俺は、生きているべきではない人間だ。
俺には前世の記憶がある。
ごく普通の人生だった。
サラリーマンと専業主婦の両親。
そこそこ充実した学生生活。
就職だって苦労した覚えはない。
人並みの人生だったはずなんだ。
でも、心は一向に埋まらなかった。
深い深い穴が空いていて、楽しいという気持ちだけが抜け落ちたような、そんな人生を過ごした。
24歳の誕生日。
付き合っていた彼女を振った。
保育園からの付き合いで、所謂幼なじみ。
年齢的にも向こうは結婚を前提に考えていたかもしれない。
泣きじゃくる顔を見て、悪いことをした。そう思った。
冬の寒い日だった事を覚えている。
見上げれば満点の星空。
綺麗だと思える感性はあっても、心は満たされない。
昔から何をしても満たされない。欠陥品なんだろう、俺は。
下を見れば住んでいるマンションの駐車場。
冷えたベランダで、普段は口にしない酒を呷る。
そうでもしないと恐怖で押しつぶされそうだった。
耳にさしたイヤホンから流れる曲は場違いにも勇気付けようとしてきて鬱陶しい。
ランダム再生を止めてイヤホンを外すと、冬らしい静寂が耳を襲ってきて、途端に寂しくなった。
だからだろうか。考えずとも独り言が零れた。
「もう良いだろう。これ以上は変わらない」
まるで誰かにに言い聞かせるように呟いた。
ベランダの柵に体重を預けて、柵の外に出る。
「武者震いだバーカ」
そう言い聞かせると、不思議と震えは収まった。
やっと救われる。やっと終わる。
意味を探すのも、人間として取り繕うのも、もう疲れた。
なによりも、これからも生き続ける方がよっぽど怖い。
だから終わらせるんだ。
…ただ、もし来世があるならその時は
「どうか人並みの幸せがありますように」
瞬間。体は糸の切れた人形のように動かなかった。
「なのになんで?なんで俺はまだ」
「ひっくん?起きた?」
「…雫」
昼過ぎに帰宅した雫は、志歩と入れ替わりで俺の部屋に入り浸っていた。
熱のせいか眠さに耐えられなくなった俺は、そんな雫を放置するかのように眠りについていた。先程までは。
窓から差し込む光が熟れた蜜柑のようで、今が何時なのか大体は察することが出来た。
全くもって何もする気にならない。風邪とは厄介なものだ。
憂うような顔をする雫が、唐突に口を開く。
「ねぇひっくん。私、ひっくんがお兄ちゃんで良かった。だってこんなにも幸せなんだもの。ひっくんは今幸せかしら?」
「幸せ…」
その言葉を聞くと、ズンと気分が落ち込む。
それは俺には"分からない"。幸せってなんだ?
思わず胃の中のものをぶちまけそうになる。
「ひっくん!?大丈夫!?」
「ごめん。まだ体調が悪いみたいだ」
思ってもない言葉が口から出る。そんな自分にまた嫌気が刺した。
「そうよね。いきなりこんな話をしてしまってごめんなさい」
「気にするな。でも、いきなりそんな話をし始めるなんてどうした?思うことでもあった?」
「…私がアイドルをやめた時、ひっくんは言ったじゃない?私の笑顔は偽物だって」
「ああ」
あの時の雫は、見るに堪えないという言葉が似合うほど追い込まれていた。
誰かに求められてるままに演じて、追い込まれて、自分を壊してしまいそうだった。
両親や志歩は違和感に気付いたかもしれないが、雫が自ら話すほど弱くないことを俺は知っていた。
強さは時に自らに牙を剥く。文字通りの牙だ。
見ていられなかった俺は、単身雫が所属していた事務所に乗り込んでアイドルをやめさせた。
だから恨まれても仕方ない。そう思ってずっと生きてきたんだ。
「ありがとう、ひっくん」
「…え?」
「私のことを助けてくれて。見ていてくれて、ありがとう」
「雫…。俺は君の人生設計を壊したんだ。そんなこと言われる筋合いないよ」
「もう。ひっくんったらまだそんなこと言ってるの?私はちゃんと救われてるよ。楽しかったはずのアイドルが、いつの間にか辛くて、押し潰されそうになってた。今でも明確に思い出せるの。あの時の私、全然笑えてなかったって。でもね───」
不意に顔を優しい力で固定されると、雫のおでこと俺のおでこがくっつく。
ふと目が合うと、綺麗な瞳が俺を掴んで離さないように目を逸らせなかった。
「今のわたしは、ちゃんと笑えてるよ。だってこんなにも幸せだもの」
ああ。雫はちゃんと幸せなんだ。
本当に良かった。あの時の俺は、間違ってなかったんだ。
輝くような笑顔を放つ雫を前に、ようやく安堵できた。
あの時とは違う、雫の魅力が溢れた笑顔だ。
「それに…。いえ、なんでもないわ。それよりもひっくん。私、自分が笑えていなかった事に気付いて何となく分かるようになったの」
「え?」
「ひっくん。どうして、そんなに悲しそうな顔をしながら笑うのかしら?」
ああ。これだけは、それだけはバレたくなかったな。
俺は誤魔化すような乾いた笑みを貼り付けたまま窓の外を見た。
空は既に闇夜を映し出していた。
「お姉ちゃん。話ってなに?」
膝の上で眠るお兄ちゃんの頭を撫でながらウトウトしていると、帰ってきたばかりのお姉ちゃんに話があると言われた。
お兄ちゃんを1人にすべきか迷ったが、大事な話だと言われたことと、普段とは雰囲気が違うお姉ちゃんが気がかりだったために慎重に部屋を出た。
これで大した話じゃなかったらどうしようかと思ったが、実際にはそんな心配が当たる方が良かったと思うような、耳を疑う話だった。
「…お姉ちゃんの見間違いでしょ。そもそもなんでお兄ちゃんが…居なくなるなんて考えになるわけ?笑えてないだけでそんな話が「しいちゃん。これを見てちょうだい」…これって!?」
「Untitled…これもセカイへの鍵みたいなの」
「セカイ…の」
そもそもお姉ちゃんがなんでUntitledの事を?お姉ちゃんがセカイを知っている?
まさか私達のセカイがバレた?
…いや、おかしい。これは"お兄ちゃん"が使っていた音楽プレイヤーだ。
お姉ちゃんはなんでいきなりこの話をし始めた?
元々はお兄ちゃんが私達の前から居なくなるかもしれないって話だった。
じゃあ、このUntitledが関係しているのは…。
その先に続く言葉を聞きたくなくて、認められなくて、今にも現実逃避をしたかった。
でも、思い当たる節は確かにあったから、脳が現実だと理解させてくる。
お姉ちゃんは、辛い事を思い出すかのように言葉を紡いだ。
「このUntitledはひっくんの…響の思いでできている。そう言われたの」
「…誰に?」
「ミクちゃんよ。私達やしいちゃん達のセカイとは違うミクちゃんが、助けを求めてる。だからお願いよしいちゃん。力を貸して!」