【ルーム帝国もの、第二部】先日病死された高貴なお方の死因が実は毒殺であるという不敬な噂に関する調査報告 作:お話を聞かせて
カトの姿を認めたポンペイウスは大げさに身をのけぞった。
「カト。久しいな、会えてうれしいぞ」
喜色に満ちた様子で声を張り上げる。
「ポンペイウス長官、私も再び相まみえることができて嬉しく思います」
カトは最敬礼で答えた。ポンペイウスが大股で歩み寄り巨体で小柄なカトを雁字搦めにした。数呼吸後に離れた二人は固い握手を交わす。
「カト大将。改めて昇進おめでとうございます。お祝いの品は気に入ってただけましたか?」
クラッススが割り込んで問うと、カトは袖から腕を突き出して、貴石に装飾された白銀の腕輪を真夏の日光に晒した。
「このとおり、普段から身に帯びております。武運拙く私の首が敵将に切り取られたとしても、この腕輪が私の遺体であることを証明するでしょう。素晴らしい贈り物を有賀等ございます、クラッスス様」
「縁起でもないことを。それに敵兵がその腕輪を見逃すとも思えませんね」
クラッススが品よく笑い、カトも相好を崩す。
帝国の二大実力者を前にして、カトの態度は堂々としたものだった。
しばらく彼はポンペイウス達と親し気に歓談していたが、ふといま気づいたかのように俺に目を止めた。それからクラウディウスに向き直る。
「元帥、少々ハヤシ中佐をお借りしてもよろしいですか。あのゲルマニアの夜を乗り越えた者同士、思い出話でもしたいのですが」
クラウディウスは寛大に頷く。
「きょ、きょ、許可する。は、は、ハヤシ中佐行ってこい」
カトは顎で俺を招くと菫の香りがする庭園の端、柱廊の影が差す長椅子に俺を導いた。どこからか水路を流れる水のせせらぎが聞こえてくる。
彼は椅子に腰を下ろすと自分の隣を指さす。一礼して隣に座った。日差しが遮られ少し涼しい。
カトはしばらく真面目な顔つきをしていたが、ふと片頬を歪めた。
「ここなら息をつけるかな中佐」
俺が黙っていると頬の刻みを大きくする。
「中佐の階級章であの面子と同じ場にいるのは辛かろう」
なるほど、これはカトの気づかいと言うわけだ。余計なお世話とは思わない、率直に言って大変ありがたかった。
俺は大きく深呼吸して答える。
「ご配慮感謝いたします、カト大将。実のところ、発狂しかけていたのです」
「さもありなん、彼らの不興を買えば佐官の命運など一瞬に吹っ飛ぶ。貴官には大きい借りもあるからな、助け舟を出させてもらった」
俺は首を振った。
「ご配慮には感謝いたしますが、借りがあるなどと。あの夜助けられたのは小官の方です」
「私に対して謙遜は不要だ」カトは鼻を鳴らした。「私が帝国の英雄となり凱旋式において皇帝陛下のすぐ後ろに続けられたのは貴官の献策のおかげだ。それだけでも私は貴官に大きな借りがある、しかし、他にも理由があるのだ。おい、なんで私がこの場にいると思う」
彼は嬉しくてたまらないという風に声を弾ませて、俺の肩に腕を回した。確かに属州軍団長の彼がこの場にいるは少しくおかしいと思えた、官僚と違って軍団長には不測の事態に即応することが求められているはずだ、当地を離れるような命令が下るのは珍しい。俺が答えに窮して黙り込む様子を見て、カトは愉快げに告げた。
「私は次の禁軍司令官に内定した、私はいわば帝国の上層部との顔合わせのためにこの場に呼ばれたのだ」
俺は半ば疑うような気持でまじまじとカトを見つめた。確かに現禁軍司令官は軍を辞し元老院の一員となることが決定されていた、それにカトの様子を見れば冗談ではないのが分かる、しかし、これは前例を覆すとんでもない人事だ。
「高位貴族出身者ではない禁軍司令官は初めてではありませんか。ご栄転の一言では足りませんね、心よりお祝い申し上げます、カト次期禁軍司令官」
カトは少し表情を改めた。
「うむ、その通りだ。本来、下級貴族は禁軍の司令官にはなれん。しかしあの軍議の夜の振る舞いが評価されて皇帝陛下が直々にご指名くださったのだ。これに勝る名誉があるかね」
彼はふところから金属瓶をとりだす。
「乾杯といこう」俺が一瞬、苦い顔をしたのが分かったのか、いたずら気に微笑む「安心しろ、中身は葡萄水だ。酒ではない」
俺は苦笑いしながら、金属瓶を受け取る。カトの観察眼には恐れ入るほかない。
「だが、やはり下級貴族に禁軍司令官はふさわしくない。そこで皇帝府の役人は私の血統を調べた、父祖をさかのぼれば私の家柄に箔をつけられる誰か高名な人物を見つけられると考えたのだろう。その結果、驚くべきことが分かった」言葉を区切る「どうやら私の祖先は英雄神ヘラクレスらしい」
思わぬ言葉に、俺はむせて葡萄水を吐き出してしまった。制服に小さな赤いしみが一つ二つと散らばる。
「も、申し訳ありません」
慌てて非礼を詫びた。
「謝ることはない、私も役人と神官に告げられた時はつい噴き出してしまった」カトは静かに笑った。凄みのある笑いだった。「なるほど。下級貴族は神の威名を借りなければ、禁軍司令官にはなれんと言うわけだ。別に文句はない」
確かに神の血統であるという看板はルームにおいては有力な武器だ、だれもが神など実在しないと知っていながら、そう自称できる武力あるいは政治的背景に権威を感じざるを終えない……、いや、違うな、実在する神もいる、例えばルームの初代王ルムスは死後、ルムス・クィリヌスとして神になった。もっとも現代においてその神格はけして高くはない、王制から共和制に移る際に、かつて王と言う地位にあった人物を持ち上げることに共和制ルーム人が抵抗を覚えた結果、年代を下るごとにその神格の地位は低くなった。皇帝という王と変わらぬ絶対権力者を仰ぐ体制ができても、一度沈んだ地位は戻らない。なにしろ代わりの神様がいるのだ。その名は神君アウグストゥス。初代皇帝のアウグストゥスは死後、元老院決議により神となった、その地位は大神ヘリオガバルスに次ぐ。この処置により、皇帝一族は神を祖先とすることになり神聖を帯びたわけだ、神の威光が国家を統治するに辺りどのような効力を持つか、よほどの馬鹿でもなければその威力は容易に想像がつく。
ヘリオガバルスとともにアウグストゥスの神殿は属州の各地に建てられ、ルームの威光で全世界に照らしていた。この庭園にも二柱の巨大な神像が建てられている。
英雄神ヘラクレスはこの二柱に次ぐ地位を占める重要な神だ。皇帝府の役人はカトに箔をつけるために、その血統を捏造して、その神の子孫としたのだろう。
しかしこれは、権威にひれ伏しているのか、それとも軽んじているのか。微妙なところだ。俺は顔には出さず笑う。
「そういえば、アフリカヌス殿が亡くなられたな。もしかすると私の禁軍司令官就任はその影響もあるのかもしれん」
カトが突然切り出したので俺は硬直した。アフリカヌスの死因の調査を担当したものとして、この話がどういった方角へ向かうのか、緊張を覚える。
「貴官は」カトは表情を消す「アフリカヌス殿のことをどう思うかね、率直に言ってくれ」
先ほどまでの親し気な態度が消え去っている。俺は軍事の夜のカトを思い出して、気構えを正した。
「小官如きがアフリカヌス様を評価するのは不遜が過ぎるかと」敵か味方か定かならぬものとして相対する。「カト大将には何かご見解がおありなのですか」
「ふむ。アフリカヌス殿は軍人としても総督としても大変素晴らしいお方だった、若くして亡くなられたのが残念だよ。しかし」目つきを鋭くする。「不遜な物言いかもしれんが、帝国運営に関しては現実が分かっていなかった。拡張戦争を停止し帝国の戦線を縮小せよなどと」
カトは吐き捨てるように言った。俺は黙り込むしかない。
「貴官はルームの国力の源を知っているか」俺の返事を待たない。「それは能力主義に基づく人材の流動性だ。無論、出身階級により与えられる機会の軽重あるいは数は違う、貴族の方がより多くの試しが与えられて高い地位に就く可能性は高いのは事実だ。それでも平民出身だろうが数少ない機会を逃さず能力を示せば無能な貴族より上位の地位に上ることは可能なことは確かだ。数多の実例がそれを証明している。私もその一つと言えるだろう」中空を睨みつけて続ける「しかし、そもそもなぜ能力主義が国是として採用されているかと言えば、それは四方に敵を抱えて戦争を継続中だからなのだ。周囲を敵に囲まれた我が国に無能な軍人や官僚を採用する余裕はない、効率的な人材運用がなければ遠からず国が亡ぶ。しかし、一体どのような条件で敵国と講和を結ぶおつもりだったのかは知らんが、偽りの平和は帝国に現場を忘れた教条主義と縁故主義を蔓延らせるだろう、意味のない規則、形式のための形式、血縁で官職を独占する者たち……当然、軍隊も弱くなる、兵隊たちが軍隊に志願するのは、敵国の首都を占領し栄光を浴し立身出世を遂げるためであって、国境で変化のない地平線を見張るためではないのだから。和平を結べば、なるほど、しばらくは安寧を享受できるだろう。しかし戦争を知る世代が去った後はどうなるか、弱体化した帝国への反抗の狼煙が属州の彼方此方で上がる目に見えている。そう、思わんか」
それは、まさに能力主義の恩恵をあずかり禁軍司令官に上り詰めたカトの率直な吐露だった。経験と実感に裏打ちされた言葉に、俺は何も言えない。
「アフリカヌス殿は帝国運営に関してネロ陛下と対立していたようだ。ネロ陛下は帝国有数の実力者であるアフリカヌス殿を尊重して、その意見を取り入れていたようだが、どうやら状況が変わりそうだな。各地の戦線は忙しくなるかもしれない。帝国の再躍進の時は近い」
カトは夢見るように呟いた。あるいはネロの親征の主力として禁軍を率いる自分を見ているのかもしれない。剣呑な夢だ。しかし、非望とも思われない。カトの言動は帝国の現実に則しているのだろう。
「小官の皇帝陛下の忠実な臣下であります、陛下の望むところを行う所存です。それがカト大将のお考えと合致していることを祈るばかりであります」
俺が当り障りのない返答をすると、カトは笑った。
「無論、私の意見は一つの意見に過ぎん。人それぞれ意見はあるだろうが、結局は陛下のご意向が最優先だ。そうでなければ帝政を採用した意味がない。合議制では収拾がつかないほど国土が広がったために我々は唯一絶対の主権者を求めたのだから」
カトが言い終わらないうちに、庭園から歓声が上がった。見れば宮殿の奥の有蓋歩廊から紫衣を纏ったネロと黒い長衣を纏った女性が姿を現すのが見えた。俺とカトは反射的に立ち上がり二人に敬礼を送る。
柔和な笑みを浮かべたネロは小脇に紙片を抱えている。おそらく彼が作ったという詩が書き連ねているのだろう。彼はゆっくりと庭園中央の円台に歩みを進めた。だが俺の目を引き付けてやまないのはもう一人の女性、前皇帝の妃、ネロの実母、太后アグリッピナの美つくしい貌だった。
彼女をこのような距離で見るのは初めてだが、噂に聞く通り匂い立つような濃い色香を感じた。年齢もあり目じりや口元には小さな皴が浮かんでいるが、いささかも美しさを減じるものではない、顔にかけられた黒い薄絹と一緒に彼女の美しさをむしろ引き立ている。市井ではその美しさで前皇帝をたぶらかしたのだと陰口をたたかれているが、そういうこともあり得そうだった。
人づてにより皇帝の趣味は詩作とその朗読だと聞いていた。貴人の芸術趣味などたかが知れているだろうが、精々感動してみせなくては不興を買う。俺は庭園の中央の長椅子に並ぶ人々の最後列に加わって、試すような視線をネロに向けた。ネロは笑顔で人々を見渡していたが、俺と目が合うと首の動きを止めた。じっと俺の瞳をのぞき込んでくるその視線を真っ向から見つめ返す。
見つめあったのは一瞬だった。ネロは万座に居並んだ衆賓たちに笑顔を送る。
皇帝の視線は俺に特別な感懐を齎さなかった。ポンペイウスに射竦められた時は心臓の脈動が狂いそうだったが、青年皇帝の視線にそのような力はなかった。
地上における神の代理人、唯一高貴なる帝国の主権者か。
心中でその美名をあざ笑いながら俺はネロの朗読に耳を傾けることにした。
できんと思うか、この私に!