アルバは目の前の巨大な影と、その中央に立つ人型に向かって不敵に笑む。
夢よりも騎士よりも先に、友人として助けたいと急く気持ちがボロボロの肉体を前へ前へと動かす。
だが、簡単に進める道ではない。
まずはリンに近付くためにも周囲で戦闘しているアイン教を止めなくては。
「――少年。覚悟はいいな」
「え……?」
そんなアルバの歩みを止め、振り向かせる声が一つ。
ありえない。電話越しの、ノイズの混じった音ではない。
きっとそれはリンを含むこの場の全員が望んだ結果であり、当の本人が決して望むことも選ぶこともできないはずの結果だ。
全員の視線が集まる。
メリーのすぐ横。突如として虚空に開いた小窓の先に、かの偉大なる魔女はいた。
「マジかリンママ。外に出られるならッ――」
「違う」
アルバの感情が一瞬に沸き立つ。怒りと喜び……他にも単一では表せない感情たち。けれどそれらが音になり、言葉になりはしたが、完全な文章となる前にメリュラントは遮り否定する。これは決してリンが望んでいた結果ではない、と。
「外には出ていない。私は結界の外には出られない。そういう契約だ。だから、これは一度きりの例外だ。家の窓を開けたら偶然……という具合にな」
小窓の向こうで少し俯くメリュラントの姿。
実際に今の状況がどれだけ難しいことなのかをアルバは理解できない。しかし窓の向こうに漂う少し冷たく乾燥した空気が、こちらの花香る温かな空気と混じってアルバの鼻を掠めた。
「行け少年! お前の望む道は一つだけだ!」
メリュラントの言葉に、アルバは痛みを忘れて走り出す。
暴れまわる黒い影と波。対抗するアイン教幹部の三人。触手と、棘と、純粋な暴力。それらの三重奏の中を、ただの少年がひた走る。
アルバに迷いはない。あるのは後ろにいる仲間への信頼と、目の前で己を見失っている友への心配だ。
「【境界:静と動】」
そして魔女の言葉が世界に再び響いた。
アイン教は動きを止め、黒い影もかなり動きを制限されているように見える。
「【神眼】」
「【強制共有】」
ここからが本番だ。歩む大地は暗き水に覆われ、遂には淀みと濁りを思わせる鈍重な泥にアルバは足を踏み入れた。
後ろでは、キョウとマリアが予定通り人々の認識世界を集め、あの黒い人影の正体がリンだと人々に伝えているのだろう。現に、アルバの脳も人々と一部繋がっている。
「くっそ! 足が……おいリン! 重すぎて動けねぇよ!」
結局、この作戦の肝はアルバだ。
人々の意識も、キョウも、マリアも、メリュラントでさえ今この瞬間のお膳立てに過ぎない。繋がった思考の中心はアルバにある。故に、どれだけ辛かろうとも考えるべきは未来と、リンのことだ。
「覚えてるかリン……最初、初めて会った時……お前は俺なんか眼中になくて、話しかける暇もなく木々の間を疾走してた」
真なる人の死とは忘却である。ならば生きた証明とは、記憶である。
世界は知らない、この国の為に犠牲になろうとしている少女を。人々は知っている、王都の花屋で不器用なほど真面目で一生懸命な一人の少女を。
アルバは知っている。覚えている。少女の名を、その人生の一部を。
「二回目……お前にとっちゃ一回目か? 強くなりたいって俺の話に、そこまでする必要があるかって……」
思い出す。苦痛を思考に混ぜるな。
言葉にする。明確なイメージを全員へ。
足を上げ、踏み出す。重さを悟られるな。
一歩。また一歩、踏み出す。
止まらぬ歩み。止めようと迫る影は全部、彼女の母が受け止める。
「でもさ、結局お前は教えてくれた。ホント、優しいというか……アホというか、な」
無心。ひたすらに一人を想う。
そして直後、アルバの頭が何かにぶつかる。
気付けば下を向いて進み続けていた。
過去を思い出しながら、前も未来も見ずにひたすらに。
目標は既に心で決めている。
今、暗い顔で佇む彼女の前に立った。
「出て来いよリン。丁度いい位置に俺の顔があるんだぜ? 適当言われて、チョップの一つでもしたいんじゃねぇのか?」
「…………ぐ、ぎが。ラ……でリミら」
瞬間、アルバは思考を放棄してリンの肩を掴む。
「戻れ! 戻って来いリン!」
頭が真っ白になった。
他者との繋がりは続いている。多少とは言え、相互にだ。
けれど全部が消えてしまう。
目の前の現実以上に大切な物なんてない。気付けばアルバは計画の事すら忘れて彼女を射抜くように見つめていた。叫んでいた。
しかし届かない。リンの形をした影に反応はない。
だが諦められない。アルバは叫ぶ。掴み、揺する手には暗く黒い泥のような何かが這いより、メリュラントの防御支援があるとはいえ、徐々に影がアルバの喉元まで迫っている。
「リン! 母さんも来てるぞ! お前が会いたがってた母様と会えるんだぞ!」
無我夢中。用意していた言葉はなんだったのか。
あの日と同じだ。仄かな絶望が少しずつ自分と他人によって心を蝕む。
あるいはこれが泥の影響なのだろうか。
底すら思わせぬほどに深い闇がアルバの眼前まで迫っている。後ろの友人たちは全力で界法を行使し、そして叫んでいた。アルバに対し、リンに対し。それでも二人には届かない。
繋がった【強制共有】が、アルバの思考を嫌でも教えてくれる。
彼の頭にはリンしかない。リンと、希望と、迫る絶望。それを抑えんと叫ぶ感情。
「リン! リン! リ、ン……」
止まらぬ想いが喉に詰まる。
アルバは息を吸った。それだけだった。
絶望の味がした。
酸欠の脳に酸素が行き渡り、狭窄していた視野と思考に余白が生まれる。
しかしキャンパスはすぐに黒ずんだ。簡潔で、純粋な理由だ。思い届かず、話は通じず、目の前には人型の虚空と化した友。奥に広がるのは彼女と、彼女がこうなった理由たちによって蹂躙されつくした王都の街並み。瓦礫の山。火と、血と……吸った空気に春は無い。
あるのは煙と、灰と、滲んだ自分の血と涙。
「ぁ…………」
知ってしまえば戻れない。答えを知るのは、答えを導くより簡単だ。
アルバは絶望を知っている。限界を知っている。自分には何が出来て、何が出来ないのか。だからこそ頑張れたし、今ここで折れてはいけないと理解している。それでも今の自分は負けそうだと直感している。次だ……次で最後になる。少しでも先伸ばせと思うこと自体負けなのではと、その思考すら後に回す。
言葉を。何か言葉を。
藻掻く最中、アルバは空に向かって咆哮した。
意味はない。あるとすれば、それは逃避に他ならず。
けれど空は綺麗だった。この戦場の真ん中で、見上げた空はきっと平和な世界のどこかと同じ色で。
リンが求めていた気がする、そんな世界を垣間見た。
そして自分も見たことがある気がした。いつだったか、どんな場面だったか。
他愛のない話をして、いつもみたいに自分が余計なことを言って怒られて……。
(綺麗だ……)
最後の余白に、空を描く。
滲む黒い汚水は空を染め上げられなかった。
おかげで、心は澄み渡る程に空っぽだ。
風通しがよく。世界も自然とアルバを導いた。
――春、四月五日。前の前の少女の誕生日。
世界は自然と進む。人の意も、神の意思ですらどうか。
風が吹いた。優しく、温かな風。
世界にとって争いは些事だ。この風だって奇跡や人の手で起こされたものではない。
何気ない日常の一つ。世界の常識であり法則。
だがそれは間違いなく、いつかの少年少女の背中を押し、羽となり、翼となり、滲む涙を隠そうと伏す理由をくれた。
今、また一人救われた。風が強まる。
「リン、ごめん――」
少年は小さく謝り、大きく息を吸った。
「リンのパンツは紫のスケスケだああああああああ!!!!」
少年の大声が世界に響く。
声は間違いなく世界を揺るがし、震わせた。その証拠に、彼の言葉は周囲に波紋を呼び、大きく動揺させた。
「なっ、ヴぁ!?」
聞こえる。前か後ろか、あるいは両方からか。
触れる手に細かく確かな振動を感じて、アルバは満足そうに目を瞑った。
瞬間、滲み広がる泥闇は砕け、聞きなれた声が顔を叩く。
「ブェッ!?」
「バァアッカじゃないのアルバ!?」
アルバは、喜びに倒れた。まるで顔を思いっきりぶん殴られたかのように嬉しい。
ただどうしてか、目を開けたくない。前門の虎、後門の狼と言うべきか、前門の薔薇と後門のママからの連携攻撃に耐えられる気がしない。
「へっ、早く起きないから――」
「死ぬかもしれなかったんだよ!?」
「ぉ…………おぉ」
「何? 嬉しそうに驚いちゃって?」
「いや、お互い様というか。……やっぱリンもバカなんだなって」
「はぁ~っ!?」
目を開けた先に、リンが居る。
彼女はなんだかんだと言いながら手を差し伸べ掴み、アルバを界法で治療しながら立たせる。これから先も、何度でも。
「まぁでも、ありがとう。お礼はちゃんと……全部終わらせてから絶対にするから」
「おう! まずは目の前の敵、だよな?」
そして二人は見据える。
まずは、目の前の敵を。
先の未来など分からない。
だが二人の心に『負ける』なんて考えは微塵もない。すべての思考は、勝利の為に。
「アルバ?」
「ん?」
「今度は、一緒に戦って」
「……任せろ」
手を介して二人を包む【身体強化】が、何よりの証明だ。