小雨の降る空を見上げる。今の気分はこの空模様と似たようなものだ。私の気分が沈んでいる原因はさっきまで食事を共にしていた男、カミキヒカル。
彼とは以前仕事場でたまたま出会った。その時に演技を褒められ、また二人で話しませんかと誘われていた。社交辞令だと思ったのだけどその後も熱心に誘われるので一度会って見ることにした。
アクアにカミキヒカルと会うと話したら心配された。カミキはスキャンダル渦中の人だ。ドラマ撮影中に起きた事故の当事者たちと以前から付き合いがあったことが判明し、ワイドショーや週刊誌で3人の関係について話題になっている。そんなやつに会うのは自分からスキャンダルのネタになりに行くようなものだと思われたのだろう。だけど、もしかしたらドラマか何かを紹介してもらえるかもという誘惑には勝てなかった。
カミキヒカルの話とは自分の事務所へ移籍しないかということ。要は引き抜きだ。仕事がもらえるかもと思ってたのにがっかりだった。
彼は言葉巧みに私を勧誘してきた。
黒川あかねは新人女優賞を受賞していましたけど貴女はどうです?
苺プロは配信者とアイドルに特化した事務所。満足いくサポートは受けていますか?
社長の娘、B小町の二人との扱いの差に不満を持ったことはありませんか?
黒川あかねもB小町も順調に芸能生活を送っている。羨ましく思ったことはありませんか?
カミキは私の境遇と苺プロの状態を良く調べていた。今はずいぶんマシにはなったとはいえ苺プロに入ったばかりの時はマネージャーさえいなかったし、取って来た演技の仕事も端役ばかり。私が足踏みしている間にあの黒川あかねはどんどんキャリアを積み重ねていった。私を連れてきたアクアも、ルビーと一緒にアイドル活動をやって、デビューから数年でアイドルの一つの到達点である武道館ライブをやってのけた。カミキの言う通り、何度羨ましいと思ったかわからない。
それでも今の私には事務所移籍が魅力的には思えなかった。苺プロはちょっと前に元社長が戻ってきて私のサポートも手厚くなったし、拾ってくれた恩もある。そんな事務所を所属から数年で移籍するのは流石に不義理だ。そして他にも理由がある。
「あの男、めっちゃ怖かった」
私の心をカミキは上手に揺さぶった。自分は貴女のことを高く評価していますと気分を良くさせ、あかねやB小町への対抗心を煽り、苺プロの体制を指摘して将来への不安の種を撒く。詐欺師かカルト宗教の勧誘が天職なんじゃないだろうかと思えるような話術だった。話を聞いていて何度か首を縦に振りそうになった。それでもどうにか移籍の話を断れたのは、やけにアクアやルビー、あかねへの敵愾心を煽って来たことに違和感を覚えたこと。そしてアクアと似た顔で貼り付けたような笑顔をするカミキが恐ろしかったからだ。
カミキと話していると自分の全てを見抜かれているんじゃないかという怖さがあった。移籍を断ると言ったときの私の声は震えてなかっただろうか。彼はそうですかとすぐに引き下がってくれたけど、本当にこれで話が終わったのだろうか。こんな気分になるなら会わなきゃ良かった。
沈んだ気分のままカミキと会っていたカフェを出て事務所に向かう。
午後2時過ぎ。今の時間、事務所には誰かいるだろうか。アクアがいたらカミキがいかに気持ち悪かったかを話して気を紛らわそう。ルビーがいたらからかって遊ぼう。MEMがいたら沈んだ気持ちを慰めてもらおう。お気に入りの傘を差して、少し速足で歩道を歩く。
事務所の前で赤信号に捕まった。舌打ちが出そうになる。このあたりはオフィス街で雨でも人通りは多い。私以外にも多くの人が信号を待っている。もう少しで変わるだろうかと歩行者信号を見ていたら、トンと、背中を押された。
「え?」
それほど強く押されたわけでもなかったけど、よろめいて車道に出てしまった。右を見るとトラックが迫っている。クラクションの音が響く。逃げなきゃいけないのに、突然のことで足が動かない。思わず目をつぶる。と、誰かが私の手を引っ張って歩道まで戻してくれた。3秒前まで私がいたところをトラックが通り過ぎる。
心臓がうるさいくらいにバクバクと鳴っている。さっきまで差していた傘がトラックに轢かれてバラバラだ。お気に入りだったのに。でも、もしかしたら自分がああなるところだったと考えるとぞっとする。
「あの、ありがとうございます」
「いいのよ。気を付けてね」
助けてくれた人にお礼を言う。40歳くらいのおばさんだ。どこかで見たことがあるような気がする。
「駒を増やすだけかと思ってたのに。そんなに飢えてるのかしら」
「え?」
「ああ、こっちの話。これからも頑張ってね」
信号が変わる。おばさんは交差点を渡ってあっという間に人込みに紛れてしまった。お礼をしたかったのに。他に信号待ちをしていた人たちも何もなかったかのように歩いて行って、私を車道へ押し出した奴もわからなくなった。ふざけんなとは思ったけど、これ以上歩道で突っ立っているわけにもいかない。私はボロボロになった傘を拾って雨に濡れながら事務所へ向かった。
「おはようございます」
「おはよー先輩」
事務所にはルビーがいた。次に出る番組の資料を見ていた彼女だけど、私の持っていた傘を見て驚いた。
「どうしたのその傘? ズタボロじゃん。なんか濡れてるし。タオル持ってくるね」
「ちょっとそこで転んだ。ぶつかりおじさん? おばさん? わかんないけどそんな奴に押されたのよ。ホント最悪。アクアは?」
「おねえちゃんはお仕事。化粧品のCMだったかな? 用事があったの?」
「まあ、そうね。カミキヒカルって奴に会ったからそのことを話したかったの」
ルビーはカミキの名前を聞くと、すっと表情を無くした。私がカミキに会うと言ったとき、アクアも似た表情をしていたことを思い出す。
「会ったんだあんな奴に。ふーん」
そう言ってルビーは持ってきたタオルを無言で渡してきて、私のありがとうを聞くこともなくソファに座りなおして資料に向かい合っている。彼の話は聞きたくないようだ。理由は何となく想像がつく。今まで彼女達から父親の話を聞いたことが無かった。姉妹共にその話題はタブーなのだろう。
それからルビーが仕事に行くまで、私は話も出来ずもやもやした気持ちのまま事務所で過ごした。早く今日のことをアクアに話さないと。