◇◆◇◆◇
「――――――――――――――はぁ……」
頬杖をつきながらため息を1つ。
昼休みになったというにも係わらず、高町なのはは物憂げに机上を見つめていた。
「なのはっ!お昼よお昼!」
「うん……」
「なにしてんのよ?早くはやてのトコ行くわよ?」
「うん……」
「ちょっとなのは、聞いてる?」
「うん……」
「実はあたしのことバカだと思ってるでしょ?」
「………うん……」
ギギギギギギギギ――――――――ッッ
「いひゃいいひゃいいひゃいおぉぉ!!」
パッ
「うう……アリサちゃんひどいよぉ」
赤らんだ頬をさすりながらなのはが涙交じりに抗議の声を漏らす。
「うっさい!!なによ最後の
「あうぅ…なんだか分からないけどアリサちゃんが怒ってるよぉ…」
「あ、あはは……とりあえず落ち着いて?アリサちゃん」
背後から両肩に手を乗せてすずかが宥めに入る。
アリサ自身も本気で怒っていた訳では無く、彼女の仲裁であっさりと身を引いた。
「でもほんとにどうしたの?なのは、朝からずっと元気がないみたいだけど…」
「そう…かな?」
「うん。心ここにあらずっていうか…」
「にゃはは…ちょっと昨日のことを思い出しちゃって」
「昨日?」
「急用が入ったって話だったわよね」
「もしかして…何か気になることでもあるの?」
「あっううん。そうじゃなくてね」
静かにかぶりを振る。
そしてなのはは昨日の情景が仕舞い込まれた引き出しに、そっと手を伸ばした――――――――。
◆
店内の最奥。
1人の青年が静かにカップをソーサーに乗せた。
全身を黒で包み込んだ黒髪の青年。
前髪の隙間からは尖鋭な翡翠の双眸がちらりと覗かせる。
「…」
スッと腰を持ち上げると、男達の位置する方向に照準を合わせる。
コッ…コッ…コッ……
男へと迫り来る、乱れの無い歩調…。
2メートル……
1メートル……
そして……
「…」
物言わぬまま、男の真横をすり抜ける―――――――――…
カラン……
「……」
更に無言で男達の方を……正確には店員の方を横目に見た。
「……」
『会計を済ませたいんだが』
彼の瞳がそう語っている事は誰の目から見ても明らかだった。
「柊さん、先にあちらのお客様のお会計を……」
「はっはい…!」
「おい待てテメェ逃げんじゃねえよッ!」
「ッいい加減にしてください!!警察呼びますよっ!!?」
「あ”あ”ぁ!!?ッッッざけんじゃねぇぞオラァ!!!!」
再開され、激化の一途を辿る応酬。
済まされない会計。
店内の女性からの、視線。視線。視線。
暴れる男以外の男性は店内にわずか1人――――――その青年だけ。
頼みの綱であるオーナー、高町士郎は生憎と買い出しで不在であり、まさに絶望と言う他ない。
何名かの女性は青年に向かって、「何とかしてほしい」という思いを乗せた視線を送っている。
「……」
嘆息。それだけだった。
会計が依然済まされず、さらにはいつになるかも定かでない状況に彼は辟易とするのみ。
「…」
スッと財布から紙幣を一枚。
それを伝票に添えると、彼は荒れ狂う嵐を背にして翠屋を後に――――――――――――
「やめてくださいっっ!!」
出入口から1人の少女が青年の横を抜けて桃子へと一目散に駆け寄っていく。
「お母さんっ!お母さん大丈夫っ!?」
「お帰りなさい、なのは。私は大丈夫よ…」
なのはと呼ばれた少女が涙交じりに母の身を案じる。
刹那、静止した彼はなのは達の様子を首だけ捻るようにして一目見やる。
「――――――――チッ…」
毒気を抜かれてばつが悪くなったのか、男は紙幣をぞんざいに隣の卓に放って、出入口へと肩を怒らせながら向かってきた。
それだけ目の当たりにし、彼は一足早く開け放たれたその表口から姿を消していった。
「――――――――――――待ってください」
続いて出ていこうとした男に、なのはは制止を促した。
いつの間にか傍に寄り、がっちりと服の裾を掴んで逃がすまいとする姿はその愛らしい外見にそぐわぬ果敢さを滲ませる。
「……あんだよ」
「どうして……どうしてこんな酷いことするんですか…?」
「チッ……テメェにはカンケーねぇだろうが。離せよ」
「……離しません」
「あ…?」
男の眉がぴくりと上下する。
「あなたがお母さんに謝るまで、絶対に離さない」
「離せっつってんだろうが…!」
「……っ」
より一層、男の服を固く握りしめる。
突き刺す眼光は年端もいかぬ少女が放つにしてはあまりに強く、その奥には男に対する反抗心をふつふつと
「なのはっ。もういいからこっちに――――――――」
「早く謝って!!」
母の言葉を遮り、怨敵を前にしたかの如く男をねめつける。
「いい加減にしろよテメェ…」
なのはの敵意に満ちた視線を受け、一度は沈下した男の怒りのボルテージが急上昇を始めた。
ガンを飛ばす男にも、なのはは決して怯むことはない。
むしろそれを跳ね除けんばかりの怒気を放つ姿勢を見せつける。
「わたしはあなたなんかに負けない…」
「離せっつってんだろ!!!」
「――――――――お母さんに謝れッ!!!」
「このガキッッ……!!!」
ガッッ――――――――!!!
「……っ!」
思い切り肩を掴まれ、なのはの表情が苦痛に歪む。
だが彼女の手は、しっかりと男を捕らえて離さない。
「離せってんだッッッ!!!!」
猛る男が、荒々しくなのはを突き飛ばした。
鈍い衝撃に思わずなのはも手を離してしまう。
が…その方向がいけなかった。
なのはが突き飛ばされた先には、四角テーブルの角が牙を向けていたのだ。
「なのはっ!!」
桃子は逸早くそれに気付いたが、それでも動き出すには時既に遅く――――――――――――…
◆
突き飛ばされたとき、背中越しにテーブルの角がちらっと視界に入った。
その瞬間、ああ…これはまずいなって思った。
こんな人前で魔法を展開するわけにはいかない。
そうなればわたしはただの人間。
遠くでお母さんの叫び声が聞こえる。
体勢を立て直すことなんて不可能。
ぐっと目を引き締めて、わたしはただ耐えるしかなかった。
だけどもし打ち所が悪ければ、わたしは――――――――――――――――
――――――――――――ぽすっ
「……えっ?」
鋭い痛みを覚悟していたわたしにとって、それは予想外すぎる感触だった。
鋭いというよりも、むしろ柔らかくて……。
思わず振り返った先には――――――――黒。
視界いっぱいを覆い尽くす黒だった。
(なに……これ……)
状況が飲み込めなくて、わたしはそこから視線を上に滑らせて……
「あ……」
やっとわたしにも、その正体が分かった。
「…」
テーブルと私の間に人が立っていた。それだけだった。ただ……
「あ、あなた……」
呆気に取られたお母さんの口から驚きが零れ落ちる。
「…」
だって、私を受け止めてくれたまま無言をつらぬくその人は、さっきお店からいなくなってしまったはずで…。
「な、何だよ……」
その人はわたしを突き飛ばした男の人を少しだけ見て、すぐにわたしを見下ろした。
「…お前に訊きたい事がある」
「えっ…?」
突然のことで、わたしはきょとんと目を丸めてしまう。
真っ直ぐに見つめる綺麗な薄緑色の瞳に、ほんの少し、わたしの胸の奥がとくんと跳ねた。
「おい…無視してんじゃねぇよ」
背後から伸びてきた低い声に、気が抜けてしまっていたわたしは肩を震わせた。
目の前のお兄さんが男の人の方をもう一度見る。
心なしか、わたしを見つめていた時と比べてすごく冷やかに感じる。
凍て付くような視線っていうか…。
「まだ居たのか。俺はこいつには用があるが貴様に用があるなどと言った憶えは無い」
本当につまらなそうな物言いだった。
内容も直球で、男の人の方がどんどん怒りを溜め込み始めたのが分かる。
そんな様子を前にしても、このお兄さんの方は眉毛ひとつ動かさなかったけど…。
「んだと…?そもそもテメェさえいなければこんな事にはなぁ…!」
よく分からない言葉と一緒にこちらへと向かって来る。
だめ。このままじゃこのお兄さんを巻き込んじゃう。
そう頭で思い描けても、足がすくんでしまったように動かない。
一度気が抜けちゃったからなのか、それとも、魔法とは無関係の普通の人が相手だからなのか……。
わたしの身体は今さらながらに恐怖を思い出したかのように、ぜんぜん動いてくれない。
無意識のうちに、お兄さんにぎゅっとしがみついてしまう。
「そうか…」
わたしの様子を知ってか知らずか、お兄さんは一歩前に出て、わたしを男の人の視線から遮るようにしてくれる。
そこまで考えてくれていたのかまではちょっと分からないけれど…。
「俺も貴様が居なければもう少しばかり此処に居るつもりだった」
水底から這い上がってくるような、抑揚のない声色。
この人は怒っている。
お兄さんの顔はここからじゃ見えないけれど、声や空気からひしひしと伝わってくる。
男の人の頬に、一筋の汗が伝い落ちた。
「な、何だと……!」
「失せろ。貴様の耳障りな鳴き声で俺は今気が立っている」
男の人は今にも噴火しそうなほどに顔を真っ赤に染め上げた。
「てめぇ…言わせておけばッッ!!!」
ずんずんと男の人が近づいてきた。わたしの手より一回りも二回りも大きいそれが、お兄さんの襟元に伸ばして――――――――――――…
「やめて――――――――――――」
くださいって。
そう叫ぼうとしたつもりが、わたしはぽかんと口を開けて固まらざるをえなかった。
「――――――――――――がはあぁッッッ!!!!」
何かが爆発したような衝撃音と、わたしの頬を颯爽と吹きぬける一筋の風。
わたしが言葉を紡ぎ終える前……瞬きをした後には、全てが終わっていた。
開けっ放しの扉の向こうでは、さっきまでお兄さんの目の前にいたはずの男の人がぐったりと塀に背を預けてうずくまっていた。よくみると、塀にはそこかしこにひびが入っているような…。
「…」
その場に居合わせた誰もが呆然としている中でただ一人、お兄さんだけが何事もなかったかのような感じだった。
あの男の人があんなになっているのは、お兄さんが何かをしたからなんだと思う。
それ以外には考えられない。ただ、その
魔法との係わりでわたしはそれなりに戦いを経験して、反射神経とかも少しは鍛えられたんじゃないかと思っていたけれど…。
(何も…見えなかった……)
このヒトって、一体……
「話が終わっていなかったな」
お兄さんが身体を反転させて、わたしと向き合う形になる。
「あ、えっと……」
「お前に訊きたい事がある」
「えっ?あ、はい…」
わたしは自然と居住まいを正す。
わたしだけを真っ直ぐに見つめる瞳。
凛としてすごく綺麗な人だった。そして、感情が表情に全く表れてなくて、それが少し怖くもあった。
どんなことを聞かれるのかな…。
「奴と対峙した時、何故お前は即座に自ら対処する道を選んだ?周囲の輩に頼る事も出来た筈だ」
咎められたのかと思ったけど、すぐに違うって分かった。
表情からだと分かりづらいけど、わたしたちを包み込む空気はそんな緊迫した感じじゃない。
この問いかけはわたしの行いに対する、純粋な『興味』――――――――…。
「えっと……もしあのとき誰かに助けてって言ったら、その人を巻き込むことになっちゃいます…」
「……お前のその体躯で止められると思っていたのか…?
「…………わたしなんかが止められるなんて、思っていません…」
ぴくっと、後ろを振り返っていたお兄さんの一瞬だけ肩が震えた。
もう一度、わたしたちは見つめ合う。
自分でもびっくりするくらいに、その言葉は自然と紡がれていた…。
「――――――――――――…止めなきゃいけないと思ったから……わたしだってこのお店の一員だからっ!だから……」
そのとき、ほんの少し……だけどわたしにもちゃんと分かるくらいに、お兄さんは目を見開いた。
今日会ったばかりなのに、こんな顔もできるんだって……なんだか不思議な気持ちになった。
うまく言葉にはできないけれど…。
「……そうか」
フッとお兄さんを瞼を伏せると、身体を翻して、何も無かったかのようにお店から出ていってしまった。
「――――――――あ…」
佇んでいたわたしの視界の端っこにひっかかるものがあった。
お会計の伝票と、もう1枚の別の紙――――――――1万円札。
頭で考えるよりも先に、わたしは駆け出していた。
お店から飛び出してその姿を探したとき、もうお兄さんはそれなりに離れた角の先に消えようとしているところだった。
「あのっ!!おつり忘れちゃってます!!」
人目もはばからず、わたしは力いっぱい叫んでいた。
この声を、しっかりとお兄さんの元へ届けないといけなかったから。
そのおかげで、お兄さんはぴたりと歩みを止める。だけど、それもほんのわずかな時間で――――――――――――
「お前の好きに遣え」
声は全然大きくなかったのに、それは私の鼓膜をちゃんと震わせていた。
まるで、言葉が空間に溶け込んで、そのままわたしまで流れてきたみたいに。
とても不思議な感覚だった。
そして…消えてしまう。
「あっ!!待ってください!!」
はっと我に返ると、わたしは一目散にその背中を追いかけた。
追いかけて。追いかけて。やっと角までたどり着いて。そして…。
「待ってくださ――――――――――――…あ…れ……?」
その先に、わたしが求めている後姿はなかった。
長い長い一本道から吹き抜ける風は、春だっていうのに妙に寒々しい。
ずっと幻を追いかけていたような、落ち着かない感じだった。
ようやく現実に戻ってきたって実感できたのは、お店に帰って、後片付けに追われているお母さんたちの姿が目に入ってからのことだった……。
◆
「なるほどね。それで朝から間の抜けた表情してたってわけね」
「うぅ…アリサちゃんがなんだか冷たい…」
「ふふ…でも優しい人だね。わざわざお店に戻ってきてくれるなんて」
「え?あ、うん…」
(でも、ちょっと…ううん。すごく不思議な人だったな…。それに助けに戻ってきてくれたっていうより……)
訊きたい事が出来たから戻ってきた。それさえなければ戻ってこなかったかもしれない。
確証は無かったが、なのはは不思議とそんな印象を抱いていた。
「もしかして、なのはちゃんはまたその人に会いたいん?」
出汁巻き卵をつまみ上げるはやてが猫みたいな目つきでなのはを見やる。
これは面白いものを見つけた、みたいな。
「…なんか前にも似たようなことがあったわね」
「にゃはは…たぶん、はやてちゃんが考えてるのとは違うかな…。もう一度会いたいなっていうのは本当だけど…」
「そうなの?」
「うん。そのときは頭の中がごちゃごちゃになっちゃってて、助けてもらったお礼が言えなかったの。それにおつりだってちゃんと返したいし…」
「ふふ…なのはらしいね」
「まぁ、いきなり知らない人から9,700円も渡されたら気後れするわよね」
「ふとっぱらやな~その人」
「でもそのお兄さんもきっとそのときはいやな思いをしたんじゃないかな?それでもそういうことができちゃうなんてすごいなぁ…」
「…なんていうか、なのはよりもむしろすずかの方が会いたそうに見えるわね」
「えへへ…。なのはちゃん、もしその人を探すならわたしも手伝うよ?」
「ありがとう、すずかちゃん。でもお母さんも他の従業員さんも見たことないって言ってたから、もう一度会うのは難しいんじゃないかなって…」
「たまたま海鳴市に立ち寄ったって可能性もあるしね」
「うん…。でも、時間があるときにちょっと探してみようかなって思ってる」
「手伝ってほしいときは言ってね、なのは。わたしも手伝うから」
「うん。フェイトちゃん、ありがとう」
「そういえば、結局わたしとアリサちゃんも昨日はそのまま帰っちゃったんだけど、昨日遊べなかったかわりに明日わたしの家にみんなで来ない?」
にこやかに提案するすずかに、全員が笑顔で賛同の意を表する――――――――ただ1人を除いて。
「ごめんっ。あたし行けない」
「ふえ?アリサちゃん、明日なにか用事でもあるの?」
「明日久しぶりにパパとママが帰ってくるのよ。だから家族で出かけようって約束してるの」
「アリサちゃんのお父さんとお母さん、ずっと海外にいるんだもんね」
「ほんなら仕方ないな~」
「うん。だからあたしのことは気にしなくていいから」
「そっか」
微笑みを向けるすずかにアリサも笑みで応える。
そして、天上の大海を仰ぎ見た。
今日の予報では、海鳴市は夕方には雷雨に見舞われるという。
空はこんなにも蒼々としているというのに。
本当に、世界が何を起こし得るかなど誰にも解らない。
その日の夕刻。
海鳴市は、予報通りの雷雨だった。
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作中の柊さん=柊禊様のお名前をお借りいたしました。
本当にありがとうございました。