私の視界はただベッドに横たわる先生を映していた。彼が目覚める事がないのは分かっている。けれど、また目を覚ますのではという淡い期待が、頭を離れようとしないのだ。幾ら待っても耳に入ってくるのは、脈拍数を測る機械の無機質なリズムだけ。彼の声が私の耳に入ってくることは無い。
「先生....」
私は微かな声で彼の名前を呟く。心做しか、彼の手が動いた気がする。それと同時に脈拍数が急に低下し始めた。彼はもう死に向かっている。
「もう、お別れですか。」
私は返事が無いと分かっていながらも、呟いた。時は冷酷に、彼を死へと向かわせる。急激に低下した脈拍数は0へと近づいていく。数値が限りなく0に近づいた時、私は彼に向かって一言手向けた。
「今まで楽しかったですよ..先生」
言葉を手向けたのと同時、脈拍数の音がただ高い電子音だけとなって部屋に響いた。不思議と、涙は出なかった。
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あれから数日、常に騒がしかったゲヘナも今は嘘のように静まり返っている。私はその頃、いつか先生と一緒に『共犯』になった自慢の休憩スペースに居た。ここだけは先生と過ごした日々が残っている。しかし、日々はあくまで残滓として残っているだけで、戻ってくる事は無い。
「はぁ...」
何となくため息をついてみる。先生が居ない日々はただただ満たされない。常に何かが欠けている。
「.....」
先生がよく座っていた場所へ自然と視線が移る。視線の先には誰も居ない、ただの虚無があるのみ。何も無いはずなのに雪崩のように、涙が溢れて止まらなくなった。涙と共に思い出も溢れてくる。
"イロハがあんなに真面目にやってるの、初めて見たかも。"
"失礼な....これくらいやりますよ、万魔殿の戦車長なんですから。"
あの頃のように、何気なく言葉を投げ交わした二度と戻ってこない日々が懐かしい。少なくとも、当時の私は先生との別れがこんなにも唐突に訪れるなんて、夢にも思っていなかった。
行き場の無い涙はとめどなく溢れては地面に落ちる。
時間を忘れる程に泣いた頃、ようやく涙が収まってきた。ふと、先生に呼ばれたような気がした。私は残った悲しみを拭き取り平然を装い、先生の居る場所へと足を運んだ。
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行く途中で買った二人分のお菓子の入った袋をぶら下げて、私は先生の元へと足を運んだ。一瞬だけ、墓石の隣に先生が座っている、そんな幻を見た。"またサボりに来たの?イロハ”と問われてるような気がした。
「...サボりに来ましたよ、先生」
以前なら軽口が返ってきたはずの沈黙が、痛いほどに寂しい。私は返事を待たず、先生の隣へゆっくりと座った。
「先生は本当に.......意地悪な人ですね」
先生は私を居なくなってもなお、どこまでもどこまでも縛ってくる。
「...心配しなくても、やるべき事はきちんと全部終わらせましたから」
来るわけもない返事を待つというのは、いつまでも心にくる。それと同時に、受け入れがたい現実も心に付け入ってきた。私の心の中には孤独感が戻っていた。しかし、私はいつものように言葉をひねり出す。
「.....さて、今は共犯がいることですし、今日も今日とてサボるとしましょうか? ねえ、先生?」
先生と一緒に初めて『共犯』になった時に投げかけた言葉。彼はこの言葉を同じ空の下で聞いてくれているのだろうか。そのような事を考えながら、どこまでも穏やかな青空を見ていると、不意に、視界が滲んだ。
私は、泣いていた。
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墓にお供え物を添えた後、私は気がつけばシャーレの前に足を止めていた。当番の日も、そうでない日も度々訪れていた場所。ここも先生という主を失い、すっかり寂れてしまっている。
シャーレを眺めていると記憶の奥底から、意識の底に沈めていた記憶が浮かび上がってきた。今日は十一月十五日。私の誕生日の前日。その事実に触れた瞬間、生前の先生から貰った言葉が蘇る。
"いつもありがとう、イロハ"
先生からの何気ない一言に、私は知らぬ間の支えになっていたのかもしれない。そして、私の足は意識が追いつ時には、既にシャーレの中へと動いていた。
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先生の居ないこの部屋を、これまで何度見ただろう。いつもなら先生が座っている椅子に、今は虚無が座っている。部屋全体も親の帰りを待つ子のように、先生の帰りを待っているような気がした。
「久しぶりですね...」
呟いた言葉が、埃っぽい空気に吸われていく。先生の居ない執務室がここまで暗く、冷たいとは思ってもいなかった。周囲を軽く見渡した時、一つ気にかかる物があった。
「これは...」
これまで一度も見たことの無い、古いプリンターのような機械。アナログな雰囲気をヒシヒシと感じさせる機械は、虚無に包まれる部屋の中でも一定の存在感を醸し出していた。
私がその機械に触れようとした時、急にジリリという音が響き、静寂に包まれていた執務室に息を吹き返させた。機械は不規則に詰まりながら、一つのメッセージを私に届けた。
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大きく壊れた教室、外に無造作に積み重ねられた机と椅子。壊れた先に映る夜空は、果てしない幻想の海を魅せる。そして、夜空が彩っている中で二人のOSが決断の時を迫られていた。
「本当にやるのですか、先輩」
「もちろんです!...だってこれは先生が私たちに託した「最後のお仕事」ですから!」
アロナのメモリの奥底から、先生との記憶の数々が走馬灯のように駆け巡る。ノイズ混じりの視界の中、まだ先生が喋る事が出来た最後の日のデータが再生される。
"私の声は、もうあの子たちには届かないみたいだ"
弱々しくも、温かい声。先生は困ったように笑って、二人に最後の願いを託した。
"だから、代わりにこれを届けてほしい。……頼めるかな。アロナ、プラナ"
"...生徒たちのことを、最後までよろしくね"
アロナは教卓の上に手を置き、夜空に向かって微笑んだ。その笑顔は泣き出しそうでもあり、確かな強い意思が宿っていた。
「準備はいいですか、プラナちゃん?」
「…はい」
「座標固定、出力安定。送信プロセスへ移行します」
プラナは淡々とした口調で返事をし、アロナと指先を重ね合わせた。二人のOSは最後の奇跡を機械へと託したのだ。
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目の前の機械が詰まりながらも届けたモノ、それは見慣れた字で書かれた先生からの贈り物。
『お誕生日おめでとう、イロハ』
本来ならもう永遠に届くはずのない言葉。虚無が座っていたはずの椅子から届けられた、確かな愛の証明。私は震える手でその紙を抱きしめ、誰もいない部屋で小さく呟いた。
「ありがとうございます、先生....」
キヴォトスの空では明けの明星が、朝と夜の波打ち際で輝いていた。
どんな夜でも、いずれ朝は来る。
END