TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
7月。夏。
トレセン学園名物、夏合宿の季節がやってきた。
舞台は伊豆諸島の某所。
視界いっぱいに広がるのは、宝石を溶かしたような青い海、眩しいほどに白い砂浜、そして――肌をジリジリと焦がすような、容赦のない太陽。
世間一般の女子中高生ならば、「キャー! 水着だ! バカンスだ!」と黄色い歓声を上げて浮かれるシチュエーションだろう。パラソルの下でトロピカルジュースを飲み、SNS映えする写真を撮るのが正しい夏の過ごし方だ。
だが、ここはトレセン学園。
そしてボクたちにとって、この美しいロケーションは楽園(パラダイス)ではない。
ここは、地獄の窯の底だ。
「脚が止まってるぞォ!! 砂に足を取られるな! 腿(もも)を上げろ、腿をォ!!」
「給水タイムはあと30秒で終わりだ! 次、ダッシュ50本行くぞ!!」
鬼のようなトレーナーたちの怒号が、潮騒をかき消すように響き渡る。
湿気を含んだ熱風が肺を焼き、流れ落ちる汗が目に入って沁みる。
そう、これは合宿ではない。「強化」という名の、生存競争(サバイバル)だ。
「ヘーイ!! サマーデース! サンが燃えてマース!!」
そんな阿鼻叫喚の砂浜に、底抜けに明るい声が響き渡った。
一陣の風が、熱気を切り裂いていく。
タイキシャトル。
この世代最強のマイラーにして、世界を股にかけるカウガール。
彼女は今、足場の悪い砂浜を、まるで舗装されたターフの上であるかのように爆走していた。
「……速すぎるだろ、あの重戦車……」
ボク、ロールフィヨルテは、その後ろで砂まみれになりながら呻いた。喉の奥から鉄の味がする。肺が悲鳴を上げている。
だが、諦めるわけにはいかない。
ボクは意識を深く沈め、自分の中に眠る「カード」を切った。
(お願い、力を貸して……『グランアレグリア』!!)
瞬間、背筋に電流のような鋭い感覚が走る。
視界が明瞭になり、世界がスローモーションのように知覚される。
憑依完了。
現在、ボクがその身に降ろしているのは、未来のマイル絶対女王『グランアレグリア』の魂だ。
圧倒的なスピードと、他を寄せ付けない爆発力。単純な速度のポテンシャルで言えば、彼女は決してタイキシャトルに劣るものではない。むしろ、瞬間最大風速ならば凌駕すら可能だ。
実際、ボクの脚は以前よりも遥かに速く回転している。一般のウマ娘なら、この速度域にはついてこられないだろう。
理論上は、これでタイキシャトルに食らいつけるはずだ。
だが――現実は非情だ。
前を行く大きな背中は、近づくどころか、無慈悲に遠ざかっていく。
『あーもう! 置いてかれてるじゃない! もっとスピード出してよ!!』
脳内で、甲高い少女の声が響く。グランアレグリアだ。彼女は明らかに不機嫌だった。
『ねえロール、もっとしっかり地面を蹴ってよ! アンタの脚、ふにゃふにゃしすぎ! アタシの力、まだ半分も出せてないじゃない! 憧れのタイキ先輩の前で、こんな無様な姿見せないでほしいんだけど!!』
「ぐ、うぅッ……!」
彼女の苛立ちはもっともだ。
彼女は「ボクが彼女の力を制御しきれていない」ことにイラついている。
グランアレグリアの真骨頂は、硬い芝の上で繰り出される電光石火の末脚だ。
対して今の舞台は、足を取られる深い砂浜。
なので彼女の圧倒的な瞬発力を、砂の上でロスなく推進力に変えるには技術と足腰がいるのだが、それらが今のボクには決定的に不足している。
ドゴォッ! ドゴォッ!
前方で、爆音が轟く。
タイキシャトルが砂を蹴るたびに、まるで爆撃を受けたかのようなクレーターが穿たれているのだ。
彼女には迷いがない。
アメリカのダート(土)で鍛え上げられたその血統と、生まれ持った強靭なフィジカル。彼女は砂に足を取られることを恐れず、自分の強大なパワーを100%地面に叩きつけ、砂ごと身体を空中に弾き飛ばして前に進んでいる。
あれは走っているのではない。連続して跳躍しているみたいなものだ。
「ウェイト! ウェイト! ロール、遅いデース! もっとパワーで地面をプッシュしてクダサイ!」
遥か前方から、タイキが振り返って手招きをする。その顔には汗一つなく、満面の笑みが浮かんでいるのが逆に絶望的だ。
「やってる……つもりなんですけどね……ッ!」
ボクは歯を食いしばる。
グランアレグリアという、最強の才能を積んでいるのに、ボディであるボク自身がついていけていない。
才能に身体が空回りしている。
その間にタイキシャトルという「完成された怪物」は、砂塵を巻き上げて彼方へと消えていった。
昼食休憩を挟んでも、トレーニングは続く。
食堂で提供された大盛りのスタミナ定食を胃に流し込んだものの、全身の筋肉が熱を持って疼いている。
だが、練習メニューは待ってくれない。
午後のトレーニング。
場所を変えて、森林コースに敷設されたウッドチップ・コース。
木片を敷き詰めたこのコースは、脚への負担が少ない反面、適度な沈み込みがあり、走るには強靭なスタミナとバランス感覚が要求される。
スピードだけでは攻略できない。テクニックとスタミナ、そして精神力が問われるメニューだ。
スタート地点。
ボクの隣には、もう一人の同期が静かに並んでいた。
サイレンススズカ。
異次元の逃亡者。
彼女はただ立っているだけで、周囲の空気を変える。
先ほどのタイキシャトルが太陽のような「陽」のオーラなら、彼女は静謐な湖面のような「陰」の美しさを纏っていた。
「……行くわよ」
短く告げると、彼女は音もなく加速した。
文字通り、「音もなく」だ。
ウッドチップが擦れる微かな音だけを残して、彼女の姿がスッと前方へスライドする。
地面を蹴るのではなく、地面と対話するように。
タイキシャトルが「剛」なら、彼女は間違いなく「柔」。あるいは「風」。
深い森の中、木漏れ日を切り裂いて、緑のジャージが流れるように疾走する。
(速い……! でも、ここで離されるわけにはいかない!)
ボクは即座に思考を切り替える。
スピード特化のグランアレグリアでは、このタフなウッドチップは適当ではない。
ならば……
(頼むよ『ゴールドシップ』!!)
『ハッ! やっとお呼びがかかったかよ!』
脳内で、べらんめえ口調の声が弾けた。
憑依変身。
中距離以上なら無類の強さを誇り、荒れた馬場も物ともしない黄金の不沈艦『ゴールドシップ』の魂を降ろす。
全身の筋肉が、鋼のように硬質化する感覚。
無尽蔵のスタミナ。底知れぬパワー。
これなら、このウッドチップの抵抗にも負けずに食らいつけるはず――だった。
『オラオラ! もっと腰を落とせ! こんなフカフカした道、アタシの庭みたいなもんだぜ!』
脳内のゴルシはやる気満々だ。
彼女のイメージが奔流となって流れ込んでくる。
本来のゴールドシップならば、この程度の足場の悪さはものともせず、ロングスパートでねじ伏せるだろう。
だが、ボクの体はゴルシのイメージ通りには動かない。
ドスッ、ドスッ。
一歩ごとの踏み込みが深すぎる。
彼女のパワーを調整しきれず、必要以上に地面を踏み込んでしまい、ウッドチップに足が埋まってしまうのだ。
抜くのにコンマ数秒遅れる。
次の動作への移行が遅れる。
リズムが狂う。
そのわずかなロスの積み重ねが、スズカとの間に決定的な差を生んでいく。
スズカは遥か前方だ。
彼女のフォームには一切のブレがない。上半身は微動だにせず、脚だけが美しい円運動を繰り返している。
彼女はまだ、自身のスタイルを模索中の時期だと聞く。それでも、その走りには迷いがない。肉体と精神が完全に調和し、研ぎ澄まされている。
対してボクは、借り物のパワーに振り回され、ドタバタと無様に走っているだけ。
まるで乗り慣れていない暴れ馬にしがみついているロデオだ。
「……はぁ、はぁ……ッ! 待っ……て……!」
ボクは必死に腕を振る。肺が焼けるように熱い。
だが、その差は残酷なまでに開く一方だ。
緑の背中は、森の奥深くへと吸い込まれるように小さくなっていく。
スズカが涼しい顔でゴール板を駆け抜け、息一つ乱さずに振り返った数秒後。
ボクは泥だらけで、無様にゴールラインへ倒れ込んだ。
(……くそっ、やっぱり勝てない! 全然、届かない……!)
手の中にあるカードは最強のはずなのに。
どうして、ボクはこんなにも弱いんだ。
砂浜ダッシュ、ウッドチップラン。
地獄のメニューの締めくくりとして最後に行われたのは、基礎体力向上のための水泳トレーニングだった。
海だ。遠泳だ。
走りでボロボロになった体を冷たい海水で癒しつつ、浮力を利用して関節への負担を減らし、全身運動で心肺機能を鍛える。理にかなったメニューだ。
ボクはそのまま『ゴールドシップ』を継続して使用していた。
特に深い戦術的な意味はない。
基礎的なトレーニングの時は、彼女の並外れたタフネスと回復力に頼るのが常だったからだ。
彼女の頑丈さがあれば、冷たい海でも風邪を引かないだろう。そんな安易な考えだった。
「よーし、全員入水! 沖のブイまで往復、スタート!」
トレーナーの笛が鳴る。
生徒たちが一斉に波打ち際へ駆け出し、水しぶきを上げて海へ飛び込んでいく。
ボクもまた、勢いよく海面を蹴った。
「……ぶくぶくぶく……ッ!?」
入水した瞬間だった。
ボクの体は、まるで重りをつけた鉛のように、垂直に海底へと沈んだ。
(な、なんで!? ボク、泳げるはずなのに!?)
パニックになりながら、海中で手足をばたつかせる。
ボク自身の運動神経は、この12年で人並み以上に鍛えてある。水泳だって授業でA判定を取れるくらいには得意なはずだ。
だが、手足が思うように動かない。
いや、動かないのではない。「重い」のだ。
まるで全身の細胞が「水なんて嫌いだ」「濡れるのは御免だ」と拒絶しているかのように。
『ギャハハ! わりぃマスター! アタシ、泳ぐの得意じゃねーんだわ! 気分が乗らねぇ!』
脳内で、ゴルシが腹を抱えて爆笑している声が聞こえた。
(はぁ!? ふざけんな!)
マイナス補正。
憑依召喚のリスク。
カードの能力を引き出すということは、そのウマ娘の「弱点」までも反映されるということだ。
そういえばゴールドシップってプールが苦手だったっけ。そんな記憶をおぼろげに思い出す。
「ごぼッ……! プハッ……! た、すけ……!」
海面に顔を出そうとするが、波に飲まれてまた沈む。
視界が塩水で滲む。苦しい。これは洒落にならない。
「ロール!? アー・ユー・オーケー!?」
薄れゆく意識の中で、聞き覚えのある声がした。
次の瞬間、強烈な力で首根っこを掴まれた。
「NO! 溺れるのはNGデース! カモン!」
「……げふッ!?」
そのままボクは、まるで巨大なマグロでも一本釣りするかのような勢いで、タイキシャトルによって浜辺へと放り投げられた。
砂浜にビタンと叩きつけられる。
濡れた子犬のように情けなく這いつくばるボクを、周囲の生徒たちが心配そうに見ていた。
空はどこまでも青く、雲は白く。
ボクのプライドだけが、海の底へと沈んでいった。
夕暮れの海辺。
地獄のような一日が終わり、世界は茜色に染まっていた。
合宿所の縁側に座り、ボクは一人、水平線に沈みゆく夕日を眺めていた。
手にはスポーツドリンク。体は鉛のように重い。指先一つ動かすのも億劫だ。
タイキシャトル。サイレンススズカ。
今日のトレーニングで、ボクは彼女たちに完膚なきまでに叩きのめされた。
同世代の「黄金世代」と呼ばれる彼女たち。
ボクも決して遅くはない。一般の生徒と比べれば、十分に「速い」部類に入るだろう。
だが、彼女たち「トップ層」とは、明確な壁があった。
越えられない、絶望的な高さの壁が。
(……何が足りないんだ)
才能ならば降ろした二人は負けていないのは明らかだ。だが、実際に走ればまだピーク前の二人相手にここまで差がついてしまう。
弱気な言葉が、口をついて出そうになる。
『……ま、そう凹むなよ』
不意に、脳内で声がした。
ゴールドシップだ。彼女はボクの意識の片隅で、あぐらをかいてドカッと座り込んでいた。
『お前さんが弱いんじゃねえ。……ただ、「馴染んでねえ」だけだ』
(馴染んでない?)
ボクは心の中で問い返す。
『ああ。アタシらの力は、いわば最高級のエンジンだ。何千馬力もあるモンスターマシンだ。対して、お前さんの体と技術は、まだそれを100%活かせるようになってねえ』
ゴルシが淡々と、しかし核心を突くように解説する。
いつものふざけた態度はどこへやら、その言葉には歴戦の勇者のような重みがあった。
『あのタイキやスズカを見ろ。あいつらは、自分の肉体と精神、才能が完全に一つになってる。「オリジナル」の強みだ。自分の手足の長さを知り尽くし、筋肉のバネを理解し、呼吸の一つまで自分のものにしている。
……対してお前さんは、借りてきた力を使ってるだけだ。高出力のエンジンを積んでるのに、ハンドルさばきもブレーキの踏み方も、まだチグハグなんだよ』
図星だった。
グランアレグリアが文句を言っていたのも、ゴルシの特性で溺れたのも、結局はボクが彼女たちの特性を理解しきれず、制御できていないからだ。
「カードを使えば速くなる」。そんな安易な考えで、無理なく使えるレベルの基礎能力で満足してしまっていた。
その先にある、心技体が一体になった「限界領域」を引き出せていない。
『文句ばっかり言ってるあのわがままお姫様(グランアレグリア)も、お前が本気で乗りこなせるなら、もっともっと速えぞ。音速だって置き去りにできる。
アタシだって、もっと暴れられる。泥んこだろうが坂道だろうが、全部ぶち抜いてやる』
ゴルシがニヤリと笑う気配がした。
『それを引き出すのは、マスター、お前さんの「器」次第だ』
(器……)
『焦るな。器は確実にデカくなってる。今日の泥だらけの無様な姿も、器を広げるためのタガネだ。あとは、中身を詰めていくだけだ』
ボクは自分の手を見つめた。
マメだらけの掌。日焼けした肌。
器は頑丈になった。手札(カード)も増えた。最強の英雄たちが、ボクの中にいる。
だが、プレイヤーである「ロールフィヨルテ」自身のレベルが、まだこの素晴らしい手札(カード)に追いついていない。
歴史的名馬たちの輝き。
その眩しい光の中に混ざるには、ただ「借りる」だけではダメだ。
借りた力を、自分の血肉として昇華させ、自在に操れるようにならなければ。
タイキのパワーに負けない体幹を。スズカのスピードについていける脚の回転を。
それらを、ボク自身の肉体で獲得しなければならない。
「……基礎から、やり直すしかないか」
魔法のような解決策はない。近道もない。
あるのは、血の滲むような努力と、積み重ねだけだ。
ボクはぬるくなったスポーツドリンクを飲み干し、立ち上がった。
足の裏に感じる縁側の木の感触。潮の香り。
波の音が、焦る心に少しだけ冷たく、心地よく響いた。
夏合宿は、まだ始まったばかり。
ボクの本当の「強化」は、ここからが正念場だ。
ボクは夕日に向かって、小さく拳を握った。