TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る   作:雅媛

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59 チューリップ賞

 三月に入り、阪神レース場の空気には少しずつ春の気配が混じり始めていた。とはいえ、早朝のターフにはまだ刺すような冷たさが残り、本番を控えたウマ娘たちの吐く息は白く弾けている。クラシック戦線の幕開けを告げる重要な前哨戦、チューリップ賞。桜花賞への切符をかけたこの舞台には、実績十分の精鋭たちが顔を揃えていた。

 

 ウマ娘たちはあの華やかな勝負服ではなく、学園指定の体操服に身を包んで出走する。白いシャツに紺色のブルマ。機能性のみを追求したその簡潔な装いは、かえって彼女たちの鍛え上げられた肉体の躍動を、誤魔化しようのないほど鮮明に浮き彫りにさせていた。

 

 ボク、ロールフィヨルテは、パドックの脇でウオッカの最終調整を終え、彼女を送り出そうとしていた。ジュニア級の女王として君臨したウオッカは、適度な緊張感を保ちつつも、その瞳には確かな自信を宿していた。

 

「いいかい、ウオッカ。今日はマイル戦だ。君が最も得意とする距離だけど、相手はあのダイワスカーレットだ。ボクの現役時代の走りを研究し、自らのものに昇華させた恐ろしいライバルだよ。一瞬たりとも気を抜かないでほしい」

 

ボクが釘を刺すと、ウオッカは「分かってら」と短く返し、軽く屈伸をして太ももの筋肉をほぐした。

 

「あいつの強さは、嫌っていうほど分かってる。でもトレーナー、ここは俺がG1を獲った阪神の一六〇〇だ。負けるつもりはねぇよ。あいつがどんなに『支配』しようとしても、俺が全部ぶち壊してやる」

 

ウオッカの言葉には、慢心というよりは、実績に裏打ちされた強い自負があった。同じ距離で頂点を極めた者としての誇り。それが彼女の闘争心の源泉だった。

 

「お久しぶりです、ロール先輩」

 

背後から、丁寧でありながらどこか鋭利な刃物のような、凛とした響きを持つ声がした。振り返ると、そこには真っ赤なリボンで長い髪を結び、一点の曇りもない佇まいで立つダイワスカーレットがいた。彼女もまた体操服姿だが、その着こなしには乱れがなく、シャツの裾から覗く引き締まった腹筋と、力強い脚のラインが、彼女の積み重ねてきた執念を物語っていた。

 

「やあ、スカーレット。元気そうでよかった。今日のレース、楽しみにしているよ」

 

「ありがとうございます。ロール先輩。今日こそ、私が作り上げた一つの『完成形』を、先輩にお見せしたいと思っています」

 

スカーレットはボクに対しては最上級の敬意を払いながら、その視線を隣に立つウオッカへと向けた。そこには一欠片の甘えもなかった。

 

「……そちらがジュニアの女王様ですね。貴女の走り、勢いがあって素晴らしいと思います。でも、私のいない場所で決まった順位なんて、今日からは何の意味も持たなくなりますから」

 

「あんだと……。言うじゃねぇか。だったら見せてみろよ、その『完成形』ってやつをさ」

 

 ウオッカが低く唸るが、スカーレットは眉一つ動かさず、静かに受け流した。

 

「ええ、もちろん。最初から最後まで、誰にも前を譲らない……それが私の答えです。ロール先輩。本物のレースを、一番近くで見ていてくださいね」

 

 スカーレットはボクに深く一礼すると、一度も後ろを振り返ることなくコースへと向かっていった。ボクの教え子ではない。彼女は独力でボクのスタイルを模倣し、自分自身の力でそれを塗り替えてきた、いわば「影の継承者」だ。

 

 ゲートが開いた瞬間、場内が沸いた。

 

 ハナを奪ったのは、やはりダイワスカーレットだった。体操服という簡素な装いが、彼女の動きの無駄のなさをより際立たせている。一歩一歩が計算され尽くしたかのように正確で、向こう正面を過ぎる頃には、後続を完全に自分の支配下に置いていた。

 

 ウオッカはその背後、中団のやや前方でスカーレットを射程圏内に捉えていた。ウオッカは「最後には届く」と確信していた。どれほど完璧に逃げていようと、最後に足を止める瞬間があるはずだ。阪神の外回り、この長い直線のどこかに隙が生まれる。そう判断したウオッカは、末脚の爆発にすべてを賭けていた。

 それこそが油断だと知らずに。

 

 第四コーナーを回ったところで、ボクは戦慄した。

 

 スカーレットの足取りが、全く衰えないのだ。それどころか、坂の手前で彼女はさらにもう一段階、ギアを上げた。それはスズカがかつて見せていた逃げの極致の一つ、逃げて差すという異次元の走りだった。

 なるほど確かに。ボクの走りを見ていたなら彼女の走りだったいやというほど見てきたはずだ。そして使えるところは貧欲に取り入れたのだろう。

 

「……くそっ、あいつ……止まらねぇのかよ!」

 

 ウオッカの咆哮が聞こえた気がした。彼女も必死に脚を伸ばす。大地を砕き、空気を切り裂くような、あの圧倒的な破壊の末脚。ジュニア女王としての意地と、トレーナーであるボクに勝利を見せたいという執念が、彼女の身体を弾丸のように加速させる。

 だが、ダイワスカーレットの背中は、絶望的に遠かった。

 

 スカーレットの走りは、まさに「盤面の制圧」そのものだった。どれほど後ろが追い上げてきても、彼女は自らのリズムを崩さない。後ろのウマ娘がどれだけの脚を使っているかを完璧に把握した上で、その希望を打ち砕く絶妙なタイミングで突き放していく。

 

「届かない……!?」

 

 直線、ウオッカは死に物狂いで追いすがった。体操服のシャツが激しく風に踊り、彼女の剥き出しの太ももが極限まで躍動する。しかし、スカーレットはそれ以上の力感で、坂を一気に駆け上がっていった。彼女の走りには、 一点の曇りも、油断もなかった。

 

一着、ダイワスカーレット。

二着、ウオッカ。

 

 着差は一バ身半。完敗だった。

 

 ゴールを駆け抜けた瞬間、スカーレットは乱れた呼吸を整えながら、ただ静かに勝利を噛み締めていた。一方のウオッカは、ゴール板を過ぎた後も信じられないものを見たという顔で立ち尽くし、やがて悔しさに全身を震わせた。

 

 コースから戻ってきたウオッカは、ボクの顔を見ることさえできず、ただ地面を睨みつけていた。

 

「……くそっ……! なんだよ、あいつ……。あんなの……」

 

 彼女が自負を持っていたマイルという戦場で、真っ向勝負を挑んで負けた。その事実は、ウオッカのプライドを粉々に打ち砕いていた。

 

「お疲れ様でした、ロール先輩」

 

 スカーレットが近づいてきた。その表情には、勝利の傲慢さよりも、一つの証明を完遂した職人のような静かな充実感があった。

 

「素晴らしい走りだったよ、スカーレット。君の言った通り、一つの完成形を見せてもらった」

 

「ありがとうございます。……でも、これで終わりではありません。ロール先輩に見届けていただける場所で、もっと完璧な私を刻んでいきますから。次は桜花賞……。彼女も、次はもっと本気で来てくださいね」

 

 スカーレットは丁寧に応じると、最後にチラリとウオッカの方を見た。そこには憐れみではなく、「この程度で終わる相手ではないはずだ」という強烈な期待が含まれていた。

 

 スカーレットが去った後、ボクはウオッカの肩に手を置いた。

 

「……ウオッカ。これが『支配』を極めた者の走りだ。彼女は君を倒すために、ボクの経験だけでなく歴史をすべて食らい尽くしてきた。……君はどうする?」

 

「……。あいつの顔、思い出すだけで腹が立つぜ。……でも、認めなきゃならねぇ。あいつ、最高にカッコよかった」

 

 ウオッカは顔を上げ、燃えるような瞳でボクを見た。

 

「桜花賞……。あいつのあの完璧なツラを、俺の脚で、ぐちゃぐちゃにぶち壊してやる。……もう、女王だとか実績だとか、そんなものは全部捨てる。俺、あいつを絶対に、絶対に超えてみせる」

 

 敗北の泥を啜り、それでもなお前を見据える少女の横顔。ボクはその瞳の中に、かつての自分にはなかった「本物の闘争心」の芽吹きを見た。チューリップ賞の敗北。それは、ウオッカが真の女王へと進化するための、最も残酷で、最も価値のある洗礼となったのである。

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