なんでもない、普通の日だった。
いつものようにセカイでMOREMOREJUMP!の皆で振り付けの確認をしていたら、彼女は現れた。
ちょうど雫が1人になるタイミングを見計らったように、物憂げな顔をする彼女はこう言った。
「はじめまして、日野森雫。私は初音ミク。ヒビキを失いたくないなら手を貸して頂戴」
その後予定より早く切り上げた雫は、自分の部屋で彼女と話してみることにした。
「それで、ひっくんを失うってどういうことかしら?」
「…話は長くなるわ。まず、私は日野森ヒビキの想いが形になったセカイで生まれた。もちろん貴方達のセカイにいる初音ミクとは違う」
「私達のセカイ以外にもセカイが…?」
「セカイは"強い"想いを持っている人間が創るものよ。例えば、誰よりも負けたくないという熱い想い。逆に泣きそうなほど悲しい想いでも創られるのよ」
「そうなのね…。じゃあひっくんのセカイはどんな想いでできたのかしら?もしかして、いい音楽を届けたいっていう「違うわ」…え?」
彼女の泣きそうな顔を見て、雫は困惑した。
自分のセカイの初音ミクは常に明るい顔で、声で、周りを盛り上げてサポートしてくれる存在だから。
今の初音ミクは何かに怯えるようで、辛そうな顔をしている。
その原因が、大好きな兄である響かもしれない。
だからこそ、彼女の話を聞くのが少しだけ怖くなった。
「落ち着いて聞いて。ヒビキの想い…いえ、願いは」
「自死よ」
「…し?」
「…自分が死ぬこと。それがひっくんの想い」
私はお姉ちゃんが何を言っているのか理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
だってそんなことありえない。
あのお兄ちゃんが?いつも優しくて、私の憧れで、最高にかっこよくて、大好きで。
そんなお兄ちゃんが、死ぬ?
「嘘だって思いたいのはわかるわ。でも、そのセカイに行けば嫌でも信じたくなる。しいちゃん、セカイへの行き方はわかるわよね?ひっくんは私が見ておくから、まずはひっくんのセカイへ行って。そこから先はミクちゃんが話してくれるわ。今は何より、ひっくんにこの事がバレないようにしつつ、1人にしない事が大切なの。ひっくんがいつ起きるかもわからないわ。だから早く」
「…わかった。なんでお姉ちゃんがセカイのことを知ってるのか、私がセカイに行けることを知ってるのかは後でちゃんと聴かせてもらうから」
「ええ。ちゃんと話すわ。お兄ちゃんにも、全部」
「うん。じゃあ、お兄ちゃんをよろしく」
お姉ちゃんに音楽プレイヤーを渡され、そのままUntitledをタップする。
音楽プレイヤーにはスピーカーが付いていないため、イヤホンを自分の耳にさしてから再生ボタンを押すと、私の目に映ったのは住宅の一室らしき場所だった。
「日野森志歩。ようこそセカイへ」
壁に背中を預けながら足を伸ばして座るその姿は、どこか気怠げで私の知る初音ミクとは全く違うものだった。
「…あなたがお兄ちゃんのセカイのミク?」
「そうよ。あなた達のセカイのミクとは随分違うでしょうね。…いえ、あなた達のセカイのミクが特殊なのかもね」
「私達のセカイを知ってるの?」
「ええ。私は特別だから、世界を行き来できるの。あなたのセカイも、日野森雫達のセカイも見に行っているわ。もちろん他のセカイのバーチャルシンガーはそんなこと出来ないし、ヒビキがあなた達のセカイを見ることもできないから安心して頂戴」
「…安心ってなに?いきなりお兄ちゃんが死ぬかもしれないって言われて来て、そんな話を聞いたからって安心出来ると思ってるの?」
わかってる。こんなのは八つ当たりだ。
ミクだってそんなつもりで言ってるわけじゃないのはわかってる。
でも、お兄ちゃんが…消えてしまったら私はどうやって生きていけばいい?
「悪かったわ。でも、伝えておいた方がいいと思ったから、伝えたわ」
「伝えておいた方が…?それより、お兄ちゃんがどうして死にたいと思うわけ?そんな素振りも言動も全くなかった。あなたが嘘をついている可能性だってある」
そう。このミクが私達に嘘を付いている可能性もある。
お兄ちゃんが死にたいと思っている…なんて話よりはまだそっちの方が信憑性が高い。
「そうね。信じてもらえる証拠ならあるけど、かなりショックを受けることになるわ。それでも良いかしら?」
「…どんな事でも、お兄ちゃんの事なら私は知りたい。だから、証拠を見せて」
「わかったわ。でも約束して。絶対にヒビキの事を諦めないと。救ってみせると、誓って頂戴」
誰に向かって言っているのか、このミクは。
私はお兄ちゃんを愛すと心に誓ったんだ。愚問も愚問。
私を、お姉ちゃんを助けてくれたお兄ちゃんを、今度は私たちが救う番だ。
だから──
「そんなの当たり前でしょ。私、お兄ちゃんの妹だから。たとえ地獄の底だとしても、私たちの場所まで引っ張りあげてみせる」
「…いい目ね。ならこっちへ来て」
ミクはそういうと、ベランダへと繋がる窓を開けた。
ここがセカイだとは思えないほど現実的な光景。
そこはごく普通のマンションの一室のベランダだった。
「ここに何が?」
「外にコンクリートで舗装された玄関があるわ。落ちないように下を覗いて見て。決して飲まれてはダメよ」
飲まれる?何に?
ミクの言葉よりも好奇心が勝ったからか、私は言葉を返すこともせずに下を覗いた。
身長がギリギリだった為に少し身を乗り出して、見る。
今までは分からなかったが、高さ的に5階くらいの高さかな。
外が夜だからか、よく見えない。
目がようやく闇に順応してきたと思ったら、目に飛び込んできたのは白いコンクリートに広がる赤く、黒いナニか。
それはずっと深い場所まで繋がっているようで…
深くふかくフカク深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く
「待ちなさい」
「痛っ!?」
気付けば私の体は重心がベランダの外へ出ており、まさに落ちる一歩手前。
ミクが私の足を掴んでいた為に落ちなかったが、落ちていたらどうなっていたことか。
掴む力が強すぎて、脚に手形が付くほどだが。
「落ちても死にはしないから安心…はできないでしょうね。だから飲まれないように言ったのに」
「…あれは何?」
「人間の血液よ」
「けつ、えき?」
「誰のものかって?…ここは誰のどんな想いで創られたセカイ?何故私が落ちても死なないことを知っていると思う?自ずと答えは出るでしょう?」
「つまり、あれは…お兄ちゃんの…血?なんで…」
「そうよ。紛れもなくヒビキから流れ出た血液よ。最初はこっちで死ねば現実でも死ねると思っていたのでしょうけど、そんなに甘くはなかったみたいね」
実際私も死ぬと思っていたし。とミクが呟くが、そんなことはどうでも良かった。
あれがお兄ちゃんの血なら、もう既に何度も死のうとして飛び降りているということだ。
つまり死ぬ覚悟も行為もずっと前からしていて、結果的に幸運だったからまだ死んでいないだけ。
その結論に体が、心が震えて仕方がない。
気付いたら、いつの間にかお兄ちゃんが死んでました。なんて冗談じゃない。
私は理解できていなかった。その恐怖を。
いつも隣にいるお兄ちゃんが居なくなる?
キッチンに駆け込めば、嘔吐と涙は止まらなかった。
お兄ちゃんがそこまで苦しんでいることが、そんな苦しんでいる兄に甘えるばかりで何も気づけなかった自分が苦しくて仕方がない。
ミクに背中をさすられながら、私は何もかもを吐き出すように泣いた。
声にならない嗚咽だけが部屋の中に響いていた。
「…本当はあなた達に背負わせるべきではなかったのよ。私があの子を救えなかった。それだけなのに」