『過去』について……
君は過去をやり直したいと考えたことはあるかい? 失敗してしまった過去、喪失を経験してしまった過去……或いは自分自身の足取りさえも消してしまいたいと思ったことはあるかい? ……俺はあるよ。何度も何度も過去を変えられたらってね。まあ、いくら思っても叶わなかったんだけどね。
ナシャタウンの一画──この民家は元々、あるライトキーパーの自宅だったらしい。
今は亡くなってしまったそうだが、多くの死地を乗り越えて、部下や同僚からの信頼が厚い人物だったそうだ。
「……」
多くの報告書が連なり、分厚くなっている冊子のページを一枚、また一枚と捲っていく。
これは家主が亡くなる瞬間まで、各地で起こったワイルドハントについての報告書を纏めあげたもの。
元々は自分の仕事の引き継ぎのために用意していたそうだが、生きて後任に引き継ぐ事は無かった。
そして、主にこの冊子に記載されているの各地で発生したワイルドハントの規模、その日付と受けた被害、加えて事態の収拾にあたった人員の詳細などが記されている。
ページを捲っていく度に、俺が知らない名前は勿論、知っている名前がしばしば現れるのは、多くの者達がこの地で戦っていた証と言えよう。
周知の事実ではあるが、ワイルドハントはこの地で幾度と起こってきた災害である。
しかし、ある時期をその件数は爆発的に増加し、発生する魔物達の動きもより統制された組織のようなものへと変貌を遂げている。
事実、目を通した資料の中でも魔物と交戦した際の様子や、遭遇した時の状況が事細かに記載されており、初めは難なく制圧出来ていた規模でも、ある時期をさかいに苦戦を強いられるようになっていった過程が見て取れた。
そして、ワイルドハントの勢いに比例するように負傷者と犠牲者の数もページを捲る度に増えていった。
「──進捗はいかがですか?」
軽いノックの後、部屋の扉が開けられ、入口から長身の何処か浮世離れした男性が入ってくる。
彼の腰にはライトキーパーの象徴とも言える、特徴的なランプが提げられていた。
「まずまずって所かな……まだ全ての資料に目を通した訳じゃないけど、やっぱり
「スカラマシュさんは、そのある時期に何かがあったとお考えで?」
無論、確たる証拠はない……けれど、あの
彼の周りを省みない所は俺が執行官となる以前から、全くと言ってもよいくらいに変わってないからだ。
「……フリンズさんは今、ナド・クライで活動してるファトゥスが何人いると思う?」
「ふむ……まずはスカラマシュさん。そして、あの夜にお会いしたサンドローネさん。後は最近、アルレッキーノさんがナド・クライへ来たと仰っていましたね」
「そう、ファトゥスの第六位、第七位、第四位……皆が面識があるのはこれくらいだろうね。でも、あともう一人のファトゥスがこの地にいる」
「……驚きました。ファトゥスが同じ地に四人もいるとは……して、そのもう一人とは?」
「──第二位『
「第二位……第三位であったコロンビーナさんよりも更に序列が上の執行官までもですか。それに、貴方の様子を見る限りですが、その方はどうも一癖も二癖もあるご様子ですね」
「一癖、二癖で済んだらまだ可愛げはあったかもね……」
基本的に執行官の順位は当人の実力によって決まる。
前任者が殺された『召使』や、長らく空席だった『散兵』、殉職した『淑女』と違い、彼の席が変わったことはない。
「そして、その第二位の執行官が先程、仰られていた事に関係があるのですか?」
「ああ、結論から言ってしまえば、ワイルドハントが活性化したのが、彼がこの地へ赴任した時期に重なるんだ」
「それは……」
「勿論、あくまで俺が持ち得ている情報と、此処で見た情報を照合して出した推察に過ぎない。でも、彼のやり口は嫌になるぐらいに見てきたからね……彼と一連の出来事が決して無関係には思えないんだ」
かつて『月の狩人』はアビスと同化した後に、その身は数千単位の欠片となるまでにバラバラとなってしまったそうだ。
そして、彼の心臓の欠片を偶然、フリンズさんが手に入れ、保管していた所、その欠片の危険性を案じて彼のランプへしまっていたらしい。
確かに幾千もの欠片となった彼が自らの補完を目指して行動するのは理にかなっている。
それに応じて各地のワイルドハントが活発化するといのも理解ができる。
だが、幾千もの欠片となって散った彼の弱体化は著しいものだった筈だ。
それこそ己の形を保つ事すら儘ならないほどに。
そんな中、各地に散ったであろう彼の欠片が都合良く、最低限の形を保てるほどの量が彼の元へ戻ってくるものだろうか?
しかし、現実にはワイルドハントの活発化や、それに伴う混乱を踏まえ、彼は現世へと戻ってきた。
それこそ、まるで誰かが彼の為に彼の欠片を集めていたかのように──
だが、仮にドットーレが『月の狩人』と繋がっていたとする場合、更に疑問が生まれる。
現在、ドットーレが『月の狩人』と繋がっているとすれば、その真意がコロンビーナを手中に収めようとしているのは容易に察しが付く。
だが、現時点での『月の狩人』の行動はむしろ彼の計画の妨げになりかねない筈だ。
なのにかかわらず、当のドットーレは今に至るまで、この状況を静観している。
まるで、自分が望む結果が実際に起こるのを待っているかのように──
「──スカラマシュさん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫さ。昔、彼のせいで散々な目に遭った事を思い出してね」
「あまり気負いなさらないでください。僕が見る限りではありますが、スカラマシュさんはここ最近、調子が優れないように見えます」
「そうだね……この一件が終わったら有給休暇を打診してみようかな」
ふと、脳裏に浮かんだあの時の光景を振り払い、再びページを進めていく。
ワイルドハントの記録もそうだが、ファデュイの進駐や西風騎士団の遠征軍の参戦など、此処ナド・クライで起こった様々な出来事が記載されていた。
フリンズさんや騎士団のファルカさん達は勿論、ファトゥス第一位『
「それにしても……これを残してくれた人はとてもマメな性格だったんだね」
「ええ、こればかりはスーシ隊長に感謝しなくてはなりません。彼がこうして記録を纏めてくれていなければ、この地における、人々の奮闘は時の中に埋もれてしまっていたでしょう」
スーシ……以前、ナシャタウンでライトキーパーが殺害された事件があったと聞いたが、確かその被害者だったか。
しかも、その犯人は復活を遂げる前の『月の狩人』であったと。
「なら、今度こそ、『月の狩人』に勝って墓前に錦を飾らなきゃね」
「ええ。しかし、スーシ隊長としては錦よりもお酒の方が喜びそうですがね」
「此処に居たのか、二人とも! 探したぞ!」
入口の方から慌ただしい足音と共に、ヤフォダさんが入ってくる。
「おや、ヤフォダさん。いかがされましたか?」
「姐さんの調査が終わったから、皆に声を掛けてるんだ。今回の調査結果を共有するから秘聞の館に来てくれ!」
「おや、どうやらネフェルさん達も大きな進展があったようですね」
「みたいだね……なら、すぐに向かうとしよう」
開いていたページを閉じ、本棚の空いた箇所に冊子を差し込む。
今の状況で最も優先すべきは『月の狩人』に対処する事だ。
それに、サンドローネの計画通り、アルレッキーノがナド・クライへ来てくれた。
本国からドットーレに対して、帰還命令が下るのも時間の問題だろう。
ドットーレがスネージナヤに帰った後ならば、俺が抱いた疑問については幾らでも調べることが出来る。
抱えている問題は着実に事態は収拾へと向かっている筈──なのに、何故だろう?
『■■■』
「──っ」
この、胸の奥底でゆっくりと燻るような──妙な違和感が消えないのは。
「────以上が今回の調査で得た情報だよ」
皆の注目が集まる中、ネフェルさんは何処か疲れた様子で調査結果について話してくれた。
『月の狩人』──レリルはカーンルイアの黒王の臣下であり、彼に与えられていたのは赤月の生き残りの粛清であった。
彼は情報を集める傍らで、数多くの赤月の生き残りを処刑した。
最初は大人ばかりであった標的も、やがては子供ばかりへと変わっていく。
彼の仕事は難しくなっているようで、簡単にもなっている。
しかし、彼はそれでも黒王への不信感に揺れながらも、着実に任務をこなしていた。
そして、彼はその役割を恋人であったソリンディスに話すことができず、あろうことかソリンディスも赤月の生き残りの一人であった。
さらには、ソリンディスも自身の恋人が自分達の同胞を殺していた処刑人であった事を知ってしまい、お互いに身の丈を話すことができなくなってしまったのだと。
そして、ダインスレイヴの兄──後の五大罪人となる『預言者』ヴェズルフェルニルの言葉。
自分とソリンディスの運命──それをなんとしてでも打開する手段を模索していたと。
そうして、互いに真実を話すことが出来ないまま月日が流れ──一つの事件が起きた。
その日、『預言者』ヴェズルフェルニルが黒王によって両目を潰され、投獄されてしまったのだ。
当時のダインさんは怒りに駆られ、後の五大罪人となる『黄金』レインドット、『極悪騎』スルトロッチ、『賢者』フロチュタプールと共に宮殿へ攻め入る計画を立てた。
ダインさんの友人であったレリルもそれに協力し、彼はヴェズルの救出の任に当たったそうだ。
そして、彼の人生はこの瞬間を以て、砕けた──
ヴェズルが言うように、彼の運命はまるで水面に映る月の影のようだと言う。
──どれだけ揺さぶろうと、一瞬しか壊れず、本当の意味で抹消することは出来ない。
宮殿の動乱の最中、研究対象であったアビスの暴走──否、他の罪人がその呼び掛けに応じたからか。
施設内でアビスの魔物が出現し、レリルもソリンディスの救出へ向かったが、彼女はある空間の扉を開いていた。
そして、静止するレリルの声を聞かず、彼女はその扉の向こうへ身を投げた。
最後の最後まですれ違った二人──それは皮肉にも彼を辛うじて留めていた鎖を完全に切ってしまったのだ。
そうして、彼はアビスの声に応え、ダインさんを裏切り、他の四人と共にその力を分け合った。
故に彼は手を伸ばす──如何にその手が空を切ろうと、狂気にまみれようと、不可能であってもそれを決して認めずに──
「──成る程。だからあれだけ月の事を気にしていたんだね」
「確かに悲しい話ではある。だが、それは多くの出来事を正当化する理由にはならないな」
ファルカさんの言う通り、結果としてレリルはワイルドハントという災いとなってこのナド・クライへと流れ着いた。
そして、そんな彼は力を増し、ナド・クライはおろかテイワットにおける脅威となりかねない程のものになってしまった。
「コロンビーナさん。少し、お尋ねしても? 先程の話にあった、彼らが飛び込んだとされる空間への扉にを見たことがありますか?」
「無いかな……でも、聞く限りだと、それは『月の扉』の事だと思う」
「『月の扉』……ラウマさんは何かご存知で?」
「霜月の子の伝承によると、月は秘密を隠している──時に古の知識を、未知に通じる扉を。私も『月の扉』の伝説は聞いたことがある。だが、実際に目にした者はいない。故に断定はできないのだ」
「ちなみにコロンビーナはその扉の向こうに何があるのか知らないのか?」
「残念だけど、私にも分からない……でも、力はかなり戻ってきてるから、扉は応えてくれそう」
「ふむ……それは月神の権能なのでしょうか?」
「うん、月の神には扉を開ける資格があるの。それこそが月の径でも、扉を維持するには強い力が必要なの」
ネフェルさんの話であった二人の場合、アビスの力を使い、無理やりに月の扉を開けたのだろう。
だが、そのような手法には代償が付いて回るものだ。
二人はその扉の向こうへ飛び込み──結局は通り抜ける事は出来なかったのだろう。
「これはあくまで、ネフェルさんの話を聞いて思い付いた仮説だけど……『月の狩人』とソリンディスはその扉の向こうへ行くのに失敗したんじゃないか?」
「えっ、失敗? どう意味だ?」
「そもそもの話だよ。月の扉の向こうへ行くのに何の障害も無ければ、その向こうで『月の狩人』とソリンディスは再会できていた筈だ。そうなれば、わざわざ復活という形で戻ってくる必要なんて無い」
「そ、そうだけど……」
「さらにだ、ソリンディスはさておき、アビスの力を得た『月の狩人』は無数の欠片と成り果て、少し前まで散らばった自身の欠片を集めていた。実際にフリンズさんは彼の心臓の欠片を持っていて、彼はそれを手に入れようと襲い掛かってきた……そうだろう?」
「ええ。その節は旅人さんのおかげで命拾いをしましたよ」
「そして、ライトキーパーの記録ではある時期を境にワイルドハントが活性化。その規模も、受ける被害も膨れ上がるようになっている」
「成る程な。確かに理にかなっている。元々は一つだった破片が元に戻ろうとしていると考えれば、大量にワイルドハントが発生している現状に説明がつく」
「加えて、『月の狩人』がそうなったのであれば、先行したソリンディスも例外ではない筈だ。でも、アビスは呪いのように命を延長させる。どんな形になろうとも、存続し続ける」
「その通りだ。アビスの力は呪いとも言える」
もしかすると、『月の狩人』のようにソリンディスも無数の欠片となるまで引き裂かれ、未だ月の扉の中に存在し続けているのかもしれない。
月の扉を通り抜けられなかった彼女の肉体は塵も残さずに消滅し、ただ魂のみが其処に存続する。
それは自身にとって過ぎた力を使ったことの代償か、はたまた両者のすれ違いが生んだ悲劇なのか。
でも、ただ一つ確かなのは、彼らがかつてのように再会することは最早、決して叶わないということ──
「……」
「ダイン、どうかしたのか? 顔色が悪いぞ」
「いや、ただレリルがどうしてこんな風になってしまったのか、考えていただけだ」
「レリルとはかつて友人同士であったそうだな。その……あまり慰めにはならぬやもしれぬが、あまり気を落とさないでくれ」
「うん。ラウマの言う通り、月にも星にも──目に見えるものには秘密や嘘が隠されている。そして、人生ってそれよりも波乱に満ちたものでしょ?」
人は古来より嘘をついて生きる生き物だ。
自ら利益を得るために嘘をつくし、失敗を隠すためにも嘘をつく。
少しでも美しく見られたいが為、外見さえも嘘をつく。
しまいには、自らのいつも通りを守るために──仲間にだって嘘をつくのだ。
「そうだね……人との繋がりってのは全てが真実ではないし、誰だって秘密を抱えるものだからね」
故に他者からの意図と、自分の意図とは差異が生まれ──やがては致命的な綻びとなる。
「……誰かに慰められるのは久し振りだな。感謝する」
「スカラマシュさん──」
「──そうだね。やっぱり懸念事項といえど、皆が知っておくべきだね」
「ん、懸念事項?」
「さっき俺が仮説を話していた時、ある時期を境にワイルドハントが活発化したと言っただろう。それと同時期にファデュイでも動きがあったんだ」
「……それって『博士』のこと?」
「流石、コロンビーナ。鋭いね……ライトキーパーの記録にあったワイルドハントが急に活発化した時期、それはドットーレがこの地に赴任した時期と重なるんだ」
「ドットーレ……ファデュイ執行官の第二位か」
「あ、あいつもナド・クライに来ているのか!?」
「ああ。……確か旅人とパイモンはスメールで彼と会っているんだったね」
「……うん」
「成る程な……だが何故、同じ執行官の存在が懸念事項になるんだ? 立場上は同僚なんだろう?」
「生憎、ドットーレのやること成す事に同僚という関係は通じないのさ。彼は自分が望む結果を得る為なら、どんな手段だって使うよ。部下や同僚から如何なる犠牲が出ようとね」
「そ、それじゃ……ドットーレもコロンビーナの事を狙っているって事なのか?」
「否定はできない。以前、恒月の月髄を手に入れようとしていたのは彼だからね」
「そ、そんな……」
パイモンの顔がみるみる内に青ざめていく。
まあ、当然だろう『月の狩人』だけで厄介だと言うのに、それと同等の脅威がまだ控えているかもしれないのだ。
「無論、この潜在的な脅威を野放しにしておくつもりはない。既にサンドローネ、アルレッキーノ達と共に動いている。経過は全くと言っても良いくらいに順調だ」
「動いているって……ま、まさか……」
「……誤解が無いように言っておくけど、別に暗殺しようとかじゃないよ。同じ執行官である以上、正当な理由が無ければ粛清する権利はないからね」
「おや、その言い方だと同僚じゃなければ、手を下していたとも取れるがね」
「おや、そんな無駄なことはしないよ。仮に彼が俺の仇だったとして、その仇を討ったって何も返ってくることはないだろう?」
「……そうだね」
「さて、話を戻そう。今、俺が共有した事については、前にアルレッキーノが言っていたように、ファデュイとしてではなく、個人として君達に協力するという誠意のつもりだ。当初の計画が佳境に入ってるからこそ、敢えてこの場で共有させて貰ったよ」
「確かに大がかりな作戦は佳境に入った途端、足を掬われやすくなる。情報の共有については素直に感謝しよう。皆も常に気を張る必要はないが、それでも気を付けてくれ」
「ああ。ネフェルさんも貴重な情報をありがとう。後程、得られた情報を基に検証をしてみよう」
「ああ、そうしておくれ……っ!」
そう言い終える前にネフェルさんが、まるで糸が切れた人形のようにその場に膝を着く。
「姐さん!」
「……ヤフォダ、そんな情けない声を出すんじゃないよ。まあ、『月の狩人』とやり合ったのもあって、少し疲れが出たのかもね」
「皆、会議はここまでにしよう。ネフェルには休息が必要だ。今日一番、大変な思いをしたのは彼女なのだから」
「おや……随分と気に掛けてくれるんだね」
「当たり前だ」
「よし、それぞれ休憩を取るとしよう。後でまた具体的な計画について話し合うぞ」
「なら俺は一度、実験設計局に戻らせて貰おうかな。サンドローネ達とも今回、得た情報を共有したいし……次のお茶会にゲストを呼ぶ話もしなきゃいけないからね」
「フフッ……うん、お願い」
「もし、また集まる時は北国銀行の者へ言ってくれ。彼処には俺の部下が控えているからね。事前に連絡するように命令してあるから」
「分かった。それじゃ皆も今は休んでくれ。解散!」
ファルカさんの言葉に、各々が立ち上がり帰路へ向かっていく。
秘聞の館の扉を開けると、外は既に夜の帳が降り、北方特有の冷たい風が肌を打った。
仕事を終えたであよう子供が和気藹々と横を駆け抜けていく。
「──■■■」
後ろから俺の名前が呼ばれる。
「────っ」
吹雪のような冷たさが肌を──身体の内側にまで刺さる。
呼吸が止まる──その時は息も声も喉に留まっているように思えた。
それでも、機械のように動く手は小銃へと伸びていく。
「■■■■■■」
息を吐いて無い筈なのに、心臓が堰を切ったようにのたうち回る。
それを撃て──最低限度の思考以外を放棄した脳が冷徹に身体に命じる。
「■■■■■■」
あの声が──もうすぐ其処まで──
「──スカラマシュ」
「──っ! はぁっ、はっ……?」
「スカラマシュ……大丈夫?」
コートの裾を摘み、コロンビーナは俺の名前を呼んだ。
「あっ……コロンビーナか……?」
先程までの感覚は何処へ行ったのか、身体が酸素を求め、荒く呼吸を再開する、
冷たい空気が身体の中へ入り、早鐘を打つ心臓を静めていく。
「スカラマシュ、本当に大丈夫? 今、ものすごく苦しそうな感じがしたよ?」
「えっ? ああ……うん、平気だよ。いや~帰ったら仕事が待ってると思うと憂鬱でさ──」
「──嘘だよね?」
コロンビーナはその双眸を閉じたまま、覗き込んでくる。
「最近のスカラマシュはずっと無理してる。辛い筈なのに平気だって言って、皆に心配を掛けないようにしてる」
摘まんでいた裾が今度は握られ、今度は腕が引かれる。
まるで何かに引かれるような……いや、引き戻されるような感覚は何なんだろうか。
「──私じゃ、力になれない?」
「……コロンビーナがいてくれて助かってる。それは嘘じゃないよ。でも、これは俺の──個人的な問題なんだ」
いつの間にか離された腕を気に留めることなく、再び歩き出す。
故障した街灯がチカチカと光る、先が見えない薄暗いその道を。
──今宵の月は厚い雲に隠れていた。
『散兵』について➃……
最近のスカラマシュは様子が変なんだ。苦しそうにしてたり、辛そうにしていることが多くなった。スカラマシュは平気だって言うけど……時々、怖くなるの。もし、スカラマシュが『月の狩人』のようになってしまったらって。