その者、無戸籍者につき   作:赤とんぼ@蜻蛉の鍬

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酸いも甘いも知っているけど水洗トイレは知らない雑渡昆奈門


第一章:黄昏時

■正常性バイアス

 

「ここは……?」

「だ、誰ッ!?」

 

 

のんびり過ごしていた二人は、それぞれ違った意味での面倒事に巻き込まれるのだった。

 

 

「助けて! 殺さないで!」

 

 

突然家に現れた大男、それもなぜか非常にクオリティの高い忍びのコスプレをしている男に怯える女。火傷の跡、全身の包帯、身長も高くガタイも良すぎる男。この状況で、相手に悪意があれば自分の命はないと彼女が判断するのは容易だった。

 

そして動揺し腰を抜かす女を一瞥した後周囲を観察する男。

見た所先程までいた場所とは違う様子。

 

目の前でうろたえる女は驚き後ずさりながらも何かを取りだそうとする。その動きを察した男の行動は早かった。

 

音もなく近づき女の口を塞いだその男。

逆らったら殺される。そう彼女の本能が告げていた。

 

 

「ここは――、」

 

 

言うなりぴくりと玄関の方を見つめる男。そして少し目を細めたかと思うと女の方へと向き直った。

 

 

「……誰か来る。私は身を隠すが、余計なことは考えぬように」

 

 

じろりと圧を含んだ隻眼に睨まれ腹の底が冷えた彼女は黙って首を縦に振るしかなかった。その彼女の様子に「では、」と、言うなり彼は消えてしまう。どこに隠れたのかも見当がつかない。まったく人の気配が消えたのだ。

 

今のは夢か? とまで思っているとインターホンが鳴った。彼の言う通り人が来た。抜けた腰を必死に持ち上げインターホンに出ると、「加藤急便です」と言う。そう言えば午前何か届く予定だったと彼女は思い出した。お荷物お届けに参りました、はぁい、という日常的な会話がなされ、やはり今のは夢だったのかと思うと同時に、もし夢でなければ今ここで助けを呼ばねば大変なことになる。と警鐘が鳴る。

しかし「余計なことは考えぬように」という彼の言葉が本気であれば……。

 

このような事態に巻き込まれるとは思っても見なかった彼女。あぁ、やはりここは家賃を削らずオートロック付きのマンションにしておくべきだったと一生に一度であってほしい後悔が頭をよぎる。

 

そしてドアを開けて青ざめた笑顔で荷物を受け取り、「ありがとうございました~」という宅配のお兄さんの笑顔をみながら。己もつられたかの様に足をそのまま外へ一歩出そうと”思った”瞬間。

 

ドアがパタリと閉まり、ふわりと体が浮く。

 

 

「余計なことは考えぬようにと、言ったはずだが?」

 

 

さっと青ざめる彼女。首元には何かが突きつけられている。刃物だろうと察するのは容易だった。

 

 

「な、なにも、わた、わたし……わたしは……」

「……」

 

 

彼女は思っただけである。外に出ようと。しかしその「出よう」とする感情が行動に移る前の予備動作を、彼は見逃さなかった。

 

 

「ここはどこだ?」

 

 

低い声でそう尋ねられる。喉元に突き付けられた刃物。大柄の男に密室で捕まっているこの状態。極限状態の彼女の視界がブラックアウトしそうになっていた時になされたその質問に、彼女の意識は手繰り寄せられた。疑問が浮かんだのだ。

 

 

「あの、ここがどこか知らずに入って来たのですか?」

「聞かれたことを答えろ。ここはどこかと聞いている」

 

 

迷い込んだ? いや、ありえない。ドアには鍵をかけていたし窓は開けていなかった。今日一日この家は密室だったのだ。妙な質問に少し冷静さを取り戻した彼女は、正直にここがどこの地域のどこのマンションかを述べた。

 

 

「…………、」

 

 

聞き馴染みのない場所をさす単語に彼は心の内に疑問符を浮かべる。彼は先ほどまで部下と団らんし、そして少し厠に行くので席を外した所だった。つまるところ厠の戸を開けたばかりなのだ。なのに眼前の光景はいつもの厠ではなく全く知らない場所。そもそも部屋の作りが違いすぎる。季節は冬であったのにこの室内は温かく。しかし彼女が戸を開けた時の空気は冷たかった。その上先ほど音を発していた壁に飾られたソレ。彼女が外の者とやり取りをしていたらしいソレは、声と共に恐らく外の人間の様子が映し出されていたのだ。室内を見渡しても、目に入るのは見たことのないものばかり。

 

見慣れぬ南蛮衣装に近い服を着た人間たち。言葉は通じるので南蛮ではなさそうだが、恐らくここは己の知る場所ではないのだろう。であるならば、何かしらが原因でこの場所に突然移動させられたと考える方が良さそうだと彼は感じた。

 

なぜなら。

 

厠に行こうとしていた自身の状態がさほど変わらなかったから。己のその体の様子から察するに時間は経っていない。意識の混濁もなく薬を盛られたわけでもなさそう。そういうわけで突如場所を移動したのだという結論に達した彼。そしてこの場この状況を詳しく知るには彼女から情報を引き出す他なさそうだと、彼は心の内にため息をつく。

 

すっと彼女の首元からクナイを外し、「すまなかった」と一言。

 

 

「ここがどこかわからず驚いてしまってね。怖がらせてすまなかった」

 

 

解放された彼女はほっと胸をなでおろすとともに、彼の顔を見るため振り向いて見上げた。視界に入ったのは隻眼火傷包帯男のその姿。ひゅっと息をのむと、彼女を安心させるかのように「君に危害を加えるつもりはない」と柔らかな声で彼は言う。

 

 

「いえ、あの、ま、迷い込まれたのでしたら、仕方ないですよね……」

 

 

仕方ないのか? どういう状況だ? もしや最近あった不審者情報はこの男のことか? と頭にはてなが飛び交ったまま彼を見つめる。見つめられた彼は先ほどの声色とはおよそ結びつかない柔和な笑みを携えた後、名を名乗りながらそれは綺麗なお辞儀をする。

 

 

「雑渡昆奈門だ」

「ざっとこんなもん?」

「あぁ。雑渡、昆奈門だ」

「……珍しいお名前ですね」

「よく言われる」

 

 

ふっと笑った彼の顔は優しく穏やかで。

彼女も自分の名を名乗り、とりあえず落ち着こうと「お茶でも出しますね」と言えば、「お構いなく」と言われてしまい。「それよりも……」と彼、雑渡昆奈門は言葉を続けた。

 

 

「厠を貸してはもらえないだろうか」

 

 

その言葉に、トイレから出てきた人がトイレを借りに来たとはこれはいかにと思った彼女。もしかして悪い人ではないのではと正常性バイアスを働かせてしまうのだった。

 

 

・・・

 

 

「これは、一体?」

 

 

案内されたのは先ほど自分が出てきた場所。何やら水のたまった甕のようなものの前に案内され思わず疑問を口に出した雑渡。

 

 

「え、あの、トイレ、ですけど……」

「といれ……?」

「あ、ええと、厠ってトイレの意味ですよね? 用を足す所の……」

 

 

なるほどそう表現するのかと理解した雑渡は次の質問に移る。

 

 

「それで、これはどう使えば?」

「ど? ……ええと、その……座って使ってもらえると、助かります…………」

「?」

「……?」

 

 

互いに疑問符を浮かべる男女。しばし見つめ合ったのち、「もしかして……」と彼女が恐々と口を開いた。

 

 

「洋式トイレを使ったことがないのでしょうか……?」

「ようしき、といれ……?」

 

 

これは困ったものだと彼女は思った。洋式トイレを使ったことがない忍び装束の大柄不審者男性の相手はしたことがない。これから先一体どうなってしまうのかと、始まりに過ぎないその出会いに頭を抱える彼女だった。

 

 

 

 

 

■役作りが徹底している

 

 

突如現れた不審者男性に洋式トイレの使い方を教えた彼女は一体どうしたものかと悩んでいた。警察を呼びたいが、電話をしている間にトイレからすぐ出てきそうでもある。

 

 

「忍び装束のコスプレをしている謎の侵入者、か……」

 

 

ぽつりとこぼした彼女の言葉は彼に届いていたようで。

 

 

「すまないね。勝手に押し入ってしまって」

「あっ、い、いえ、その……」

「信じてもらえぬかもしれないが、ここへ来たのは本意ではなかった」

 

 

迷惑をかけるつもりはない、と。すでに十分に迷惑なのだがと思った彼女は「お気になさらず……」と言葉を続けた。

 

 

「とりあえず、その、お話でも……」

「そうだね」

 

 

目の前の人間が未だ警戒を解いていない様子に、まず彼女を篭絡するところから始めるかと雑渡は思った。案内された南蛮式の机には茶と包みに入った何かが用意されており。とりあえず席に着いた雑渡は改めて自己紹介を行った。

 

 

「改めて。タソガレドキの雑渡昆奈門だ。御覧の通りの忍者だね」

「た、黄昏時?」

「そこ?」

 

 

と思わず突っ込んだ雑渡。タソガレドキも知らぬとは辺境の土地の者かと一瞬よぎったが、この高度な生活用品に囲まれた者が辺境に住んでいるとは考え難い。

 

 

「忍者、というのは、その、まあそういうものとして受け入れますが」

「まあこんな格好だしね」

 

 

時代は多様性。きっと使い方は間違っているだろうか本人がそう自称するものを否定し逆上でもされてはかなわない。そんなことよりも「黄昏時の雑渡昆奈門」とは一体。二つ名のようなものなのだろうか。そのような新たな疑問が湧いて出た彼女に対して雑渡は問うた。

 

 

「タソガレドキを知らないと?」

「いえ、黄昏時ってあれですよね、夕方の……」

「いや、その黄昏時ではなく。城の名前の」

「お城……? タソガレドキ、という、お城ですか」

「あぁ」

 

 

言うと彼女は未だ聞き馴染みがないと言った顔で「調べても良いでしょうか」と雑渡へ問うた。地図でも見るのかと思った雑渡が見たのは、彼女が服のどこからか取り出した四角い板。黒かったその板を彼女が触ると光りはじめ、そして何やら文字や地図が映し出されていく。

 

 

「すみません、タソガレドキ城というお城は出なかったのですが、地図でいうとどの辺りでしょうか?」

 

 

と渡されたスマホを不思議そうに持った雑渡は首を傾げた。

 

 

「これは、どう扱えば?」

「……スマホをご存じない?」

「すまほ」

「スマホ」

 

 

互いに無言の時間が流れる。暫く置いたのち雑渡が口を開く前に彼女が説明をし始めた。すでに彼女の中で雑渡は役作りに徹している自認が忍者となっていた。そう思えば話はスムーズである。

 

 

「スマホはこう使って……」

「!?」

「きゃあ!」

 

 

教わったその「すまほ」というものの技術に驚きを隠せない雑渡。思わず顔から包帯を飛び出し驚いてしまい悲鳴をあげられてしまう。

 

 

「す、すまない、初めて見るものだったので驚いてしまって……」

「そ、そうですか……」

 

 

いそいそと包帯をなおす雑渡の姿にやはり役作りがすごいともはや感動してしまった彼女。これはすごい人と出会ってしまった。もしやどっきりなどではないだろうかと思い始める。

 

 

「それで、あなたの住むタソガレドキはどの辺りですか?」

「この地図でいうと、この辺りになる」

「……いえ、ここは、その…………」

 

 

言いづらそうに言葉を濁した彼女は気まずそうに言葉を続けた。

 

 

「そこ、我が家のある地域なんですけど……」

 

 

本日二度目の包帯が飛び出る雑渡。

そして何度目かの悲鳴を上げる彼女。

 

 

「ここが、タソガレドキ……?」

「地図でいうと、そうなんですが……」

 

 

詳しく住所を入力し「我が家はここですね」と表示させれば、雑渡から見たソコはちょうど城のあった辺りである。

 

 

「念のため確認するが、冗談ではなく?」

「冗談ではなく」

 

 

しばし見つめ合う二人。

丸い目をした雑渡に「大丈夫ですか?」と尋ねた彼女。しかし雑渡の頭の中は疑問にあふれている。

 

 

「もしかして昔お城があったとかそういうことでしょうか?」

「昔、というと?」

 

 

ここまで役作りに徹しているのだ。であればそれに付き合うのもまた一興。というか刺激せずノってあげるのが得策だろうと彼女は踏んだ。

 

 

「この土地が昔タソガレドキと呼ばれていたり城の跡地があったりすれば、自治体のHPを見ればわかると思います。……あ、HPというのは、なんだろう、スマホで見れる……情報誌? 書物? のようなもので……」

 

 

と、彼女は言いながらスマホを操作して自治体のHPを確認する。しかしそこにタソガレドキの文言はない。「なさそうですね……」とこぼした彼女はその他にも「タソガレドキ城」という城の名前を調べるも何もヒットせず。困ったとばかりに雑渡を見つめると雑渡もまた困ったような目をしている。

 

 

「……ちなみに、もしあなたの帰る場所がなかった場合…………どうされますか?」

「……住むところが見つかるまで野宿をするしかなさそうだ」

「野宿!?」

「その辺りで鳥や獣でも取れば暫く食事には困らないだろう」

「ダメダメダメ! 鳥獣保護法っていうのがあるんですよ! 勝手に捕ってはだめです!」

「野生動物を取るのに許可が必要だと?」

「え、流石にそれは知ってますよね?」

 

 

どこまで知らないのか、どこまで役作りに徹しているのか不安になってしまった彼女。

 

 

「あと、あの、さっきの刃物も持ち歩いたら犯罪ですよ」

「クナイが?」

「あー、クナイは聞いたことがあります。が! 犯罪です!」

 

 

ほら、と見せたのは銃刀法違反に関する記事。刃渡り何センチがダメで、どのような場合は許可されているのかなどを見せる。単位がわからないので具体的な長さがわからぬ雑渡だが、彼女が言うには先ほど出したクナイはダメらしい。

 

 

「なるほど。随分平和な場所のようだ」

「もし野宿で持ち歩くなら……言い訳はキャンプに使う為とか言えばいいんですかね?」

「きゃんぷ、ね。ふむ」

 

 

なるほど、と呟いた雑渡を訝し気な目で見る彼女。

 

 

「そもそもその服で出歩いたら職務質問されますよ」

「しょくむしつもん、とは?」

 

 

一体どこまで説明すればよいのやら。その後職務質問とは何か、警察とは何かを説明するとまた「なるほど」と、どこまでわかっているのかわからない返事をする雑渡。

 

しかし彼も事態を軽く見ているわけではない。なぜかはわからぬが同じ場所のはずの違う土地へと移動した現状。この部屋だけで現状を確認するには少々情報が足りぬと判断した。この部屋から出て周辺を見て回り、この目で確かめねばと。

 

と言うわけで雑渡はこの土地のルールなどを確認することに。聞けば自転車やら車やら、電車、バスなどと言う移動手段が広く普及しているとか。個人が車を持てるとは、随分と豊かな土地に来たものだと感心する雑渡。服装もこの様子だと常の形になっていても目立つだろう。早めに着替えを調達した方が良さそうだと思い至る彼。

 

 

詳しく話を聞いた男は礼を述べてから、ここを出ると言うではないか。

 

 

「お一人で大丈夫ですか?」

 

 

とは言うものの、最後まで面倒を見る気はさらさらない彼女。不審な男とこれで別れられると思いほっと安堵の気持ちが顔に出たのを雑渡は見逃さなかった。

 

 

「ここに居ても迷惑になるだろうしね。お茶、ご馳走様」

「ご馳走様って……」

 

 

口を付けていないそのお茶を困ったように見つめた彼女が視線を戻せばそこに彼はもうおらず。ドアから出たのか窓から出たのかはわからぬが、これでようやく解放されたと肩をなでおろし、取り戻した日常を噛みしめる彼女だった。

 

 

数時間後、警察から電話がかかってくるまでは。

 

 

 

 

 

 

■不審者情報のせい

 

 

 

「コスプレはさぁ、ちゃんとそういうイベントでやってもらわないと」

「はい……すみません、言って聞かせますので……」

「あと刃物もね。キャンプで使うって言ってたけど……財布も持たずこんな軽装で、徒歩で行くつもりだったっていうし……」

「彼役作りを徹底していて、実際に歩いていけるのか試してみたかったらしくて……」

 

 

しおしおと言い訳を並べ悲しくなってきた、今朝方不審者に遭遇し不審者から解放されたはずの彼女。

 

解放されたはずが警察からの呼び出しに応えればあの「雑渡昆奈門」がいるではないか。その上自分が身元引受人になってしまったという。聞けば最近あった不審者情報により警察が巡回していた中、古めかしい時代の人間のコスプレをした雑渡が歩いており……警察が職務質問をして今に至るのだとか。自分に連絡が来たのは雑渡が答えた名前の中で唯一信憑性が高く警察が連絡先の分かる者が自分だったからとのこと。

 

なぜ自分の名前を出したのだ。

なぜ自分が身元引受人にならねばならないのか。

しかも警察曰く三十六歳と言うではないか。いい年をして何をしているんだ。

 

しかしそんなことを考えていても仕方がなく。あの律儀な不審者を「今朝方私の家に不法侵入していたコスプレの役作りを徹底している不審者です」と言うと普通に不法侵入で捕まるのだろう。それでもいいのではと思わなくもないが。

 

しかし捕まるのは可哀そうだと思ってしまった絶賛ストックホルム症候群が継続中の彼女。仕方がなく身元引受人になってしまい。「次からは注意するように」という寛大すぎる警察からのお目こぼしにより今度は警察から解放されたのだった。

 

警察組織は本当にこの人間を見逃しても良いのだろうかと疑問がないわけではないが、本人の言葉遣いや所作、そして自分が説明した「役作りが徹底している」という点。また現在出されていた不審者情報とは合致しない部分がある為、恐らくこの新たな不審者予備軍は放流して様子を見ようと言うことになったのだろう。詳しいことはわからないが、と彼女は自分に言い聞かせる。

 

 

・・・

 

 

「随分と迷惑をかけてしまったようだ。かたじけない」

「いえ……いいんです……もう……」

 

 

遠い目をした彼女はとりあえずとぼとぼと帰路に就く。そしてまたこの不審者を家に上げるのか、とため息を零しながら再度茶を出し話し合いの席に着いた。

 

 

「雑渡、昆奈門さん」

「雑渡で構わない」

「では雑渡さん。……服と泊るところ、何とかしていただけませんか」

「それを調達しようとした矢先に捕まってしまってね」

「……着替え、どこかに用意していないんですか?」

「これが着替えだったのだが……」

 

 

何故か新しい恰好をしているくせに普通の服の用意はないと言う。しかもお金を見せてもらえばなんと古銭ではないか。流石に役作りが徹底しすぎている。これには流石の彼女も呆れため息を零す。

 

 

「少し考えたんだが……」

「はい」

 

 

神妙な面持ちでこの不審者雑渡さんは何を話すのかと続きを待つと、素っ頓狂な言葉が返ってきた。

 

 

「もしやここは、私の知らぬ世界なのでは?」

「次はそういう設定ですか」

 

 

ため息を零す彼女と「いやいや冗談ではなく」と、彼女にとって冗談にしか聞こえに事を言う雑渡。

しかし雑渡としても、少し外を出れば今まで見てきた世界とは全く異なる世界が広がっていたのだ。彼がそう思い至るのは不思議ではない。彼としても考えたくはない事実ではあるが、現実がそうであるのだから仕方がない。

 

 

「そもそも、私が生きてきた場所に警察という存在も、自転車や電車という物もない。各国が領土を巡りあって戦が起こっていた戦乱の世だ」

「……あの、冗談はやめてもらっていいですか」

「……だから、冗談ではなく」

「本気で言ってますか?」

「本気で言っている」

 

 

じとっと彼女を見つめる雑渡。ここまで信じてもらえないとはと、確かに信じられないことではあるが現実がそうなっているのにここまで受け入れてもらえぬとは。しかし逆に自分が同じような人間を保護し、今の自分のような発言をされた場合彼女と同じ反応をするかもしれないとも思った。

 

 

「信じられない事だとは思うが、私としては信じてもらうほかない」

「…………」

 

 

大真面目にそう言うものだから、彼女は絶句した。しかし警察より「身元不明だったが連絡のつく人がいてよかった」などとも言われている。まあ雑渡昆奈門という素っ頓狂な名前が本名だとは思えないのでペンネームだと思うが。

 

 

「その話が仮に本当だったとして」

「……」

「衣食住はどうするんですか? まさか私の家に上がり込むとか言わないですよね?」

「……今頼れるのは君しかいない状況でね、助けてもらえるとありがたいのだが……」

 

 

私としても独り身の女性の家に上がり込むのは本意ではない。と。そう言う雑渡は静かに目をつむった。

 

そう言われた彼女は考えた。この話が本当であれば、仮にホテル代などを出しても回収することは不可能。その上いつ帰るかも不明なので宿泊費だけで費用がいくらになるかもわからない。こんな三十六歳速攻でどこかへ放り出したいが、しかし警察から身元引受人としてお目付け役にされている。何かあれば自分のせいになってしまう。

 

ううむと悩む彼女に雑渡が提案する。

 

 

「……ここの所、この近辺で不審者が目撃されているとか」

「ええ。目の前にもいますが」

「……まあ、それはさておき」

「…………」

 

 

さておくなと彼女は思ったが話を続けさせた。

 

 

「一人暮らしの女性というのは狙われやすいのでは? どうだろう。私がいることで防犯になると考えては」

「あなた自身が不審者なんですよ」

「それは……信じてもらうしかないところではあるが……」

 

 

私としても長居する気はない、と雑渡は言った。

 

 

「帰る方法でも知ってるんですか?」

 

 

それならば一刻も早く帰ってもらいたいと彼女は思った。

 

 

「恐らくこの場所が当時私がいた場所と同じで、そのせいで何かがきっかけとなりこの場所に来たのではと推察している」

「上下階の人の所に現れてほしかったものです」

「まあ何か理由があるのだろう」

 

 

「ともかく」と雑渡。

 

 

「条件さえ重なれば帰れる可能性がある。であれば帰ることができる可能性が一番高いこの家に暫く置いてもらえると、互いに助かるのでは?」

「…………ここ、一人暮らし用でそんなに広くはないんですよねぇ……」

「大丈夫だ、普段は身を潜めよう」

「その大きな体を?」

「ふむ。では御覧に入れようか」

 

 

言うなり雑渡の気配は消え、どこへ行ったのかわからなくなる。その速さは視認できるものではなく。本当に彼の言う通り忍者なのか? という気持ちが湧いてくる彼女。そしてこんなことをされては、もしみっともない姿を見られても自分では気づけないではないかと思い至る。故に少ししてから「どうだろう」とまた姿を現した雑渡にまくし立てた。

 

 

「いや! 絶対いやです! 気配消されて存在されるとか絶対に嫌! 存在感出してくださいッ!」

「わ、わかった……」

 

 

勢いよくまくし立てられ思わずどうどうと手で彼女を落ち着かせる雑渡。しかし「存在感を出せばいてもいい」とも取れる言葉を取った雑渡はにこりと笑った。

 

 

「では、存在感を出して居るように努めよう。そういうことで、暫く厄介になる」

 

 

と、頭を下げられた彼女はしまったと思った。この男なんて策士だ、とも。

しかし口から出た言葉はもう戻せない。揚げ足を取られた気持ちもないではないが、こうなってしまっては仕方がないのかと。涙目で「雑渡さん、家事はできますか……」と尋ねたのだった。

 

 

 

 

 

■共同生活の始まり

 

 

 

「こうしてみると随分と鍛えているんですね」

「忍者だからね」

「へえー」

 

 

奇妙な共同生活が始まった雑渡と彼女。

とりあえず雑渡の生活用品を買う所から始まった。

 

この様な服装の人間を外に出すこともできないと彼女はまずネット通販で雑渡の為に服を買い。とりあえず外に出られるような恰好になったので必需品を共に買いに行った。存外この男は従順なようで、「これをしてはいけない」と言ったことは素直に守り、「この世界ではこういうものだ」と教えればスポンジのように吸収していった。その内一人でお使いができそうだと失礼なことを考える彼女。

 

しかし保険証がない故に病院に連れて行くことはできない。つまり事故でもされたら大変なことになる。高額医療制度も使えないのだ。「頼むから事故や怪我、病気だけはしないように気を付けてください。それだけでもいいので」と頼み込んだ彼女。雑渡は平気な顔で「あい分かった」と答える。

 

 

「本当はその火傷も病院に連れて行ってあげられたらいいんですけど……」

「この世界、制度は整っているが随分と複雑なようで」

「まあ……戸籍さえあればいいんですけどね……」

 

 

「無戸籍者のアレも調べたんですがそもそも日本生まれのそういう方々も戸籍取得ハードル高いみたいで……ていうかこの世界で生まれてないともはや手段がないと言うかこんな状況日本も想定していないというか……」とぶつくさ言いながら「はあ、」と肩を落とす彼女。

 

只今衣料量販店で雑渡に合うものを探している真っ最中である。包帯を巻いている故に少しゆとりのある服がいいだろうかとか、どんな服が好みだとか、はては火傷を医者に見せられればなどと。会話の反応が冷たい割には自分のことを考えてくれているのだと感じた雑渡。故に悪意がないのだと感じ素直に言うことを聞いている。

 

そういうわけで、素直に試着室で着替えた雑渡。

 

 

「様になってますね」

「この世界の好みというのはよくわからないが……」

 

 

「どう、似合う?」と尋ねた雑渡に彼女は冒頭の言葉を投げたのだった。

 

 

ゆとりがあるように探した服だが存外筋肉質だったようで、思ったよりもゆったりはしていないようだ。まあ仕方がないかと「いいんじゃないですか」と返した。

 

 

「興味なさそうだね」

「あなたが気に入ることが大事です。着心地はいかがですか」

「随分上質で気に入った」

「なら良かった」

 

 

その後服の買い物を済ませた二人。荷物は全て雑渡が持ってくれていたが、休憩がてらカフェへと寄った。

 

 

「雑渡さんってコーヒー飲みそうですよね」

「そう? じゃあこーひーとやらにしようかな」

「念のためミルクと砂糖も貰っておきましょうか。私は紅茶で」

 

 

言いながら注文を終えた彼女はお品書きをじっと見つめ、少し残念そうな顔をしたのちぱたんと閉じて小さなため息とともに元の場所へと戻した。

 

 

「どうかした?」

「いえ、突然の出費があったので贅沢は控えようかと」

「……すまない」

「ええ、本当に」

「…………ふっ」

「何がおかしいんですか」

 

 

むっとする彼女に雑渡はくっくと笑った。

 

 

「いやなに。そういう割には無下にせず、着るものも食べるものも与えてくれているなと」

「基本的人権の尊重です」

「きほんてき、じんけん?」

「あなたに与えたスマホで調べてください」

「ここわいふぁいある?」

「テザリングしましょう」

 

 

古いスマホを雑渡に与えた彼女。いちいち聞かれてはたまったものではない。何か気になることやわからないことがあれば都度それで調べてくれと頼んであるのだ。

 

 

「こんなものまで与えてくれるなんて。随分高価なものなんでしょ」

「お古ですよ」

「感謝している」

「代わりに家事をお願いしてますので、お互い様です」

 

 

戸籍がない故仕事のできない雑渡。共同生活が決まった時、家事はできるかと尋ねたらできると答えた。最初こそこの世界の様々に驚き続けていたものの、教えれば掃除やら洗濯やら家事一切を任せられるまでになった。在宅勤務の彼女ではあるが、家事なんて人に任せられるものなら任せたいと思っていた彼女にとっては大助かりなのである。

 

そんな雑談をしていると飲み物だけの注文などあっという間に来て。

 

 

「どうですかコーヒー、飲めますか?」

「……まあ、」

「……ミルクと砂糖入れますか?」

「砂糖などもったいない」

「これは無料ですお気になさらず」

「…………では、せっかくなので」

 

 

と、ミルクと砂糖を入れて飲んだ雑渡。先ほどよりも随分と飲みやすくなったソレに、つい頬が緩んで「美味しいね」と一言。

 

その姿をついじっと見てしまった彼女。

痛々しい火傷の跡、しかし筋肉質な体。その様な大怪我を負っても忍びとして生きていかねばならないとは、随分と大変な世界で生きて来たのだろうと思っていた。彼にとって今のこの世はどの様に見えているのだろうかとも。

 

 

「? どうかした?」

「……あなたにとってこの世界は、どう映っているのかなと」

「そんなこと考えてたの」

「一人知らぬ世界に来て不安かなと思いきやそうでもなさそうなので。居心地が良いのであればいいのですがと少し」

「やっぱり君って、私のこと随分と気にかけてくれてるよね」

「あなたが不安を抱え自暴自棄になって何かしでかしたら、身元引受人である私の責任になりますからね」

 

 

だからですよと紅茶を一口飲む彼女。

照れ隠しかと、雑渡はにこりと微笑んだ。

 

 

「帰れないことに不安はあるが……ここでの生活については何も不満はない」

「不満がない?」

「失礼、いい暮らしをさせてもらっていると思っている」

「今のはそういう意味では……いえ、まあいいですけど」

 

 

困ったように眉を八の字にさせた彼女はそれを隠すようにまた紅茶をすすった。そんな彼女の様子に雑渡はまたふっと笑う。

 

 

「君は、私に何か不満はないかな」

「そうですね……お手洗いの扉、頻繁に開けしめするのはやめてもらいたいですね」

「帰れるかと思って」

「もう少し静かに開け閉めしてください」

「善処しよう」

「お願いします」

 

 

そんなことが真っ先に不満として挙がるのかと、思わずまた笑ってしまいそうになった雑渡だが……あまり笑えばまた彼女は困った顔をするだろう。表には出さず。奇妙な関係のその相手に対し湧いたその感情をそっと心の内に置くのであった。

 

 

 

 

 

■きっと彼女は違うと言う

 

 

 

最初こそ随分と緊張していた彼女だったが、日を重ねるにつれて大分その緊張も消えていった。雑渡に向ける笑みも多くなり、代わりに困り顔が以前よりも減った。彼の体躯、見目への怯えた瞳もすっかり消えて顔を見て元気良く話しかけるようにもなった。話す内容も、業務的なものではなく他愛もない話が増えた。

 

随分と慣れてくれたのだなと感じるとともに、その彼女の変わりように月日の流れを感じる雑渡。

 

タソガレドキは大丈夫だろうか。

殿が困るようなことは起こっていないだろうか。

タソガレドキ忍軍の皆は無事に過ごせているだろうか。

 

今の穏やかな生活は、自分に背負うものが無ければありがたく享受できたのだろう。しかしそんなことを言える立場ではない。帰るための努力と帰った時にすぐ復帰できる状態に保っておかなければならない。

 

そのような思いを胸に過ごす雑渡。穏やかな日々ではあるが、彼の胸中は常に穏やかというわけではなかった。

 

 

「また筋トレしてるんですか」

「体が資本の仕事だからね」

「ストイックですねぇ」

「ストイック……」

 

 

プランクをしながらストイックの意味を調べる雑渡。勤勉だなぁと思った彼女は「食生活、あなた仕様にしてもらってもいいですよ」と言う。

 

 

「既に味付けを私好みにさせてもらっているからね、そこまで合わせてもらうのは」

「筋肉のための食事とか、色々調べてるのに?」

「調べることと実行することは別でしょ」

「まああなたがいいならいいですけど」

 

 

特に会話に深追いせずに「休憩する時は教えてくださいね」と飲み物片手に仕事へ戻る彼女。日中は仕事のために部屋からほぼ出ない彼女だが、雑渡が来てからは彼と共に時間を合わせて休憩をしている。かくいう雑渡はというと。実はこっそり彼女の様子を見ており、疲れ具合を推察して休憩の声をかけるようにしているのだった。

 

 

・・・

 

 

「雑渡さん、今度の休みどこか行きたいところはありますか」

 

夜、夕食も終えて緩やかに読書の時間を過ごしていた二人。彼女は本を積むタイプであったが、雑渡が毎晩本を読んでいるのでつられて積み本を消化するようになっていた。そんなわけで、積んでいた本を消化していた彼女は、自分の名義で図書館から借りている本を読んでいた雑渡にそんなことを問うた。

 

 

「貴重な休みでしょ。私のことは気にしなくていいよ」

「この世界を見ることで戻った時に活かせることもあるでしょう」

「じゃあまた図書館に籠もっても?」

「……まあ、あなたがいいなら構いませんよ。私も読みたい本はありますし」

 

 

ただ朝から晩までは勘弁してほしいかなぁとこぼす。以前雑渡と図書館に行った時、朝から行けば夕方までどっぷりと本に浸る彼。流石にそろそろと思い声を掛けるも「もう少し構わないかな」「この本が読み終わるまで」「すまない、三部作だった」などと言い結局閉館まで滞在していたのだ。よくもまあそれだけ集中力が続くものだと彼女は思った。

 

 

「では午前中は図書館で。午後は君の好きなところに」

「好きなところって難しいですね」

「行きたい場所、ないの」

「私としてはあなたが行きたいところに行きたいなって」

「…………」

「えっ、なんですか」

 

 

じっと見つめられ困惑する彼女。

かく言う雑渡はと言うと。そのような発言を仕方なく同棲している異性に言うなど……、少し危機感が足りないのではないかと眉をひそめた。

 

 

「私今、怒られるようなこと言いました?」

「少しね」

 

 

どれだ……? と思案する彼女を置いて雑渡はコーヒーを入れに立ち上がる。自分は使わないくせに雑渡のためにと買ったらしいコーヒーメーカー。それを見る度使う度、どんどん彼女は自分に甘くなっているなと彼は思った。

 

 

「あまり人を信用しすぎるのも良くない」

「信用してませんよ、不審者のことなんて」

「そう?」

 

 

つんとした表情の彼女に対して「じゃあこれは?」と。雑渡はコーヒーを注いだマグカップを揺らして見せる。すると彼女は眉をひそめて「基本的人権の尊重ってやつですよ」と視線を本に戻した。

 

 

「幸福追求権?」

「いやぁ、それは健康で文化的な最低限度のってやつでしょ」

「これを最低限度と言うにはいささか贅沢すぎやしないかい」

「この世界の人間は贅沢で強欲なのです」

「なるほど。ここに慣れたら戻った時が大変そうだ」

 

 

あきれ交じりのため息をふっと笑って零した雑渡は彼女の分の紅茶を入れるために湯を沸かす。「紅茶メーカーってなんでないのかな」と尋ねると、彼女は本から視線を外さず「その内できるでしょ」と返した。

 

 

「紅茶メーカー、できたら買う?」

「機械の手入れが面倒そうなのでいりません」

「私がするのに」

「いつか帰っちゃう人が?」

 

 

雑渡と同じようにふっと笑って顔を上げる彼女。すると台所に佇む大きな同居人は困ったように笑って「じゃあこれはその時どうするの」と尋ねた。

 

 

「欲しい人に譲ります」

「売ればいいのに」

「めんどくさい」

 

 

彼と同じように困った笑顔を向ければ、「君段々と怠惰になってない?」と雑渡。「元からそうで、ようやくあなたにそういう一面を見せるようになっただけですよ」と彼女。その言葉にまたそういう発言を、と思った雑渡だったが。存外その言葉に悪い気がしていない自分の心にも気づいてしまい。

 

湧いた湯を静かにポットに注いた後、紅茶を蒸らすまでの時間。また本に夢中になった彼女をじっと見つめるのだった。

 

 

 

 

■そろそろ時刻は黄昏時

 

 

 

「気配を消して存在されるなんて無理です! 絶対に仕留めます!」

「それ、会った当初に聞いた覚えが」

 

 

穏やかな日々を過ごしていたはずの二人の元へ、穏やかではない出来事が生まれた。二人の元、と言うよりは彼女の元へ、だが。

 

 

とある日、夜も更けてきたので寝ようかという頃合い。

歯磨きをしていた彼女の耳に嫌な音が聞こえてきた。

 

思わず洗面台からリビングへと移動した彼女は雑渡の元へと駆け寄る。歯ブラシを咥えたままの彼女が突撃して来たかと思えば彼女は「んんーー!」と口がいっぱいの中何かを訴えるではないか。やむなくシンクで吐き出させれば、曰くゴキブリが出たと言う。

 

 

「殺してください雑渡さん!」

「虫くらい放っておけばいいのに。蜘蛛は大丈夫なんでしょ」

「いいから殺してください! 早く!」

 

 

縋るように自分の服を掴んで必死の形相で殺せと言う彼女に雑渡は呆れた。仕方なく洗面台へと向かいながら「普段から気配を消して存在してるのに」とこぼした。

 

 

「存在を認識してしまったんですよ! いると知っているのに気配を消して存在される方が嫌です!」

「ああ、だから」

 

 

出会った当初に言われた言葉を思い出した彼は納得がいったと言わんばかりのしみじみとした表情。あの出来事も随分と遠い出来事のことのように感じる雑渡は洗面台へと到着する。しかしその影はない。

 

 

「いないね」

「絶対どこかに居ます! 仕留めてください!」

「もういいでしょ」

「あなたがやらないなら私がやります……!」

 

 

と言うわけで冒頭に戻るのだった。

気配なく存在される方が嫌だと言われた雑渡は「コレと私、同じ扱いだったの?」と片眉をあげた動きを見せる。しかしそんな雑渡に「そんな話はあとです!」と、彼女は血眼でソレを探す。これは見つかるまで落ち着いてくれないのだろうとため息を一つ付き、「私がやるから」と彼女を控えさせた。そして的確にソレの気配を察知して洗面台下の戸を開け素早く捉えた。素手で。

 

 

「はい、これでいいでしょ」

 

 

じゃあ捨ててくるからとため息を零した雑渡は、耳をつんざく声を聴くことになるとは思ってもいなかった。

 

 

「いっ」

「い?」

「いやぁーーーッ!」

 

 

ソレを手にした雑渡から一目散に離れた彼女。「信じられない!」と声を上げるが「不審者だから」と雑渡は言う。「うるさいですよ! そういう意味じゃなくて!」と声を荒げる彼女に始末するからとまたため息を零す。虫ごときでこのような声を上げるとは、もし自分のいる世界に来たら大変そうだと思いながら。

 

 

・・・

 

 

「殺しましたか!?」

「逃がしたよ」

「なぜ! いえ、過ぎたことは構いません。……手は洗いましたか!?」

「もちろん」

 

 

君が嫌がると思ってと言葉を続けた雑渡だが、実はその前に服で拭っていたことは秘密にしておくことにした。

 

 

「殺さず逃がしたことは許しましょう。しかし次からは必ず仕留めてください」

「随分と物騒だね」

「アレに対して慈悲は無用です」

「……、そう……」

 

 

同じ言葉を向けられた者として少々複雑な気持ちになる雑渡。まあしかし、丸く収まったのならいいかと今度は安堵の息を漏らす。

 

 

「……あの、もういませんよね? お手洗いにいたり、しませんよね?」

「……不安なら戸を開けるまでついていこうか」

「…………」

 

 

非常に不本意そうだったが、虫の気配を察知できるらしい雑渡が見てくれるのなら助かると、小さな声で「お願いします」と呟いた彼女。

 

 

「全く……次の休みは山にでも出かけて虫に慣れる練習でもしようか」

「アレ以外は大方大丈夫ですよ!」

「ムカデも?」

「触らないなら」

「…………」

 

 

一体基準はどうなっているのだろうかと思いはしたものの、恐らく「気持ち悪い」という刷り込みから来るものだろうと考えた雑渡。特定の地域ではゴキブリを気持ち悪いと感じない人々もいると聞く。つまりは刷り込みなのである。

 

 

「ほら、開けるよ」

 

 

安心させるようにと自分の腰辺りの服を掴んでいる彼女の手を握りながら、トイレのドアを開けた雑渡。

 

しかし目の前に広がっていたのは見慣れてしまったあのトイレではなく見知った光景で。思わず固まっていると「雑渡さん?」と後ろから声が聞こえる。これは、つまり。

 

 

「すまない」

「え?」

 

 

言うなり彼女の手を握ったまま見知った場所へと飛び出した雑渡。持ち物など、置いてきたって構わない。手放したくないものは手の中にある。

 

 

自分の手を握ってなぜかトイレへ飛び出した雑渡が突然立ち止まり、思わず彼女は雑渡の体にぶつかった。「急に何を……」と声をかけるも何やら足元の質感が違う気がする。彼の体から離れて辺りを見渡せば、見知らぬ世界が広がっているではないか。

 

 

「え、ここ、は……」

「ここは、私のいた世界だ」

「……雑渡さんの!?」

 

 

「じゃあ……」と彼女は振り返る。振りむいた先には見知らぬ「厠」と呼ぶのがふさわしい場所があり。

 

 

「え、待って、雑渡さん。もしかして……」

「すまないと思っている」

 

 

そう言いながらも向けられた顔は全くすまないと思っていなさそうで。離す気のないその手をぐっと引き寄せ彼女を胸元へと収めた。

 

 

「基本的人権の尊重は!?」

「うちにはなくてね」

「なんて非人道的な……」

 

 

一体どう責任を取るつもりかと胸元で困惑と怒りを露にする彼女に雑渡は一言。

 

 

「君が帰れるようになるまで、私が身元引受人を務めよう」

 

 

その言葉に返す言葉もでずに唖然とする。見上げたその顔は彼女の知る限りは喜びの表情で、その手のぬくもりは彼女の知る限りやはり安心感のある大きな彼の手で。周囲を見渡せばありえない光景が広がっているにも関わらず。いつも傍に居た彼の姿だけが変わらぬものとして存在しており。

 

泣きそうな彼女に対して雑渡は次いで言葉を投げた。

 

 

「君の言う、健康で文化的な最低限度の、と言うやつは果たせるように努めよう」

「私の最低限度はあなたの思っている以上ですからね!」

「十二分に知っている」

 

 

そうこうしているうちに周囲がにぎやかになって来て。

聞けば雑渡がいなくなったのはつい先ほどのこと。少し遅いからと周囲の人間が探していた程度の時間しかたっていなかったらしい。城も無事、部下も無事とわかってほっとした雑渡。己の姿の変わりようと突如現れた彼女についての説明を、いつもの顔ぶれを集めて満面の笑みで行うのだった。

 

 

しばらく後。

 

雑渡は連れてきた女に付きっきりの使用人を二人も充てがった上に祝言まで上げたとなりタソガレドキは騒然とした。時折南蛮の言葉を話すその女はタソガレドキで秘めやかに守られ……ることもなく。その経歴、異質さにて他の国の忍びよりいぶかしがられることとなった。

 

 

「最近ゴキブリみても驚かないね」

「あれで驚いてたら命がいくつあっても足りません」

「強くなったものだ」

「……ゴキブリに怯えなければ戦乱の世に来ることもなかったのに……!」

「後悔してる?」

「…………あなたが突然いなくなるよりかはマシかと。身元引受人ですので」

「そう」

 

 

 

 

 

 

■後日談

 

 

 

「私の存在って、今は“説明できない不可思議な現象”と同じだと思うんですよ」

 

 

まだ雑渡の世界にもなじめていない頃。

彼女は突然そんなことを言った。

 

 

「妖怪と同じで、名前を付けた方が周囲の皆さんが安心すると思うんです」

「名前、とは?」

 

 

妖怪と同じで、と言われたことについては言及を辞めた雑渡。確かに彼女の存在については、雑渡が側近の者に顔合わせをさせるまでに城内の多くの者に見られている。不可思議な恰好で突然現れ南蛮言葉を混ぜて話す彼女の存在が人々の噂に上がるのは早かった。

 

 

「例えばこう、南蛮の誰それから預かっている女性とか、何か社会的な立場が分かる名目がついているとわかりやすいかと」

「なるほど」

「でも南蛮の通訳として、と言われると仕事を任されたときにボロがでるし……ここで私ができることは何かと問われると正直役立たずすぎて何も……」

 

 

悩ましく彼女が唸っていると、雑渡は妙な提案をした。

 

 

「では、誰かの身内、と言うことにすればよいのでは?」

「身内? 私が? 突然現れたのに?」

 

 

「まだ妖怪の方が説得力ありますよ」と。一番ありえない選択肢を出され困惑する彼女。しかし雑渡はそんな彼女を置いて話を続ける。

 

 

「どうだろう。雑渡昆奈門の妻……という立場を得ては」

「……あなたの、妻?」

「あぁ」

「…………はあ」

 

 

気の抜けた返事をする彼女を見て雑渡は眉を八の字にした。てっきり驚かれるか照れでもされるかだと思っていたのに、彼女は「何を言っているんだ」と言わんばかりの顔。

 

 

「そのうちいなくなるかもしれない人間妻にしてどうするんですか。私が急に帰った時、あなた“妻に逃げられた男”になりますよ?」

「私から逃げられるものがいないことくらい周囲の者はわかっている」

「……つまり、仮に私が元の世界に戻ってもあなたの同意の上だったと周囲の方が認識するってことですか」

「まあ、もしそうなれば」

「なるほど……」

 

 

確かに突然現れた不可思議な女も、誰それの妻であるとすれば周囲の者も接しやすいだろう。それに社会的な立場も得られるので話が早そうだと彼女は思った。

 

 

「ありですね! ……と言いたいところですが」

「何か問題でも?」

 

 

小首をかしげてそう尋ねる雑渡に彼女は眉をひそめて言う。

 

 

「そんなことをすればあなたが結婚する機会を奪ってしまうじゃないですか。三十六なんてまだお若いんですから結婚話なんてあがるでしょう」

「まだ、若い」

「……? ええ」

「…………ふっ」

「あ、またこれだ」

 

 

耐えきれないとばかりに笑う雑渡に彼女は呆れながらにため息をつく。この世界へ来てから、いわゆるカルチャーショックを受けてばかりいる。そして自分の世界との認識の違いによる発言に、雑渡は二人の時はおかしいとばかりに大きな声で笑うのだ。二人ではない時は我慢している様子ではあるが……結局帰宅後二人になった時に思い出したかのように笑ってくるので笑われることには変わりない。

 

 

「この世界の三十六歳って、私の世界で言ういくつくらいなんですか?」

「さあ、いくつだろうね」

 

 

目元の端の涙を掬いながら雑渡ははぐらかした。正直彼としても感覚としては認識しているが「いくつだ」とは断言できない。曖昧なことははぐらかして、彼女の認識をそのままにさせておこうという魂胆である。その方が面白そうだとも。

 

 

「ともかく! あなたが生涯独身になってしまうようなことがあっては申し訳がないです」

「仮に君と結婚し、君がいつの間にか消えていても……それがいくつの時であっても私が困ることはない」

 

 

家族のようなものは沢山いるからねと、彼は微笑んでそう言う。本当に大丈夫なのかと彼女が問えば、いつもの調子で「問題ない」と返ってくる。そうなら。そうであるなら。

 

 

「じゃあお言葉に甘えようかな……こっそり私を見に来る里の子供が絶えないし、その子供に声をかけたら驚かれて逃げられる、なんて現状に正直参ってたんですよね」

「子供は好奇心旺盛だからね」

「流石に雑渡さんのお家に居候している身分なので里の人も虐げませんが、それがなければどうなっていたことか」

「まあ受け入れるのに時間はかかるだろうが……妻となれば受け入れも早くなるんじゃないかな」

「ですよね。……じゃあそういうことで」

 

 

不束者ですがと冗談めかして言う彼女に、雑渡は目を細め笑った。そして「君はいいの」と改めて問う。

 

 

「いい、とは?」

「私の妻になることについて」

「名目上でしょう? ご迷惑でなければ私は構いませんが……」

 

 

私の世界でも契約結婚なんて言葉もありましたしと続けると、雑渡は一言「そう」とだけ返す。その単語を彼が知らないわけではない。しかし「形だけでも夫婦になる」という事実にあまり想像がついてなさそうな彼女。この世界の“妻”に求められていることに、思い至っていないのだろうか。あちらの世界ではあえてその選択をせずに過ごす夫婦もいると聞く。……この世界でもその考えがまかり通ると思っているのだろうか。相変わらず、自分への信頼が厚いというかなんというか……。と。彼はふっと息を零した。

 

 

「……やっぱりご迷惑でした?」

「まさか、とんでもない。……祝言はいつにしようか」

「あぁ、結婚式……準備期間に価値観の相違で別れるカップルが多いという……」

「……すべてこちらで手配する。要望があれば言ってくれ」

「慎ましいものがいいです」

「立場上できるか保証しかねるが……善処しよう」

 

 

助かりますと言う彼女に雑渡はにこりと微笑んだ。

かくして彼女の意が全く反映されぬ祝言があげられることとなり、後日「なぜ」と問う彼女に「組頭としての立場上無理だった」と夫は言う。このやり取りに、あまり言葉に甘えすぎるととんでもないことになるのではないかと、彼女はようやくその事実に気付いたのだった。

 

 

 

 

 

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