に対して抵抗は無意味だというわけだ。

 

 それは屈服や諦念に依るものではない。そもそも克服することがナンセンスであるという気付きが、この答えをもたらしたのだ。

 

 年の差というものは数えられる見かけ以上、その4年や6年や10年よりもはるかに大きなものだ。4年違うから4年分を追いかければ良い、そういうものではない。

 

 生まれるのが4年違えば、それだけ人生のスタート時の前提が変わってしまう。特に20世紀を超えてからというもの、国際情勢、社会の状況、技術の発展具合は日を増して大きく異なってきている。

 

 たかだ4年、されど4年というわけだ。物心ついた瞬間に大規模テロの映像を見たら?大震災を経験したら?SNSがあったら、なかったら?スマートフォンがあったら、なかったら?4年どころか、1年あるいは1カ月変わるだけでも十分大きな差になりうる。

 

 前提となる条件、人生が切り替わるかもしれない瞬間を挙げ始めたら、キリがない。そしてそのキリのない数の分、生まれた子が経験する社会・風土・文化はまるで別のものになる。その異なった前提から起算して人生を過ごした年月をかけて、世界を捉える目が変わるのだ。

 

 ゆえに、同じ世界的なイベント、政権、災害、はては創作物を共有していたとしても、受け取る人の立つ前提と時期によって、捉え方は大きく異なる。

 

 また同様に、いつ、そしてどの順番で経験するかも大きな差を生み出す。アリストテレスでもシェイクスピアでもディケンズでも、書かれた当時と今では感想が異なるのは当たり前の話だ。

 

 卑近な例でいえば、多感な中学生時代にわたしがアニメや漫画から受けた衝撃は恐ろしいほどに力強く、その後の人生を揺さぶられるほどであったが、今どれだけ新しく優れた作品を鑑賞したとしても、同じ威力を感じることは困難だろう。新たに人生を変えられることがあったとしても、それは最初の一撃を塗り替えることを意味しない。

 

 創作物のいわゆる布教活動における壁も、ここにあるのかもしれない。自分がどれだけ感銘を受けた作品であっても、幼少期からの自身を形成する作品であっても、他の人が同様に感じるかどうかは作品の出来とは全く関係がないのだから。

 

 これは老いとか慣れとかそういう問題ではなく、これこそが学習であり、個人の進化であり、一世紀近くを生きるようになってしまった人間の習性だと思えてならない。

 

 だから年齢の違いがいくつであったとしても、その差を埋めるには人生を丸々追いかけるような努力が要求される。加えて、メタ認知的にいえば、仮に丸々追いかけることができたとしても、他人を真に理解することができないことと同様に、年の差を超えることはできないはずだ。

 

 そう、だから無理に合わせる必要はないし、できないし、それでよいのだ。

 

 であるからにして、年の差がある(当たり前のこと!)ことを殊更に強調して指摘し、その無知を追及し追究しようとするのは野暮そのものであって、控えるべきなのだ。やめて差し上げてくれ、頼むから、後生だから。

 

 なんとなれば、もはやわたしでさえ自認は若者ではない。キャンパスライフで本物の若者たちの圧に晒され続けた結果、すっかり気持ちは萎れてしまっている。

 

 君は若いから知らないかあ、ではない。若くなくても知らないのですよ。

 

 誰だって、貴方の常識が皆の常識のわけがないのである。なんでも同じように知っているわけないのである。自分が生まれる前に流行った替え歌なんて知るわけないのである!

 

 それでもわたしは謙虚なままでいたいのだ。知らないものを古い!知らない!とあけすけに吐き捨てるのではなく、にこにこと笑って受け止められるように。

 

 だから。

 

 しらねーよ!なんて、わたしに言わせないで。

 

(ある夜の恐怖 おわり)

 

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