TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
GⅠ十勝という金字塔を打ち立て、意気揚々と乗り込んだドバイワールドカップ。結果は無残な大敗だった。敗因は実力以前の問題──極度の輸送ダメージ。ボクの肉体は、たかだか十数時間の空の旅に、あえなく白旗を上げたのだ。
それを受け、ボクは潔くトゥインクルシリーズからドリームトロフィーシリーズへと移籍することを決める。これ以上、国内の重賞で後輩たちの道を塞ぐのも愉快な話ではない。幸い、これまでの賞金やらなんやらがある。ドリームトロフィーリーグに移籍したとはいえ、あそこは走ることが義務ではない。いわば「上がり」の場所だ。
ボクは今、人生で初めて「何も追いかけなくていい」という、空白の時間を手に入れていた。
数日後、ボクは実家に顔を出した。引退の報告をするためだ。「ロール、お疲れ様。よく頑張ったわね」
母さんは穏やかな笑顔でボクを迎え、父さんは少し照れくさそうに「これからはゆっくりすればいい。金に困ることもないんだろう?」と肩を叩いてくれた。妹のジャーニーは相変わらず家の中で暴れまわっていたが、ボクがレースを辞めたことを悲しむというよりは、「これでいっぱいねーねと遊べる!」と喜んでいるようだった。
家族の温かさに触れ、ボクの肩の力は抜けた。
けれど、何もしない日々が一週間も続くと、今度は別の感覚がボクを襲い始めた。
焦りだ。三女神から力をもらってからそれを使いこなせるようになるために今まで頑張りっぱなしだったため、今さらながら今後どうするかと考える必要が出てきたのだ。
そんな時だった。メジロドーベルが、ボクをデート誘ってくれたのは。
「……すっかり腑抜けた顔してるわね」
ドーベルは紅茶のカップを置き、ジト目でボクを射抜いた。
「そうなんだよね…… 今後どうしようかと思って」
「ずっとそうして、お菓子を食べて寝るだけの生活を続けるの? まあ今まで頑張ってきたんだしそれでもいいかもしれないけど……」
「いやそれもどうかと思うんだけど」
ボクは答えに詰まった。
やらなければならない、ということがあるわけでもない。
だけど例えば今後、ドーベルと結婚するとか、子供ができるとか、そういうイベントがあるだろうことも考えると妖怪食っちゃ寝で過ごすのもどうかと思ってしまう。
そんなことを話すと、ドーベルは顔を真っ赤にした。
「アンタ、そういうこと恥ずかしげもなく話すわね……」
「ちゃんとプロポーズはする予定だよ」
「そういう話じゃなくて……」
ドーベルはため息をついた。
「メジロの家の手伝いとかしてくれてもいいかもしれないけど、いくらラモーヌさんやマックイーンさんと仲が良くてもあなた完全に部外者だからね」
「そうなんだよね。なんかそれも違うなと思って」
手伝ってほしいなどあるなら今までお世話になっているのだから当然手伝うが、そういう話がラモーヌさんとかから出たこともない。
そこに押し売りするのもちょっと違うだろう。
ドーベルは少し考えた後切り出した。
「アンタって、実はお節介で、教えたがりでしょ。あのときだってそう。私の背中を無理やり押して、世界を見せてくれた。……それに、アンタが走っている時、時々不思議な感じがしたわ。まるで、何人もの偉大な先輩たちがアンタの背中を支えているような。……アンタが持っているその『経験』や『知識』、ほかの人に教えてあげたらどうかしら?」
「なるほど……?」
予想もしなかった言葉に、ボクは思わず目を丸くした。
この世界において、ウマ娘を導くのはいつだって「ヒト」の仕事だ。トレーナーとウマ娘の間に生まれる信頼関係、あるいは「絆」と呼ばれる目に見えない力が走りに影響を与える。それがこの業界の常識であり、美徳とされている。ウマ娘自身が、他のウマ娘をゼロから育てるという話は、少なくとも現役の最前線では聞いたことがない。
けれど、ボクの「前世」の記憶を探れば、トップアスリートが引退後に名コーチとして返り咲く例は枚挙にいとまがない。むしろ、走る側の感覚を誰よりも熟知しているボクだからこそ、教えられることがあるのではないか。
「……でも、ウマ娘がトレーナーになるための道なんて、用意されてるのかな?」
「制度上は可能よ。トレーナーのライセンスを取ればいいんだから。……ただ、すごい大変なんだからね。まずは二年間の実務研修を受けるか、あるいはトレーナー養成学校に一から通い直す必要があるわ。そのあとのトレーナー試験もすごい難しいんだとか」
「二年間の研修……あるいは学校か」
ボクは腕を組んで考え込んだ。
最短でも二年の歳月。長いと言えば長い。けれど、ボクには時間は腐るほどあるし、生活のために焦って働く必要もない。なにより、ボクの脳内にいる「彼女たち」の知見を、この世界の理論体系と照らし合わせて整理するには、それくらいの時間はむしろ必要なのかもしれない。
「いいかもしれない。……ボクが持っているこの『感覚』を、誰にでもわかる言葉にしていく。それができれば、ボクが走るよりもずっと多くの夢を叶えられる気がする」
「……ふふ、やっぱりアンタ、こういう話になると目がキラキラし始めるのね」
ドーベルが少し呆れたように笑って、テーブルの下でボクの手をそっと握った。彼女の指先は、さっきまでの気恥ずかしさを引きずっているのか、ほんのりと温かくて少し震えている。
「……そういえばさっきの話。プロポーズとか、結婚とか……。本気なの?」
彼女は顔を伏せ、耳をパタパタと動かしながら蚊の鳴くような声で尋ねてきた。
「本気だよ。ボクの人生に、ドーベルがいない未来なんて考えられない。……だから、こんどちゃんとプロポーズさせてほしいなって」
「……っ。ずるい、アンタ。そういうことを、こんなに明るい場所で堂々と言えるなんて……」
ドーベルは真っ赤になった顔を隠すようにボクの腕に額を押し付けてきた。甘い石鹸のような香りと、彼女の熱が伝わってくる。今はまだ「上がり」の後の空白にいるボクだけれど、彼女のこの熱を感じるだけで、また新しい場所へ向かおうという活力が湧いてくるのがわかる。
「まずは、手続きを調べなきゃね。研修先を探すか、学校の願書を取り寄せるか……。どっちにしても、ボクの『第二の人生』は、また勉強から始まりそうだ」
「……応援してるわよ、ロール。私の騎士(パートナー)様なんだから、誰よりも立派なトレーナーになってよね」
夕暮れ時のティーサロン。ボクたちは新しい夢の輪郭をなぞりながら、いつまでも繋いだ手を離さずにいた。