TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
十二月の凍てつく阪神レース場。冬の澄んだ空気は、これから始まるジュニアクラスの女王決定戦、阪神ジュベナイルフィリーズの熱狂を前に、凛と張り詰めていた。
パドックには、次世代の主役を夢見る若きウマ娘たちが並んでいたが、ボク、ロールフィヨルテの視線は、二人の対照的な少女に釘付けになっていた。
一番人気のウオッカは、勝負服を纏い、まるで檻から放たれたばかりの飢えた狼のような気迫を放っていた。一歩踏み出すたびに地面を力強く掴み、その全身から溢れ出る闘志は、見る者すべてを圧倒する「破壊者」のそれであった。
対するアストンマーチャンは、二番人気という高評価に反して、その存在感はどこまでも希薄であった。彼女もまた美しい勝負服を纏い、完璧なリズムで周回している。しかし、観客たちの視線は彼女を通り抜け、あるいは彼女がいるはずの空間を空虚として認識しているようだった。
ボクは、コースへと向かう直前のウオッカを呼び止め、その肩を強く掴んだ。これから戦場へ向かう愛弟子に、ボクが授けるべき最後のアドバイス。それは戦術的な指示ではなく、一つの奇妙な警告であった。
「ウオッカ。レース中、何があってもアストンマーチャンから目を離すな。瞬きすら惜しんで、彼女の背中を網膜に焼き付け続けるんだ」
ボクの言葉に、ウオッカは怪訝そうに眉を寄せた。
「……あいつか? 分かってるよ。二番人気だし、あのスピードは警戒してる」
「いいや、そういう意味じゃない。彼女のあの『存在感の薄さ』は、レースにおいて最強の武器になる。逃げる彼女が君の意識から一瞬でも消えれば、君の脳は勝手に距離感を誤認する。まだ届く、まだ大丈夫だと思っているうちに、決定的なスパートのタイミングを奪われ、気がついた時にはもう手遅れになっている可能性がある。彼女は『見えない壁』となって君の前に立ちはだかるはずだ」
ウオッカはボクの瞳の奥にある真剣さを悟ったのか、不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「へっ。幽霊退治か。面白そうじゃねえか。……心配すんな、トレーナー。俺があいつを、この世の果てまで追い詰めてやるよ」
そう言って地下道を抜けていく彼女の背中は非常に頼もしかった。
ファンファーレが鳴り響き、運命のゲートが開いた。
スタートと同時に、アストンマーチャンが音もなく、しかし電光石火の速さでハナを奪った。彼女の逃げは、通常の逃げウマ娘のような力みや咆哮が一切ない。空気の抵抗を無視し、ただ風景の一部として滑り抜けていくような、静謐な高速移動。
後続の集団は、彼女が刻む殺人的なハイペースに気づかないまま、奇妙な静寂に包まれていた。
第三コーナーから第四コーナーにかけて、マーチャンと後続の差はじわじわと広がっていく。しかし、バ群の中にいるウマ娘たちも、そしてスタンドの観客たちも、その決定的な「差」を正しく認識できていなかった。彼女がそこにいるのに、誰もが彼女を計算から外してしまっている。まさに、ボクが危惧した通りの展開であった。
だが、ただ一人、ウオッカだけは違った。
彼女はボクの言葉を信じ、意識のすべてを前方の陽炎のような背中に固定していた。右へ左へと揺れるバ群の隙間から、一瞬たりともマーチャンの姿を逃さない。彼女の咆哮が、認識の霧を無理やり引き裂いていく。
直線。阪神の急坂が近づく。
逃げるアストンマーチャンは、依然としてその美しく、かつ空虚なスピードを維持していた。彼女のトレーナーが着ぐるみ姿で必死に叫んでいるのが遠目に見える。その狂気的な声だけが、彼女をこの世界に繋ぎ止めている唯一の錨のように思えた。
「……ここだ! 行け、ウオッカッ!」
ボクの叫びに呼応するように、大外から黒い稲妻が奔った。
ウオッカの解き放たれた末脚は、もはや「走る」という概念を超えていた。大地を砕き、空気を切り裂くような暴力的な加速。彼女の進路にあるすべての存在をなぎ倒し、一点、マーチャンの背中だけを目指して肉薄していく。
残り二百メートル。坂を登りきったところで、独走するマーチャンとの差はまだ三バ身。
通常であれば絶望的な距離。しかし、ウオッカの瞳には絶望の影すらない。彼女はマーチャンの「宿命」さえもその牙で噛み砕かんとするその走り。
残り百メートル。五十メートル。
逃げ切るかに見えたマーチャンの影に、ウオッカの巨大な実体が重なる。
二人が並んだ。
一瞬の静寂。マーチャンの静かな絶望と、ウオッカの荒々しい希望が交錯する。
最後の一歩。
ウオッカの体が、わずか数センチ、マーチャンの前へと突き出された。
一着、ウオッカ。
掲示板に灯った確定の文字。鼻差の死闘を制したのは、ロールフィヨルテの愛弟子、ウオッカであった。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、ウオッカは天に向かって力強く咆哮した。それは新しい女王の誕生を告げると同時に、敗れ、消えゆこうとするライバルをこの世界に引き戻すための、命の叫びであった。
ボクは、力尽きたように立ち尽くすアストンマーチャンと、彼女を涙ながらに抱きしめる着ぐるみ姿のトレーナーの姿を、遠くから静かに見守っていた。
今回のレースで、世界は彼女を「ウオッカのライバル」として記憶した。ボクのアドバイスによって、ウオッカが彼女を執念深く見つめ続けたことで、彼女の存在は確かな重みを持って歴史に刻まれたのだ。
「……お疲れ様、ウオッカ。君は最高の仕事を成し遂げたよ」
戻ってきたウオッカの肩にタオルをかけ、ボクは彼女を労った。彼女はまだ激しい呼吸を繰り返しながら、ボクの手を力強く握り返した。
「……あいつ、すげえよ、トレーナー。……一瞬、本当に消えたかと思った。でも、あんたが『見てろ』って言ったから……最後まで、見失わずに済んだぜ」
「ああ。君のその瞳が、今日は世界を救ったんだ」
トレーナーという仕事の重みと、そこに宿る小さな、けれど確かな奇跡。
ボクは勝利の歓喜に沸くレース場の中で、一人の少女の運命を少しだけ捻じ曲げられたかもしれないという充足感に浸りながら、次なる戦い、クラシックという名の過酷な荒野へと想いを馳せていた。