【ルーム帝国もの、第二部】先日病死された高貴なお方の死因が実は毒殺であるという不敬な噂に関する調査報告 作:お話を聞かせて
北に向かって伸びる石畳の街道の両脇には広大な草原が広がっていた、日差しに目を細めながら地平線に目を向ければ威容を誇るグアラダマ山脈が悠々と立ち上がる、山脈の東西端は彼方に霞んで没し定かならない。ヒスパニアを訪れるのは初めてだが、この地には他の地域の風景とはまた違った趣がある。景色は視野のどこまでも広がり、果てがないように見えた。
俺たちが乗る馬車と一緒に移動する牧羊の群れが呑気にめえめえと鳴き声を上げる。幌の隙間から降り注ぐ黄金の日差し、頬を撫でる優しい風、単調な馬車の揺れ、羊たちの唱和、それらが合わさり心地よいまどろみに誘われる。傍らのコルシュを見れば、安らかな寝息を立てている。俺は軽く唇を噛んで眠気を殺す、先ほど知れたようにヒスパニアを支配するのは皇帝ではなく属州総督だ。一時とて油断することはできない。
「旦那方」馬車の馭者が声を上げる「ここいらで羊たちに休みを与えたいんだが、止めていいかい?」
「我々は乗せてもらっている立場だ。貴殿の良いように」
馬車が止まりその拍子にコルシュが目を覚ます、彼は腕を伸ばして欠伸する。俺は地面に降りると、軽く柔軟体操をした。ジャオジュンは周囲に油断なく目をやっている。周りに身を隠せるような遮蔽物などなく、草の背も低い。危険があるようには見えなかったが彼女は警戒を解かなかった。いまはその姿が頼もしい。
馬車から降りたコルシュは草を食む羊の背中を撫でている、羊の一匹がコルシュの脇腹に軽く頭を当てる。彼がその羊の腹を撫でてやると、我も我もというように羊がコルシュに群がる。しばらくしてコルシュが俺に元に戻ってきた。
「見て、あぶらでギトギトになった」
コルシュは笑顔で俺に掌を見せてくる。俺は手巾と取り出すと、同じく油で光っている彼の小さな鼻の頭を拭いてやった。彼の背後で量感豊かな雲がゆっくりと流れる。
俺は思った。この地にはルームとは違った時間の流れがある。一秒一秒が砂金の貴重さで扱われるルームの風で振舞ってもよいことはあるまい。
俺は羊の匂いを肺に吸い込みながら、ここ数日のことをぼんやりと思いだした。
ネロは当然の如く、調査の継続を命じた。俺は帝国の上層と対峙する羽目に陥ったというわけだ。
当然、最初にカエキリウス・メテッルス・プルケルなる者の調査に乗り出そうとした。彼はクラッスス閥の商人であり、それなりに大物であったが、クラッスス本人ではなかったし、他の二名に比べれば何ほどもない地位の民間人だった。彼を調査し、あるいは彼がアフリカヌス殺しの犯人であれば、他の二名について俺が考える必要はなくなるのだから、当然の方針である。
しかし、ブルケルは商談や農地の視察などでルーム帝国を飛び回っており、補足することは容易ではなかった。そのためアプレイウスから進言があった。
自分が警察局の協力によりブルケルを補足する間、貴方は居場所が明らかな者に対して、面会し事情を聴くべきでは?
その進言は明らかに正しかったし、俺としても断る理由が思いつかなかった。属州総督か太后か、難しい判断を迫られたが、俺はまずポンペイウスに面会して事情聴取することにした、その判断の源泉となったのは、ネロの詩の朗読会でのアグリッピナの振る舞いだった。彼女は俺の手に余る、それぐらいのことは分かった。まだポンペイウスの武人的な直接さのほうが対処が容易だ。
俺はアプレイウスにプルケルを捕まえておくよう指示を出し、コルシュとジャオジュンを伴ってヒスパニアに向かった。数日の船旅を経てヒスパニア南部の港に到着したが、そこで予期せぬ事態に出会った。
俺は軍の駐屯地に行き、馬を借りようとした。しかし、対応した少佐はこちらの要求を拒否した。
「言っている意味が分からないな少佐。私は参謀本部より任務を与えられている。それに協力するのは貴官らの義務だ」
「お言葉ですが、中佐」日に焼けた壮年の少佐はゆっくりと口を開いた「参謀本部から中佐が派遣されてくるという情報、またその方に協力しろという指示をヒスパニア属州総督からいただいておりません。協力は致しかねます」
「私が持ってきた命令書も階級を現す銀時計も本物であったことを貴官は確認したはずだが」
「はい、中佐その通りです。しかし、そのことには何の意味もありません。中佐の身分と受けた命令を確認し、我らに協力の指示を与える権限を持つのはヒスパニア属州総督のみであります」
「その属州総督に面会するために足を用意しろ行っているのだが、どうにも論理が転倒しているな」
俺は少佐の顔色をうかがう。ヒスパニア軍団と参謀本部の板挟みになった彼はあきらかに困った表情をしていた。庁舎には他にも上級の軍人がいるが、誰も彼に助け舟を出さない、こちらを遠巻きに見守っている。なんでもいいから、こちらの要求を断るように上官に命じられているのだろう。それを理解した俺は会話を打ち切った。
「よろしい、こちらで移動手段は考えよう、失礼する」
俺達が駐屯地の門から出てどうするか考えていた時だった。
「中佐」
不意に呼び止められたので振り向くと、さきの少佐が立っていた。
「どうした少佐?」
俺は意識して優しく答える。
少佐は一瞬迷って雰囲気を見せたが、こちらに近づき小声で言った。
「ヒスパニアでは参謀本部の名前より属州総督の名前が重んじられます。ご協力できずに申し訳ありませんが、何卒ご理解ください」彼は懐から、四つ折りにされた一枚の紙片を差し出してきた「属州総督に面会のために中央に赴かれのでしたらメスタ会議の馬車に乗り合わせるのはいかがでしょう」
「メスタ会議?」
「はい、正式名称は黄金のメスタ会議。ヒスパニアの牧羊業者の組合です。今時期、彼らは羊をともなって北行する予定です。馬車と羊で移動するので彼らの馬車に乗せてもらえばいいかと。知りあいの牧羊業者への紹介状を書いてきました。こちらを見せれば対応してもらえるはずです」
「普通の乗り合い馬車はないのか?」
「あります、しかし中佐たちはご利用できないかもしれません……意味はお分かりですね?」
「……ふむ、参考になった。礼を言う」
こうして、参謀本部の中佐である俺たちは、羊の群れの連れ合いとして旅をすることになったのだ。
数日一緒に過ごしたのは生粋にヒスパニア人だった。先祖代々、牧羊業者で彼も北部の家族を残して春と夏にヒスパニアを横断して羊たちの売り買いをしていた。
お互いへの警戒心が緩んだころ、俺は彼に何気ない口調で尋ねてみた。ルーム人の支配をどう思うかと。彼はとくに偽る調子もなく答えた。
「羊の売り買いは楽になったね、ルーム兵士が盗賊を退治してくれるから。それにみんな金の羽振りがいいよ。この調子で納めてくれるなら万々歳さ。ところで」
彼が不意に鋭い目つきになったので俺は少し構えた。
「あの子は羊飼いの素質があるよ、よかったら俺の弟子にならないか」
男は羊と遊んでいるコルシュをじっと見ていた。俺はため息をつく。
「あの子には役目があってな。残念ながら羊飼いにはなれん」
ヒスパニア政庁のある都市についた俺たちは分かれた。離れていく羊たちがときおりこちらを振り返る。そのたびにコルシュは手を振っていた。
威圧的な石造りの政庁に入り、属州総督への面会を申し込む。。流石に今回は門前払いされるわけにはいかないのでネロからの依頼であることを明かさないわけにはいかなかった。
職員はあからさまに絶句し、血の気を引かせた。それから慌てて席を外し、上長に相談するためか奥へと姿を消した。
しばらく、重苦しい沈黙の中で待たされたが、廊下の奥から現れたのは、意外極まる人物だった。
「ハヤシヒデノリ中佐、それにコルシュも」
聞きなれた声に面を上げると、笑みをたたえたヤマトニクス様がこちらに向かってくるところだった。俺の喉の奥から、思わず安堵の溜息が漏れそうになる。ヒスパニアに入って初めて味方に会えた気分だった。
「ヤマトニクス様、お久しぶりです」
敬礼する俺をヤマトニクス様は抱きしめる。
最敬礼を送る俺を、ヤマトニクス様は豪快に抱きしめた。
「ヒスパニアの旅はどうだったかね、ハヤシ君。酷く遠回りをさせられたようだが」
彼は状況を察しているようで、俺たちを人目のつかない別室へと静かに案内してくれた。 俺がネロの命令でポンペイウスに面会しなければならないことを明かすと、さすがに難しい顔をする。
「ポンペイウス属州総督は、この地においては最大の権力者だ。皇帝陛下の命令とは言え一介の中佐に相手をするのは、彼の誇りを傷つけかねないな」
「おっしゃるところは分かります。しかし私も命令された以上、ここで引き下がるわけにはいかないのです」
「それはそうだろうな」
ヤマトニクス様はしばらく顎に手を当て考えていたが、一つ頷いた。何らかの決断をしたようだった。
「ポンペイウス様はめったに登庁しない。普段は自分の宮殿にいる、そちらを訪ねたまえ。紹介状を書こう」
「ありがとうございます」
「言うまでもないが、彼には最大限の敬意を払ってくれ。彼の不興を買えば、君もそして私も簡単に事故死する、ここヒスパニアでは」
「はっ、重々承知しております」
「うむ、コルシュ受付に行って私の秘書を呼んできてくれないか」
「はい、ヤマトニクス様」
コルシュが駆けていくとヤマトニクス様は笑った。
「皇帝陛下の命令であるならば、ポンペイウス様も否とは言えないが気分は害するだろう。私の紹介状は彼の不興を少しは和らげるはずだ。私がヒスパニアにいる時で運がよかった。もう少し立てば私はこの地にいなかった」
「また別の地に赴任されるのですか?」
「君になら言ってもいいだろう、私は次期ヤマトの属州総督に内定した」
俺は息を飲んだ。
「それは、それはおめでとうございます。ヤマトニクス様」
「うん、ありがとう」
ヤマトニクス様はいかにも嬉しそうに破顔した。それはそうだろう、属州総督は本国元老院議員や軍団長と並んでルーム人の経歴の頂点だ。
「本当におめでとうございます。本当に」
賛辞を送りながら、俺の頭には一つの考えが浮かんでいた。果たしてその考えに従うことが正しいのか、あるいは役目に反することにはなりはしないか。だが、俺はその考えに抗しきれなかった。
「中尉、席を外せ。ヤマトニクス様と二人にして欲しい」
「はっ」
ジャオジュンの気配が去ったのを確認して、ゆっくりと口を開く。
「ヤマトニクス様、一つお願いがあるのですが」
「なんだい」
「ヤマトニクス様が大和属州に赴くときに、武官として私を伴ってはくれないでしょうか、属州総督の申し出であれば参謀本部も了解してくれるはずです」
ヤマトニクス様は意外そうな顔をした。
「君はルーム本国で出世する役割を与えられていると思ったが」
「その通りです。しかし、私は少々やりすぎたと思うのです。三十を前に中佐になり、ゲルマニア侵攻の英雄の一人として凱旋式に参加した。大和属州の上層部は喜んでいますが、このような栄達は逆にヤマトに対する警戒心をルーム上層部に植え付けるものではないでしょうか」
「ふむ、筋は通っている、だが」ヤマトニクス様は不思議な笑みを浮かべた「それだけかね? 腹を割って話してほしい」
俺は一瞬言葉に詰まった。俺の本音を彼に打ち明けていいものだろうか、だが、そうしなければ彼の信用を得られないかもしれない。俺は意を決した。
「私は皇族や参謀本部上層部に目をつけられています。彼らは勝手のいい駒として私を使い潰す気です。私の能力と精神はそれに耐えられそうにありません。私はルーム本国にもヤマト属州にも十分貢献しました。ここいらで帝国の運営者とは距離を置き、自分の分際に合った生活を送りたいのです」
俺が言い切ると二人の間に沈黙が漂った。ヤマトニクス様は顎に手を当て考えている。
「私が君の願いをかなえたとして、私に利点はあるかな」
「私の全忠誠をヤマトニクス様に捧げます。絶対に信用できる武官を一人、ヤマトニクス様は手に入れることになります」
ヤマトニクス様は官僚としてルーム帝国に仕えてきた、軍人経験はない。ヤマト駐屯軍の上層部と対峙するにあたって、確実の自分の側に立っている武官は欲しいだろう。
「悪くない。君をヤマトに伴おうじゃないか」
「ありがとうございます」
俺は這いつくばる勢いで頭を下げた。
「ただし」ヤマトニクス様の瞳が剣呑に煌めく「いま君に与えられている任務を十分に果たすことが条件だ。ルーム上層部の誰もが満足する結果を出すこと。誰かに恨まれた君を用いる気は私にはない」
「はっ、心得ております」
俺の胸にふつふつと希望が芽生えていくのを自覚する。この厄介な任務をこなせば、俺は晴れてヤマトに帰還を果たす。帝国の化け物どもとこれ以上対峙する必要はなくなる。問題はアルビウスの監視だが、アフリカヌスが亡くなったいま、彼女が反乱を起こす理由はない。参謀本部もそこには拘らないだろう。
ヤマトの風景が俺の脳裏にあふれ出す。コルシュを伴ってあそこに帰るんだ。
俺は手を握り締めた。