TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
じりじりと肌を焦がすような日差しが、アスファルトから陽炎を立ち上らせている。
あの日、伊豆の海岸で味わった絶望から、季節は一巡りした。
再び巡ってきた夏。
トレセン学園、芝コース。
今日は、来たるべきデビュー戦への切符を賭けた「ゲート試験」が行われる日だ。
会場には、独特のピリピリとした緊張感が漂っていた。
バインダーを片手に鋭い視線を送る試験官たち。
そして、ゲート裏で待機する数人のウマ娘たち。顔を青ざめさせている子、震える脚を必死に叩いている子、緊張を紛らわすように大声を出している子。
誰もが、自分の未来がかかった一発勝負に怯えている。
ボク、ロールフィヨルテもその中にいた。
心臓の鼓動は激しい。喉の奥が張り付くように渇いている。
けれど、不思議とパニックにはなっていなかった。
一年前のボクなら、間違いなくここで足をすくませていただろう。でも今は、嵐の前の静けさのような、研ぎ澄まされた集中力が体の底に沈殿している。
(……見ているな)
ボクはふと、コース脇にある観客席――本来なら無人のスタンドへと視線を向けた。
一般の生徒や試験官には見えないだろう。
だが、ボクの目にはハッキリと映っていた。
誰もいないはずの最前列に、陣取っている「彼ら」の姿が。
優雅に腕を組んで座る、銀の甲冑を幻視させる貴公子、ローエングリン。
退屈そうに脚を組み、あくびを噛み殺しているマイルの絶対女王、グランアレグリア。
仁王立ちでコースを見下ろす、豪快な笑顔のウオッカ。
そして、日傘を差して涼やかな顔をしている女帝、アーモンドアイ。
彼らはボクの脳内に住んでいるわけではない。普段はどこか別の次元、あるいは彼岸にいて、ボクが必要とした時(あるいは彼らが興味を持った時)にだけ、ふらりと現れる気まぐれな英雄たちだ。
今日はボクの晴れ舞台ということで、示し合わせたように全員で「見物」に来ているらしい。
プレッシャーなんてものじゃない。日本競馬史、いや世界競馬史に残るレジェンドたちが、値踏みするようにボクを見ているのだ。
『……おいおい、顔色が悪いぞマスター。ビビってんのかぁ?』
不意に、すぐ耳元で声がした。
スタンドではない。もっと近く、コースのラチ(柵)の上に、ジャージ姿の芦毛のウマ娘が器用にバランスを取って座っていた。
手にはなぜか、湯気の立つカップ焼きそばを持っている。
(……ゴルシ。コースでの飲食は禁止だよ)
『へっ! アタシにルールなんざ通用するかよ。……で、どうすんだ? 手ぇ貸してやろうか?』
ゴールドシップが、ニヤリと笑いながら焼きそばを啜る。
彼女だけは特別だ。他の英雄たちが「観客」なら、彼女は「悪友」に近い距離感で、いつもボクの周りをうろついている。
『あの石頭の騎士サマ(ローエングリン)も言ってたぜ。「我が主が望むなら、スタートの背中を押してやる用意はある」とかなんとか。過保護なこった』
スタートの補助。
ゲート試験において最も失敗しやすい鬼門だ。出遅れれば即不合格。ローエングリンの反応速度を一瞬だけ借りれば、合格は確実なものになる。
チラリとスタンドを見上げると、ローエングリンと目が合った気がした。彼は無言で頷いている。
けれど、ボクは首を横に振った。
(ううん。今日はいい。断るよ)
『あん? 落ちても知らねーぞ?』
(落ちないよ。……今日は、「ボク」がどこまでやれるか試したいんだ)
誰かの力を使えば、楽に合格できるかもしれない。
でも、それでは意味がない。
あの日、ドーベルに「アクセサリー感覚で技術を借りる」という発想をもらい、ブライトに「心を通わせる」ことを教わった。
それから一年。来る日も来る日も、泥にまみれて特訓を繰り返した。
借り物ではない、「器」そのものの性能がどれだけ上がったか。
それを、あの偉そうな観客席の連中に証明するための試験だ。
『……ケッ、言うようになったじゃねえか』
ゴルシは満足げに鼻を鳴らし、ひらりとラチから飛び降りて姿を消した。
いや、消えたのではない。風になって、コース全体に溶け込んだのだ。
「第3グループ、ゲートに入ってください!」
試験官の無機質な声が響く。
ボクは深く息を吐き、ゲートへと歩を進めた。
鉄の枠。狭い箱。
ここに収まると、世界が切り取られたように狭くなる。
前方に見えるのは、1600m(マイル)の滑走路だけ。
(大丈夫。……体は覚えている)
ボクは静かに目を閉じ、そしてカッ開いた。
ガシャン!
ゲートが開く乾いた金属音。
その音が鼓膜に届くよりも速く、ボクの神経が火花を散らした。
(……前へ!)
思考するな。反応しろ。
一年間、ローエングリンに何度も体を貸し、その「重心移動」の感覚を筋肉に焼き付けてきた。
膝を抜き、上体を倒し、重力を利用して前へ崩れ落ちるように飛び出す。
そこへ、鍛え上げた脚のバネを爆発させる。
ドンッ!
地面を蹴る感触が鋭く伝わる。
ローエングリン本人のような、音速のロケットスタートではない。
それでも、以前のような「よっこいしょ」というもたつきは皆無だった。
「よしッ!」
心の中でガッツポーズをしつつ、加速に移る。
横目に見える景色が流れる。
緊張で出遅れてゲート内で躓く子もいる中、ボクは周りよりも半歩先を進み集団の先頭――ハナを切る位置につけていた。
熱気を帯びた風が、前髪を巻き上げて頬を叩く。
ここから1600m。長いようで短い、マイルの旅路だ。
向こう正面の直線。
風の音が強くなる。
息が上がる。太ももに、じわりと熱い鉛のような疲労が溜まり始める。
この一年で基礎体力は飛躍的に向上した。だが、素の身体能力(フィジカル)は、やはりあの化け物じみた英雄たちには遠く及ばない。
スタンドで見ているグランアレグリアなら、あくびをしながら走れるペースだろう。
だが、今のボクにとっては、すでに全力疾走に近い負荷だ。
(苦しい……重い……!)
肺が焼けるようだ。
酸素が足りない。フォームが崩れそうになる。
油断すると、アゴが上がってしまいそうだ。
(立て直せ! 腰を落とせ!)
ボクは自分自身を叱咤する。
ここで思い出すのは、あの破天荒な芦毛との特訓の日々だ。
雨の日も風の日も、泥だらけになりながら叩き込まれたバランス感覚。
『体幹を使え!』『地面と友達になれ!』
彼女の言葉が、脳裏に蘇る。
そうだ、脚だけで走るんじゃない。腹の底、丹田に力を込めろ。
第3コーナー。
勝負どころのカーブに差し掛かる。
スピードに乗ったまま突入する遠心力が、ボクの体を外へ外へと引き剥がそうとする。
(負けるな……! 倒せ! 壁を作れ!)
恐怖心をねじ伏せ、体を内側へ傾ける。
ゴルシのような常識外れの「ワープ」はできない。地面スレスレまで体を倒す度胸も、今のボクにはまだない。
それでも。
以前のように恐怖でブレーキをかけ、外へ膨らむような無様な真似はしなかった。
靴底が芝を噛みしめる。
しっかりと内ラチ(柵)沿いのラインをトレースし、最短距離を回る。
確かな技術(テクニック)が、スタミナの浪費を防ぎ、スピードを殺さずにコーナーをクリアさせてくれる。
スタンドの一角で、ゴールドシップがニカっと笑って親指を立てた気がした。
そして、最後の直線。
残り400m。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ……!!」
ここからが地獄だ。
肺が破裂しそうだ。視界が白くチカチカする。脚が棒のように重い。
スタンドの方から、強烈な視線を感じる。
ウオッカだ。グランアレグリアだ。
彼女たちが、誘惑しているように思える。
『使いなよ』『貸してあげるわよ』
『ここから加速したいなら、アタシのエンジンが必要でしょ?』
そう囁かれている気がする。
今ここで、彼女たちの力の一部を借りれば、ボクの体は羽が生えたように軽くなり、爆発的な末脚でゴール板を駆け抜けられるだろう。
楽になれる。
圧倒的なタイムが出せる。
だが。
ボクは歯を食いしばり、首を振った。
(断るッ!!)
まだだ。まだ自分の足で走れる。
ウオッカが教えてくれたのは、単なるパワーじゃない。「こじ開ける勇気」だ。
それは他者を抜くためだけじゃない。自分自身の弱さを、限界をこじ開けるための意思の力だ。
腕を振れ。
脚を上げろ。
泥臭くてもいい。華麗じゃなくてもいい。
一歩ずつ、確実に地面を噛みしめて進む。
自分の筋肉が悲鳴を上げているのを感じろ。それが生きている証だ。それが成長の証だ。
誰かを驚かせるようなスーパータイムじゃない。
観客が湧くような派手な追い込みもない。
ただひたすらに、一年間教わったことを忠実に守り、一年前とは違う自分の全力を、一滴残らず絞り出す走り。
ゴール板が近づく。
風の音だけが聞こえる。
スタンドの英雄たちが、静かに立ち上がった気配がした。
そして――ボクは、誰もいないゴールラインを駆け抜けた。
*
「ゼェ……ッ、ハァ……ッ! ゲホッ……!」
ゴール板を過ぎた瞬間、糸が切れたようにバランスを崩す。
膝から崩れ落ちそうになるのをなんとか堪え、コース脇の手すりにしがみついた。
喉が血の味がする。
汗が滝のように流れ落ちて、目に入って痛い。
キツかった。本当に、死ぬほどキツかった。
英雄たちの力がいかに偉大で、いかにボクを「楽」させてくれていたか、痛感する。生身で走るマイルは、こんなにも長く、苦しいものなのか。
「……ロールフィヨルテさん。タイム、1分38秒5」
近づいてきた試験官が、ストップウォッチを見ながら事務的に、しかし少しだけ感心したような声色で告げた。
「基準タイム1分40秒をクリア。……合格です」
その言葉が脳に浸透した瞬間、全身の力が抜けた。
「よ、っっしゃあぁ……!」
小さく、けれど噛みしめるように叫ぶ。
合格だ。
マイルのレースで勝つ一線級のタイムから見れば、決して速い数字ではない。
一分三十秒台前半を叩き出すようなトップ層に比べれば、「ぼちぼち」の平凡なタイムだ。新聞に載るような記録でもない。
スタンドにいた女王様たちは「まあ、及第点ね」と笑っているかもしれない。
でも、これは「100%ボクの力」で出したタイムだ。
スタートで遅れず、コーナーで膨らまず、最後までバテずに走り切れた。
あの合宿で、何もできずに立ち尽くしていた「空っぽの器」は、もういない。
中身はまだ半分も埋まっていないかもしれないけれど、確かに満たされ始めている。
「……お疲れ様。見てたわよ」
フェンス越しに、見知った顔があった。
メジロドーベルだ。
彼女は一足先にゲート試験をパスし、すでにデビュー戦に向けて調整に入っている。
いつも自分にも他人にも厳しい彼女の表情が、今は少しだけ緩んでいるように見えた。
「合格ラインぎりぎりかと思ったけど……意外と余裕あったじゃない。この一年、サボってなかった証拠ね」
「ドーベル……ありがとう。……キツかったよ、本当に……」
「ふふっ。でも、最後までフォーム崩れなかった。……合格点、あげてもいいかな」
「ドーベルにそう言ってもらえるのが、一番嬉しいかも」
ボクがタオルを受け取って顔を拭いていると、その後ろから、のんびりとした足音が近づいてきた。
「ロールちゃ~ん! おめでとうございます~!」
「ブライト! 来てくれたんだ、ありがとう!」
メジロブライトだ。
彼女はニコニコと目を細め、ボクの手を握りしめた。
「すごいですわ~。何も『降ろして』いないのに、あんなに堂々と走れるなんて。……ロールちゃん自身の魂も、この一年でキラキラ輝くようになりましたわよ~」
「そっか……。輝いて見えたなら、よかった」
ブライトの言葉が、疲れた体に染み渡る。
自分の足で立った感覚。それが、これほどの自信になるとは思わなかった。
今のボクという強固になった土台(ベース)の上に、あの最強の英雄たちの力の一部を借りれば――。
(……行ける)
確信が生まれた。
ボクは、戦える。
ふとスタンドの方を見ると、もう幻影たちの姿はなかった。
ただ、夏の日差しが照りつけているだけだ。彼らは満足して帰ったのだろうか。それとも、次のステージで待っているのだろうか。
「さあ、これで文句なしにデビュー戦への切符は手に入れたわね」
ドーベルが、コースの奥にある掲示板――今後のレース予定表を見据えて言った。
そして、くるりとブライトの方へ向き直り、ジト目を向ける。
「で、ブライト? アンタはいつ受けるつもりなの?」
「あら~? わたくしですか~?」
「そうよ。ロールも合格したのよ。いつまでもフワフワしてないで、さっさと申し込みなさい。置いていくわよ」
「ふふ~、わたくしはゆっくり仕上げますわ~。秋風が吹く頃には……たぶん」
「たぶんじゃないでしょ! もう! アンタのトレーナーも泣いてたわよ」
ドーベルに怒られても、ブライトは柳に風と受け流して微笑んでいる。
そんな変わらない幼馴染たちのやり取りが、試験後の高揚した心に心地よかった。
デビューの夏。
ボクは大きく息を吸い込み、拳を握りしめた。
ゲート試験合格。
それは、ロールフィヨルテという一人のウマ娘の、本当の物語の始まりだった。
次は、本番のレース。
どこまで行けるのか、それだけが不安であり楽しみであった。