TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
たづなさんとの面談を終え、ずっしりと重い資料の封筒を抱えたボクの足取りは、どこか浮ついていた。
春の柔らかな日差しがトレセン学園の石畳を照らしているが、ボクの視界にあるのは、これから歩むべき「道」の険しさばかりだ。
事務棟のロビーを抜け、ボクが向かったのは、かつてのボクの居場所であり、ボクをGⅠ十勝という高みへと押し上げてくれた恩師――ベテラントレーナーの部屋だった。
ノックの音に、聞き慣れた「入れ」という短い返事。
ドアを開けると、そこには相変わらず使い込まれた資料の山と、少しだけ濃くなったコーヒーの匂いがあった。ボクが引退を告げてからというもの、この部屋に足を運ぶのは少しだけ気恥ずかしかったけれど、今日はその敷居を跨ぐ理由がある。
「……トレーナーさん。折り入って、お願いがあるんです」
ボクはたづなさんに相談した内容、そしてミホノブルボンという偉大な先駆者が歩んでいる道のことを、包み隠さず話した。
彼はボクの話を黙って最後まで聞き終えると、ゆっくりと眼鏡を外して、使い古したクロスのレンズを拭き始めた。その沈黙が、今のボクには妙に長く感じられる。
「トレーナー、か。まあ面白いんじゃないか」
彼は眼鏡をかけ直し、鋭い、けれど教え子を案じる優しい目でボクを見た。
「だがな、ロール。たづなが言った通り、お前を『下っ端』として扱うなんて、この業界の人間には無理な注文だ。お前はすでに完成された怪物なんだよ。俺のチームに入れて研修を受けさせるにしても、普通にバケツを持たせれば周りの生徒が萎縮するし、時計を持たせればお前の基準との乖離に絶望する。……お前の『実績』というオーラは、現役生にはいささか毒が強すぎるんだ」
彼は一度言葉を切ると、デスクの引き出しから、まだ真っ白な一枚の契約書を取り出し、ボクの前に滑らせた。
「だから、俺がお前の『実習教官』を引き受けるには、三つの条件がある。これを守れないなら、おとなしく養成学校へ行って中卒の受験生になれ」
ボクは唾を飲み込み、その条件を待った。
「一つ。お前は今日から、このチームの雑用や手伝いは一切禁止だ。掃除も、給水も、道具の管理も、既存のスタッフがやっていることに手を出すな。お前にそんなことをされたら、現場が混乱する。その代わりお前の担当のウマ娘の分はお前自身でやれ」
まあそれはそうだろう。そもそも形式的にはこのチームに所属はしているが承認のハンコをもらいに来るぐらいしかしていないから自分のことは自分でやっていたし、それが担当に対してやることに代わるだけならそう大きな違いはないだろう。
「二つ目。不必要にチームの部室やオフィスに顔を出すな。お前の存在感は、それだけで他のウマ娘の『物語』を塗り替えてしまう」
それも今まで通りだ。GⅠに勝ったあたりから来るなと言われていたし。
ブライトを慕っている子なんかとはぶつかりかねないからしょうがないと思っていた。
ここまでは今まで通りでしかない。つまり問題は最後のものだ。
彼はボクの目を真っ直ぐに見つめ、一文字ずつ噛みしめるように言った。
「三つ目。誰でもいい、新人のウマ娘を一人、お前自身の手でスカウトしてこい。そいつと実質的な専属契約を結び、これからの三年間、お前が全責任を持って育て上げろ。教え、導き、勝利を掴ませる。その成果を、俺がお前の『実地研修』の評価とする。形式上は俺のチームの所属だが、指導方針の全権はお前に預ける」
ボクは驚いて、思わず身を乗り出した。
「専属契約……ボクが、一人で、ですか? 普通、実習生はサブトレーナーとしてチームの補助に回るんじゃ……」
「お前に補助なんて務まるわけがないと言っただろう。お前はもう、誰かの背中を追うフェーズにはいないんだ。誰かの前を走り、その手を引く側にいろ。実習生が事実上のチーフとして新人を一から育てる……前代未聞だが、お前のGⅠ十勝という実績を考えれば、学園側も『特例』として認めるしかないはずだ。……どうだ、お前の培ってきたその『最強』を、他人の肉体で再現してみる勇気はあるか?」
「……。はい、やらせてください!」
ボクは迷いなく答えた。
形に囚われない、ボクだけの研修。誰かの下について学ぶのではなく、誰かの人生を丸ごと預かって、共に泥を被りながら頂点を目指す。それはドバイの砂漠で失いかけていた「何か」が、再び心臓の奥底で熱く燃え上がるのを感じる挑戦だった。
*
翌日から、ボクの「スカウト」が始まった。
条件はただ一つ。ボクが責任を持って、これからの三年間、その子の運命を預かると決めてもいいと思える子を見つけること。
ボクは潜伏するように学園中を歩き回った。
朝もやのトレーニングコースから、放課後のテラス、夜の図書館。だが、これが想像以上に難航した。
どの新入生も、一生懸命で、キラキラとした夢を持っている。けれど、ボクの心に「この子だ」と訴えかけてくる、魂の共鳴が起きない。ボクの中の魂たちも、相変わらず手厳しい。
『フォームに無駄が多いわね。……あれでは坂で沈むわ』アーモンドアイが冷徹に分析すれば、
『気品が足りませんわ。女王の座を狙うには、あまりにも泥臭すぎる……』ジェンティルさんがため息をつく。
『へっ、どいつもこいつも行儀が良すぎるぜ。もっとこう、爆発するような何かがねぇとなぁ!』ゴルシが脳内のソファでひっくり返って欠伸をする。
(……やっぱり、簡単には見つからないかな)
スカウトを開始して数日が過ぎた、夕暮れ時。
ボクは少し疲れて、メインから離れた第二トレーニングコースのフェンスに寄りかかった。ここはまだ本格的なメニューを組まれていない新入生たちが、自主トレに励む場所だ。
その時だった。
視界の端を、鋭い閃光のような「何か」が駆け抜けた。
「……っ!?」
砂塵を上げ、荒々しく、けれどどこか気高く。
他のウマ娘たちが疲労で足を止め、肩で息をする中、その子は独り、自分自身を追い詰めるように加速を続けていた。その足取りには、既存の型にはまらない野生の力強さと、それとは相反するような繊細なまでの美しさが同居していた。
ボクの心臓が、ドクンと大きく波打った。
脳内の魂たちが、かつてないほど激しく、一斉に騒ぎ出す。
アイちゃんが驚きに目を見開き、ジェンティルさんが不敵に目を細め、ゴルシちゃんが「おいおい、マジかよ! こいつは傑作だぜ!」と叫んだ。
ボクには分かった。
いや、ボクにしか分からないのだ。
ボクがこの世界の「非存在」として、数多の偉大な魂を受け入れてきた器だからこそ、見えるものがある。
その子の背中に揺れる、目には見えないけれど圧倒的な熱量を持つ「ウマソウル」。
それは、ボクがかつて魂の迷宮で出会い、その圧倒的な力強さと、誰よりも「カッコよく」ありたいと願う高潔な意志に、何度も助けられた、あの魂の輝きそのものだった。
そういえばダービーの後、彼女を呼ぶことはなかったっけ。
呼んでも反応がなくなったのは彼女の魂が彼女本人にしっかり馴染み始めていたからだったのだろう。
走り終え、膝に手をついて荒い息を吐く彼女の元へ、ボクは吸い寄せられるように歩み寄った。
ボーイッシュに短く切り揃えられた黒髪。鋭く、けれど真っ直ぐな瞳。額に浮かぶ汗さえも、夕陽を浴びて宝石のように輝いている。
彼女は、近づいてくるボクのただならぬ気配に気づくと、警戒するように顔を上げた。
「……あんた、誰だ? ここは立ち入り禁止じゃないはずだろ。……何か用かよ」
ぶっきらぼうな、けれど芯の通った、心地よい響きの声。
「……いい走りをしていたね。加速の仕方が、ボクの知っている誰かさんそっくりだ」
「……はぁ? 何を言ってんだよ、あんた。……だいたい、あんたこそ、ただの通りすがりには見えないけどな。オーラが重すぎるぜ」
ウオッカ。
その名を聞かずとも、ボクの中の全てのピースが完璧に噛み合った。
ダービーを制し、ウマ娘の歴史を、その生き様で塗り替えたあの魂。
今、目の前にいるのは、まだ蕾のままの、けれど紛れもない「本物」の原石だ。
「ボクはロールフィヨルテ。……ウオッカちゃん、君に一つ、大事な提案があるんだ」
ボクは彼女の目を、逸らさずに見つめた。
研修生としてでも、レジェンドとしてでもない。
一人の導き手として、彼女という物語を預かる覚悟を決めて。
「ボクと、専属契約を結んでくれないかな。……ボクが、君を世界で一番カッコいいウマ娘にしてみせる。……君の走りたい道を、ボクが一緒に作るよ」
夕焼けに染まるトレーニングコース。
ボクの第二の人生というレースが、最高の「相棒」と共に、今、静かにゲートを開いた。