『名前』について……
名前というのは人に限らず、存在するものを規定する上で必須の要素だ。同時にそのものの過去、現在、未来にまで付いて回る。たとえ、その持ち主がどれほど嫌って、捨てようとしてもね……ん? 俺の本名が知りたい? そうだね……君にとっては知る価値が無いものとだけ、言っておこうかな。
ナド・クライ北部の、海を望めぬ峰の港は物々しい雰囲気に包まれていた。
スネージナヤ本国とナド・クライの三つの島を繋ぐ要所でもある此処は、それなりに人の出入りというのが見受けられる。
しかし、今日に至ってはライトキーパーはおろか、行商人、冒険者の一人さえ埠頭を歩いてはいない。
そんな彼らの代わりに、仮面を着けた兵士達が手に武器を携えたまま、一律不動で整列しており、脇に退かされた行商人やライトキーパーらに鋭い眼光を飛ばしていた。
そして、静止した兵士達の間を一人の男性が悠々と歩いてくる。
その男が着けた仮面の向こうからは少しの落胆……いや、退屈だろうか。
「フン……見送りはお前、一人か? スカラマシュ」
「ええ。誠に不本意ながら俺一人です」
「そうか、どうやら知らぬ間に私も随分と不興を買ってしまったようだ」
「おや、その自覚があられたのですか。これは少し意外ですね」
そもそも、このマッドサイエンティストは自身に好かれる何かが今まであったと本気で思っているのだろうか?
ちなみに、サンドローネ曰く──『なんで、私がアイツの見送りになんて行かなきゃいけないのよ。そんなのに行くぐらいなら執務室で仕事してた方がマシよ』
加えて、アルレッキーノからは──『スカラマシュ、時間というものは有意義に使ってこそ、初めて意味を成すものだ』
──と、オブラートに包んではいるが、結局はサンドローネと返答は同じだった。
……いや、俺だって叶うなら来たくなんてなかったよ?
それなのに、執行官の誰かがドットーレの退去を確認しろとかいう本国からのお達しが来てしまった。
これがドットーレに対する信頼の現れなのか、それとも形式的なものを重視したのかは定かではないが、面倒な仕事が降って湧いてしまった訳だ。
それに対して、先の二人の反応である……つまり、仕方がなかったってやつである。
というか、彼について審議するのはあくまでも内務省の役人なのだ。
なら、責任を持って彼らが連行するのは、彼らの責務ではなかろうか?
「どうした? 何か言いたげな顔をしているが」
「いえ、別に何も無いですとも」
まさか、可能ならそのままずっとスネージナヤで試験管弄りをしていてくれなどと言う訳がない。
彼だって、感性及びに人間性は最悪だとはいえ、一応は同僚なのである。
それにこれは仕事──話しかけてくる彼に対して、『早く行け』と思っても、口にしないのは当然である。
「フン……しかし、意外だな。『月の狩人』の撃退にはお前が尽力したとはな」
「おや、ご存知でしたか。てっきり、実験にご執心で、時事に関しては存じ上げないと思っていましたよ」
「実験とは変数が付いて回るものだ。実験者はそれを観測してこそ、初めて事象を理解する」
「そうですか。いやはや、参考になります」
彼が言う『冒涜に対する実験』になど、これっぽっちも興味はない。
今の俺が望むのは潜在的な脅威になり得る彼の一刻も早い退去のみである。
しかし、それを見越したのか或いは──そうして、彼は滑稽だと言わんばかりに嗤う。
「くだらない世辞は止せ。しかし、お前は変わらないな。力を持ちながら、それを浪費してばかりとは。実に愚かで嘆かわしい」
「……おや、少なくとも、俺は自分自身の為に戦っているつもりですが?」
「それは貴様の渇望からか?」
「……ええ。そうですとも」
「人とは元来、己が欲したものを得る為に自らの力を──時間を行使する。まだ見ぬ知識を、新しい世界を……或いは富、力、命、快楽でも良い。人は望むからこそ、前へと進む。なのに、お前はどうだ?」
「……」
「一度でも先を望んだか? 己の欲を叶えようとしたか? 自ら得ようとしたか? いや、お前は終わりしか望んでいない。それを滑稽と言わずして、何と言う?」
彼に対する悪態なら腐るほど心中で湧いて出てくる。
けれど、俺は何も言い返せない──いや、彼の言葉に同意している自分がいるのだ。
思考が否定しても、理性は冷酷にも告げる──彼の言う通りであると。
「カピターノも報われんな。手間を掛けて拾った者が結局は無意味に命を浪費するだけだとは」
「……それは貴方も同じでしょう? 神を──いえ、貴方の場合は古いもの全てでしょうか? それを全て否定しようとして、新世界の神にでもなるおつもりですか?」
彼が何処までも利己的な人種であるというのは、骨の髄まで理解しているつもりだ。
だからこそ、俺には彼の終着点──実験の目的というのが読めないでいる。
「スカラマシュ。お前はこの世界は融通が利かないと思わないか?」
「……はい?」
「神の視線を受ける者、受けざる者がおり、人はどれほど才があろうと老いて死ぬ……端から世界の全ては古の規定の下に制限される。だが、それを撤廃すれば新たな境地が見えてくる」
「……まるで自分が神になれるかのような口振りですね」
「誰にでもなることは出来るだろう。ありとあらゆる可能性を模索し、検証し、実践する。その材料はこの世界に存在するのだから」
彼がこのままスネージナヤに戻れば、内務省による尋問が待っているだろう。
下手すれば執行官としての身分も剥奪されかねない……女皇の裁断はスネージナヤにおいて絶対だ。
なのに、何故だ? こうも余裕を持っていられる……?
「お待たせいたしました! 出港準備が整いました!!」
「フン……時間か。では、また会おう、スカラマシュ。お前の寿命がその時まで残っていればの話だが……それとも、かつての上官として、
「……結構です。なら、俺も貴方の元部下として、言わせていただきますが、人であれ、何であれ最期というのは理不尽なものです。それがたとえ神であってもね」
盛者必衰──かつて、栄華を誇ったカーンルイアが滅亡し、国民達が不死の呪いによって蝕まれたように。
出る杭は打たれるとも言うが、それは彼でも同じことだ。
「それに人とは何かに依るものです。それは貴方もそうでしょう?」
「……何が言いたい?」
「貴方はいつか必ず世界に負けるでしょう。貴方が嫌う世界とは存外に強固にできてますから」
「何を根拠にそう言い切る?」
「
「……フン、相変わらず失望させてくれるな。お前は」
「構いませんよ。貴方に望まれた所で、何も実益なんてありませんので」
ドットーレはさぞ不快そうに鼻で嗤いながら、船へと乗り込んでいく。
そして、船室に入る手前でその足を止めた。
「そうだった、お前と無駄な会話をして言い忘れていたな──コロンビーナにもまた会おうと伝えておくと良い」
「何を──」
船の汽笛がけたたましくその場に響き渡る、同時にドットーレは船室の中へと入ってしまい、船を繋げていたロープも外されてしまった。
そして、煙突から黒煙を吐きながらゆっくりと桟橋から船は離れていく。
そして、その光景を見て安心したのか、兵士の何人かは武器を下ろし、深い溜め息を漏らしていた。
「……『散兵』様」
ふと、背後に副官のデットエージェントが現れ、恭しく膝を着く。
「……どうかしたかい? ミハイル君」
「先程、『傀儡』様より連絡がありまして、『散兵』様には至急、実験設計局へと戻って欲しいとの事です」
「サンドローネが? 実験設計局で何かあったのかい?」
「いえ、そこまでは……ただ、『散兵』様へ至急、実験設計局へ戻るようにと」
……アルレッキーノと共に、あのマッドサイエンティストの見送りをぶん投げてきたと思ったら、今度は実験設計局へ戻れときたか。
ドットーレの人間性も相変わらずだが、彼女も彼女もで人使いが荒いのは相変わらずらしい。
「分かったよ……船の準備は出来てるね?」
「はっ、既に出港準備を整えさせております。こちらへ」
やはり持つべきものはデキる部下と言うべきか……これで酒癖も良ければホントに完璧超人なんだけどな。
まあ、人とは一つや二つ欠点というものがあるものだ。
たとえ彼が先日、酒を飲み過ぎて暴れ回った挙げ句に、陸巡艇を3台壊してしまい、俺がその始末書をサンドローネの横で書かされたのは可愛い事なのだろう。
その時のサンドローネのジト目を今も鮮明に思い出せる……というか、後から普通に怒られたな、俺が。
……あれ? やっぱり、俺って嫌われてたりする?
ふと湧いた疑問に悲しみを覚えつつ、船へと乗り込んだ瞬間だった。
風が吹いた、特段に強くもなく、幾度も浴びたごく普通の風。
「──コロンビーナ?」
無意識に彼女の名前が口から出た。
「『散兵』様、如何なされましたか?」
「えっ? ああ、いや……何でもない。すぐ行くよ」
名前を呼ばれた訳じゃない、そもそも風からは彼女の声など聞こえすらしない。
けど、まるで其処にコロンビーナが居たような……いや、実際にその姿を見た訳じゃないのだから、その表現は変だろうか。
そして、これは今朝からだが、自分の身体の一部というか、形容しがたい何かが抜け落ちてしまったような感覚に襲われるのは何故だろうか?
決して良い感覚ではない、喪失感と虚無感……空虚な感情がごちゃ混ぜになったような、謂わば焦燥に近い。
船の汽笛が轟き、ゆっくりと桟橋から、先程のドットーレとは逆の方角へ離れていく。
水平線の向こうには実験設計局の構造物が朧気に見えている。
そして、今思えば、これが始まりだったのかもしれない。
今、この時から停滞していた時計は再び動き出したのだと。
冷たい風が吹き付ける屋上でサンドローネ、アルレッキーノ──加えて旅人とパイモン、ファルカさんと見知った顔が其処にいた。
そして、彼らの傍らには見知らぬ顔が一人……その頭に被った大きな傘からして、稲妻の人間だろうか?
「……来たか。その様子からして、どうもヤツからは面倒を掛けられたらしいね」
「おかげさまでね……」
「なら、行かなくて正解だったわけね」
「俺も好きで行った訳じゃないんだけどね……やあ、旅人とパイモン、ファルカさんも久しぶりだね」
「ああ。丁度、お前の事を話していたんだ。どうも大変だったらしいな?」
「ホントだよ……次はもう勘弁かな」
そう言って、二人の同僚を見やるが、我関せずといった様子で目を逸らした。
「『散兵』は怪我はもう大丈夫なのか?」
「ああ、もう十分に動けるよ。……さて、そちらの方は?」
「『笠っち』だ。スメールの学者で旅人の旧友らしい」
ファルカさんの短い紹介の後、笠っちと呼ばれた少年は軽く頭を下げる。
……いや、絶対に偽名でしょ、スメールの教令院もそれで通して良いのか?
というか、この人……何処かで……いや、初対面か?
「……君も疑うなら、これで僕の身分を証明しよう。スラサタンナ聖処の印が押されているだろう?」
そう言って彼が出した書状には、スメールの草神が押した印がくっきりと写っている。
「わーお……本物か? これ」
「ああ。印にはハッキリとした草元素力が込められている。これは紛れもなく本物のスラサタンナ聖拠の印だ」
外交官でもあるアルレッキーノがそう言うのだ、偽物という線は存在しないと見て良い。
つまり、彼の偽名のような名前は草神公認のもののようだ。
「……君が新しい第六位なのかい?」
「えっ? まあ、そうだけど……?」
「……そうか」
少しの沈黙──やはり、彼とは何処かで会ったことがあるのか?
「えっと……笠っちさん? つかぬことを聞いても良いかな?」
「なんだい?」
「もしかして俺と君って……何処かで会ったことがあったりする?」
「はぁ?」
横のサンドローネが何を言っているんだと言わんばかりに、此方を見る。
いや、俺だって会った記憶が無い相手に聞くのはどうかと思うけど……何故か、初対面のようには思えないんだよ。
そして、聞いた相手といえば、少し驚いた表情が浮かぶも、すぐに無愛想な表情へと戻った。
「……いや、君とは初対面だよ。何せ、此処だとファトゥス第六位の噂が多いからね」
「あっ、そういう……」
……いや、ちょっと待て、それって非常によろしくない知られ方をされてないか?
こうやって俺への偏見というのは拡がっていくのか……というか、さっきから頬がむず痒いな。
なんと言うか……ずっと頬を指で小突かれているような感覚だ。
……虫でも飛んでるのか? いや、それにしては──
それに、この感じ……サンドローネの横に何かが……?
「ハハッ! コイツの噂は凄いぞ。女性関連もそうだが、最近だとナド・クライの酒場の酒を空にしたとか何とか」
「……はい? いや、それ初耳なんだけど……」
というか酒、女性──今まで挙がってるものが悪い意味で有名になる要素ばかりなのだが。
というか、当本人が下戸だと言った筈なのに……世界とはなんと不条理なものだろうか。
「フン……知らぬ内に、また随分と有名人になったじゃない」
「不本意かつ、その殆どが根も葉もない物ばかりなんだけど……」
「ハハッ、さて……スカラマシュも来たし、本題に入ろうか。スカラマシュにも話は伝えているんだったか?」
「来る道中で聞いたよ。ドットーレの事だろう?」
「ああ。教令院の目標はドットーレでな、この件は機密扱いになっている。調査に協力してくれる人間以外にはなるべく広めたくないんだ」
聞いた話に過ぎないが、ドットーレはかつて教令院に籍を置いていたらしい。
しかし、彼の実験が明るみに出て、その処分として教令院から追放され、巡り巡ってスネージナヤのファデュイへ流れ着いたのだと。
「ところで、ちゃんとアイツは帰ったんでしょうね?」
「勿論さ。おかげさまでネチネチ言われて、最悪だったよ」
「すまない、今回の礼は必ずしよう」
「期待してるよ……」
「でも、三人とも同じ執行官なのに、よく協力してくれるね」
「フン、言うまでもないわ。前に私が『月の狩人』にスターダスト・ビーチで手痛くやられたけど、どうせアレもアイツの計算内だったのよ」
まあ、確かに彼女の言う通り、あの時の彼女はまんまとドットーレに良いように使われたとも言える。
そして、それ以降も此方に手を貸す事はおろか、自分の実験に勤しんでいる始末だ。
「ドットーレは最初から私達なんて眼中に無いの。フン、どうでも良いわ。アイツを軽蔑してるのはアルレッキーノも私、スカラマシュも同じだから」
「君達はドットーレが同僚としての情を重んじるような人間だと思うのか?」
「まあ、確かにそうは思えないな……」
「彼が怪しい動きをする度に、私は彼を警戒している。そういう意味では我々の思惑は一致していると言える。それに君達は信頼に値する」
アルレッキーノの言う通り、此処にいる面々は少なからずドットーレからの被害を受けた者達だ。
加えて、傍らの笠っちさんもかつてドットーレと致命的な対立があったことが伺える。
まさに利害の一致……客観的に見ても協力は合理的と言えるだろう。
「さて、本題に入ろう。結論から言ってしまえば、私とサンドローネもドットーレが何故、動きを見せないか疑問に思って調べたが、特に手掛かりを得ることは出来なかった」
「それについては右に同じかな。とはいっても、昔からそうさ。ご執心の事なら特に隠蔽に気を遣うからね」
「ああ。それについては僕も同意する所だ」
「気配や動きを隠せば、面倒事にはならないと思い込んでいるのだろう。しかし、その手は同僚には通用しない」
「ええ。アイツは古月の遺骸についても研究していたし、月髄も狙ってた。それでいて、先に踏み込まない筈が無いわ」
事実、ドットーレが目標を追加してくれたせいで現場の人間は要らぬ面倒事を抱えてしまった。
そして、サンドローネはその一連の面倒事に振り回された張本人である、不快に思わない筈が無い。
「そこで私、サンドローネ、スカラマシュで女皇陛下にドットーレをスネージナヤに呼び戻して頂くように働き掛けた」
「そいつは随分と直接的だな」
「ファデュイがナド・クライで推し進めてきた事は佳境に入っている。更には『月の狩人』の動乱においてのドットーレの行動もある。そのため、彼の存在はこの地に不必要であるとはっきりとお伝えした。それについては女皇陛下も一考の余地があると仰ってくれた」
思った以上にダイレクトに伝えたものだ……いや、変に回りくどいやり方をすれば、それはそれで逆効果だとは思うが。
「結果、ドットーレは命令を受けて帰還し、本国では彼に対する尋問が行われる事になっている。彼には女皇陛下への背信の嫌疑があるからね」
「フン、とはいってもアイツは常に常識を外れた行動を取るけど、頭は悪くないから女皇陛下に逆らったりはしないわよ」
「でも、アイツは表面上は従順なフリをしながら、水面下ではコソコソと動き回る人間だった……そうだろう?」
「その可能性は大いにあるね。前にサンドローネがドットーレと協働した時も、それはもうデカイ事をやらかしてくれたんだろう?」
「ええ……そうよ。そもそも、アイツは物事を合理的かつ、段階的に進めようとしないのよ。思考は飛躍的で、好奇心が満たされたり、満足の結果を得ようものなら、全て放り捨ててもおかしくないわ」
サンドローネも、不快な事を思い出してしまったのか、その声には静かな怒りが滲んでいる
まあ、彼女からは散々、ドットーレに対する愚痴を聞かされているのもあり、その苦労については同情を禁じ得ない所だ。
「……唯一、私と類似点があるとすれば──やりたいことは必ず成し遂げるって所かしらね」
「成る程、だから『月の狩人』にあそこまで張り合ってたのかい?」
「う、うるさいわね。スカラマシュ、その話は関係無いでしょ!」
「何はともあれ、彼がこのまま手を引くことは無いというのは共通の認識だろう」
「はぁ……最悪よ、おかげで嫌なことばかり思い出したわ」
「前の月髄の事か?」
「いや、おそらくはアイツが実験マニュアルをガン無視して、設備を幾つも壊した挙げ句、予算も平然と無視する事を思い出したんだろう。加えて責任も全て他の人間に擦り付けるんだ」
あっ……笠っちさん、今のサンドローネにそれは悪手──
「──ええ、そうよ。ずっと前に超高温実験をしていた時、実験材料が爆発して、あろうことか部下にそれを取り出せようとしたの。充満していた煙は有毒で、材料もまだ不安定だっていうのに……私がいなかったら、何人死んでいたか……それだけじゃないわ! 事の発端はアイツなのに、当の本人は『時間の無駄だ』とか言っちゃって、後始末は全部私がやる羽目になったのよ!? 何が時間の無駄よ、無駄になったのは私の時間じゃない!! しかも、『月の狩人』の一件で実験設計局が被害を受けたってのに、何が『実験用の資材を渡せ』よ!? どう考えても施設の復旧が最優先事項でしょ!!」
「お、落ち着くんだ、サンドローネ! 淑女の嗜みを思い出すんだ!」
「だ、大丈夫か……?」
「気にすることはないよ、パイモン。彼女は激怒すると、大抵はああなるんだ」
「こいつは相当に頭にきてたみたいだな……」
ここに来て久しぶりの激昂サンドローネが爆誕してしまった……この後には愚痴の機銃掃射が待ち構えていることだろう。
……つまり、俺の時間は犠牲になったって事。
「笠っち、君はファトゥスの内情……特にドットーレについては詳しいようだね」
「……情報提供、感謝する。これ以上は特に気になる事も無いから、僕はこれにて失礼するよ」
「お、おい。もう行っちゃうのかよ!」
「君達も好きにすれば良いだろう?」
そう言って、笠っちさんは振り返らずリフトの方へと歩いていく。
「……」
そしてその最中、俺の前で立ち止まり、特に何か言うわけでもなく、ただ此方を見据えている。
「えっと……何か?」
「……いや、何でもないよ。ただ、君は彼処の二人と仲が良いと思ってね」
「一般的な友好関係とは言い難い気がするけどね」
「……そうだね。でも、その繋がりは精々、大事にすると良いよ」
そう言うと再び出口へと歩き去っていってしまった。
……やっぱりあの人、何処かで会った……いや、見たような気がするんだよな。
「なかなか、印象深いヤツだったな」
「そうだね……個性的な面々とは多く会ってきたつもりだけど、まさか一緒にドットーレの愚痴を言い合うのは初めてだ」
「ああ。あの様子からして、彼もドットーレには並々ならぬ遺恨があると見える。……さて、もう一つの話に移ろうか」
もう一つの本題──それは彼らからの唐突な知らせからだった。
「……ええ。コロンビーナがいなくなった──いえ、正確には消えたといった方が正しいのかしら?」
「ああ。簡単に言うと、今の彼女は世界と繋がりが無い状態で、彼女が実体を取り戻す為にはこの世界との繋がりを再構築する必要がある。そして、彼女の本当の名前を探すのが一番の方法なんだ」
実体がない……ああ、成る程──そういう事だったのか。
ずっと……誰にも見つけて貰えなくても、それでも其処にいたのか──
「その事なら本人に聞いたことがあるわ。きょとんとした顔で知らないって言ってたわよ」
「……俺も前に銀月の庭で聞いたときも知らないって言ってたね」
あの時、コロンビーナは自分はおろか他の月霊にも名前は無いと言っていた。
確かに俺達が呼ぶコロンビーナという名前も、ファトゥス第三位『少女』としての名前。
そして、それよりも前に呼ばれていたクータル──それは霜月の信者が彼女を月神として呼んでいた名前。
そのどれもが、彼女の役割における呼称でしかないのだ。
彼女にとってはそれが当たり前で……だからこそ、自分の名前に関心を抱くことは無かったのだろう。
「えっと、コロンビーナはファデュイでは何をしてたんだ?」
「私の記憶では、女皇陛下が彼女に神の心を集めるよう命じた事はない。だが、彼女に第三位としての役職を与えたのは何らかの意図があっての事の筈だ」
「そうだね……スネージナヤでは結構、歌ってるのを見てたかな。俺自身もお菓子をあげたり、一緒にお茶会に参加したり……たまに遊んだりくらいか」
「随分と色々、やってるじゃない」
「そんな特別な事じゃないさ」
「でも、コロンビーナはあのオルゴールはスネージナヤで『散兵』に貰ったって言ってたぞ」
「……スカラマシュ?」
「……別に隠してたつもりは無いよ。サンドローネにもあの茶葉を持ってきただろ? それと同じさ」
「ああ、成る程。前に君がフォンテーヌに来た時、子供達にくれた物とは別に包装された物があったが……彼女らへのプレゼントだったのか」
「……あまり、蒸し返さないでくれ。普通に恥ずかしいから」
「なっ、コイツの手回しもなかなかだろ?」
「……そうね、確かに貴方にしては悪くない贈り物だったわね」
「……話を戻そう。少なくとも、俺もコロンビーナが何かの任務を与えられるという所を見たことがない。決まってスネージナヤ本国での待機だ」
「こっちは仕事ばっかり回されて忙しいのにも関わらずね……でも、あの子も必要だと言われたのに、結局はそうでないという現状に慣れてしまったんじゃないのかしら?」
「それは……」
「……でも、コイツが執行官になってから、何時からかは分からないけど、あの子は確かに変わったのよ。しいて言うなら返礼を求めなくなったというか……何と言うか、誰に対しても見た目相応の反応を示すようになったと言うのかしら」
確かに何時からだろうか、彼女にお菓子をあげた後、そのお返しを聞くことが無くなったのは。
コロンビーナと初めて会ったときは、儚くも何処か冷めたような印象があった。
でも、何時からは楽しげに微笑んで、しいては自分がやりたいと思った行動を取るようになったと思う。
そんな彼女に時折、困惑しつつも、それを好意的に見ていたのは事実だ。
だからこそ、だろうか──
「──コロンビーナ。やっぱりこの名前が俺はしっくりくるよ」
今日まで、俺達がずっと呼んでいた名前──それは彼女が呼ばれるべき名前ではないのかもしれない。
それでも──
「……そうね。私達は結局、その名前が一番、呼び慣れているわよね」
「同感だ」
「そっか……色々と教えてくれてありがとう」
「礼には及ばないよ。それに俺もコロンビーナに言いたいことがあるしね……うん?」
ふと、空から此方へと青い飛行物──いや、これは仙霊か?
「あっ、仙霊だ。もしかしてニコからか?」
「どうやら、お開きの時間みたいだね」
「三人とも──忙しい中、その丁寧な対応には痛み入る。一段落したら、是非とも一杯、奢らせてくれ」
「ああ。是非」
「ノンアルコールも可だったら付き合わせて貰うよ」
「まあ、考えておくわ。ちなみに送らなくたって平気よね。なんだかんだで来慣れてるでしょ?」
「アハハ……確かに此処にはよく来てるよな」
「それじゃ、三人とも元気でね」
そう言って三人組は宙を舞う仙霊の後に続き、この場を後にする。
「……スカラマシュ? 何処へ行く気よ?」
「いや、少し休憩が欲しくてね……ドットーレと話すのって存外に疲れるんだよ?」
「それは分かるけど……まあ、良いわ。この借りはちゃんと必ず返すから」
「そうかい……なら、期待して待ってるよ」
そして、昇降リフトが重い音ともに駆動する。
屋上から下層のエリアへ、ゆっくり下がっていく。
此処から見る風景というのは変わらない……この殺風景な光景を眺めながら、俺は背後の姿無き友人へ声を掛ける。
「……其処にいるんだろう?
返ってくる声は無い──けど、それに構わず続ける。
かつて彼女が俺に掛けたおまじない──何故、彼女には俺を見つけられ、俺は彼女が近くにいなくては分からなかった。
いや、俺はずっと見ないようにしていたんだ──そうしなきゃ、自分が揺らぐと内心は分かっていたから。
コロンビーナを通じて、様々な人々と接していく内に、少しずつ変わる自分がいた。
いくら、それを否定しようとしても、それは覆らずに結局はここまで来てしまった。
前の俺ならコロンビーナが消えようとも、今まで経験した喪失と同じだと切り捨てていただろう。
「皆、君の事を諦めてない……サンドローネもアルレッキーノもね」
ああ……我ながら、らしくない事をしている……本当にそう思う。
「だから、もう少しだけコロンビーナも頑張って欲しいんだ。『月の狩人』もどうにかなったんだ、きっと……」
どうも世間では『祈月の夜』という祭事が近いそうだ。
前にサンドローネから聞いた話だが、『祈月の夜』というのは一年でクーヴァキが最も高まる日に行われる祭事であり、祭りを通して月神、霜月の信者の繁栄を願うとのことだ。
そして、クーヴァキが高まるという事は、彼女が帰ろうとする月がテイワットへ最も近づくという事でもある。
「前に俺の本当の名前を知りたいって言ったよね。もし、君が戻ってきたのなら……あの時の答えと一緒に教えるから……だから──」
──戻って来いとそこまでは言葉は繋がらなかった。
また、風が吹く──頬を撫でるそれは不思議と冷たさを感じなかった。
「……行ったかな? ……っ、ゴホッゴホッ!!」
少し気を抜いたせいか、喉から濁流のように迫り上がるソレに大きく咳き込んでしまう。
その場で膝を着き、足元には鮮やかな紅色が飛び散っていく。
口元から滲む紅い線を拭い、壁へと寄り掛かる。
……ああ、これで良い。きっと、次が最後だから。
彼女が月に帰れば、再会する事は二度と無いだろう。
だから、せめて見送る時くらいは……笑顔になれる嘘を付こう。
それが最後だと言うのなら──
『第六位』について・昔の姿……
成る程ね、あの彼が新しい第六位になったのか……いや、直接は話したことは無い。彼自身も僕の姿を見掛けたというだけだろう。……一度だけ、訓練場で朝早くから彼の姿を見たことがある。そして、陽が落ちて、辺りが暗闇に包まれようと彼は銃を撃ち続けていたよ。手のマメを潰して、両手が血塗れになっていてもね。