TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
六月の風が、トレセン学園の並木道を爽やかに吹き抜けていく。
正式な専属契約を交わしてから数週間。ボク、ロールフィヨルテとウオッカの関係は、もはや「仮」の初々しさを脱し、泥にまみれた師弟としての確かな熱を帯び始めていた。
ボクの個人オフィス――形式上は実習先であるベテラントレーナーが借りてくれている部屋の一角で、ボクたちは今後について話していた。
「さて、ウオッカ。今日は君の『ローテーション』について話そうと思うんだ」
ボクがタブレットを操作し、クラシック三冠――皐月賞、日本ダービー、菊花賞の三つのアイコンを表示させると、ウオッカは眉をひそめて鼻を鳴らした。
「クラシック……。あんた、俺をあの『王道』の泥仕合に引きずり込むつもりかよ? 悪いけど、俺は自分のことをよく分かってるぜ。俺の心臓と脚は、一六〇〇メートルのレースを誰よりも速く駆け抜けるためにある。本質はマイラーなんだよ、俺は」
「そうだね。君の筋肉の質と心肺機能のピークはマイルから二〇〇〇メートル付近にある。普通に考えれば、桜花賞から秋華賞へ向かう『ティアラ』路線が妥当だろうね」
ボクは一度言葉を切り、ウオッカの鋭い瞳をじっと見つめた。
「でも、君がさっき言った『誰よりもカッコいい走り』っていうのは、妥当な路線の先にあるのかな?」
ウオッカは一瞬、息を呑んだ。彼女は組んでいた脚を解き、身を乗り出すようにして地図を指差した。
「……分かってんじゃねぇか。俺のプランはこうだ。まずは冬の阪神ジュベナイルフィリーズで、世代最強のマイラーであることを証明する。そのまま春は桜花賞を獲る。……だが、その次はオークスじゃねぇ」
彼女の指が、五月の東京レース場、そしてそこにある『日本ダービー』の文字を強く叩いた。
「俺は、ダービーへ行く。距離がどうとか、そんな理屈を全部ひっくり返して、一番強い連中が集まる場所で、一番カッコよく勝つ。……それが俺の、俺にしかできない逆転劇だ」
脳内では、魂たちが一斉に喝采を上げた。
『……論理的な勝算は低い。けれど、精神的なリミッターを外すには、これ以上の舞台はないわね』
アイちゃんが、早くも二四〇〇メートルを克服するためのトレーニングメニューを再計算し始める。
『ふん、素晴らしい。女王が王の冠を奪いに行く……その不遜な野心こそ、私の弟子に相応しいですわ』
ジェンティルさんが誇らしげに扇子を鳴らす。
『ギャハハ! こうでなくっちゃな! よし、マスター、こいつを地獄まで鍛え上げてやれよ!』
ゴルシちゃんが脳内のソファで跳ね回る。
ボクは満足げに頷き、ウオッカの挑戦的な眼差しを受け止めた。
「いいだろう、ウオッカ。君のその『わがまま』、ボクが全力で正解にしてみせる。阪神ジュベナイルフィリーズから桜花賞、そして伝説のダービー制覇……。前代未聞の、けれど最高にカッコいいローテーションだ」
「……へっ。言ってくれるじゃねぇか。だったら、さっさとそのためのメニューを組んでくれよ。今のままじゃ、二四〇〇なんて途中でガス欠だ」
「ああ、分かってる。明日からは、マイルのスピードを維持したまま、府中の心臓破りの坂を二回登り切れるだけのスタミナを練り上げるよ。……覚悟はいいかい?」
「……望むところだぜ、トレーナー!」
そこからの夏は、まさに「鉄火場」だった。
朝四時からの早朝トレーニング。ボクは常に彼女の横を走り、一歩ごとの着地衝撃や筋肉の弛緩を観察し、リアルタイムでフォームの修正を命じる。
「ウオッカ、膝が三ミリ高い。その高さだと、二千メートル過ぎで太ももの裏が悲鳴を上げるよ」
「……っ、うるせぇ……! やってやるよ、見てろ……!」
食事管理も徹底した。高タンパク・高エネルギーの特別メニューを、ボク自ら(時にはドーベルに手伝ってもらいながら)用意し、彼女の細かった身体に重厚な筋肉の鎧を纏わせていく。
トレーニングの合間、ウオッカはよく、ボクの勝負服を見つめていた。
「……なぁ、ロール。あんたは、走ってる時、何を考えてたんだ?」
「……そうだね。ボクは、自分の中にいる『彼女たち』に恥じない走りをしたい、ただそれだけだったかな。……でも、君は違うだろう?」
ウオッカは拳を強く握り、ターフの先を見据えた。
「……俺は、俺自身に惚れたいんだ。ゴールを駆け抜けた瞬間、俺って最高にカッコいいじゃんって、心の底から叫びたい。……そのためなら、どんな泥を啜ったって構わねぇ」
その言葉を聞いた時、ボクは確信した。この子はもう、教わる側ではない。自らの意志で、新しい時代を切り拓こうとする「一人の表現者」なのだと。
そして迎えた八月。新潟レース場。
ウオッカの初陣となる、芝一六〇〇メートルのメイクデビュー戦。
パドックに現れたウオッカの姿に、観客席からはどよめきが上がった。
まだジュニア級とは思えない、鋼のように引き締まった肉体。鋭い眼光。そして何より、その背後に立つ「伝説のウマ娘」ロールフィヨルテの存在が、このレースをただの新人戦ではない、特別な儀式へと変えていた。
「……ねぇ、あのウマ娘、ロールフィヨルテが教えてる子でしょ?」
「ウオッカ……。なんてオーラだ。本当にデビュー前なのか?」
ざわつく群衆を余所に、ウオッカはボクの前に立ち、静かに拳を突き出した。
「……行ってくるぜ、トレーナー。あんたの教えが間違ってなかったこと、俺の脚で証明してやる」
「ああ。楽しんでおいで。世界で一番カッコいい走りを見せてくれれば、結果は後からついてくるさ」
ボクが拳を合わせると、彼女は不敵に笑い、ゲートへと向かっていった。
ゲートイン。静寂。
そして――。
ガチャン! という衝撃音と共に、白熱のレースが始まった。
好スタートを切ったのは、内枠の有力ウマ娘たちだった。ウオッカは中団、バ群の真ん中でじっと機会を伺っている。
計算通り、新潟の長い直線。勝負が決まるのは、最後の六百メートルだ。
「……ここだ!」
第四コーナーを回り、直線に入った瞬間。ウオッカは自ら進路を外側へ持ち出した。
前を遮るものは何もない。あるのは、無限に続くかのような青い芝と、その先のゴール板だけ。
「――っらぁぁぁ!!」
ウオッカの咆哮が、夏の空に響き渡った。
ボクが夏の間、付きっきりで叩き込んだ「魂の蹴り出し」。
一歩ごとに地面を爆破するかのような爆発的な推進力が、彼女の身体を弾丸のように前方へと押し出す。
「……速い! なんという末脚だ!」
「ウオッカ! ウオッカが飛んでいる! 後続をあっという間に突き放す!」
実況の声が、観客の歓声に呑み込まれていく。
ボクはスタンドの最前列で、その走りを凝視していた。
無駄のないフォーム。研ぎ澄まされた刃のような鋭さ。そして、何よりも自分自身の走りを心から楽しんでいるかのような、圧倒的な「輝き」。
残り二百メートル。
ウオッカは独走態勢に入っていた。二番手のウマ娘とは、すでに五バ身、六バ身の差がついている。それでも彼女は緩めない。ゴールを過ぎるまで、自分の中の「理想」を追いかけ続ける。
一着。
後続を突き放す圧倒的な結果だった。
レース後の検量室前。
汗に濡れた身体で戻ってきたウオッカは、ボクの姿を見つけるなり、白い歯を見せて笑った。
「……どうだ、トレーナー。……俺、カッコよかったか?」
ボクは彼女の肩を抱き、大きなタオルで包み込んだ。
「最高だったよ、ウオッカ。君は、ボクが想像していたよりもずっと、素晴らしいウマ娘だ」
「……けっ。当たり前だろ。……でも、これでようやく一歩目だ。……阪神も、桜花賞も、そしてダービーも……全部この脚で獲りに行ってやるよ」
彼女の瞳には、勝利の喜び以上に、次なる挑戦への激しい渇望が宿っていた。
導き手としてのロールフィヨルテ、そして破壊者としてのウオッカ。
二人の物語は、この新潟の地から、世界を震撼させる伝説へと走り出した。