TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
天皇賞(春)当日。
新緑が眩しい京都レース場。
ボクはパドックで、かつてないほどの軽さを感じていた。
(……軽い。まるで羽が生えたみたいだ)
10kg近く絞り込んだ体は、重力から解き放たれたかのように動く。
心は凪いだ湖のように静かだ。
緊張はない。恐怖もない。あるのは、計算しつくされた勝利への道筋だけ。
全距離制覇という偉業を成し遂げた自信と、最強のステイヤー・ライスシャワーの魂を宿しているという事実が、ボクを絶対的な安らぎの中に置いていた。
「……おい」
背後から、低く、しゃがれた声が聞こえた。
ドスの利いた、しかしどこか懐かしさを感じさせる声。
振り返ると、一人のウマ娘が立っていた。
小柄な体躯。黒鹿毛の髪に、左目元の特徴的な流星。
そして何より、その全身から立ち上る、荒々しくも強烈な闘争心。
ステイゴールド。
主な勝鞍は阿寒湖特別。重賞未勝利。
実績だけで見れば、GⅠ5勝のボクとは比べるべくもない。
だが、彼女の纏う「黄金の旅路」の気配は、ボクの本能をざわつかせた。
『うげっ、親父……』
脳内でゴルシが露骨に嫌そうな、それでいて敬意を含んだ声を上げる。
そう、彼女(史実では彼)は、ゴールドシップの父にあたる存在だ。ボクの中にゴルシがいる以上、ある種の「血の繋がり」があると言っていい。
それ以上に前に世話になったことがある彼女だ。あまり無碍にはしたくないが。
「……何か用かな、ステイゴールドさん」
「用? ああ、あるぜ。……挨拶しに来てやったんだよ。偉大なる『全距離制覇』の王者様に」
彼女はニヤリと笑った。それは友好的な笑みではなく、獲物を品定めするような獰猛な笑みだった。
彼女はボクの周りをゆっくりと歩き回り、鼻を鳴らした。
「ふん。……綺麗だな」
「え?」
「綺麗に仕上がってるよ。無駄がない。贅肉もない。……まるで、美術館に飾ってある彫刻みたいだ」
それは褒め言葉には聞こえなかった。
「だがな……匂いがしねぇんだよ」
「匂い?」
「ああ。『血』と『泥』と……『飢え』の匂いだ」
ステイゴールドは足を止め、ボクの目の前に立った。
身長はボクの方がずっと高い。だが、彼女の見上げる視線には、見下ろされているような圧迫感があった。
「アンタ、満足してんだろ」
図星を突かれた気がして、ボクは眉をひそめた。
「満足……? そんなことはない。ボクは常に勝利を目指している」
「口では何とでも言えるさ。だが、体は正直だ。……アンタの体からは、『勝たなきゃ死ぬ』っていう悲壮感が微塵も感じられねぇ」
彼女はボクの胸元を指差した。
「全距離制覇? 偉業達成? 結構なことだ。だがな、満腹のライオンは、腹を空かせた野良犬より弱ぇんだよ。……今のアンタは、ただの『綺麗な置物』だ」
カチンときた。
ボクがどれだけの思いで減量に耐え、ライス先輩とトレーニングを積んできたと思っているんだ。
「……レースで見返してあげるよ。この体が、置物なんかじゃないことを」
「へっ、威勢がいいのは結構。……だが、気を付けな。俺みたいな『持たざる者』は、アンタみたいなエリートを引きずり下ろすためなら、なんだってやるぜ?」
ステイゴールドは不敵に笑い、去っていった。
その背中は小さかったが、周囲の空気を歪めるほどの熱量を発していた。
ゲートイン。
スタンドを埋め尽くす大観衆の視線が、一点に集中する。
1番人気はボク、ロールフィヨルテ。
2番人気はメジロブライト。
ゲート内で、ボクは深呼吸をした。
心拍数は安定している。視界もクリアだ。
隣の枠には、不気味なほど静かなメジロブライトがいる。
そして少し離れた枠で、ステイゴールドが首を激しく振って荒ぶっているのが見えた。
(……関係ない。ボクはボクの走りをするだけだ)
ガシャン!!
ゲートが開いた。
絶好のスタート。
ボクは、脳内のライスシャワーの指示に従い、スッと好位につけた。
内ラチ沿い、5番手。
前に壁を作り、風を避け、最短距離を走る。
完璧なポジショニングだ。
『……いいよ、ロールさん。リズム良く、息を入れて』
脳内でライス先輩が囁く。
ボクの体はミホノブルボンほどではないがそれでも正確に、ラップを刻んでいく。
1000m通過、1分1秒台。
平均ペース。
これならスタミナは十分に持つ。シミュレーション通りだ。
だが、向こう正面に入ったあたりで、その「完璧」な世界に異物が混入した。
「オラオラァ! 道を開けろォ!」
外から、強引に割り込んでくる影があった。
ステイゴールドだ。
彼女は折り合いなど度外視で、掛かり気味に上がってきた。
そして、あろうことかボクの斜め前に位置取り、体を擦り付けるようなギリギリの距離感で幅寄せをしてきたのだ。
(っ!? ち、近い!)
ボクは反射的に身を固くした。
接触寸前。
これまで戦ってきたライバルたちとは違う、ルールぎりぎりのラインで精神を逆撫でする「喧嘩」を仕掛けてきている。
恐怖心から引きそうになった、その時。
『引いちゃダメ! ロールさん!』
脳内で、ライス先輩の鋭い声が響いた。
『引いたらリズムが崩れる……相手の思う壺だよ! 体幹を意識して! 相手に寄りかかられても、押し返すんじゃなく「壁」になって耐えるの!』
的確な指示。
ボクは反射的にそれに従った。
ブレーキをかけない。無理に押し返してバランスを崩すこともしない。
ただ、自分の走るレーンを死守し、ステイゴールドの圧力を、鍛え上げた体幹とライス先輩の技術で受ける。
ガッ、と肩が触れ合う。
だが、ボクは揺るがない。
フィジカルならこちらがの方が上だ。はじき返して彼女のラフプレイを無効化する。
(……よし、凌いだ!)
ボクは安堵した。
これならペースは乱されない。このまま自分の走りを続ければいい。
だが、ステイゴールドはニヤリと笑った。
「へっ、上等だ! いい『足場』になりやがる!」
彼女の狙いは、ボクを潰すことではなかった。
ボクが技術的に完璧な対応をして「動かない壁」になったこと。それこそが、彼女の計算通りだったのだ。
彼女はボクの体に自分の体重を預け、コーナーワークの遠心力を強引に殺した。
ボクを「支点」にして、無理やり体を前へとねじ込む。
「借りるぜェェッ!!」
グンッ!
ステイゴールドが加速した。
ボクとの接触を推進力に変え、弾かれたように前へ飛び出す。
まさに「足場」。
ボクの安定感を利用して、彼女は自身の限界を超えた加速を手に入れたのだ。
第3コーナー。淀の坂。
ここで動いたのが、メジロブライトだった。
「……行きますわ」
彼女は大外を一気にまくり、先頭集団を飲み込みにかかる。
その走りは、優雅な令嬢のそれではない。髪を振り乱し、泥を跳ね上げ、一心不乱に前を目指す「鬼」の走り。
(まずい、行かれた!)
ボクも反応する。
だが、目の前には、ボクを踏み台にして加速したステイゴールドがいる。
彼女が壁となり、ボクの仕掛けを一瞬遅らせる。
坂を下り、加速をつける。
直線。
残り400m。
先頭はシルクジャスティス。それを飲み込むメジロブライト。
そして、その直後をステイゴールドが猛追する。
ボクはその後ろ、3番手から追う形になった。
体は軽い。足は残っている。極限まで絞った肉体は、まだ死んでいない。
グンッ!
加速する。
ライスシャワーの技術と、ボクの意地が噛み合い、猛烈な末脚が爆発する。
一歩ごとに差が縮まる。
ブライトの背中が近づく。
(届く……! これなら、まだ間に合う!)
計算上、ここからの末脚ならボクの方が速い。
ステイゴールドをかわし、ブライトを捕らえる。そのビジョンは見えている。
だが。
「う、おおおおおおっ!!」
「どけぇぇぇぇッ!!」
前方から聞こえる、ブライトとステイゴールドの叫び。
彼女たちの背中から、どす黒いほどのオーラが噴き出している。
それは「勝ちたい」という執念。
なりふり構わず、泥をすすってでも前へ出るという、生々しい渇望。
対して、ボクは?
「綺麗に」走ろうとした。
ラフプレイも「技術」で凌いだ。
そこに、相手をねじ伏せるような「熱」はあったか?
『ロールさん! もっと! もっと熱くなって! 理屈じゃないの!』
ライス先輩の声が響く。
分かっている。頭では分かっているのに、心が着火しない。
「負けてもいい」という深層心理の安全装置(セーフティ)が、リミッターを解除させてくれない。
残り100m。
ブライトが完全に抜け出す。
ステイゴールドが、ボクを踏み台にして得た勢いを殺さず、驚異的な粘り腰で2番手を死守する。
「ちっ!! まだまだあああああ!!!!」
ステイゴールドが吠える。
ボクは彼女に並びかけるところまで行った。
だが、抜けない。
彼女の気迫が、物理的な壁となってボクを弾き返す。
――ゴール!!
1着、メジロブライト。
2着、ステイゴールド。
3着、ロールフィヨルテ。
その差は、それぞれクビ差、ハナ差という僅差だった。
*
「……負けた」
ゴール後、ボクは息を整えながら電光掲示板を見上げた。
3着。
全距離制覇後、初めての敗北。
だが、体は疲れていない。余力すらある。
それが余計に、この敗北の異質さを際立たせていた。
「……ふぅ。ブライトちゃん、強くなったなぁ。……これはこれで、美しい結末か」
ボクは苦笑いを浮かべた。
悔しさがないわけではない。だが、それ以上に「いいレースだった」という、どこか他人事のような感想が先に出てきてしまう。
「……おい」
低い声がして、振り向く。
ステイゴールドが、肩で息をしながらボクを睨みつけていた。
彼女は2着に入った。ブライトには届かなかったが、ボクには先着した。
だが、その表情は晴れない。
「なんだい? おめでとう、2着だね。……ボクを踏み台にした感想はどうかな?」
「最悪だ」
彼女はボクの胸倉を掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。
「テメェ……なんで押し返してこなかった」
「え?」
「最後の直線だ!!!あそこでテメェが熱くなって、俺を弾き返すくらいの勢いで競り合ってくりゃ……俺たちはもっと加速できたんだよ! ブライトなんぞ置き去りにできるくらいにな!」
彼女は悔しそうに地団駄を踏んだ。
「なのに、なんだありゃ! 柳に風かよ! 綺麗にいなしやがって! おかげで俺の計算より加速が乗らなかったじゃねぇか!」
彼女の計算では、ボクともっと激しく火花を散らし、その相乗効果でブライトを捲るつもりだったのだ。
ボクの「大人な対応」が、結果としてレース全体の熱量を下げ、ブライトの独走を許してしまった。
「……テメェが本気なら、テメェが勝ってた。……そして俺も、もっといい夢見れたかもしれねぇのに」
ステイゴールドは、吐き捨てるように言った。
「あーあ、つまんねぇ。……立派なのはガワだけかよ。中身が空っぽの『綺麗な置物』なんぞに用はねぇ」
彼女は興味を失ったように背を向けた。
「次は本気出しな。……じゃないと、踏み台にもなりゃしねぇ」
去っていく彼女の背中は、小さかったが、誰よりも「生々しい」熱を帯びていた。
『……ロールさん』
脳内で、ライス先輩が悲しげに呟く。
『ごめんね。私の助言が、裏目に出ちゃったかな……』
(違います、先輩。先輩の技術は完璧でした。……足りなかったのは、ボクの「魂」です)
ボクは自分の胸に手を当てた。
そこに空いた穴の大きさを、初めて自覚した気がした。
技術で凌ぎ、計算で走った。
だが、勝負の世界では、時に理屈を超えた「熱」が必要なのだ。
春の陽気が、今のボクにはやけに寒々しく感じられた。
初めての敗北。
それは、ボクの「黄金の旅路」が、暗雲に覆われ始めた合図でもあった。