『幸せ』について……
幸せってなんなんだろうね? ……ごめん、やっぱり今のは忘れてくれ。どうせ意味の無い問いでしないから。
えぇ……突然ですが、北方の端の地ナド・クライより、皆様へ実況をお届けいたします。
実況をお届けするのは本勝負の景品──もといファデュイ執行官第六位を担当しております『
そして、解説をしてくださるのは──
「──フム、コロンビーナとサンドローネの対決か。これは見る価値があるね」
信頼に足る同僚こと、我らが第四位『
「よろしく頼む」
さて、前置きはこれくらいにして、さっそく実況に移って参りましょう。
先攻は我らが第七位ことサンドローネさんが行くようです。
コロンビーナさんがまだファデュイにいた頃から、何かとしてやられる事が多かったようですが、本勝負でリベンジとなるでしょうか。
「とはいえ、コロンビーナもそう簡単に勝ちを譲る気は無いだろう。つい先程、それを思い知った所だ」
「えっ? 何それ。私、とっても気になります……コホン、それについては後程、伺うことにいたしましょう。さあ、そうこうしている内にサンドローネさんが歯の上に立ち、ゆっくりと歯が沈んでいきます」
そして、歯が完全に沈み込むも、ファンシーなイルカが動く気配は無い。
「どうやら、開幕からハズレを踏む事は無かったようだね」
「まあ、くじってどんな順番で引いても当たる確率は同じだからね……初手でハズレの1を踏み抜く事はそうそう無いでしょ」
とは言うものの、初手からハズレを引く姿を見てみたいと思ったのは内緒である。
そんな邪な考えを浮かべている内に、コロンビーナが歯の上に立つ。
そして、歯がゆっくりと沈み──何も起きなかった。
「コロンビーナもハズレを回避したね」
「最初は手前を踏もうとしてたみたいだけど……なんか奥の方に変えたね……うん?」
……あれ? コロンビーナさん、もしかしてクーヴァキを使ってハズレを感知してね?
という事はサンドローネさん、この勝負詰んでね?
「フン、咬まれても助けてあげないから……えっ?」
そうして、余裕綽々な表情を浮かべたサンドローネが歯の上へと立つ。
彼女が立つその歯は先程、コロンビーナが避けたものだ。
「ま、まさか──」
彼女が何か言い終わる前に開かれていた大口が無慈悲に閉じられる。
そして、彼女は下半身を咥えられたまま、地に伏していた。
「くっ……こんな筈じゃ……っ!」
「フフッ、ハズレを踏んじゃったね。サンドローネ」
「……っ、うるさい!!」
「手伝おうか? 抜けられないみたいだけど」
「余計なお世話よ……くっ、なんでゲームの筐体ごときに……っ!」
「フフッ。サンドローネ、頑張って」
「笑うんじゃないわよ!!」
……コロンビーナって案外Sっ気強いよな、特にサンドローネに対しては。
要するにてぇてぇってこと、もっとやってくれて構わないよ?
「……ちなみに今更なんだけど、その猫耳はどうしたのさ?」
「む、これか? 彼方の霜月の子の屋台で買ったんだ。折角の機会だ。スカラマシュも買ってきたらどうだ?」
「ああ……いや、俺は遠慮しとくよ。……何かと君も楽しんでいるみたいだね?」
「そうだね。思えば、ただ一人の参加者として、祭りに参加するのは随分と久し振りだ。スカラマシュ、君はどうかな?」
「俺か……俺は、どうなんだろうね?」
今がつまらない……と言えば、嘘になる。
確かにこうして彼方の二人を眺めているのは面白いし、柄でもないと自覚しながら、少し心踊っている自分がいる。
此処には死臭も、血の臭いも、肉と脂が焦げる臭いも無い。
「こうして、周りを見ていると俺は何も知らないんだと、つくづく思い知らされるよ」
昔の俺は掃き溜めで生き抜くだけで精一杯で、ファデュイに入ってからは生き残る事ばかりを考えてきた。
見聞として耳にする事はあっても、俺にとっては遠い世界の噺でしかなかった。
そして幸か不幸か、自分の時間が無くなってきて、初めてこうして間近に触れている。
その度に思わずにいられない。
──もしかしたら、他に……何かあったんじゃないかって。
でも、その答えは決まって同じ。
「人は世界を知るには遅すぎた……なんてよく言ったものだよ」
何を今更──と。
「そうか……だが、私は今から知っても遅くはないのではないと思うよ」
「……かもしれないけど、俺はそう前向きにはなれないのさ」
何かを達成する為に何かを捨てることでしか、俺は物事を見れない。
両手を使って掬っても、それらは指の間から溢れ落ちていく。
何度も、何度も、溢れ落ちて、手の内には僅かな残りカスしか残っていない。
それが、凡庸な俺が持てる限界だから、それが俺の器量なんだと。
「……これは私の経験からの助言だが、君はもう少し自分を必要とする者達と目を合わせて、その上でしっかりと彼らを見た方が良い」
「……」
「死臭が蔓延る戦場を生き抜いてきた君にとって、こうした平穏とは違和感を感じるものなのかもしれない。けれど、君がただ苛まれるのを良しとしない者はいる。そんな彼らの眼差しを……思いを無碍にしないでやるといい」
「……一応、心に留めとくよ」
「ああ。そうしてくれ」
そうやって話すアルレッキーノからは僅かながら哀愁……のようなものを感じた。
無論、それについて詮索するつもりはない。
アルレッキーノも様々なものを失い、或いは捨てて、此処にいる。
前に彼女はこう言っていた。
『長いスパンでの約束はしないし、信用もしない』と。
でも、さっきの話をしていた時のアルレッキーノは──
「──このゲーム、何処の馬鹿が作ったのよ!?」
突然の怒声に俺達はおろか、道行く人々の視線がもう一人の同僚へと集まった。
「おや……」
実況と解説をすっぽかしている間、コロンビーナとサンドローネは対決をずっと続けていたようだ。
無論、結果は変わらぬまま……つまり、今の彼女は激昂サンドローネってこと。
「大丈夫? 随分と荒れてるけど」
「余計なお世話よ!!」
まあ、コロンビーナがクーヴァキを使ってハズレを感知してるのは彼女も見抜いてはいるだろうが……見抜いた所でコロンビーナが避けたマスを避けるしか打つ手は無い。
それでいて、コロンビーナが先回りしてハズレ以外のマスを踏んでしまえば、その時点で詰みである。
つまり、最初から無理ゲーってこと……コロンビーナ、恐ろしい娘……!
「う~ん……サンドローネも私の頭を叩く? 何回も負けちゃったし」
「……っ、必要無いわよ!!」
「遠慮しなくて良いよ? 私ばっかり勝っちゃったし」
「必要無いって言ってるでしょ!! ……ったく、本当に昔からうざったいわね」
サンドローネがコロンビーナからそっぽを向き、沸々と沸き上がる怒りに身を任せて続ける。
「勝手に部屋の前で歌って、勝手に部屋に入って、勝手にお茶会に参加して……勝手にいなくなって……今度は月って……本当に勝手ばかりじゃない」
俯いたままのサンドローネはコロンビーナと目を合わせない。
彼女の吐露を黙って聞いていたコロンビーナも口を開いた。
「……ファデュイで君やアルレッキーノ、ロザリン……そして、スカラマシュと過ごした日々は私が一番好きな時間だよ」
「……っ」
「その思い出は忘れない。勿論、今この瞬間も」
「……」
「何処へ行っても……ずっと友達だよね?」」
コロンビーナが歩み寄る、しかしサンドローネは震えている。
それは怒りでも、喜びでもない。
「誰が……アナタなんかと……っ!!」
サンドローネの返答を待つことなく、コロンビーナは彼女を抱き留める。
「私、きっとまたサンドローネに会いたくなる」
「──っ!」
サンドローネの手がコロンビーナの方へと伸びていく。
その伸びた手は──半ばで止まってしまった。
彼女の手は酷く震えていた。
そして、束の間の抱擁が解かれ、ゆっくりとコロンビーナが離れていく。
サンドローネは未だその場に立ち尽くしている。
「コロンビーナ……私も──」
小さく漏れた声がコロンビーナに届くことはなく、その先が紡がれることもなかった。
コロンビーナはゆっくりと此方へ歩み寄ってくる。
「……良いのかい? まだ、サンドローネも──」
「うん。私も……決めたから」
「そっか……」
何と言ってやればいいのか分からない。
俺達だけじゃない、コロンビーナ自身も分かっている。
次に会うことはもう叶わないと。
「スカラマシュ。私、勝ったよ」
「えっ? あぁ……うん、そうみたいだね」
「じゃあ、この後は一緒に行こ?」
「あっ、その……」
サンドローネの方へ視線を向ける。
彼女はまだ其処にいた、それも俯いたまま。
「スカラマシュ、行ってくるといい」
「アルレッキーノ……」
「離別をするならば、互いに悔いの無い別れをするべきだ」
「……そうだね」
「コロンビーナ、私も君と過ごせた時間は楽しく、実に有意義なものだったよ。君が無事に帰れることを願っている」
「うん。私の方こそ、ありがとう。アルレッキーノ」
コロンビーナに手を引かれ、また道行く人の往来へと進んでいく。
その時だった。
「……月なんてどうせつまらないのに、何が良いのよ……」
誰かの溢れ落ちたような小さな声が──
「……一人ぼっちで泣く羽目になっても、同情してあげないんだから……」
──それでも確かに聞こえたのだ。
ずっと昔にスネージナヤにある占い師がやって来た。
その占い師の占いは必ず当たると、少しだけ街で話題になっていた。
俺自身は占いに特段に興味などはなく、その日はただ偶然、その前を通り過ぎただけだった。
「お前さん、随分と厄介なのを巣食わせてるじゃないか」
魔女の帽子を被った妙齢の女性から、そう声を掛けられた。
勿論、この占い師と面識がある筈もなく、最初は無視して通り過ぎようとした。
「まったく、人の話は最後まで聞くもんさ。どれ……そこに掛けな」
前を通り過ぎようとした瞬間、何故か俺は占い師の対面の椅子へ座っていた。
そもそも、占いを受ける意思も無いし、そもそも離れようとした筈だった。
内心で混乱する俺を他所に、手慣れた様子でカードを混ぜていく。
カードの山を分け、それを戻し、そしてまた分けて、戻す。
「さて、まずは一枚目を運命の場所へ置いとくれ」
彼女の言う通り、一枚目を指定された場所へと置く。
「よし、なら二枚目は過去、三枚目は現在へ置くんだ」
「あの……」
「最後に未来へカードを置きな」
困惑しながらも、手だけは迷い無く動く。
そして、計4枚のカードがその場に置かれた。
「さて、まずはお前さんの運命から捲ろうか」
そして、伏せられていたカードが表に返ると、カードには輪に絡まるようにして2匹の動物が、輪から独立した台座の上に1体の生物が確認できた。
「成る程、
「……」
「さて、これを基に読み解いていこうか。まずは一枚目を捲りな」
彼女の言う通り、一枚目のカードを捲る。
カードには2本の樹木に挟まれ、身動きの取れなくなっている男が描かれていた。
「
「……っ!」
「これが意味する所、かつてのお前さんは自己犠牲の果てに何も得られず、その逃避を続けていたという事になる」
淡々と解説する彼女に何も言い返せなかった。
まるで自分の何もかもを見透かされているような……不気味な感覚が身を襲う。
「そう身構えなくても良い。あくまでこれはお前さんの過去……さて、次は現在のカードを捲りな」
そして、また一枚カードを返す。
「おや、また運命の輪……しかも逆位置か。これはお前さんが今も停滞をしているという事を指す。それはお前さんに巣食うソレが原因……いや、お前さん自身も望んですらいないといった所か」
息が詰まる、まるで尋問……いや、この場において拷問のようにも思えた。
見たくないものを、無理矢理に目を開かされて、凝視させられているような……そんな気分だ。
「それにしても……これをレインドットが見たら、さぞ面白がるだろうね。ある意味、生命の運命が新たな形態へ変わるかもしれないんだからね」
叶う事なら、この場からすぐに離れたかった。
けれど、その意思に反して、身体は伏せられていたカードへと手を伸ばしていた。
カードを手に取ると、手の内で何かが滑った。
卓上にもう一枚カードが落ちる……重なっていたのだろうか?
「おや、これはおかしいね。一枚しか引いてない筈だが……こんなことは初めてだ。どれ……捲ると良い」
その言葉に従って、カードを捲る。
「
捲られたカードには空中から現れた巨大な天使が光を放つ姿が描かれていた。
その右手はラッパの吹き口を持ち、左手は十字の紋章の入った旗を指差しており、地上には、向かって右側に老人が一人、左側に女性が一人、中心には棺からよみがえった人物が後ろ向きに立った状態で描かれている
「
「……」
「予言しよう。このままでは、お前さんは破滅する。死ぬとかそんな程度じゃ済まない、完全な破滅だ」
あの時の占い師の凍てつくような鋭い眼差しは今も忘れられないでいた。
未だ祭りで賑わう大通りから少し離れ、屋根の上へ腰掛ける。
冷たい風が歩き回って火照った身体を冷ましていく。
「フフッ。色々な所を回ったね」
「そうだね……アトラクションだったり、いきなり水風船を投げられたり……後者に至っては君からおもいっきり顔面に当てられたしね」
はしゃぐ子供に混ざって、見事な顔面ストレートを決めてくれたのが記憶に新しい。
……アレ? もしかして、俺って意外と嫌われてる?
「驚いた時のヤフォダみたいな顔をしてたよね」
「それは例えが限定的過ぎて反応に困るんだけど……」
彼女とはあまり交流はないが、それでも表情がコロコロ変わっていたのは覚えている。
後、『月の狩人』と初めて戦った時にも、何故かいきなり自分の頬をぶってたな。
「でも、とても楽しそうだったよ?」
「そうかな……」
俺達が座っているこの場所からは人の往来がよく見える。
屋台の主人が道行く人に声を掛け、子供達が演し物やアトラクションで歓声を挙げる。
「確かに皆、楽しそう……だね」
「うん。私もとても楽しかった」
聞いた話では、この催しのアイデアはラウマさんのものらしい。
月に帰るコロンビーナにこの街──彼女が生まれたナド・クライを家として贈る。
結果としては大成功と言えるだろう。
「コロンビーナのおかげであれだけあったキャンディがすっからかんだよ」
「でも、スカラマシュがカツアゲ? したんだよね」
「ちょっ、それだと語弊が……いや、確かに少し大人げなかった自覚はあるけども」
……本当にこの子は何処でこんな言葉を覚えて来るのだろうか?
というか、周りに言いふらしてないよね? でないと、またあること無いことが……
ま、まあ、仮にそうなっても、手に入れたキャンディの大半を食べたのはコロンビーナなので、共犯として此処は一つどうだろうか。
「フフッ。でも、獲ったぬいぐるみをあげたんでしょ?」
「……見てたのかい?」
「うん。とても嬉しそうにしてたよね。あの子も、サンドローネも」
「だと良いけどね……」
言いたいことはまだある筈なのに、思うように言葉にならない。
柄でもなく、この祭りの賑わいにやられたのか、それとも──
「お祭りって楽しいね。クータルとして里にいた時も、『少女』としてファデュイにいた時も知らなかった」
前者からは神として崇められ、後者は執行官として畏怖され──確かにこうした何のしがらみもない催しというのは彼女も初めての事なのかもしれない。
でも、今の彼女は籠の外へ出て、自分で世界と向き合って、自分で選択している。
そして、形式的とはいえ、彼女を追っていた俺達もファデュイの外の多くの人々と出会うことになった。
だからこそ、嫌でも思い知らされる。何度も、何度も何度も。
「……俺自身もこうしてお祭りに参加するのは初めての事だよ」
「フフッ、じゃあ私とお揃いだね」
「……そう、なのかな」
お揃い……果たして本当にそうだろうか?
俺は自分の未知の領域に一度でも知ろうと、踏み出そうとしただろうか。
自分の周りを──籠の外の事を知ろうとも、見てみようと思っただろうか。
「……昔の仲間が言っていたよ。祭りってとても楽しいものなんだって」
「うん」
「でも、その時の話を聞いてた俺は微塵も興味を持たなかったんだ。俺にとっては絵空事でしかなかったからね」
俺が自分の人生で会得した事といえば、敵の殺し方と必要以外のものを切り捨てる事だけだ。
今まで散々、ドットーレについて苦言を呈してきたが、俺も結局は彼と同類の利己的な人間なのだ。
自らのエゴの為に、何度だって切り捨てて来た、足はおろか、身体さえも引き摺って進んできた。
その先を望む者を幾つも踏み越えて、何度だって踏みにじって──
「その仲間は言ってんたんだ。故郷のお祭りにまた行きたいって……でも、それは叶わなかった」
「……」
彼は戦死し、なんだったら彼の故郷の村すらも地図から無くなってしまった。
別に珍しい事でもない、度重なる厳冬計画の延長によって、晶鉱の輸送に使われる鉄道さえも来なくなり、住民が居なくなる村々の数は今も増えている。
今の情勢下では、ありふれた災難でしかないのだ。
「……どうして、なんだろうね」
今でこそ思う、本当に良いヤツだったと。
ファデュイに似つかわしないくらい馬鹿正直で、変に熱血漢で……よく、ちゃんと休息を取れって怒られた。
故郷では足を悪くした祖母と暮らしていたと……
そして、俺は死に目には会えなかった、部隊が集まった時に死んだと伝えられただけだった。
他の面々が彼の死を悼む中、俺はそれを淡々と受け入れていた。
また一人逝ったと──まるで電算機が、数式を弾き出すように。
感情は混濁しながら、無機的にただそれを受け入れていた。
人は痛みにも慣れる──その根源は自らを守るためだ。
俺はどうしようもなく利己的だったんだ、それこそドットーレの事を言えないぐらいに。
自分を案じてくれた仲間を、信頼してくれた一人を、その命を──ただの数字に変えてしまったんだ。
ただ、自分が痛みを感じない為だけに、何度も、何度も何度も……仲間を数字に変えてきた。
自分が弱いせいで失ったのに、その上で自分を庇うために、肯定するためだけに。
そんな身勝手で、ひたすらに独善的……それが俺の化けの皮が剥がれた本性だったんだ。
だから、せめて俺は──償わないと。
「そっか……」
だから、その数字達を──その死に意味があったって。
「スカ■■シ■は──」
あんなのが、皆の末路だったって──あんな泥が皆である筈が……
『──
「えっ……?」
「だって、君はずっとその人の事を覚えているんでしょ。きっと辛いことがあった筈なのに、それでもこうして覚えている。とても大切に思ってたんだよね?」
「それは……」
「私はその人の事を知らない……でも、それでも君が苦しむ事は望まないと思うんだ。きっと、その人も私と同じでスカラマシュには幸せになって欲しいって思うんじゃないかな」
俺が幸せに──
『──え~……私のお願い?』
この時、擦り切れた何時かの記憶が一つに繋がった。
『
そうだ、彼女は俺にはそう言ったんだ……
幸せになりたいって……でも、その願いは──
「だから、スカラマシュも諦めないで欲しいんだ」
「それは……」
「君は私が消えそうな時、そう言ってくれたから。だから……叶えられたんだよ?」
「……」
「君に……会いたくて。そして、私の名前を呼んで貰えて、すごく嬉しかった」
名前──
「──
名前とは人を他の者と区別して呼ぶための言葉。
溢れるように口から出たソレは、執行官『散兵』としての俺ではなく、ただの一個人としての俺を指すものだ。
「それが君の本当の名前……?」
「ああ。ただのイアン……それが本当の名前だよ」
執行官としての名前とは比較にもならない、様々な場所で雑多にある名前の一つ。
それが俺の本当の名前だった。
「……イアン。フフッ、とても響きが綺麗な名前だね」
「そんなこと無いさ……それこそ、其処らにある石と同じくらい、何の変哲も無い名前さ」
「でも、私は好きだよ。だって、イアン……こうして呼ぶだけ何度でも呼びたくなるから」
「ああ、もう……好きにしてくれ」
柄でもなく、頬が熱くなるような感覚に襲われる。
それでいて、目の前のコロンビーナは本当に嬉しそうに微笑んでいた。
「ねえ、イアン?」
「……何?」
「フフッ、呼んだだけ♪ ︎」
「……っ、からかうのは止めてくれ」
「だって、何度も呼びたくなるんだもん。それに、イアンも好きにして良いって言ったからね」
「……参りました」
……普通に論破されてしまった、やっぱり出任せに何か言うものじゃないな。
とはいえ、こう呼ばれるのは……本当に久し振りだ。
かつてはずっと……仲間達に、彼女にも……そう呼ばれてきた筈なのに。
それが当たり前だった筈なのに。
ふと、上を見上げれば、暗い夜空に白い月が静かに光っている。
「ねえ、あの時の答えを聞いても良い?」
その白く、か細い光は俺達の元にも降り注いでいた。
「俺は……」
コロンビーナが手を差し出す、それは此方を誘うかのようだった。
この手を、俺は──
「──ごめん。俺は……月へは
上がりそうな手を抑え、絞り出すように答えを告げる。
「……どうして?」
彼女のその声はとても悲しげだった。
「……俺はまだ何も成せていないんだ。探している人を見つける事はおろか、彼女を──」
──殺せていない、とは言えなかった。
コロンビーナにはこんな血生臭いものを見て欲しくは無い。
それに幾らこうして言葉を重ねても、時間はただ刻々と過ぎていく。
残された時間が僅かであっても、幾ら願ってもそれが覆る事は決してない。
「そっか……」
幻滅……されただろうか? だが、それがきっと一番良い。
彼女にはこれからも時間があるんだから……いずれ去る俺と違って。
だから、これが一番──
「うん。じゃあ、また
「へ……?」
「だって、イアンはまだやりたい事が出来てないんでしょ? なら、それをやり遂げないと」
「そ、そうだけども……もう二度と──」
「──私は諦めないよ」
コロンビーナはハッキリとそう言い切った。
「私はこれが最後なんて思いたくない。イアンにも、サンドローネにも、アルレッキーノにも、旅人や皆にもまた会いたい」
「それは……」
「だって、私が消えそうな時も諦めなかったら叶ったんだもん。なら、私も諦めない。月に帰ったら、また此方に戻る方法を探すよ」
月を偽りの空の向こうへ追放したのは、天理に因るものだ。
天理は謂わばこのテイワットのシステムにおける根幹。
それが敷いた障害を躱すのは並大抵の事ではない。
「だから、イアンも諦めないで?」
「……」
完全に意表を突かれたのもあってか、言葉が続かない。
「……そうだ。じゃあ、約束の証として、イアンにはこれを預けておくね?」
そう言って彼女が取り出したのは一つのオルゴール。
それは以前、俺が彼女にフォンテーヌのお土産としてあげた三月の女神をモチーフにした物だった。
「
「あ、ああ……」
『絶対』という部分を強調して言う彼女に思わず気後れしてしまう。
知らぬ間にとんでもなく我が儘な性格になったものだ。
「もし、約束を破ったら、イアンには針を千本も飲んで貰うからね」
「……えっ、俺だけ?」
いや、流石に冗談……だよな? 今、本気でやるって気迫を感じたんだけども……
針を千本も飲ませるとか……もはや拷問を飛び越えて、処刑じゃないか?
「フフッ。やっと、いつものイアンに戻った」
「……っ、あ、あのな──」
その時、コロンビーナが此方へと飛び付いてくる。
彼女の髪の──フワリとした草花の匂いが鼻腔を擽った。
彼女の閉じられた双眸がすぐ前に……それこそ、俺の目の先にある。
刹那、口は何か柔らかな物で塞がれて、息の一つすら出てこない。
そして、それはすぐに離れた。
「これでイアンはちゃんと
「アッハイ……」
満面の笑みでそう言う彼女に対して、当の俺は完全に思考がフリーズしてしまっていた。
「じゃあ、ちゃんと約束したから──」
一歩進んで、彼女は此方へと振り返る。
「──またね、大好きなイアン」
「──っ、ああ。また……な……」
俺の返答を聞いて、満足そうに頷いた彼女は此処から離れていく。
一歩、また一歩、そして更に一歩と、コロンビーナとの距離が離れていった。
「……っ、待っ──」
その言葉が出る前に口を手で抑える、それは強く……出かかったソレを押し潰すかのように。
手は酷く震え、頬には爪が押し当てられ、食い込んでいく。
……つくづく、俺は最低な人間だ。
やり場もない憤慨と、息苦しさが胸を焼く。
嘘を貫く、と自分で決めたではないか……それを分かっていながら、何故……
諦めないでどうにかなるような事じゃないと、どうやっても叶わないと分かり切っているではないか。
なのに何故、俺は再会を約束してしまったんだ。
『裏切り者』
彼女のあの言葉が何度も脳の中で反芻していく。
しかし、不幸中の幸いと呼ぶべきか、この声が出ない絶叫を聞く者は誰一人としていなかった。
未だ祭りで賑わうあの場所へ帰る気にはなれなかった。
コロンビーナが去ってからは、何をするわけでもなく、ただ座っていた。
手では彼女から預かったオルゴールが、聞き慣れたあの曲を鳴らしていた。
コロンビーナが曲に合わせて歌っているのをよく聞いていたからか、少し物足りなく思ってしまう。
サンドローネに今の俺を見られたら、未練がましくて滑稽だと笑われそうだ。
『──『散兵』様』
耳に着けたインカムから、自分の副官の声が響く。
「……ミハイル君?」
『休暇の最中、申し訳ございません。先程、スネージナヤ本国からの緊急伝がありまして……』
「いや……大丈夫だよ。どうしたの?」
そして、副官の彼はさぞ言いずらそうに続けた。
『ナド・クライとスネージナヤ本国を結ぶ海路にて、『博士』様が乗船されていた連絡船の残骸が発見されました。現場には将兵の遺体が複数あったのですが……『博士』様の……いえ、『博士』様の姿は一切、確認されなかったとの事で──』
「──っ!!」
油断していた、彼のやり口など何度も見せつけられていた筈なのに。
こうして、気を抜いた途端に足は掬われるって──
「──ほう、月は『我々』とこうも近かったのか」
月の光が何かによって途切れる。
邪眼から元素力を引き出し、岩肌を、崖さえも飛び越えていく。
「テイワットの原初の力は元々、高天の玉座の物ではない」
早く、早く……早く早く早く早く!!
錠剤を喉へと押し込み、地を強く蹴り飛ばす。
「そして、今……ソレは私の物となった」
その男が指を鳴らすと、視覚、聴覚、嗅覚、触覚──ありとあらゆる感覚が途切れる。
時間にして数秒、いや……数分は……もしや数時間も経っただろうか。
時間の感覚さえも途切れた今、全てが静止していた。
そして、静止していた世界が動き出して、目に飛び込んで来た光景は……
「フン……」
『博士』と対峙している旅人と──
「コロンビーナッ!!」
その名前を叫んだと同時に、彼女は虚空の孔へ身を投げた。
『運命』について……
蛇ってのは脱皮をする生態上、生まれ変わりや再生を示唆するんだ。『運命の輪』のカードにも蛇が描かれているんだが……これは停滞の意味も持ちながら、変化の始まりを示唆する事もあるのさ。さて、あの坊やがどうなるか……私としては興味深いね。