TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
6月。東京レース場。
空は厚い鉛色の雲に覆われ、地面を叩きつけるような豪雨が降り注いでいた。
安田記念。マイル1600m。
春のGⅠシリーズを締めくくる一戦は、視界すら霞む最悪のコンディションの中で行われようとしていた。
パドックは傘の花で埋め尽くされている。
ボク、ロールフィヨルテは降りしきる雨に打たれていた。
足元の芝は水を吸って重く、所々に水たまりができている。いわゆる「田んぼ」状態だ。
『……最悪。信じられない』
脳内で、アーモンドアイが低い声で呻く。
彼女の美しい幻影が、泥水に濡れるのを極端に嫌がってスカートの裾を持ち上げているのが見えた。
『なんで雨なのよ。私、濡れるのも泥が跳ねるのも大っ嫌いなのに。……あーあ、テンション下がるわ』
(すみませんアイさん……でも、お願いしますよ。貴女の技術だけが頼りなんです)
『分かってるわよ。……プロだもの、仕事はするわ。でも、期待しないでね。この泥濘じゃ、私の「翼」は広げられない』
彼女は史実でも、極限のスピード勝負や良馬場での瞬発力を武器としていた。
この泥んこ馬場は、彼女の繊細なスピードを殺し、精神力を削ぐ最悪の条件だ。
そんなボクたちの前を、太陽のようなオーラを放つウマ娘が歩いていた。
タイキシャトルだ。
彼女は雨など気にする様子もなく、むしろ水を得た魚のように活き活きとしている。
そして、彼女の横には、楽しそうに飛び跳ねるグランアレグリアの姿があった。
「グラン! 今日のコンディション、ヘビーですが、パワーが唸ってマス!」
『うんうん! タイキ先輩の筋肉なら、こんな雨馬場なんて関係ないよ! むしろ他の子が走りにくくなってチャンスじゃん! 泥遊びしよっ!』
二人は完全にリンクしている。
世界最強のフィジカルを持つタイキシャトルに、マイルを知り尽くしたグランアレグリアの頭脳。
しかも、この雨。パワータイプのタイキには追い風となる。
(……勝てるのか、これ)
ボクが弱気になりかけた時、背後からピチャッ、ピチャッとわざと水たまりを踏む音が近づいてきた。
「ヒャーッハッハッハ!!」
ステイゴールドだ。
彼女は顔に泥がついているのも気にせず、ニタニタと笑いながらボクの横に並んだ。
「よう優等生! 綺麗な顔が台無しだなぁ! 今日はその体、泥パックでエステしてやるよ!」
「……お手柔らかに頼むよ、ステイゴールドさん」
「へっ、余裕ぶっこいてんじゃねぇぞ。……この雨だ、何が起こるか分からねぇからなァ」
彼女の目は笑っていなかった。
天皇賞(春)での2着。彼女の中で、ボクに対する評価は「実力はあるが張り合いのない壁」として定着しつつある。
だからこそ、今日こそはその壁を叩き壊し、あるいは踏み台にして、GⅠのタイトルをもぎ取るつもりなのだ。
ファンファーレが雨音にかき消されそうになる中、ゲートイン。
視界が悪い。雨粒がまつ毛に絡みつく。
『……集中なさい。視界が悪くても、私の「眼(コース眼)」があれば道は見えるわ。……できるだけ綺麗な場所を選んで走るのよ』
アーモンドアイが冷徹に告げる。
彼女は文句を言いながらも、やるからには完璧を求めるプロフェッショナルだ。
ガシャン!!
ゲートが開いた。
水飛沫が上がる。
好スタートを切ったのは、やはりタイキシャトルだ。
「Go! Go! Go---ッ!!」
『地面を掘るイメージ』。
グランの助言通り、タイキの蹄はぬかるんだ芝を深々と捉え、滑ることなく推進力に変えていく。
重戦車のような加速。一気に先頭集団へ躍り出る。
対するボクは――。
『うわっ、冷たい! 泥が!』
前の馬が跳ね上げた泥の塊が、ボクの顔や胸に直撃する。
アーモンドアイが悲鳴を上げ、反射的に顔を背けそうになる。
そのわずかな躊躇が、初速を鈍らせる。
(くっ……アイさん、我慢して!)
ボクは必死に体勢を立て直す。
アーモンドアイの技術で、蹄の角度を調整し、滑りやすい路面をグリップさせる。
繊細な作業だ。神経をすり減らす。
だが、そんな精密作業をあざ笑うかのように、外から「異物」が突っ込んできた。
「オラァ! 水遊びの時間だぜぇ!」
ステイゴールドだ。
彼女は、あえて水たまりの多い荒れた内側を突いてきた。
そして、ボクの斜め前に出ると、盛大に泥水を巻き上げて進路をカットしてきた。
バシャッ!!
茶色い水しぶきが、ボクの視界を覆う。
『きゃあああっ!? ちょっと、何すんのよこの野蛮人!!』
アーモンドアイがブチ切れた。
精神的な動揺が、ボクの体に伝播する。
フォームが乱れ、足がもつれそうになる。
「へっ、ざまぁねぇな! お姫様には刺激が強すぎたか!?」
ステイゴールドは嘲笑いながら、さらに体を寄せてくる。
天皇賞の時と同じだ。
ボクを壁にして、コーナーを回る遠心力を殺し、自分だけ加速しようとするラフプレイ。
『……ふざけないで! どきなさいよ!』
アーモンドアイが叫ぶ。
彼女はプライドが高い。売られた喧嘩は買うタイプだ。
だが、この状況では分が悪すぎる。
泥を嫌がり、腰が引けているアーモンドアイと、泥を友として暴れ回るステイゴールド。
気迫の差が、物理的な圧力となってボクを押し込む。
(アイさん、張り合っちゃダメだ! 冷静に!)
ボクは必死に手綱を抑え、ステイゴールドとの接触を避けた。
ぶつかれば、今のボクたち(特にアイさん)はバランスを崩して終わる。
一歩引く。
その判断は正しかったはずだ。安全策としては。
だが、それが決定的な遅れを生んだ。
第3コーナーから4コーナー。
先行するタイキシャトルは、全くペースが落ちない。
グランアレグリアが常に的確なラインを指示し、タイキがその通りに走る。
後続との差は開く一方だ。
直線。
東京の長い直線が、泥の海と化している。
「レッツ・パーティ!!」
タイキシャトルが抜け出した。
早い。早すぎる。
残り400mで、後続を突き放しにかかる。
『今よ! 外へ!』
アーモンドアイが叫ぶ。
ボクはステイゴールドの外へ持ち出し、馬場の比較的綺麗な大外へと進路を取った。
視界が開ける。
アーモンドアイの「九冠」の底力が発動する。
地面を掴むのではなく、滑るように、飛ぶように。泥濘を無効化する超絶技巧のストライド。
グングンと加速する。
前を行くステイゴールドに並びかける。
(行ける……!)
だが、ステイゴールドは死んでいなかった。
「行かせるかよォォォッ!!」
彼女は、泥だらけの顔を歪め、鬼のような形相で食らいついてきた。
綺麗なフォームではない。手足をもがくように動かし、泥を掻きむしるような走り。
だが、その一歩一歩には「負けたくない」という怨念のような力が籠もっている。
並走状態。
ボク(アーモンドアイ)の華麗な走りと、ステイゴールドの泥臭い走り。
本来なら、能力値で勝るボクが突き放すはずだ。
しかし、抜けない。
彼女の気迫が、見えない壁となってボクを阻む。
『くっ……なんなのよコイツ! しつこい!』
アーモンドアイが焦る。
そして前方では、タイキシャトルが悠々とゴールへ向かっている。
「先輩! そのまま! 世界へ一番乗りだよ!」
「イエッサー!!」
グランとタイキの歓喜の声。
それが決定打だった。
ボクの心に、「あ、これはもう届かないな」という諦めがよぎってしまったのだ。
一瞬の弛緩。
全距離制覇者の余裕という名の、慢心。
その隙を、黄金の暴君は見逃さなかった。
「そこだァァァッ!!」
ステイゴールドが、最後の一押しでボクの前に体を入れた。
泥水がボクの顔面を直撃する。
視界が塞がれる。
――ゴール!!
1着、タイキシャトル。
2着、ステイゴールド。
3着、ロールフィヨルテ。
天皇賞と同じ。またしても、3着。
*
「……はぁ、はぁ。……負けた」
ゴール板を過ぎ、ボクは泥を拭いながら雨空を見上げた。
アーモンドアイは『もう最悪。泥の味がするわ……』と呻いて沈黙してしまった。
だが、不思議と気分は悪くなかった。
前方では、タイキシャトルがガッツポーズをしている。
強い。本当に強い。
ボクが全距離制覇した時と同じくらいの衝撃を、世界に見せつけるだろう。
「おめでとう、タイキ。……完敗だよ」
ボクは素直に称賛を送ろうとした。
だが。
「ふざけんなァァァッ!!!」
絶叫が、雨音を切り裂いた。
ステイゴールドだ。
彼女は2着に入ったにも関わらず、泥を蹴り上げ、激昂していた。
「なんでだよ! なんでそこで引くんだよテメェは!」
彼女はボクに詰め寄り、胸をドンと突き飛ばした。
「直線! 俺と並んだ時だ! なんで死に物狂いで競ってこねぇ!? テメェの力がそんなもんじゃねぇことぐらい、分かってんだよ!」
「……ステイゴールドさん、落ち着いて。結果は貴女が勝ったじゃないか」
「勝ってねぇよ! 2着だ! また2着だ!」
彼女は髪を振り乱し、悔し涙とも雨ともつかない雫を流しながら叫んだ。
「俺はな……テメェを利用してでも、テメェと殺し合いをしてでも、その先にある『1着』が欲しかったんだよ! テメェが最後で諦めたせいで……俺の闘争心まで冷めちまったじゃねぇか!」
彼女の言いたいことが、ようやく分かった。
彼女はボクとの競り合いを燃料にしていた。ボクが最後まで食らいつき、あるいは彼女をねじ伏せようとするエネルギーがあれば、彼女もまた限界を超え、タイキシャトルに届き得たかもしれない、と。
ボクの「諦め」が、彼女の可能性をも閉ざしてしまったのだ。
「……ふざけんなよ。綺麗な顔して、余裕ぶっこいて……」
ステイゴールドは、子供のように癇癪を起し、地団駄を踏んだ。
「俺みたいな、勝ちたくても勝てねぇ奴の前で……『負けてもいい』なんて顔して走ってんじゃねぇ!」
彼女の悲痛な叫びは、周囲の空気すら凍らせた。
タイキシャトルも、グランアレグリアも、その剣幕に言葉を失っている。
ボクはただ、立ち尽くすしかなかった。
泥だらけのユニフォーム。
だが、心の中は、相変わらず綺麗で、傷一つついていない。
それが、どうしようもなく情けなかった。
「……悪い。次は、本気出すよ」
ボクが絞り出した言葉に、ステイゴールドは「ケッ」と唾を吐いた。
「信用できねぇな。……次もその腑抜けたツラしてたら、背中から蹴り倒してやる」
彼女は去っていった。
残されたボクは、冷たい雨に打たれながら、自分の手のひらを見つめた。
全距離制覇。
その栄光が、いつの間にか呪いのようにボクを縛り、感情を麻痺させている。
スタンドの片隅。
ドーベルの姿は見えなかった。
きっと、見るに堪えなかったのだろう。
恋人が、戦う前から負けを認め、泥にまみれても平然としている姿なんて。
連敗。
そして、タイキシャトルは世界へ。
ボクは日本に取り残され、空っぽのまま、雨の中に立ち尽くしていた。