TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
仮契約を交わした翌朝。トレセン学園のトレーニングコースが、まだ乳白色の深い霧に包まれている頃から、ボクとウオッカの「地獄」は幕を開けた。
ボクが彼女に提示したのは、並の新人であれば三日で音を上げて退学届を出し兼ねない、文字通りの超絶ハードメニューだ。
心肺機能を限界まで叩き直す、中山の急坂を模した坂路(はんろ)での五連インターバル。加えて、脳内のアイちゃんが精密な演算で弾き出した「出力ロスをゼロに固定するための」特殊なフォーム矯正ドリル。それは、一歩一歩の着地位置を数センチ、数ミリ単位で指定され、それを外せば最初からやり直しという、精密機械のような正確さを要求する地道で過酷な苦行だった。
「……はぁ……っ、くそ……! なんだよ、この、ふざけた……っ、メニュー……っ!」
ウオッカは肩を激しく上下させ、膝を小刻みに震わせながらも、ボクがコースに引いた白線の内側を必死に蹴り進んでいた。全身の毛穴から吹き出す汗が、昇り始めた朝陽を浴びて、白い湯気となって彼女の輪郭をぼやけさせる。
だが、彼女にとっての最大の屈辱は、メニューそのものの過酷さではなかった。
「ほら、ウオッカ。あともう一本。左の蹴り出しが、また三センチ外に流れたよ。体幹が泣いてる。もっと腹の底から地面を噛んで」
ボクはジャージ姿で、彼女の真横を一糸乱れぬ足取りで並走していた。
ボクにとっては、これは「普通のトレーニング」の範疇に過ぎない。呼吸は乱れず、額に汗一つ浮かべず、まるで重力から解き放たれたかのような揺るぎない体幹。ウオッカが死に物狂いで維持しているトップスピードを、ボクは鼻歌でも歌えそうな余裕で並走し、時には彼女の数歩前を走って、風除けになりながら「進むべき正しい背中のライン」を嫌というほど見せつけた。
「……あんた、バケモノかよ……っ。何で、そんなに、涼しい顔して……。現役を辞めた……ってのは、嘘かよ……っ」
「バケモノなのは今に始まったことじゃないけどさ。でも、ボクに追いつきたい、ボクを追い越したいって本気で願うなら、まずはその無駄な力みを捨てなよ。君の筋肉は素晴らしいけれど、まだ『効率的な戦い方』を知らないだけだ。力で地面を叩くんじゃなくて、地面の反発を自分の翼にするんだ。わかるかい?」
ボクはあえて飄々と、現役時代の圧倒的な実力差という現実を、無慈悲なほどに突きつけた。教える側がただ口で指図するのではなく、かつて世界を制した「最強の背中」を物理的に眼前に提示する。それが、ウオッカのような不屈の負けん気を持つ魂に火をつける、最も残酷で、かつ最も確実な特効薬であることをボクは知っていた。
『……ふふ。少し彼女を追い込みすぎかしら? でも、見て。彼女の細胞が、貴女の走りを必死に取り込もうと、驚異的な速度で進化し始めているわ』
アーモンドアイが脳内で満足げに頷く。
『ええ、良い刺激ですわ。ですがロール、彼女の精神がこの圧倒的な力の差に屈してしまう前に、今の立ち位置を明確にしておく必要がありますわね。……彼女が見るべきは、伝説となった貴女ではなく「今を生きる」ライバルですわ』
ジェンティルドンナの鋭い指摘通り、ボクは一度足を止め、限界を迎えつつあるウオッカに給水を促した。
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ベンチに倒れ込み、泥のように喉を鳴らしてスポーツドリンクを煽るウオッカの前に、ボクは一台のタブレットを差し出した。そこには、来月の選抜レースに出走予定の、世代を代表する注目株たちの詳細なデータが並んでいる。
「身体を休めながら、敵を知ろう。ウオッカ、君が選抜レースで勝つために、そしてその先の頂点に立つために、絶対に超えなきゃいけない壁……それは、この二人だ」
画面に映し出されたのは、二人のウマ娘だった。
一人は、閃光のような短距離適正と、他を圧倒する天性のスピードを持つ申し子、アストンマーチャン。そしてもう一人は、真っ赤なリボンを誇らしげになびかせ、太陽のように輝く栗毛の髪と、自信に満ち溢れた不敵な笑みを浮かべる少女――ダイワスカーレット。
「……ダイワスカーレット」
ウオッカが、吐き捨てるように、けれど噛みしめるようにその名を呼んだ。その瞳には、ボクに向けられていた反発心とはまた質の違う、本能が警鐘を鳴らすような激しいライバル心が宿っていた。
「現状の実力、そして戦術としての完成度。どちらをとっても、彼女は君より上のステージにいる。彼女の戦術は極めてシンプルで、それゆえに最強。……『最初から最後まで、誰にも先頭を譲らず、自分のペースで蹂躙し続ける』。逃げ・先行の理想形だよ」
「……あいつの走りは、学園でも有名だぜ。……癪だけどな、あいつの走りは完璧すぎて、隙なんて微塵もねぇ。まるでプログラムされた機械みたいに、正確で、傲慢な『支配者』の走りだ」
ウオッカは悔しそうに画面を睨みつけた。ダイワスカーレット。彼女の強みは、並外れた心肺機能と、それを一分一秒の狂いもなく制御する冷静沈着なメンタルにある。一度先頭に立たせれば、後続を絶望させる正確無比なラップを刻み続け、追撃の意志を削ぎ取った上で、最後には涼しい顔でゴールを駆け抜ける。
「スカーレットちゃんのあの走り方って、ボクの中距離の走り方を真似してるらしいね」
「……あ? 何だって……?」
「彼女は、ボクが現役時代に見せたレースを、それこそビデオのテープが擦り切れるまで分析したらしい。ボクがかつて見せた『盤面を完全に掌握し、逃げても差しても勝つ』という走りに憧れ、それを彼女なりに『徹底したフロントランナー』として昇華させた。……ある意味で、彼女はボクの最も模倣した者であり、ある種の正統な後継者と言えるのかもしれないね」
といってもボクが盤面を掌握できたことなんてそう多くないと思うんだけど…… 傍から見るとそういう解釈になるらしい。いやだってスズカとかブライトとかフクキタルとか、全員ぶっ飛んでるし…… マイルの時のタイキもクソ強いし……
とはいえ、その言葉を聞いた瞬間、ウオッカの顔から血の気が引き、愕然とした色が広がった。
自分が「仮」とはいえ師事しているトレーナーが、最大のライバルの「理想」であり、かつそのライバルこそが師の教えを最も完璧に体現している。その事実は、彼女の誇り高きプライドに、重く暗い影を落とした。
「……じゃあ、何だよ。俺があいつに勝つためには……あんたの真似を完璧にこなして実績を上げてるあいつを、後から来た俺が、さらに完璧にあんたの真似をして追い越さなきゃいけねぇってのか? ……それじゃ、あいつの方が先に『正解』に辿り着いてるってことじゃねぇのかよ!」
ウオッカの声が、激しい感情の昂ぶりで震えていた。
自分が追い求めている「カッコよさ」が、師の影を追うライバルの「完成度」に屈してしまうのではないか。模倣者こそが王道だと言うのなら、自分の存在意義はどこにあるのか。その疑念が、彼女の足を鎖のように重くさせる。
ボクは震える彼女の肩の隣に座り、その短く切り揃えられた黒髪を、乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
「いいかい、ウオッカ。スカーレットちゃんの走りは確かに素晴らしい。それは一つの『正解』であり、一つの完成形だ。でも、あれはあくまで彼女の肉体と、彼女の負けず嫌いで、そして真面目過ぎる性格に適合した最適解なんだ。ボクのスタイルを学ぶことで、彼女は彼女自身の、揺るぎない城を築き上げた。それは否定されるべきじゃない」
ボクは彼女の顎をクイッと持ち上げ、その鋭い目を正面から射抜いた。
「けれど、一つだけ聞かせてほしい。……ウオッカ。君は、ボクの二番煎じ(レプリカ)になりたいのかい? 誰かの正解をなぞるだけの、縮小再生産で満足できるのかい?」
「……っ、んなわけねぇだろ! 俺は、俺だ! 誰かの代わりになんて、死んでもなりたかねぇ!」
「だったら、迷う必要なんてどこにもない。ダイワスカーレットが『支配』なら、君が目指すべきは『破壊』だ。彼女が築いた完璧で美しい城を、誰よりも無作法に、誰よりもカッコよくぶち壊して、土壇場で全てを抜き去る。……君には、君にしかできない、とびきりカッコいい走り方があるはずなんだ。ボクは、ボクの模倣を見たいんじゃない。君の中に眠る、まだ誰も見たことがない『雷光』を見たいんだよ」
ウオッカの瞳に、再び強烈な火が灯った。
迷いや焦りを燃料にして燃え上がる、青白い憤怒と純粋な情熱の炎。
「……破壊、か。……ふん、悪くねぇ響きだな。いや……最高にカッコいいじゃねぇか」
「そうだろう? 明日からは、そのための練習に切り替えるよ。スカーレットちゃんのような優等生には一生真似できない、君だけの『魂の蹴り出し』を完成させる。ボクが教えるのは『正解』じゃない。君という『衝撃』を世界に叩きつけるための方法だ」
「……けっ。あんた、本当に食えねぇ奴だな、ロールフィヨルテ。俺の扱いをよく分かってやがる」
ウオッカは力強く立ち上がり、パンパンとジャージについた土を払った。その背中からは、先ほどまでの悲壮感は微塵も消え失せ、代わりに獲物の喉元を狙う飢えた獣のような、鋭利な気配が漂い始めていた。
ボクは立ち上がり、再びトラックへと歩み出した。
伝説の継承と、既存の破壊。
トレセン学園の春のターフは、二人の少女の激突という宿命を前に、静かに、けれど確実に、沸騰せんばかりの熱を帯び始めていた。