TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
スタートの合図も、ゲートの開く音もない。
ただ、互いの魂が臨界点を超えた瞬間、3つの影が弾かれた。
距離は2200m。
京都レース場の外回りを想定した、持久力と瞬発力の双方が問われる距離。
先手を奪ったのは、ミホノブルボンさんだった。
現役時代を彷彿とさせる、正確無比なロケットスタート。
彼女は迷いなくハナ(先頭)に立ち、自身の得意とするラップを正確に刻む逃げを展開した。
「……計測開始。目標タイム設定、限界突破(オーバーリミット)。……ついて来られますか、ライスさん」
彼女の背中は、引退したトレーナー志望のそれではない。かつての「サイボーグ」としての輝きを取り戻している。
だが、それを追うライスシャワーの瞳は、凍てつくように冷たかった。
「……知ってるよ、そのペース」
ライスさんは焦らない。
ブルボンさんの真後ろ、ピタリと影を踏む位置につける。
そのプレッシャーは、かつてミホノブルボンの三冠を阻止した「菊花賞」の再現だ。
「あの時と同じだね。……ブルボンさんの逃げは、ライスが一番よく知ってるの」
冷徹な言葉。
彼女はブルボンさんの体力を削ぎ落とすためだけに、執拗にマークし続ける。
情け容赦のない、完璧な「殺し」の走り。
「くっ……スタミナが持たない……」
第3コーナー。
ブルボンさんの足色が鈍る。
現役を退いた体で、限界以上のハイペースを維持し、さらに現役最強ステイヤーのプレッシャーを受け続けたのだ。持つはずがない。
「……さよなら、ブルボンさん。ライスの勝ちだね」
ライスさんは冷たく告げると、力尽きかけたブルボンさんをあっさりと抜き去った。
その顔に喜びはない。ただ障害を排除しただけの、虚無的な強さ。
先頭へ。
視界が開ける。ゴールまではあと少し。
邪魔者はもういない――はずだった。
「……いいえ。逆ですわ」
耳元で、凛とした声が囁いた。
「――っ!?」
ライスさんが驚愕に目を見開く。
背後の死角(ブラインドスポット)。
そこに潜んでいた芦毛の影が、一気に躍り出た。
メジロマックイーン
彼女はずっと隠れていたのだ。ブルボンさんが作り出したハイペースを利用し、ライスさんがブルボンさんに意識を集中している隙に、徹底的に気配を殺してライスさんをマークしていたのだ。
「あの天皇賞(春)とは……逆になりましたわね、ライスさん!」
マックイーン姉さんが叫ぶ。
あの日。三連覇を阻止した天皇賞(春)。ライスシャワーはメジロマックイーンを徹底的にマークし、そのスタミナを削り切って勝利した。
だが今、メジロマックイーンは同じ戦法で、ライスシャワーを狩りにかかったのだ。
「な、んで……マックイーンさんが、後ろに……!?」
「貴女がブルボンさんに夢中になっている間に、足を溜めさせてもらいましたわ! ……さあ、今日は私が『刺客』です!」
マックイーン姉さんが、並ぶ間もなく抜き去る。
ブルボンさんが捨て身で作った隙を、マックイーン姉さんが突く。
個の力では勝てないからこその、完璧な連携。
「ああ、ああっ……待って、待ってよぉッ!!」
ライスさんが手を伸ばす。
だが、届かない。
ブルボンさんを潰すために足を使ってしまった彼女には、万全の状態でスパートをかけたマックイーン姉さんを差し返す余力は残っていない。
ボクの目に見えていた、あの不吉な「黒い靄」。
ライスさんの足元にまとわりついていたそれが、千切れるように霧散していく。
「勝つために死ぬ」という運命が、「生きるために負ける」という現実に上書きされていく。
――ゴール。
先頭で駆け抜けたのは、メジロマックイーン。
数瞬遅れて、ライスシャワーがゴール板を通過した。
さらに遅れて、ミホノブルボンさんがよろめきながらゴールした。
全員が芝の上に倒れ込み、荒い息をつく。
空は完全に夜になっていた。星が瞬いている。
「……う、ううっ……負けちゃった……負けちゃったよぉ……」
静寂の中、ライスシャワーの悲痛な声が響いた。
さっきまでの冷徹な表情は消え失せ、彼女は芝を握りしめ、子供のように泣きじゃくっていた。
「これじゃ、ライス、走れない……。みんなの期待に応えられない……」
「……ええ。約束ですもの」
「走らなきゃ……走らなきゃいけないのに……っ! ライスが走らなきゃ、誰も喜んでくれないのに!」
それは、彼女の魂の叫びだった。
勝つことでしか自分の存在を肯定できなかった少女の、絶望の淵。
そんな彼女の体を、優しく包み込む影があった。
ブルボンさんだ。
彼女は汗だくの体で、震えるライスさんを強く抱きしめた。
「……否定します」
「……ブルボン、さん?」
「貴女が走らなくても、誰も失望などしません。少なくとも、私は」
ブルボンさんが、いつもの機械的な口調ではなく、熱のこもった声で告げる。
「貴女は、私の夢を砕き、私を超えていったウマ娘です。……貴女は、ずっと私の目標であり、私のヒーローなんです」
「……ヒーロー……?」
「はい。ですから……これ以上、傷つかないでください。貴女が壊れることこそが、私にとって一番の絶望です」
ライスさんの瞳が大きく見開かれ、そこから大粒の涙が溢れ出した。
「……まったく。あんな冷たい走りをしておいて、最後は泣き虫に戻るんですの?」
そこに、マックイーン姉さんがふらりと立ち上がり、見下ろした。
その言葉は皮肉めいているが、瞳には深い慈愛と、ライバルへの敬意が宿っていた。
「私から『最強のステイヤー』の称号を奪っておいて、こんなところで燃え尽きるつもりでしたの? ……そんな安い幕引き、私が許しませんわ」
彼女はフン、と鼻を鳴らし、勝気な笑みを向けた。
「貴女には、もっと長く、もっと美しく走ってもらわねば困ります。……貴女のこと、ドリームトロフィーシリーズで待ってるんですからね」
「マックイーン、さん……」
二人の言葉が、ライスさんの呪いを解いていく。
走らなくてもいい。壊れてまで、期待に応えなくていい。
生きていてくれるだけで、そこにいてくれるだけで、彼女はすでに誰かのヒーローなのだ。
「……う、うわあああああんッ!!」
ライスさんは、ブルボンさんの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
それは悔し涙ではなく、ずっと張り詰めていた糸が切れた、解放の涙だった。
「……止まるよ。ライス、止まる……! また……またみんなと走りたいから……ッ!」
泣きじゃくりながら、彼女は誓った。
その瞬間、彼女の足元に残っていた最後の黒い靄が、完全に消え去った。
ボクは少し離れた場所からその光景を見守っていた。
安堵で膝が震える。
(……終わった)
史実は変わった。
6月4日の宝塚記念。そこにライスシャワーの名前はない。
彼女は生きる。そしていつか、万全の状態でターフに戻ってくるだろう。青い薔薇を咲かせるために。
『……へっ。綺麗にまとまりやがって』
脳内で、ゴールドシップがニヒルに笑った。
『ま、今回はアタシの出番がなくて正解だったな。……帰って寝ようぜ、マスター。テメェの体もガタガタだろ』
(……ああ。そうするよ)
ボクは3人の輪には入らず、静かにその場を後にした。
これは彼女たちの物語だ。
ボクはただの、通りすがりのイレギュラー。
空を見上げると、月が綺麗だった。
月明かりの下、ボクは人気のなくなった寮の廊下を歩いていた。
体は鉛のように重いが、心は晴れやかだ。
部屋に戻ったら、泥のように眠ろう。そう思ってドアノブに手をかけた。
「……ただいま」
ガチャリと扉を開ける。
部屋の中は真っ暗――ではなかった。
デスクライトの明かりだけが点いており、その光の中に、腕を組んで椅子に座るルームメイトの姿が浮かび上がっていた。
「……おかえりなさい、ロールちゃん」
サクラローレル先輩だ。
その顔は笑顔だ。春の陽だまりのように温かく、そして――桜吹雪の夜のように、底知れぬ圧力を放つ笑顔。
「あ、ただいま戻りました、先輩。……起きてたんですね」
「ええ。ロールちゃんの帰りを待っていたの」
彼女はゆっくりと立ち上がり、ボクに近づいてきた。
そして、ボクの包帯だらけの足をじっと見つめ、次にボクの目を射貫いた。
「……聞いたわよ。あそこで、自分も走ろうとしたんですって?」
ギクリ。
心臓が跳ねた。
「え、いや、それは……未遂というか、先輩に止められたというか……」
どこから洩れたんだろうか。先輩たちの誰かが言いつけたか? ゴルシあたりが言いつけたか? だが、その原因を思いつく前にローレル先輩が畳みかける。
「止められなかったら、走るつもりだったのよね? そのボロボロの足で」
逃げ場がない。
ローレル先輩の手が、ボクの肩に置かれた。優しい手つきだが、決して逃がさないという強い意志を感じる。
「ロールちゃん。貴女、私になんて言ったか覚えてる?」
「えっと……」
「『壊れるよりマシだ』。……そうやって、私の無茶を止めたのよね?」
彼女の指に力がこもる。
「なのに、どうして自分は平気で壊れようとするの? ……自分の体は、どうなってもいいの?」
その声が、微かに震えていた。
ボクはハッとして顔を上げる。
ローレル先輩の瞳には、怒りだけでなく、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっていた。
「……貴女が壊れたら、私はどうすればいいの?」
「先輩……」
「私を助けてくれた貴女が、私の目の前で壊れたりしたら……私は、一生後悔する。ブライアンちゃんに追いつくどころじゃなくなるわ」
彼女はボクの体を抱きしめた。
温かい。
そして、ボクの無茶を本気で心配し、怒ってくれる人の体温だ。
「ごめんなさい……。夢中だったんです」
「……わかってる。貴女はそういう子だって、わかってるけど……」
彼女は顔を上げ、涙を拭うと、今度は母親のような厳しい顔つきになった。
「お仕置きよ」
「は、はい」
「ベッドに行きなさい。……朝まで私が、徹底的にアイシングとマッサージをしてあげるわ」
「えっ、いや、先輩も疲れてるのに!」
「ダメ。拒否権はないわ。……貴女が私にしてくれたように、今度は私が貴女を守る番なんだから」
有無を言わせぬ迫力。
ボクは観念して、ベッドに腰を下ろした。
窓の外では、月が静かに輝いている。
厳しいトレーニングよりも、強敵とのレースよりも、怒れるルームメイトの愛ある説教の方が、今のボクには一番効いた。
「……痛いっ! 先輩、そこツボです!」
「我慢なさい。……もう、本当に筋肉がカチカチじゃない。バカなんだから……」
こうして、長い長い一日は、湿布の匂いとルームメイトの小言に包まれて、ようやく本当に幕を下ろしたのだった。