【ルーム帝国もの、第二部】先日病死された高貴なお方の死因が実は毒殺であるという不敬な噂に関する調査報告 作:お話を聞かせて
「ウ・エ・マ・チュッチュ?」
「馬鹿野郎! ネズミはチュッチュじゃくてチューチューだ!」
…怒られてしまいました。
首都ルームには数多く大衆食堂(ポピナ)があるが、自宅に近いからという理由でいつも同じ店に行く。奥まった席に腰を下ろした俺たちは、脇を通った給仕を捕まえた。周囲の喧騒に負けないように声量を上げる。
「葡萄水(ムストゥム)を二杯くれ、ワインではない、間違えるな。それからパンと豆のスープ。コルシュ、あとはお前が食べたいものを注文しろ」
「はーい、えっとね……」
コルシュはソーセージ、魚のフリット、豚の内臓の煮込み、玉ねぎの酢漬けを注文した。
最近コルシュはよく食べる。育ち盛りの体が貪欲に栄養を求めるのだろう、それ自体は俺にも覚えはあるし、微笑ましいことと言えた。しかし、コルシュが成長しすぎるのは、情けないことだが、心から歓迎する気にはなれない。俺はヤマト人の中では背が高いほうだが、ルーム人やヒスパニア人に比べればやはり小柄だ。コルシュが順調に成長すれば、いつか隣に並んだ彼を見上げなくてはならない日が来るのだろうか、それを思うと胸が苦しくなる。しかし、食うのを控えろというわけにもいかない。
夕食時の食堂は、煮込み料理の湯気と人々の熱気で白く霞んでいた。
油の焦げた匂いに、酸っぱい安ワインと魚醤(ガルム)の強烈な香りが混じり合い、鼻腔を刺激する。人口過密のルームにおいて、庶民が住む高層集合住宅(インスラ)には調理場などない。そのため、日暮れと共に市民たちがこういったポピナ(大衆食堂)に雪崩れ込んでくるのだ。
石造りの壁は、怒鳴り合うような話し声と、陶器がぶつかり合う雑音を反響させる。泥にまみれた建築夫、染料で指を染めた職人、子だくさんの家族連れ。多様な人間が肩をぶつけ合いながら、盛んに会話に興じていた。テーブルは前の客がこぼしたスープで少しべたついていたが、コルシュは気にする様子もなく肘をついている。
俺は運ばれてきた葡萄水を半分ほどあおった。それからコルシュに声をかけようとしたが、背後から聞こえてきた大声に気を取られる。
「アフリカヌス様は暗殺されたのさ。間違いない」
肩越しにふり返ると、体格のいいガラス職人風の風貌の男が仲間たちに向かって声を張っているのが視界に入った。
「そりゃアフリカヌス様ともあろう方が病死なんかするものかよ、毒殺されたんだ」
隣の男、おそらく同業者がしたり顔で頷く。
「でも皇帝府の役人が調査したんだろう」
「じゃあ、それが答えだろ。毒殺犯と調査員は同じやつだ」
俺はコルシュと顔を見合わせる。俺が肩をすくめるとコルシュは苦笑いで応じた。
一カ月前、俺はアフリカから戻り、調査結果を参謀本部に提出した。
参謀総長たちはそれに疑義を入れなかった。俺の報告は公式記録となり、皇帝府はただちにアフリカヌスの死とその死因を帝国全土に発表した。一週間の準備期間を経て、皇帝が喪主となり盛大な国葬が執り行われた。首都の大通りを金銀と貴石で飾られた大理石の棺が第三軍団の先導により進む。皇帝ネロはアフリカヌスの生前の功績を称え、安らかな死を祈り、遺族の境遇を保証した。ドルッシラとカリグラは涙一つ流すことなく葬儀の様子を見守っていた。彼らに発言の機会は与えられなかった。
おおよそ考えられる限り最適な行動を皇帝府と参謀本部は取ったといえる。帝国の上層部に潜んでいると目されているアフリカヌス派にも行動を起こす隙を晒さなかった。道徳的にも実際的にも最善を尽くした。しかし、市井の中には様々な意見があるようだ。
アフリカヌスが毒殺されたという意見は、俺の背中側に座る男だけでなく、多くの市民が持っている意見だ。
街を歩くと店先や広場の一角といった人が集まるところで、アフリカヌスは毒殺されたという意見が、声を潜めるでもなく堂々と語られている。
問題はこの事件に対して、市民と同じような見解の持ち主が、貴族や軍部にも相当数いるらしいということだ。
彼らは流石に犯人については分からないという態度を見せている、しかし、アフリカヌスの死によって最も利益を得る者、またアフリカヌスを殺し得るだけの力を持つ者として、皇帝ネロが筆頭であることは理解したうえで、アフリカヌスは殺害された、などと言っていることは捨て置けない。
そのような噂の源泉は寡婦ドルッシラである言うのは本当だろうか。参謀本部に報告を行ってから俺は第12軍団に帰隊せず首都ルームに待機するよう命じられた。参謀本部への登庁も認められていない。俺は上層部が何を考えているか、またアフリカ属州の動静を知らされぬまま、いたずらに時間を消費していた。
「アフリカヌス様は病死なのにね」
コルシュがこぼしたので、俺は答えた。
「そう、十中八九はな」葡萄水で口を湿らす「つまり、一か二はそれ以外の目がある」
俺の言葉にコルシュは目を丸くした。
「でも、ヒデノリがアフリカヌス様は病死だって偉い人たちに報告したんでしょ」
「そうだとも。それが最も穏当な結論だったからな。わざわざ話を危険な方向にもっていく気はしないさ。それに、そんな俺の考えは参謀本部も見抜いているよ」
コルシュがこちらに身を乗り出し、声を潜める。
「アフリカヌス様は毒殺の恐れもあるの?」
「ルーム貴族は」俺もまわりに聞こえないように「六百年に渡る歴史の中で陰惨な権力闘争を繰り広げていた。それが高じて暴力沙汰そして殺人に至ったことは度々だ、刺殺、斬殺、毒殺は歴史書に何度も現れる、中には死因の定かならぬ不審死も。今回のアフリカヌス様の死に方、つまりアフリカ熱病な症状を示しながら殺害できる毒物を所有している貴族がいたとしてもさして驚きはない」
コルシュは黙り込んだ。俺は笑いかける。
「冗談だよ。実際、毒殺の証拠なんて何もないからね。それは噂話をしている奴らだって同じさ。しばらくは騒がれるだろうが、どうせすぐに他のことに関心を移して忘れてしまうよ」
コルシュはしばらく浮かない顔をしていたが、食事が運ばれてくると表情を明るくした。俺たちはしばらく何でもないことを話ながら食事に興じた。
俺たちが運ばれてきた料理をおおかた食べ終えた頃だった。不意に入り口のあたりからざわめきが聞こえた、先ほどまで聞こえていた活気のある声とは違う騒ぎ方だ。それからその一角が静かになる。視線を巡らせると、原色で彩色された煌びやかな甲冑をまとった若者が立っていた。その姿には見覚えがある。クラウディウス元帥の従卒だった。
彼は室内に大声で呼びかけた。
「帝国参謀長クラウディウス元帥の従卒のアリエス軍曹が諸君に告げる、ハヤシヒデノリ作戦参謀中佐を探しいている。中佐はこちらにいらっしゃるか。答えよ」
アリエスに視線が集中する。人臣位を極めるクラウディウス元帥の従卒がなぜこんな場所にいるのか、ハヤシヒデノリとは何者か、彼らの目には疑義とそして若干の恐怖が浮かんでいる。
わざわざ、こんな目立つ真似をしなくてもよかろうに、俺は内心うんざりしながら片手をあげた。
「アリエス曹長、ハヤシ中佐だ、ここへ」
アリエスは俺の前に立つと目の覚めるような敬礼をした。
「クラウディウス元帥の従卒アリエス軍曹であります。中佐に元帥の命令をお伝えするため参上しました」
「ふむ、ご苦労。して命令とは」
「はっ、明日、13:00に礼服にて参謀本部に登庁し、宮殿にて開催されるネロ皇帝陛下の詩の朗読会に同行しろとのことです」
食堂が静まり返る。かつて食事中にこの食堂がこれほどの静かさに領されたことがあるだろうか?
俺はあえて何も考えなかった。考えても無駄だという気がした。
「命令を受領した。クラウディウス元帥にそう伝えてくれ」
「はっ」
アリエスは一部の隙も無く颯爽と去っていた。
コルシュが何か言いたそうだったので目で制した。注目を浴びているこの場で話すべきではない。
俺は給仕を呼ぶと会計を済ませた。金を受け取る給仕の手は震えていたが、差し出した俺の手も震えていた。俺はそれを隠したくて懐に手を突っ込む。「考えるな」俺は自分に言い聞かせる。お前の考えで変わることなど何もない。
店を出ようとするときに、さっきのガラス職人風の男と目が合った。男はさっと目を伏せた。その顔からは血の気が引いている。
俺は一瞬男に声をかけようかと思った。「食堂での噂話ごときで皇帝は市民を処罰はせん」その類の言葉を投げかけようかと。だが、やめておいた。
理由は二つある。一つは単純に皇帝府がこの手のうわさ話に取る態度について確かな見解を俺自身が持っていなかったため、もう一つは自分の言動には責任を持つのが一人の人間として当然のことだと思い直したからだ、わざわざ俺が気を遣う理由などどこにもない。
俺は傍らのコルシュを見た。彼がドルッシラの前に立ちふさがった時、彼はそれによって生じる全ての責任を受け入れる覚悟だっただろう。いや、それは覚悟ですらない、彼にとっての当然だ。絶対にありえないが、例え死罪を宣告されたところで、彼はそれを容れただろう。
路地に出てしばらく言葉もなく歩く、俺が話したい気分でないのがコルシュには分かっている。ふと懐から手を取り出すと震えは収まっていた。だが、なにか頼りない。
「手をつなごうコルシュ」
俺がそういうとコルシュは笑顔を浮かべて俺の手を握った。暖かで柔らかい手だった。
路地に流れる異臭交じりの夜風を感じながら、俺たちは帰路についた。
俺はクラウディウスの右わきで直立不動の体勢だった。元帥の左手にはファビウスが侍っている、彼は笑顔を浮かべ余裕をもって周りの人間に対応している。彼の家柄はルームでも古い高位貴族だ、この手の集いには慣れているのだろう。
クラウディウスと談笑していたガリア属州の法務長官は別の人間に挨拶するために去っていた。
「ちゅ、ちゅ、中佐もう少し肩の力を抜け」
クラウディウスはこちらを気遣っているというより鬱陶しそうな口調で言った。
「そのとおりだ中佐、そんな態度はかえって悪目立ちするぞ」
ファビウスが笑いかけてくる。
「はっ。了解しました」
答えた瞬間、胃が蠕動するのが分かった。「無理を言うな」と喉の代わりに胃が主張している。
皇帝の詩の朗読会にはルーム帝国の有力者が一堂に会していた、首都ルームから近い属州からは総督や各職種の長官がわざわざ足を運んでいる。正直、詩の朗読会ぐらいと舐めていた、こんな大物たちが参集する場面とは思っていなかったのだ。彼らは俺の階級章を見るとなぜ中佐風情がこの場にいるのかと訝しげな表所を浮かべた。「まったくなんで私がこの場にいるんでしょうね?」そう話しかけたい気分だった。
しかしクラウディウス元帥は帝国参謀総長である。彼に比肩しうる地位はルーム帝国執政官、ルーム帝国法務長官の二つだけ。元帥が俺を連れてきたのであれば、誰も文句はつけられないのだ。
俺は深呼吸して庭園を見回した。人口過密の首都ルームにこんな広々とした空間があるとは、市民の生活環境とは隔絶している。ここに来るまでの道中、馬車の窓から見えたのは、今にも倒壊しそうなほど高く積み上げられた高層集合住宅の群れだった。競うように乱立するそれらは、互いに押し合いへし合い、路地から太陽を奪い、洗濯物と汚物と人間の体臭で隙間なく埋め尽くされていた。
ここは違う空白という贅沢物が惜しげもなく配されている。各地の属州から届けられたと思わしい色彩鮮やかな植物に囲まれて、同じく各地から届けられたと思わしき珍味が卓に並べられていた。さわやかな甘い香りが鼻に届く、空気からして違う。
ファビウスは卓の一つに近づくと、魚卵と思わしき塊が乗せられた小皿を手に取った。
「食べないかね、中佐」
差し出してくる。
「ありがとうございます」
俺は皿を受け取って、匙で塊を半分に割ると口に運んだ。
美味い。ヤマトで食べた魚卵の塩漬けを思い出す。
「旨いものでも食べて気を静めたまえよ、この後お会いする方を思えば、この程度で緊張されては困る」
ファビウスは笑顔のまま俺の肩を叩いた。
俺は気を引き締めなければならないと思った。この後の展開がどうこうではなく、ファビウスに好意を持ち始めている自分を自制するために。確かにファビウスの態度は親しみを感じさせるが、あの皇帝の陣で見た本性を考えれば、気を許すのは危険だ。
不意に庭園の入り口からざわめきが起こった。そちらに視線を巡らすと体格のいいルーム人にあってもなお逞しい骨格をした老人が拱門をくぐってくるところだった、年齢に見合わず豊かに密生した秋の穂のような金髪が日光を反射する。彼は二、三歩歩くと辺りに鋭い視線を巡らした。人々はその視線に縫い付けられたように動きを止める。風格や周囲の反応からしてただ者ではないのは明らかだった。
老人はしばらく辺りを見回していたが、こちらに目を向けると何かに気づいたような表情をし、一直線に庭園を横切ってきた。
ファビウスが俺の耳元でささやいた。
「気をつけろ」
その口調は笑いを含んでなかった。気のせいかクラウディウスの肩が張り詰めている。
その老人が近づいてくるとクラウディウスは杖を突きながらよろよろとその老人に歩み寄った。歩くたびに膨れ上がった腹が、呼吸に合わせて激しく上下している。これまでクラウディウスは誰が来ても自分から歩みよらず相手が自分の前に来るのを待ち構えていた。つまり、あの老人は。
「クラウディウス。壮健か」
老人が声を張り上げた。聞くものに畏怖を呼び起こす大音声、それは俗に英雄の資質とされる。
クラウディウスは杖を脇に挟み、両手で老人の手を握った。
「お、お、おかげをもちまして元気にやっております。ぽ、ぽ、ポンペイウス様もお変わりなく」
なるほどと俺は心中で納得する。
ルームの青史に輝く文字で刻まれた巨人。在命の歴史上の人物。
元老院議員、ヒスパニア属州総督、ヒスパニア軍団総司令、そしてルーム海軍長官。一人でそれだけの肩書を手中に収める帝国きっての大人物、ポンペイウス・マグヌス。
俺はその威容を前にしているのだ。クラウディウスの権勢ですら、彼の前では見劣りする。
……わざわざヒスパニア属州から首都まで訪れたのか。移動手段はいったい何だろう。彼が海軍長官であることを考えるとやはり海路だろうか。
俺はくだらないことを考えることで、自分が覚えている恐怖と必死に距離を置こうとした。
媚びるように笑うクラウディウス、それを当然のように受け止めるポンペイウス。二人が談笑する姿を見つめながら、俺は自分の気配を殺す。偉大なるポンペイウスよ、俺になど目をくれるな。どうか、どうかお願いです。
願いはむなしく裏切られた。
彼は俺に目をやると、俺の顔と階級章を見ていぶかしげな表情を浮かべた。
「アシア出身の中佐が、なぜこの場にいる」
「はっ! お初にお目にかかりますポンペイウス様。参謀本部所属ハヤシヒデノリ作戦参謀中佐であります。クラウディウス元帥に命じられ同行しております!」
緊張のせいか、むやみに大声で俺は答えた。
意外なことにポンペイウスは笑った。俺の肩に分厚い手をのせる。
「お前がゲルマニアで活躍したというハヤシ中佐か。報告書で活躍は読んだ。精々励めよ」
ポンペイウスは再び関心をクラウディウスに戻した。
俺は肩に残るポンペイウスの手の重みに痺れていた。たった一言とはいえ、大英雄に褒められた俺は舞い上がるような思いだった。馬鹿馬鹿しい、ポンペイウスの言葉に深い意味はないのは明らかではないか。そう自分に言い聞かせても、嬉しさを感じないではいられない。なんと単純な男だ、俺は。
冷静さを少しく欠いていたせいだろうか、俺はまた別の人間がこちらのほうへ寄ってきていることに気づかなかった。
「お久しぶりですな、ポンペイウス様、クラウディウス元帥」
声がしたほうに目を向けると、背筋の伸びたやせ型の老人が立っていた。薄い頭髪は雪のように真っ白に染まっている。
身にまとっているのは、何の変哲もない生成り色のトガだった。平民が身に着ける白寛衣だ。高官を表す紫の縁取りもなければ、金糸の刺繍もない。指輪ひとつ嵌めていなかった。
だが、その布地は恐ろしいほどに目が細かく、滑らかな光沢を放っていた。計算しつくされたドレープが、老人の痩躯を彫像のように優雅に見せている。
クラウディウス元帥は、その老人にも自分から歩み寄った。
「お、お、お久しぶりですクラッスス様。る、る、ルームにお戻りとは聞いておりませんでした」
「つい先日戻りました。お体の具合はいかがですか元帥」
クラッススはいたわるように、クラウディウスの腕に手を添えた。
帝国一の大富豪、この老人はそう人々に称される。帝国で一番ということは、世界で一番ということだ。
高位貴族出身でありながら、商業活動が制限される貴族の身分を捨て、平民に養子入りし、商業の世界に足を踏み込みかつてないほどの成功を収めた男。プブリウス・クロディウス・クラッスス。その人が俺の目の前にいる。
また歴史上の人物が姿を現してしまった。一人でも俺の許容範囲を超えているというのに。
改めて、一介の中佐ごときがこの場にいるおかしさを自覚せずにはいられない。
ポンペイウスは傲然と胸を張って言った。
「また髪が薄くなったのではないか、クラッススよ。相変わらず金儲けであちこちを走り回っているのか」
二つの巨星が対峙する。俺は目の前の光景を現実のようにはとらえられなかった。足元が揺れているのを感じる。
クラッススは含みのある笑みを浮かべた。
「色々と苦労もあるものですから。ポンペイウス様は以前会った時と変わりがないようで……お姿も地位も」
ポンペイウスとクラッススは無表情で見つめあった。俺はもちろん、クラウディウスすらそのやり取りを固唾を飲んで見守るしかない。ポンペイウスとクラッススの仲が壊滅的だというのはルーム市民なら誰でも知っている。
少しの沈黙の後、彼らはどちらからともなく笑った。それはお互いの敵意が老年になっても冷めていないことを証明するような、乾いた笑いだった。
クラッススは俺とファビウスを瞥見したが何も言わなかった。
公式的な立場としては、帝国軍人である我々より平民階級の商人であるクラッススのほうが格下である。彼が我々に話しかけるならそれ相応の敬意を払うのが道理。だが、彼の実質的な地位を考えれば、それに屈辱を感じるだろう。自分からこちらに関わろうと思わないのが当然だ。俺としてもその方がありがたい。
そう思った矢先だった。クラッススは何かに気が付いた表情をすると俺を見つめた。
「失礼ですが、ハヤシヒデノリ中佐ですか」
急な問いかけに俺は一瞬喉を詰まらせたがだが、すぐに条件反射で背筋を伸ばし、直立不動の姿勢をとる。
「はっ。参謀本部所属ハヤシヒデノリ中佐であります。お初にお目にかかりますクラッスス様」
クラッススは柔和な表情を浮かべた。
「貴方の名前は、ある高貴な方から聞いておりました。大変優秀だと伺っています。どうぞよろしくお願いします」
損得に聡い商人の笑顔を浮かべるクラッススを前にして、俺は急いで頭を回転させた。
俺と関りがあり、またクラッススとも接触のある高位の人物?
いったい誰のことだ?
アルビウスか? いや、彼女が俺を他人に吹聴するメリットがない。ヤマトニクス様あたりだろうか。しかし、彼とクラッススの接点は薄いはずだ。いまいち納得できない。
そんな俺の思考をあざ笑うように、ポンペイウスは直接的だった。
「その『高貴な人物』とは誰のことだ」
不躾な問いにも、クラッススは高い笑い声をあげて応じた。
「あえて言明していないのですよ。野暮なことは聞かないでいただきたい」
二人の間に再び、不穏な空気が漂う。あろうことか、その火種は俺だ。
本格的に気分が悪くなってきた。
二人は黙って見つめあっていた。ポンペイウスの目が険しくなり、再び口を開きかけた、その時。
「ご歓談中のところ申し訳ありません。皆様にご挨拶するために参上いたしました」
皆が声のした方に視線を巡らす。
そこに立っていたのは、煌びやかな礼服を身にまとった、小柄な初老の男だった。
だが、その立ち姿は岩のように揺るぎない。
先の戦役で昇進を果たした英雄、グナエウス・グロウメルス・カト大将が、我々に敬礼を送っていた。
なかなかゲームがスタートしねえ!