一人きりの部屋。静かに黒をマグカップへ注ぎ入れるウマ娘がいる。ターフを未だ駆けぬ私が一人。
かの者の名はマンハッタンカフェ。罪悪神話を鏖す闇色の獣也。
まだ、何も手にしていない。
※
ずずり。
朝一番に飲むコーヒーは、私の目を醒ましてくれる。夢や惰眠の幸福に引き摺られる私を、明瞭な現実へと引き戻してくれる。その幸福は空虚で、伽藍堂で、私にふさわしいとしても。私にとっての世界が、あまりに色褪せているとしても。
人差し指をマグカップにかける。指先で淹れたての熱を感じ、そこには痛みすらある。それを模るコールタールのような黒く熱いコーヒーを、舌に乗せ、喉に通す。仄かな自傷行為。
血に飢えるが如き渇望を、臓腑の重さを感じる世界を、黒一色の苦味と焼けるような熱さで実感できる。現実を見る。自傷行為として。孔を埋め尽くし、喉を通し、夢現を鋭痛で叩き起こす。そうして、私は生きている。
だから、私は朝のコーヒーを欠かさない。現実の得難さを教えてくれるから。苦く、痛く、されど明瞭である。何もないことが見えるという意味で。夢とも、普段演じるものとも違う。世界はかくも、
手の届かない場所にある。
私は生きている。すなわち、現実に、この世界に。ノンフィクションの上で、筋書きのない空白を光溢るる未来と誤認する。泡沫に消える夢の世界と違って、一つのものが永遠に続く。それが世界。楽園から追放された人間が、罪悪と共に手に入れた居場所というものだ。砂糖の全く入っていないこのコーヒーのように、それはただ黒一色の苦々しいものに思えなくもないけれど。
その苦さが、今までの私を生かしている。痛みと飢えという苦味が、本能の中でもっとも原初的なものだ。
本能がなければ伽藍堂の獣は死んでしまう。
ことり、小さなテーブルの上にマグカップを戻す。指は弛緩し、瞼を閉じても意識が落ちない。開けば緩やかにソラを仰ぎ見る。寸刻のリラックス。
今日は休日だ。久方ぶりの休日。それは羽根を伸ばす時間であり、心を癒す時間であり、退屈に殺される時間でもある。さまざまの形容はどれも等しい。私の時間はどんなものでも変わらないくらい、退屈だ。
「今日は本でも読みましょうか」
おもむろに口から独り言が漏れた。退屈だ、と思うのとほぼ同時だ。その言葉に自ら従うように一つ本を手に取り、一つ文章を読む。リビングの本棚には小説が詰まっている。素晴らしい伽話たちがあり、その上には明確に命が生きている。
だからこれも好きだ。コーヒーと読書。現実と虚構。狭間に生きるのは、職業病かもしれない。
何も考えずに抜き取った一冊はサスペンスだった。主人公が国家の陰謀に飲み込まれ、警察さえも敵に回す。それでも助けてくれる人々の力を借り、社会から、世界から逃げ回る。
その仔細が書かれている。感情と、理屈と、倫理と、限界と、その限界を超える理由と。平たく言えば成長がある。成長したあとから逆算して成長前が存在する。壁が明確に超えるためにある。そしてそのために必要な思考と動力を、不条理に見せかけた条理として動作するのが、キャラクターだ。
物語に生きる人々は、その思考回路さえ我々読者に晒している。そのことを少し可哀想に思う時もある。彼らの人生はどんなに美しくても見せ物として描かれ、彼らには休日という概念は存在しない。
常に蠢くその日常に、平穏は存在しない。それはそれで退屈そうだとも思うが、だとして不思議なことがあるとすれば、その存在は現実よりも生きているような気がすることだろう。フィクションはノンフィクションを超える。「ノン」などと呼ばれるものは、過ちの出来損ないに違いない。
女優という仕事をする上でどうしても、そういう物語への羨望はあるだろう。演じているうちに、役の感情は自分の感情になる。あるいは、己の矮小さを見出し、それを辞めてどんなにか美しい人間になりきれることに幸福を感じる。私がこの職業に向いている理由があるとするならば、
伽藍堂であるからだ。
光の映り込みで、持ち得ない色を持てる。演技は鏡である。私は伽藍堂の獣である。誰かが照らし、誰かを取り込む。そうしてやっと、私は私というつまらない存在を生かしてやれる。
普段の退屈な私は生きていないのと同義だ。
泣き叫ぶこともできない。きっかけも、そういう感情を持つことも。ただ、曖昧に欲するばかり。
人は原罪を以って楽園より追放された、とある。飢え、求め、あらゆる幸福によって満たされない。
私ももれなくそうであるだろう。目覚めて都度思うことだ。今日も取り立てて、何事もなく、死にゆくその日を一日近づけるのみだろう、と。血に飢えるが如き渇望が、神に語られる罪悪が、人間──とりわけウマ娘のような本能に比重を置く者──を、生まれた時から死ぬその瞬間まで縛っている。
だから、救われない。たどり着けない。
無色透明の私は、何処にも、誰にも。
プルルルル。
小一時間読んで、本を閉じ。思考を徐々に架空から現実に慣らしているところで、電話が鳴った。スマホは十数持っているが、この着信音はこの端末で……やはりマネージャーからだ。無機質な壁紙をタップして、応答する。悟られないようにするまでもなく、なんの感情も乗らない声が出る。
「おはようございます」
「おはようございます、マンハッタンカフェさん。……早速ですが、あの件どうですか」
私より年上で私より快活な女性の声が、耳から響く。「あの件」。なんだったか。さっと出てこない。寝ぼけたような、本の世界から現実に戻るために頭の中を辿る。
物語を読むとしばしば没頭してしまうのだ。過集中のきらいがあるとまで言えるだろう。ここまで思い入れを込めて読めるのだから女優業は向いている、そう言い換えることもできるが、実態としては少し違う。思い入れる実体を持たないから、現実の世界に実感が薄いから、「こう」なってしまうというだけだ。
思い当たった「私」の返答は、実に他人事だった。
「……ああ、レースでしたっけ」
「そうです! しかも、ただのレースじゃないですよ! ウマ娘にとっての最高峰、<トゥインクル・シリーズ>へ。いよいよもってカフェさんは参戦するんですから!」
あの件とは他でもない。一介のウマ娘である自分が、いよいよもってレースの世界、ウマ娘としての本懐、すなわち<トゥインクル・シリーズ>に身を投じるべきだという話。らしい、という感じだ。所謂適性検査、すなわち入学試験はクリアしたわけだが、なんとなく忘れてしまっていた。能力を持つことが事柄を果たすためだとするなら、既に本業で満たされているし。つまりはトゥインクル・シリーズへの挑戦という今回の「仕事」は、どちらかと言えばオフの時間に近い。今と同じくらい弛緩して受けることになってしまう。そういうものではないことくらいは知っているのに。
本懐とか、走ることについてどうだとか、もちろん種全体の傾向はどうであれ、個々人は違う。そして私は殊更。異常者を気取るでもなく、残念ながら異常者なのだ。
だからもちろん、このトゥインクル・シリーズへの挑戦というものは、マネージャー……あるいは事務所の方針だ。私から何か言うことは少ないだろうと思う。持ち出された話を断ることも。だから入学試験は受けたし……そう、受けたのだ。トゥインクル・シリーズにおいて必須である、トレセン学園の受験をし、合格した。
というところまで思い至り、そのことについて言ってみる。
「それで、トレセン学園に通うんですよね」
「そうですね。まあ平たく言えば転入生……という形になります。そこでは基本こっちから干渉はしませんけど、無茶はしないでくださいね」
「スキャンダルは起こすな、という警告ですね」
「あはは……。まあ、学園生活を楽しんで!」
返答は歯切れが悪い。未成年の生活を左右し縛りつけるのがそれほど苦しいものなのだろうか。そういう業界であると割り切った方が賢いというわけではないというのは同意だが。だがあいにくと自己の未成熟性について実感はしていても、解決の糸口はない。それほど「人間らしい」気遣いをされても、与えられるものの中では自由そのものが一番漠然としていて、私に合っていないのだから。
そんなふうにトレセン学園というものについて考えているうちに、あちらからすれば私が会話に手をこまねいたと判断したのか、こちらの方がより興味深いだろうと見たのか、マネージャーは話題を転換する。
「では、トゥインクル・シリーズについて話を戻しますね。まあ色々こっちの話はありますが、要はカフェさんの才能を腐らせるのはもったいない、みたいな話です。まあ企画といえば企画なのですが、ガチの企画というやつです。やらせとか救済措置もないし、そもそもできません」
「それがトゥインクル・シリーズだから、ですか」
「はい。その舞台の重み、やっぱりウマ娘の方のほうがわかるんじゃないですか?」
答えに詰まる。今までのようにわからないからというより、むしろ逆。電話越しの声が言う通り、「わかるから」。
トゥインクル・シリーズ。幼少期から、周りの憧れの象徴。レース。「走る」というウマ娘の本能を、この現代で唯一十全に発揮できる場所。もちろん私の中にも、走ることへの欲求はある。かつて見たその舞台への憧れも、残滓はある。今は走らない人生を選んでいるとして、これから走ることになる。ただその二択が、我々ウマ娘という生き物にとっては存在証明に等しい。
私のような伽藍堂でも、本能でナカミを埋め尽くせる。そういう憧憬に似たものは、確かにあった。現実らしく不明瞭で筋書きがなくても、だからこそ踏み入れる価値がある、と。
これはあちらの持ちかけだ。私が言い出したことではない。だからその、トゥインクル・シリーズに女優・マンハッタンカフェを参戦させることについての思惑は知れないし、その戦略が私個人にとって利のあるものかも定かではない。芸能界はしばしば他者を食い潰すために動かされる。
では、それは単なる人気取りの一環なのか、私の存在を何か変えるものなのか。「上」にとっては戦略の一部なのだろうが、その一杯を私がどう味わうかは自由だ。
ウマ娘の本能は競走にあるとして、私はそれをせずに生きていたのだ。鏡を生きていると定義していいのなら、それでも確かに「走らない」人生を写し取り続けてきた。あらゆる情緒を宿し、あまねく衝動を語ったとして、レースのそれだけは、「走る」ことだけは多分、私の中に記憶がない。
それは本能に根差しているからだ。
最後にその選択をするのは、紛れもなく私なのだろう。
<トゥインクル・シリーズ>が、あらゆる物語を内包していることくらいは、私も当然知っているから。
今までの私の人生は物語になれない。私は退屈に殺されそうなほど、味のしない毎日を送っているから。けれど物語とは、何もその存在の起こりから始まるものとは限らない。
つまり、人は生まれ変わることができる。新しい自分に。古い肉体を捨てるかも知れない。女優業より向いていることもあるかもしれない。
今までの人生が、台無しになるかもしれない。
肯定的破滅願望。そういう好奇の類がないと言えば嘘になるだろう。私は常に未来を求めている。闇の中にいることに慣れているだけで。
私が。
何かを望むとしたら。
ここから、先に。どこかに、往けるだろうか。スマホをわずかに耳から下ろし、ぼんやりと思考を伸ばす。閉じた本。冷えたコーヒー。それが視線の先にあって、私の部屋はそうやって冷えている。途方もない。天は高く、私には翼がない。この世界の話だ。素晴らしいものはどれも手の届かないところにあって、私は天使ではないだろうから、地を這う獣であるだろうから、
私一人ではやはり無理な気がした。
けれど私は孤高を気取り、誰にも彼にもつまらなさそうな態度を取る。それは鏡の持つペルソナというより、唯一私自身の人格と言えるもの。一種の自己防衛本能だ。
本当につまらないのは、私自身以外あり得ないのに。
「カフェさん聞いてます~?」
おっと。マネージャーの呆れ顔が目に浮かぶ。アイデンティティを噛み締めて、年相応らしい思い悩みに耽る。そこに自己嫌悪が挟まるのもありふれている。だから私の悩みは特段劇的な解決を求めるものではなくて、やはり物語足り得ない。
そういう切り替え。自分に呆れている時、自分に呆れているのは何者なのだろう、とも。一つ言えるとしたら、他人の話の途中で思い詰めるのはよろしくないということだ。
今の私は時間が長く、価値がない。
「……ああ、すみません」
だから求める。欠落を埋めることを欲する。楽園を追放されるに至る罪悪は、求めること。
「もう一回言いますね。……トレセン学園の諸手続き、済ませておきましたから。入学届とかそーいうのです。近日中に始まりますよ、寮生活、学園生活! ……どうです?」
「したことがないので、わかりませんね」
トレセン学園。正式名称、日本ウマ娘トレーナーセンター学園。超人的走力を持つウマ娘達だけが集い、全寮制での生活を行う学園。確かにトゥインクル・シリーズに挑戦するならこれ以上の地はないだろう。
そういうものを目を輝かせて(見えないが)伝えてきたので、にべもなく返してしまった。
マネージャーはこの「企画」に相当な気合を入れているらしい。温度差のようなものを感じる。当事者はこちらなのだが、そのぶんピンとこない。勝手にどういう手続きをしたかは知らないが、こちらにとっては「生活」だ。そこの変化を一任してしまっているのは、我ながら流されやすすぎるな、と思う。未成年の自己決定能力の欠如につけ込まれている気もする。私が思い込むのはどちらかと言えばレースの方だったのだが、あいにくとその事実には気づかれていなさそうだった。
やはり、そこはピンとこない。芸能界の交流の部分が取るに足らないのと一緒だ。「生活」が、人生の中で舞台の上に立っていない。その中で思い詰めることがない。だから喉を焼くほどのコーヒーを飲むし、絶えず本の上の空想に全霊を委ねる。
「絶対楽しいですから! 私なんか中学の友達と今でも……」
「では、よろしくお願いします」
切った。こうなると長いのは知っているし、一方的に電話を切られるのも慣れているだろうから大丈夫だろう。
それにしても。
「集団生活、か」
切れた電話に向けて喋りかける。学生というもの、私にとっては現実より空想で慣れ親しんでいる。物語に於けるそれは人同士の群像劇ではなく、大抵主人公の周りに息遣いを感じさせるための道具である。どんなに生きているような演技をしても、その名前はA、とかB、とか、そういった記号以上にはならない。
そういうものを演じることは多いのだ。あるいは逆に、名前のついた生徒であることも。そういう時の物語は残酷で、人々の中に価値の差がある。重さの差がある。人生の「設定」が、過去も未来も長さが違う。
けれど現実は違う。当たり前のように、全員が生きている。理由は簡単で、
未来がわからないからだ。
筋書きがない。カメラがない。だから、皆、生きている。良い言い方をすれば全員が主人公で、悪い言い方をすれば全員等しく価値がない。そこに差はなく、思い思いに生きている。生きている。そしてその人生たちは、基本的に波紋を作らない。交差しない。コヒーレントではない。
影響され合う立場にいながら、結局他人の力で動くほどのものにはならない。先ほどの私のように、自分の人生を決める時に必要なのは事務的な手続きだ。そこを任せることを他人と共に生きるとは言えないだろうし、大抵の人はそれを自分自身と向き合って済ませてしまう。
生活は孤独だ。
才能の発揮において他者と重ね合わせる。
私にとっての他人とは、才の発露であるだろう、と。人生が一人で生きていけないものならば、それは達成すべき願望に、力が必要だからだろう、と。
人が人を求めるのもまた、神が印した罪悪である。
並べていく。私の知識と、私の感覚と、私の価値観で、伽藍堂にしか捉えられない理由を。挨拶を交わし、勉学に励み、そして本能のままに走る。そこに何があるか、残念ながらフィクションの経験を持っている。どんな出会いも出来事も、きっと既視感を重ねてしまうだろうと、諦観がある。
世界ではなく、私に対する諦観だ。素晴らしい世界の何一つ、私は享受できないという。私は既に、虚無で埋め尽くされているだろう、という。それを吹き飛ばすほどのものがあるとしたら、尚存在する血に飢えるような衝動。
感覚だ。本能だ。今の生活を退屈と断じ、それ以上を求める何かはある。ならば走ることで満たされるかもしれない。そういう意味では、存外私はこの新しい「生活」に乗り気なのかもしれない。あるいはトゥインクル・シリーズに連なる、出会いも。
人の罪悪、欲求は二つ。
自己の充足と、他者の支配だ。
ならばやはり私は、紛れもなく一人の人なのだろう。
私は、変化を求めているのだから。
退屈な自分を、何処かへ。
ここではない。
何処かへ。
……少しだけ、少女のような夢を見る。劇的な出会いがあって、全ての私が色づくような。そんな、形すらない夢を見る。運命ではないといいと思った。運命ではないといい。これまでの道のりとなんら関係ないといい。その瞬間にすべての始まりがあるといい。そう望んだ。
退屈な世界なら壊れていい。
私の中の欲求は贅沢で、傲慢で、縋るようでもある。だけどそうなってほしいと、伽藍堂のはずの私が確かに望んでいる。
そうして、出会うはずの君を、理想の君の振る舞いを思い描く。顔も身体も見えない君は、確かに私に手を伸ばし。私はその手を取って、強く強く握り返す。絶対に離さない。君の血が溢れて私の掌を染めるまで、力を込め続ける。
そうなってほしい。
翔ぼう。遥かなる楽園へ。
そして私は、嗤うように呟いた。
ねえ、早く連れて行って。
※
刻一刻。紡がれよ。私と君の愛が為。
楽園への道筋は、此処より。
新しき時代のための神話、故にこれは新約である。